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いけばな随想
diary

花とカクテル 231125

2023/11/26

 バーで話していて、「いけばなに何種類の花材を使うか」が話題となった。私は、2種類で完成させたいと言った。
 飲んでいたカクテルは、マスターが大会で受賞したレシピで、4種類の飲料とレモンの、都合5種類が材料だ。「普段は何種類でカクテルをつくることが多いの?」と聞くと、マスターは「3~4種類の材料ででつくることが多いでしょうか。コンテストで入賞するためのカクテルは、また取り組み方が違うと思っています」。
 普段のカクテルが3種、大会のカクテルが5種。これをいけばなに置き換えると、普段のお稽古が2種、花展の場合は4種ぐらいのところだろうか。
 花展を開催する会場は、たいてい集客が見込める商業または観光施設だ。その時点で、侘び寂びを感じさせるような出品は、賭けである。豪華であれば何とか「綺麗ね」と見てもらえるのだが、少ない花材で“かそけく”出品すると、「貧相だ」とか言われるのがオチだ。
 話し相手の若い彼は、できれば1種1本のいけばなをしたいと言う。気合負けした私は、せめて恰好つけて、シングルモルト・ウイスキーをストレートで飲む。

慣例・慣習 231124

2023/11/25

 ほとんどの業界に、仕事の進め方の慣例や慣習がある。
 私が広告・デザイン会社に勤めたとき、出版する月刊タウン誌の編集工程は固定化していて、1日たりとも誤差が生じないよう統制されていた。ライバル社の月刊誌もほぼ同様だし、全国各地のタウン誌も同様だった。業界の「共通言語」も普及していたので、仮に同業他社に移籍しても、誰もがその日から戦力として働ける状況にあった。
 しかし、「右へならえ」式の護送船団的な業界はたいてい衰退していくので、必ずしも業界に「共通言語」があることはメリットだと言い切れない。
 いけばなも、慣例、慣習が根強いジャンルだ。私は、流派ごとの違いは枝葉末節、些細なもので、華道界全体の慣例・慣習が根強いと睨んでいる。假屋崎省吾氏には失礼の段をお許し頂くとして、「跳ねっ返り者」が大勢いるほど、その業界なりグループの新陳代謝は健全に進むのではないだろうか。
 私はいま、インスタレーションを試みたり、絵を描いてみたりしながら、いけばなの土俵がどこまで広がるか試している。方法が違えば結果も違う面白さに、首ったけだ。

説明的作品 231123

2023/11/24

『座頭市』や『眠狂四郎』など、テレビドラマや映画の監督として著名だった故井上昭さんの言葉、「感覚的なのがいい。しゃべっている場面でも、足元だけ撮る方が、そのシーンのテーマと直結しそうなときがある」。
 本来、芸術作品は、作品自体の感覚的な説得力で鑑賞者に問うもので、分析的な解説を読ませて納得させるものではない。私自身のいけばなを振り返ると、説明的な作品のときほど感覚的につくりましたと言い訳し、逆に、何も考えずに勢いで制作したときほど他人に受け入れてもらえるかどうか不安で、あれこれ理屈をつけて作品を説明してきた。
 作品タイトルも悩みどころだ。絵や写真の展覧会に行っても、タイトルがあるものと、『無題』とか『作品No.5』というようなものとがある。絵画であれば技法や画材に関するデータが併記されていたりもする。
 「わかってください」という気持ちがタイトルを付けさせるのだろうが、無視された転校生のようになりたくない一心で、最近は私もいけばなにタイトルを付けている。
 しかし、ジャンルを問わず、分かりやす過ぎる作品は早く飽きられる。

いけること、描くこと 231122

2023/11/24

 あるパーティで、友人がダンスでゲスト出演する。会場のパーテーションに、ダンスチームのための装飾画を強引に描かせてもらうことにした。連日180×180cmの画面と向き合っていて、右目の毛細血管が切れた。酔った勢いでの安請け合いは恐いというケースだ。
 せっかくいけばなをやっているから、絵に植物レリーフを組み合わせようと考えた。太陽と月が融合した星に向かって踊るダンサーを描いているが、葉っぱ中心のガーランドを装うと、そっちが不用に目立ってしまい、どうも安っぽい。で、植物を使うことをやめ、妖しげな木を画面に描き込むことにした。
 描き始めて気付いたのは、枝の重なりを結構意識して描いている自分がいたこと。平面的な構成の中でも、ちゃんと立体的な枝葉の重なりをイメージできていることには、我ながら感心した。
 これは、単に自画自賛したいわけではない。草月流として、花をいけた後にスケッチをすることが推奨されているし、カリキュラムによっては、アイディアや構想をスケッチしてから実際に花をいける。
 草月は、いけることと描くことを分けていないのだった。

問い続けること 231121

2023/11/23

 今日は、何十回目かの「就労支援指導」のレジュメを作っている。刑務所に収容された受刑者が、社会復帰するための事前プログラムだ。これまで、この何十回、私は一度も同じレジュメで講義に臨んだことはない。今、明日の改訂版を用意していたところだ。
 彼らはゼロからの出発ではなく、マイナスからの出発だ。就業は人生における一大事なのに、彼らは社会的に否定された印象をまとって、リスタートを切る。学卒者が希望先に就職するにも、大変な競争を勝ち抜いていかなければならないが、受刑者は、希望先に就業するという自由は大きくないし、就業そのものが危うさのもとに置かれているのだ。
 彼らに比べると、私の境遇はラッキーに満ちている。いけばなは、私にとって今のところ「業」ではないし、それをやることが世間的に否定されてもいない。「いけばなを、もっと受け入れてよ」という欲求はあっても、「私を、もっと受け入れてよ」という彼らの欲求ほどの切実さはない。
 だからこそ、「いけばなをやる意味」について毎日アップデートし続けることで、彼らの切実さに報いたいと思う。

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