自己証明 231214
2023/12/14
現役で働いていたとき、目的や目標の設定が大事で、それを達成するための計画を立て、目標対比と昨年対比で良否を評価してきた。私のいけばなには、売上目標や事業計画がないので、その意味では生業と言えない。
しかし、仕事はいけばなだと公言していながら収益を出していないならば、何のためにやっているのだろうか? 退職して拠り所をなくした人間の、代替的な自己証明でしかないのだろうか?
さて、収入額で、自分の存在価値を計れる人は幸せだ。名刺や年賀状の数、SNSのフォロワー数で、存在証明している人も幸せだ。得票数と既得権の保全・拡大に憂き身をやつし、国民の幸福を食べて生きている政治家は、とてもお幸せだ。
私は、それよりも、生きていることの目的が、結局人生を通してはっきりしないことについて考えている。目的がないことこそが、個人が生きているということの意義かとも思う。様々なバリエーションで生きている人間が無限にいたおかげで、人類の命がつながってきた。
今日もいけばなの日だったかも、とつぶやきながら酒をただ呑むだけでいいような気がしている。
人智を超える 231213
2023/12/13
私は、1986年から2005年まで株式会社エス・ピー・シーに勤務して、そのほとんどをマーケティングに関連する業務に従事していた。
もちろん「お客様のため」意識は持っていたつもりだ。だが、冷静に思い返すと、私の方法は、必ず自ら仮説を立て、その仮説が正しいと示すような数値や情報を集めてお客様を説得するスタイルだった。そして、問題なのは、その仮説が私自身のこだわりを軸にしていたことだ。出発点に歪みがあると、マーケティング調査は恣意的になってしまう。ごめんなさい、お客様の皆様。
お客様が私以上に強いこだわりを持っていた場合、私があまり折れないために、両者の間に溝ができる。困ったのは、雇い主であるわが社の社長や上司もだし、部下も大いに困ったに違いない。ごめんなさい、仲間の皆様。
いけばなをしてみるとよくわかる。私のタイプは、花材の観察がおろそかで、自我が先に立つ。
別のタイプの人は、目の前の花材をよく見てよく触るし、匂いも嗅ぐ。そういう人が花をいけると、当然ながら私が思いもよらない素敵ないけばなができる。人智を超えて現れる。
京都七条 231212
2023/12/13
草月の昇格試験の事前講習で、きのう京都の「草月WEST」に来た。前泊なので暇だから、小雨そぼ降る中を傘をさして足が痛くなるほど散歩した。
ホテルエミオン京都を出ると、その通りは七条で、向かい側を西に向かってアーケードの商店街が続いていた。遠目に古道具屋かと思った店は、真向いまで行ってよく見ると、歩道にはみ出した煤けた小屋が舞台の大道具のようで、その奥の本来の店舗には卵が積んであるようだ。
店名のわからない店先の小屋には、「かしわ」「だしまき」という2枚の看板が照らされている。「かしわ」の方は、木材を切り抜いた生成りの箱文字仕上げで、「だしまき」は黒い地に黄色文字だ。だしまき用の四角いフライパンが4つ5つ並んだ向こうに、お爺さんとお婆さんが少し離れて静かに座っている。その風景を写真に撮りたかったけれど、いや、それ以上に「かしわ」と「だしまき」を買ってみたかったけれど、翌日の受講こそが本来の目的だったことを無理やり自分に言い聞かせてその場を離れ、それから悶々と七条の通りを西へ西へと歩き続けたのだった。
今度、また来る。
ワークライフ? 231211
2023/12/13
自分でできないことを、人にやってもらって、お金を払う。逆に、自分ができることを、できない人にやってあげて、お金をもらう。払うお金より、もらうお金が大きいと黒字になって、それが生業となる。払うお金より、もらうお金が小さいと赤字になって、それは趣味となる。
近頃、ワーク・ライフ・バランスという言葉がずかずか歩いている。
私は、ワークは人のため、ライフは自分のためと思っていたので、前述の生業と趣味の関係と同じ捉え方だ。とすれば、ワークで得る収入が、ライフでの支出するよりも小さいと、赤字になって生活が崩壊する。今の私は、なんだかワークもライフも自分のためになっていて、ワークも支出、ライフも支出で、とんだワーク・ライフ・バランスだ。
ところで、「ライフワーク」という言葉があって、天職とでも言えばいいのかわからないけれど、私の場合いけばなで稼げていないので、それこそ「ワークライフ」と逆転した言い回しにした方がいいかもしれない。
紆余曲折の果てに、儲けない「いけばなワークライフ」という天職に出会って、1日の大半を過ごしている。
一大事 231210
2023/12/13
華道部を教えに行っている松山商業高校の階段の壁に「二流は三流を見下し、一流は二流からも学ぶ」というような箴言が掲示されている。若い頃は、私も一流になりたい気持ちが山々だったが、今となってはそんな気概も懐かしい。
草月の師範資格は、8段階ある。私が習い始めたのは40歳で、資格のことには何の興味もなかった。資格が人格や技能のすべてを表しているなどとは思っていないものの、今は少し感じ方が変わった。資格を得るために費やした時間とお金、そして手間暇などは、少なくとも自分の心構えか腕前を一人前にするためには必要なのだったと実感する。
かつて、後輩に、「絵は買い始めてから、本当にわかるようになる」というようなことを聞かされた。展覧会場で絵を観るうちは他人事でも、いざ金を払って買うとなれば自分事の一大事だ。この「一大事」をどう自分に課すかが、その本人の行く末を照らすこともあろう。
進学や就職を目指す高校3年生には、受験の一大事が降りかかる。しかし、他人や社会から課せられた一大事がなかなか身にならないのは、社会人も同じだ。