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いけばな随想
diary

対話 241026

2024/10/26

昨日11時半から19時まで、県民文化祭いけばな展のいけこみをした。会場では他の流派の先生方との対話があり、隣の会場でいけこみをしている他団体の方とも出会いや対話があった。それにも増して、私は花器と花材と私との三者の対話に執心していた。対話を繰り返して繰り返した挙句、時間切れのために制作途中のまま「つづく」となってしまった。

今朝も会場に早く行き、また1時間自分の作品と対話しつつ手をかけた。その様子を後ろで眺めていた方がいろいろ声を掛けてくださって、人間同士の対話も昨日の続きが始まった。流派の異なる者同士の対話が成り立つのは、大きな土俵が共通していて、いけばなの「共通語」みたいなものを互いに使えるからだ。

また、もう1つ、対等の立場であってこそ対話は成立する。つまり、私と貴方という別々の2つの個人が1ペアの「われわれ」となるだけの、相手に対する理解と尊敬が前提となる。

そして、異なる流派を理解したり尊敬したりできるようになるためには、想像力だけでは無理で、経験が作用する。経験値が高まると、対話内容も高度化するのだ。

われわれ 241025

2024/10/25

自分を含めた仲間のことを、私たちは無意識に「われわれ」と感じていることがある。少年期は、クラスメートや近所の幼馴染のことだった。青年期には仕事仲間や遊び仲間のことになり、退職すると趣味の仲間や家族のことになる。「われわれ」の範囲は、大きくなったり小さくなったりしながら、再びゼロに近付く。

人間関係から逃れて、自然の動植物他との共生に「われわれ」を見出す人もいる。私の祖父は、幼児の私が庭の柿の木から落ちたとき、私を心配するのではなく、私の下敷きになった盆栽を心配したというので、しばらく母との折り合いが悪かったらしい。

心を許し合う範囲が「われわれ」だとすると、「われわれ」の数を増やすのに障害となるのはプライドである。私自身、高校までは良かったつもりだが、大学生になって以降プライドが邪魔をして、私はほとんど“単数形”の私として孤立し、“複数形”の仲間になれなかった。

唐突で申し訳ないが、今やっと改めて「われわれ」づくりに欲が出てきたのは、いけばなのお陰である。同居猫や実家の近所猫に心を許すのも、花がきっかけだと思う。

マニア 241024

2024/10/24

お金を貯め始めると、ピークに達したらそれを下回らないようにしたい気持ちが強くなり、お金の奴隷に成り下がる。いけばなを始めて、身の回りに花器が増えてきた。ちょっとした時に見初めて買うだけなのに、もう数えきれないくらい溜まったから、1部屋は彼らの専用部屋になってしまった。

仕事を辞めて収支バランスが下り坂になったのをきっかけに、金を貯めたり物を溜めたりするのはもうやめようと思った。たとえば、金を使って経験を積むことに振り向けるというのは、モノマニアから逃れる方法かもしれなかった。しかし、食や体験の偏執狂に変身するだけで、私はどう転んでもマニア体質を変えられない。

さて、現代人の学びや習い事への取り組みが、効率重視で対症療法的になっていると感じる。何かを獲得するための手段として習い事がある。しかし、昔も今も、マニアは効率を省みない。マニアは執着している対象に打ち込むことが目的なので、それを報酬や何か代替物に交換する気持ちが全くないのだった。

その点で、いけばなの非効率さや換金力のなさは、マニアが取り組むのに絶好なのだ。

レーダーチャート 241023

2024/10/23

正多角形のベース図に複数の測定数値を記す線グラフで、クモの巣グラフとも呼ばれる。たとえば、正五角形上に五教科の点数を表したり、自動車の性能を5項目で表したりする。そのグラフを見ると、この車は快適に加速するし軽量なのが特長で、人や荷物を多くは積載できないのが弱味といえば弱味だというような特徴がよくわかる。

いけばな展を開催するとき、どういう自己評価項目をつくって企画するかが次回の課題だと思うので、仮に5つを設定してみよう。①伝統文化を感じさせる ②いけばなに興味を持ってもらえる ③草月らしさが感じられる ④観客の感性を刺激する ⑤出品者のキャリアや属性が幅広い。

次に、個々の作品が与える印象を考えてみる。①美しい ②明るい ③優しい ④元気だ ⑤強い等々。このとき、出品作品のバリエーションが広ければ、楽しさが溢れる展覧会になると期待されるが、下手をするとまとまりがなく騒々しい展覧会になるリスクもある。

これは、ミュージシャンのアルバムづくりやコンサートについても同様で、テーマの絞り込みとバリエーションの広げ方のバランスが難しい。

飾りじゃないのよ 241022

2024/10/22

いけばな展でのお客様の会話、「ばらまいている、あの汚い土は何?」その人にしてみたら、いけばなは綺麗なものであってほしいという自然な気持ちがあっての発言だろう。「いけばな展にわざわざ来たのに、あんな土くれなんか見せられたら堪らないわ!」という憤りが含まれていたかもしれない。

しかし、芸術の表現は無限だし、作者の方は「綺麗なだけの花だったら、その部屋に綺麗な花柄の壁紙かカーテンでもあればいいの」と、うそぶくに違いない。一般的には汚いよりも綺麗な方がいいという期待があるだろうけれど、ここで指摘しておきたいのは、掃除を済ませた部屋は綺麗だけれど、美しいとは限らないこと。

人間の表情は、起きてから寝るまでに千変万化する。どんな美人だって、腹も立てるしトイレにも行く。くしゃみもすれば涙も涎も流すし、しかめっ面でうつむいているときだってある。それが生きている美しさだ。

同じように、生きているいけばなによっては、悩んでいる花もあれば悔しがっている花もある。要は、いけばな展の会場は、お花畑ではなく、作者の思想や訴えが並んでいる。

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