未来にあるもの 231218
2023/12/18
いけばなは、「そこにあるもの」だけがあるのではない。
いけた本人が「背景の山を借景している」ということであれば、そのいけばな作品の大きさは空間的には直径5kmにだってなり得る。いけばなの空間にはドローイングの絵のような額縁がないから、「そこにないもの(遠い景色)」も、作品の一部として持ってくることができるのだ。
いけばなは、時間的にも表現を拡げていくことができる。
いけばなで使う植物は、人の感覚で感じ取れるくらい速い速度で生長し枯れていくため、私たちが普段使っている意味での「現在」と呼ぶ時間に、もう少し前の過去ともう少し後の未来を含んでいる。実際にも、1本の枝の下の方の花が散り始めている丁度その時に、枝先の方の蕾が膨らみ始めていたりする。つまり、過去に存在していた種子や蕾の面影を残しつつ、未来に存在する枯葉や新しい種子を予感させているのが植物だ。
そんな植物をおもな材料とするいけばなは、やはり「いま」の範疇が広くて、「過去」や「未来」と断絶することなく、「現在」において「未来」を先取りしながら表現できる様式なのだ。
機会と結果 231217
2023/12/16
野球の世界では、打率3割がひとつの目安となっている。3割を超えると、好打者の仲間入りだ。10の素晴らしい機会をもってしても、良い結果は3しか得られない。とすれば、素晴らしい機会を3つしか持っていないとすれば、得られる良い結果はせいぜい1つしかないわけだ。数量の問題では、そういうことになる。
次に質の問題を考えると、どういう高質な結果が得られるかは、どういう高質な機会を持ったかということにかかってくる。これも大事だ。
また、結果を意識する際には時間も大きな問題で、どれだけの時間的遠近を展望するかによって、今この時の取り組み方が変わってくる。いけばな教室を開講するには、半日か1日前に花材を準備しなくてはならない。調理の場合は、部分的に冷蔵や冷凍の食材を仕入れられても、いけばなでは無理がある。だから、最良の花材との出会いは一期一会だ。つぼみの開き具合や葉の弱り具合を見極め、少しでも良い出会い、良い機会にしなくてはならない。
さて、私自身もいけばな講師として、習う人にとって質の良い機会をたくさん提供できているだろうか。
庭仕事 231216
2023/12/16
昨日は1週間ぶりに庭仕事をした。ムクゲとアメリカハゼの高枝を落とし、ヤマゴボウの育ち過ぎたのを根元から切った。向かいの家の2匹の猫も「ああ、久しぶりだね」という感じで、恐る恐る作業の様子を見に来てくれた。
夏が過ぎて涼しくなったら剪定しようと思っていたのに、なかなか涼しくならず、昨日も摂氏22度を示したくらい涼しくなかった。そんなだから剪定作業は思うようにはかどらず、あと2本、大きな木の剪定が残っている。
さて、庭仕事である。仕事なのに、仕事でない。
向かいの家の奥さんが、庭のソケイの切り枝を携えて、猫の様子を見に出てきた。ガラス瓶の中で、切り枝の節から、白くて繊細な5cmくらいの数本の根が生えていた。それを数日間見守って、私が来るのを待っていてくれたのだ。「植えてみる?」と言うのを断る理由もなく、アメリカハゼの根元に植えることにした。これから寒くなるのに、ちゃんと根付いてくれるかな? 何より、向かいの奥さんも、猫の様子を見に来る振りをして、この苗木の状態も見に来るだろう。気を抜けない。
仕事でない仕事が、また増えた。
花器 231215
2023/12/15
買ってしまった。また、花器を買ってしまった。
もともと私は「器」が好きで、香合や文箱などの蓋物を見ると眼が泳ぎ、いつの間にか財布の蓋を開けているという暗示にかかるのだった。
だから、花器も、水盤のように口が大きく開いて隠し事が何もない器より、口をすぼめて中の様子が見えない器が好きだ。
器はもともと空っぽで、何かが入るために作られている。水盤には申し訳ないが、明け透けな大きな口では、入ったものがすぐに出て行ってしまいかねない。口をすぼめた花器の場合、入るためには相当な努力が必要なので、そんじょそこらのいい加減な奴はさっさと諦めて入ってこない。かといって、入った場所に執着するでもなく、出るのは簡単で、神様も1年に1度しか神輿に帰って来ては下さらないのに、数日で出て行ってしまわれる。
しかし、水盤には応用力がある。足を広げた花もいけられるし、足元を絞った花もいけられる。口の小さい花器の場合、足元を広げると、花材が花器の外に出てしまう。すると、大小の関係でみると、花器に花をいけるというより、花に花器をいけることになる。
自己証明 231214
2023/12/14
現役で働いていたとき、目的や目標の設定が大事で、それを達成するための計画を立て、目標対比と昨年対比で良否を評価してきた。私のいけばなには、売上目標や事業計画がないので、その意味では生業と言えない。
しかし、仕事はいけばなだと公言していながら収益を出していないならば、何のためにやっているのだろうか? 退職して拠り所をなくした人間の、代替的な自己証明でしかないのだろうか?
さて、収入額で、自分の存在価値を計れる人は幸せだ。名刺や年賀状の数、SNSのフォロワー数で、存在証明している人も幸せだ。得票数と既得権の保全・拡大に憂き身をやつし、国民の幸福を食べて生きている政治家は、とてもお幸せだ。
私は、それよりも、生きていることの目的が、結局人生を通してはっきりしないことについて考えている。目的がないことこそが、個人が生きているということの意義かとも思う。様々なバリエーションで生きている人間が無限にいたおかげで、人類の命がつながってきた。
今日もいけばなの日だったかも、とつぶやきながら酒をただ呑むだけでいいような気がしている。