手の仕事だと思い知る 200816
教室の庭は、何本かの大きな木が生えている。
夏が来る前に隣家の方向に伸びそうな枝は切っておいたのに、
もう育ち過ぎていて、隣家の屋根をこすってしまいそうだ。
先週、左手親指の腱鞘炎で病院へ行った。グラスを持つだけで痛い。
その1ヵ所をかばうことで、からだ全体の動きがぎこちなくなる。
だから、いけばなもイカしていない。
教室の庭は、何本かの大きな木が生えている。
夏が来る前に隣家の方向に伸びそうな枝は切っておいたのに、
もう育ち過ぎていて、隣家の屋根をこすってしまいそうだ。
先週、左手親指の腱鞘炎で病院へ行った。グラスを持つだけで痛い。
その1ヵ所をかばうことで、からだ全体の動きがぎこちなくなる。
だから、いけばなもイカしていない。
だいぶ手慣れてきたと思う。この辺に落とし穴が待っている。
花が思うような姿勢を取ってくれない段階を越えると
花を征服できた気になり、自分の技術にうっかり慢心する。
そして「オレサマ」が出現し、これ見よがしでおこがましい作品に仕上がる。
過ぎたるは及ばざるがごとし!
いけばなは、いけた枝や花によって(視覚的に空虚な)空間も生成する。いけた途端に作品として生を受け、同時に枯れ始めるという点で、いけばなは時間的に変化するアートでもある。
このいけばなの2つの面を私に感づかせてくれたのは、パウル・クレーの次の言葉。
芸術というものは、見えるものをそっくり写し取るのではなく、見えないものを見えるように表現するものだ。
私は学生時代に美術部や演劇サークルに所属して、絵が好きだった。
いけばなを始めてしばらくのこと、パウル・クレーの次の言葉で私はいけばなに親和感を覚え、継続するモチベーションを得た。
自然に近づき、自然に学び、自然をさかのぼり、自然に抱かれ、そして自然と訣別することによって、自分自身の自然を展開できる。
どのように「いけばな」をするかという方法論の問いは、何のために「いけばな」をするかという目的についての問いの後に付属する。
では、何のためにしているかというと、意地でしかないと思うこともあれば、何かが発見できそうな予感がすることもあるが、何となく続いてきたというのが本当のところで、あまり強くWhyを意識すると、生きていることもしんどくなる。
だからと言って、あまりHowにこだわるのもしんどい。