原因と結果 240124
2024/1/24
ある花展のあと、「(玉井先生は作品制作に)手を抜いていたでしょう!」と、思い掛けない指摘をされたことがある。作品の出来栄えの良否はともかく、取組姿勢をとやかく言われるのは心外だった。
私としては、作品の展示会場を知悉していた上に、花の生産者の畑まで赴いて使う花の開花状態のコントロールを依頼し、由緒ある砥部焼の窯元へ何度か足を運んで使用する花器を貸し出していただいたり、竹ひごを組む試作を繰り返したりと、入念な準備をして臨んだのだ。
だから、努力と成果は正比例すると思いたいところだが、実際には努力が必ず報われるとは限らない。しかし、たとえば、農村復興に尽力した「二宮尊徳」は、焚き木を背負って帰りながら読書に勤しんだという美談の持ち主だが、農村復興と歩き読書とに因果関係は認めにくい。
二宮尊徳から得られる教訓は、ある結果のみを実現しようという効率的な努力は(たとえば受験勉強のように)、結果に裏切られることがあるかもしれないが、結果を必ずしも意図しない修養は何らかの良い結果をもたらすという、逆説的なものである。
言葉にならないもの 240123
2024/1/23
絵画の展覧会で、あらかじめ入手したカタログと実作品とを見比べながら回るのは、良し悪しどっちなのだろうか。私としては良くないと思っている。良くない良くないと思いながら、作品を見るより先に掲示された解説を読み込んでしまうことも多い。
予備知識なく初めて見る絵との出会いには、全肉体的な感受性が踊る。ところが、言語化された予備知識があればあるほど、その出会いは脳味噌だけで完結して、心が受けるはずの新鮮な感動が失われてしまう。
これは、旅行も同じで、あらかじめ旅行ガイドに目を通してしまうと、言語的な理解と既視感に征服され、現場での感じ方にバイアスがかかって鳥肌も立たない。
お見合いという前時代的(?)なイベントにおいてしかりである。学歴や背丈や収入などを把握した上で席に臨む。そこには数値化された物体が存在するだけで、相手の人間的な魅力はオマケでしかない。
そんなこんなを考えると、言葉は、理解にとって役に立たないどころか障害である。言語的説明は想像を制限するというか、言葉でのお膳立てが行き届き過ぎて、想像力を不用にしてしまう。
和の空間 240122
2024/1/22
実家を改造して、いけばな教室にした。せっかくなので、和室を残してある。
世を去る数年前、父自身が仏壇を買い換えて、何を思ったかそれを床の間いっぱいにでんと据えていた。だから、和室があっても、花を飾る場所はなかった。
教室を始めて数年後、床の間の横の押入れを抜き、仏壇をそちらに移した。仏壇の底が擦れて、床の間の板が傷だらけだが、もうしばらく我慢する。襖と障子も張り替えた。襖は張り方が引きつっていたからか骨組が変形して、閉めても少し隙間ができる。障子は張るときに手こずっただけあって、早くも剝がれや破れが生じている。あまり目立っていないので、もうしばらくは頑張ってもらう。張り替えてもらった畳はまだ新しい。
思えば、教室に縁側と土間がないのが悔しい。どちらも、家の外であり且つ内でもある。日本人は白黒はっきりさせられないと言われるが、それは違う。意図的に白黒はっきりさせていないことを、欧米人が分かってくれないだけだ。
閉じた室内で、野にあるように花をいけるのは不自然だが、縁側や土間でならば、それもありえるかもしれない。
巧まざること 240121
2024/1/21
私は長きにわたって、人前で話しをする機会が多かった。しかし、上手くはならない。青年になって、子供の頃より上手くなったかといえば、技巧的になり過ぎて却ってつまらない話しになっていたように思う。30歳代は一番脂が乗っていたけれど、視野が狭く独りよがりが強かったため、成長は小さかった。40代は迷いが生じてノリが悪く、50代は下手な話しに恥も照れもなく学生相手に精出してしゃべった。60代で、話しのネタの仕入れも減り、自分の下り坂を自覚した。
まあ、何十年も話しをし続け、ついに上達しなかったというのは、よく言えばこれこそ達人の域に達したとでもいうような、いい感じのボケっぷりであろう。『老子』に、「大巧は拙なるが如し」という教えもあるくらいだし。
人間の価値観が歴史と共に大いに変わり続けてきたのが事実なら、人間が表現する内容や方法も大いに変わっていいはずである。美醜や善悪が、真反対に入れ替わったりするのだから。
とすれば、自然に振る舞うことを徹底し、巧まざる表現に終始していたら、ほどほど面白いものが出来上がるかもしれない。
サイン 240120
2024/1/20
野球の試合でコーチがバッターに出すサインではない。画家が作品に記したり、ファンの差し出す写真集にタレントが書いてあげたりするサインのことだ。私自身、自意識が過剰だった頃は、雅号の「汀州」のサインを無駄に練習したりもした。
いけばな展では、席札と呼ぶ流派・資格・雅号・花材が表記されたカードを付すが、作家のサインは見当たらない。サインというのは、誰かが有難がってくれて初めて価値を持つので、欲しい人がいない作家は自分のサインを練習する価値すらないという、経済の需給関係がここでも成り立っている。
しかし、一方で、アンディ・ウォーホールやキース・ヘリングのように、作家のサインがなくてもそれとわかるような個性的な作品を生み出す作家もいる。日本の歌謡界でも、その声だけで誰が歌っているかすぐに分かる個性的な歌手は多い。
ともかく、今のところ、私のいけばな作品だけでは、それが私の作品だとは誰も気付いてくれないし、仮にわかったとしても、じゃあそれを買ってあげようということにもならない。つくづく、やっかいな道に入り込んだものだと思う。