象徴するいけばな 200601
いけばなは自然を模倣するものではない。自然を象徴するものだと思っている。
野にある花の姿や周辺の様子を「野にあるように」いけるのではなく、野にあった花の姿や様子、あるいは全植物のありよう、そして、野にあるすべてのもの、大げさに言うと地球の未来も、いけばなを見たすべての人がそれぞれの感受性で想起できるように、「(花が主語ではなく、私自身が私の描く世界としての)野にあるように」いけられるようになるのが目標だ。
いけばなは自然を模倣するものではない。自然を象徴するものだと思っている。
野にある花の姿や周辺の様子を「野にあるように」いけるのではなく、野にあった花の姿や様子、あるいは全植物のありよう、そして、野にあるすべてのもの、大げさに言うと地球の未来も、いけばなを見たすべての人がそれぞれの感受性で想起できるように、「(花が主語ではなく、私自身が私の描く世界としての)野にあるように」いけられるようになるのが目標だ。
手がうまくなることが「上手」になることなので、やはり「上手」は目指さなくてはいけないけれど、やっぱり私はアタマでっかちが拭えないんだなあ。特化×異化で、どこかユニークさを求めてしまうのだった。
いつも何かを考えている。それが行動に表れる。いつも意識していることが、いけばなにも表れるはずだ。
ところが、大抵、思うようないけばなにならないのは、手の技術が意識に追い付いていないことが原因だ。いつも意識を優先し過ぎなので、ひとまず目の前の花から始めよう。
バラの茎を少し傾けてみると、喜ばしい表情が少し哀しくなる。半音下げたマイナー基調の音楽みたいに。
青いバラを手に入れた。まえに十数本の青いバラをいけたときよりも、凛として見えた。光を宿しつつ伏し目がちないけばな、というものを手にしたい。
連続し、持続する日常に感動はない。始まりも終わりもない時間を一部抜き出して認識しづらいからだ。演劇は持続を切り分け、場面と場面を幕で区切り、見せ場をつくる。
いけばなの空間は、絵のように額縁に入っていないので、うっかりすると連続した部屋空間の一部だ。床の間だったら、空間の仕切りがあるけれど、リビングルームでは幕で区切るわけにもいかない。
ある種の彫刻のようにマッスで表現すれば事情が少しだけ変わるが、空間を生かしたいけばな作品は、どこまでの空間がいけばななのだ?
逆に、まわりの空間に飲み込まれてしまいそうで怖い。