汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

早坂暁『華日記』 240410

2024/4/15

 戦前戦後に日本の華道界が大きく動いたことは、早坂暁の『華日記』に詳しい。1927年に創流された草月流も、その奔流の中心にあった。
 その時期の日本は、表現空間も表現資材も窮乏しており、いけばなをする環境にも制約や障害がたくさんあったことは想像に難くない。そうした困難に直面して、想像力は生まれる。そしておそらく、数知れぬ失敗や失望が、華道家たちの前に立ちはだかったことだろう。気持ちが潰えてしまいそうな、ぎりぎり手前で発揮されるのも想像力である。だから、戦前戦後期は、足りないところでどう表現するか、つくり出す人間の力が試される場だった。
 いま私が置かれている環境は、当時と比べて個人的にも社会的にも恵まれている。足りないものはあっても、無いというものはない。だから、想像や創造よりも、あるものをどう使うかという、使い方や組み合わせ方に流れてしまいがちだ。
 あんなに窮乏していた時代に、なぜあんなに表現欲求を強く持ち続けられたのか? 目の前のご飯を美味しく食べることよりも、心地よい寝床で快眠を貪るよりも。とても真似できないではないか!

いけばなは贅沢だ 240409

2024/4/13

 食べてしまうと影も形もなくなるから、食べ物にお金をかけることは贅沢だと考えられなくはないが、最終的に栄養になって身に付く点では、食事はとても効率的だ。
 その点、花束のプレゼントは、食べ物のプレゼント以上に贅沢かもしれない。数日で萎れてしまう上に、全く腹の足しにならない。だからこそ、心の足しにしてもらえるのであって、消える宿命を持っているところに花束のプレゼントの素敵さがある。
 ここに至って、さらに素晴らしいのがいけばなである。鉢植えも、花のアレンジメントも花束も、どこかで買って誰かにあげることができる。しかし、いけばなは、そうはいかない。買える店がないし、そもそも「場」を抜きにして一人歩きできないのがいけばなである。だから、物としてプレゼントできない。それでもプレゼントしたい場合は、いけばなを、その場所でいけてあげることになる。
 腹の足しにならないし、プレゼントにも適さない。いけばなは孤高なのだ。深窓の令嬢なのだ。そんないけばなを習うという人は、とても贅沢なことをしていると自覚して、質の高い暮らしをしてほしい。

贅沢と文化 240408

2024/4/13

 親には感謝しなければなるまい。というのも、今いけばなをやっていられるのは、実家を教室として使えるからだ。弟妹にも感謝が必要だ。兄である私の気ままを許してくれているからこそ、確保できている空間なのだから。
 ミャンマー、ウクライナやガザ地区などの戦地、福島県や能登半島などの被災地においてなお、様々な文化を守り育てようと奮い立っている人々には、敬意を表さなくてはなるまい。切羽詰まった現場では、文化なんて余りものの贅肉だ! と言われても仕方がないからだ。
 そんなふうに考えると、私も肩身が狭い。しかし、世界中のみんなが切羽詰まっていると、人類全体として夢がないではないか。たまたま今の私に余裕があるなら、余裕のある間に文化の足しになることをやってしまおうではないか! そういう気持ちだ。
 私もまた、追い込まれることはあるだろう。実際、今年に入ってから投資がうまくいっていないのは心配で、それしか収入の当てがないので、気持ちのゆとりが少し狭まった。その時はその時で、きっと誰かが「能天気なやつ」として、いけばな三昧をしてくれるだろう。

花見といけばな 240407

2024/4/8

 松山城に花見に行った。桜の種類はたくさんあって、木を見てもよくわからない。ソメイヨシノが多いと聞いた。ピンクの濃い八重咲の「里桜」という札のかかった木もあった。
「隠門」を前景に、開いた門の向こうの桜を撮影している男がいて、後を追いかけると知り合いのカメラマンだった。彼は健康維持の散歩を兼ねて週に1度は松山城に登り、毎週毎週写真を撮っているという。週ごとに木々の様子が変わり、天気も変わるので、同じ景色は1つもないということだ。
 私も、昨年、一昨年と同じ時期に松山城に来たが、私も新しい撮影カットを見つけることができた。城郭の構造も桜の植生も変わっていないけれど、桜と周りの風景の新しい関係を見つけ出すことができて満足だ。桜の木と石垣との関係や、見上げる角度と空との関係を作っていく撮影までのプロセスは、いけばなに似ているとも思った。
 先ほど、「隠門」と桜の関係に狙いを定めていたカメラマンの真似をして、同じ場所で撮影してみた。門の開いた四角い空間に、向こう側の桜を按配する位置探しは、四角い水盤に桜をいけるような感じだ。

秘すれば花 240406

2024/4/7

 世阿弥の『風姿花伝』の「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という一節を、私は事あるごとに思い出すが、その真意がまだ理解できていないことを白状しておく。
 まず、何を秘すのか。素直に読み下すと、〇〇を秘すから花になる(花が咲く)のであって、秘すのは花ではない。では、秘すのは秘物なのか秘事なのか、秘技(または秘儀)なのか思想なのか。あるいは「答え」を秘すのか「問い」を秘すのか。
 もう少し深読みすると、何か大切なものがあるということを秘すだけでなく、何かがないことや、何もないことをも秘すということが言いたかったのかもしれない。
 私はポーカーが下手なので、ポーカーフェイスをうまく装えない。いや、違う違う。ポーカーフェイスができないから、ポーカーが下手だ。
 では、持っているものを隠すのと、持っていないものを隠すのとは、どちらが大変だろう?
「持っている〇〇を隠すと、素敵ないけばなができる」とすれば、何を隠そうか? もし「持っていない〇〇を隠す」とするならば、素敵ないけばなにするために何を持っていないことが最も効果的だろうか?

講師の事