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いけばな随想
diary

分解能 241031

2024/10/31

 合理性や効率が求められる現代社会では、遠いものは望遠鏡で、小さいものは顕微鏡で観察し、身ぐるみ剥ぐように「見える化」する。また、複雑に絡み合ったものは解きほぐし、より単純に「モデル化」する。このように、分割とか分解という作業を経て様々な発見をしてきたと思うし、文明が進歩発展してきたのだと思う。
 しかし、春の海辺の潮と草の香りとか、真夏の山の蝉しぐれとか、夜明け前や黄昏時の風景とか、そういう五感で味わうべきイメージは分解してしまうと何も面白くなくなってしまう。
 いけばな展で作品についていろいろ質問を受けたとき、私はいい気になって説明を試みたものだ。しかし、言葉にしようとすれば、どうしても作品を切り刻んである一面から説明しないと内容が複雑になり過ぎてしまう。ところが、わかりやすく分解すればするほど、イメージの全体性を失っていくのだ。
 他人の作品を見るとき「解釈してはいけない」と、私は自分のノートの表紙に書いてある。これは、あるとき直感的に思ったことを書き記したのだった。いま再び、それを忘れかけていたことを思い出した。

未常識 241030

2024/10/31

常識に対して非常識がある。その対立軸から少し離れたところに未常識がある。今は肯定も否定もできないし、将来、非常識になるか常識になるかわからないものだ。

いけばなは経営センスを磨くものである。この命題は、そんなことはない! と即座に否定できない内容を持っているという感じがある。私が私淑する州村衛香先生は、この命題の正しさを証明しようとするかのように、ビジネスマンや経営者によるいけばな展の開催を推し進めてこられた。コロナ禍以降は中断されているようだが、私はその会場へ足を運んだ時、その先見性にびっくりした。

ビジネスの基本的な態度が、選択と集中であるならば、いけばなも同じプロセスで制作する。枝を切り、葉を落とし、主となる花材の存在感を磨き上げる。不要な枝葉を残しておくと、基本的なカタチが見えてこない。また、制作に時間を掛け過ぎると花材が水気を失って枯れてしまうから、スピード感も大切である。

本来の華道が人生を鍛えるものだとして、現代では経済活動に対して何らかの好影響をもたらすという常識を獲得しなければ、華道は滅びるのか?

流派を超えて 241029

2024/10/30

いけばなというジャンルの輪郭は、正直なところはっきりしない。私が捉えるいけばなは、草月の家元が捉えるいけばなとは、きっと異なっている。また、ひとくちに「いけばな」と言っても、無数の流派を持ついけばな界である。

いけばなはフラワーデザインとの相対的な関係として立ち現れる側面もあれば、華道という世界との関係で現れる側面もあるし、芸術全般の座標での位置付けも可能だ。もっと広く、趣味という大海での位置付けや、生活文化という軸での捉え方もできる。

先日の「県民文化祭いけばな展」で、他流派の方々とお話をする機会を得て、とても勉強になった。特に、池坊の先生の「過去・現在・未来」を作品に包括する意識や、嵯峨御流の先生の「原点に向けて削ぎ落していく」態度などは、私の足りないところを再認識させるような示唆に富んでいた。

いけばなに限ったとしても、それに取り組む私の心身には、いろいろなものが混じり合って入ってくるし、いろいろなものが脱落し続けてもいる。食べ物と同じで、いろいろなものを貪欲に食べて、大いに消化した者が育つのではないか。

二度咲き 241028

2024/10/29

教室の庭の金木犀が、また咲き始めた。10月14日に一度咲いて16日に完全に散ってしまっていたのが、再び芽吹いて昨日からチラホラ咲き、今日はほぼ満開である。そしてこの咲き方は、15年間で初めてのことだ。

私のいけばな歴も少し似ている。40歳で草月に入門して、ホントに自分に合っていると思い、さあ次はどうするかな? と思っていた矢先、42歳で急性心筋梗塞を患い、再び45歳で再発して仕事も辞めた。当然のように、いけばなにも力が入らなかった。体の回復を待って専門学校に就職し、ホテル・ブライダル系の学科だったことから、ウェディングのフラワーデザインを教える資格を取りに行った。外から見ているときは、いけばなもフラワーデザインも同じフラワーの領域だと思っていたが、やってみると意外に異なるジャンルだと実感した。

学校ではフラワーデザインを教える傍ら、いけばな教室では草月流を教えるという同時並行が、それぞれに意識的に取り組むにはとても役立った。おかげで草月に溺れる今日がある。

金木犀は何をきっかけに二度咲きしたのだろう。聞いてみたい。

合作 241027

2024/10/27

合作(複数人で1つの作品をつくる)では、メンバーの様々な関係性によって発言力に序列ができる。だから、先般開催したいけばな展では合作を排除して個人作にこだわった。その展覧会が面白かったのは、作者全員が誰に遠慮することもなく妥協する必要もなく、個々に全力投入できたことに尽きよう。

私の体は私が操れるけれど、私たち複数の体は私だけでは操れない。心は協同できても、体は協同できない。またはその逆もある。1人の人間でさえ心身の合一が難しいのだから、大勢だと支離滅裂になるのがオチだ。

だから、複数人で作品をつくると、調整意識が働いてどうしてもカドが取れてしまう。突拍子もない芝居ができたりするのは、昔の「状況劇場」のように唐十郎という絶対的なリーダーがいたからである。1つの作品をつくる場合だけではなく、展覧会をつくる場合もそうだし、大袈裟な例を挙げると“国づくり”もそうだ。

それでは、これはどうだ? 神輿とかき手の関係である。神輿に対して無名の群衆が「わっしょい」と心と体を合わせると、神輿は上がる。主役は協同する担ぎ手たちである。

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