夢の啓示 240915
2024/9/18
白日夢が、啓示であるかのような鮮明さで半覚醒の私に降りてきた。私が尊敬する華道家であり演劇界の寵児でもある架空の“彼”が、その夢の主人公だ。
私は“彼”の演劇ワークショップに参加して、配布されたプリントを斜め読みしていた。ワークショップの内容は記憶に残らないまま終わってしまい、参加していた女性の1人から彼の理論の重要点を教えてくれと頼まれた。周りに誰もいなくなっていたことで、仮に間違ったことを言っても咎められることはないと安心して、さっき読んでいたプリントの内容を要約して聞かせることにした。
“彼”が著作や芝居の台本で繰り返し書いていることは、自分の作品には「共通項がある」ということだ。それは、心の笑顔を表現しようとする態度が一貫していて、相手が重く暗い心を持っていた場合、それから解放してあげられなくとも、一瞬の笑顔がその人の心に灯されることを願っているというような内容であった。
私は夢の中で、彼女に対して淀みなくしゃべった。しゃべりながら、その言葉が自分の頭に刻まれていった。私のいけばなが、変わるときだろうか。
念ずれば花ひらく 240914
2024/9/18
坂村真民さんの詩集のタイトルである。これは、一生懸命に念じて努力すれば願いは叶うというような意味に解釈される。そして、それ以上でもなくそれ以下でもないと感じていたから、詩集を手に取ったこともなく過ごしてきた。ただ、花という語には敏感だから頭に残っていた。「諦めない限り失敗ではない」という松下幸之助の言葉も自分自身に対する暗示で、当たり前と言ってしまえばそれまでのことである。
いま、ふと考えたのは、「念ずれば花ひらく」で「ひらく花」は自分自身のことを指すのではなくて、自分が対象とみなしているものが咲くのかもしれないということである。
あの人が成功しますように! と念じることが、少なからず良い結果を生んでいることは、親が子に対する念じ方が大いに作用しているだろうことからも類推できる。かといって、子には子の人格があるから、親の思うようにもならない。
いけばなは、そういう芸術なのではないだろうか。生花という材料は、御しがたい猫のようでもある。愛情の注ぎ方に比例するような簡単な話ではない。そしてまた、そうだからこそ面白い。
風に乗る 240913
2024/9/16
風船唐綿(フウセントウワタ)の花は白く小さくてかわいい。花が萎れると、花だった部分は毛の生えた緑色の小さな風船に変化し、それはみるみる5cmを超える大きさになり、その奇妙に動物的な姿はなかなか言葉で説明しかねる。その中には何十個もの直径2mmの黒い種を宿す。数えたことがないから、ひょっとしたら百個を軽く超えているかもしれない。その種の1個1個には白銀に輝くミクロン単位に細長い産毛が密生していて、タイミングを計って外皮の風船が割れ、産毛のパラグライダーが微かな空気に飛行して、無重力かと見える様子で漂い運ばれていく。
動物は、積極的に動くことで生を掴み取るが、植物は違う。人間は、自分で考えて自分で動けないと学業や運動の成績は伸びないと思ってきたが、ひょっとしたら、人間も自分で飛ぼうとせず、風を掴み風に乗って飛ぶことが、その人生をよりよく送るためには大事なのではないかと思う。
風に乗るのは他力本願ではない。風を読むのも風に乗るのも難しい。空気の動きを観察し予測して、勇気をもって飛び乗ること行為は、すべて自分の意思による。
ピアニッシモ 240912
2024/9/12
ケニー・ドリューというジャズ・ピアニストが弾く「Summer Night」が、私の心に沁みる。音をあまり鳴らさず休符とタメで演奏する。それが収録されているアルバム『Dark Beauty』には、「Run Away」や「It Could Happen To You」など強力なリズムと印象的なメロディの曲があって、そういう派手な曲があるとアルバムも売れやすい。
そうなのだ。強弱のアクセントはあらゆる芸術的表現に欠かせないのだけれど、たいていは「弱」が「強」を補強する役回りになりがちで、「弱」を際立たせるための「強」という役回りはほとんど見かけない。
いけばな展に赴き、「静」×「弱」の素晴らしい作品にたまに出会うときがあって、そのときは心が震える。そうなのだ。私の好みは、どちらかといえば心に沁みたり心が震えたりする作品で、心が踊るような作品ではないのかもしれない。
自分一人が自分のためにいける花も、本当は侘びていたり寂びていたりしていたい。ところが、それをSNSのために仕上げるとなると、派手な味付けになるよう調味料を振りかけ過ぎてしまう。心が強くなれない私は、見かけの強さに溺れるのだった。
個と集団 240911
2024/9/11
1人だと真面目で優しい奴なのに、徒党を組むと人が変わったように荒っぽくなるんだよなあ。そんなふうに、「赤信号みんなで渡れば恐くない」的に変身する奴は多い。残念だと思う。しかし、いけないことをたった1人でやりこなしている奴に出会ったら、いけないことだけれど褒めてやりたい。ちょっとカッコいい。
1人だと迷いに迷って決断できないのに、仲間と飲み会で笑っているうちに迷っていることが馬鹿らしくなって、スッと迷いが消えたりする。ありがたいことだ。しかし、面白いことを1人占めしている奴を見ると、なんて1人よがりなんだと責めてやりたい。いかんやろ! と。
こんど10月に開催するいけばな展は、52人みんながそれぞれ1人で作品をつくる。たいていの展覧会では複数人で関わる合作とか連作があるのを排除して、今回はとことん個人制作にこだわる。
だから、個々の性格や気質が如実に表れるだろう。楽しそうだ。だけど、普段のお稽古や研究会などを通じて、「草月会愛媛県支部」の性格や気質もにじみ出るかもしれない。見破られるのは、こそばい(くすぐったい)。