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いけばな随想
diary

庭木と切り花 240713

2024/7/14

たとえば菜の花は、切り花になっても花瓶の中でぐいぐい伸びて大きくなる。しかし、大半の花はそんなに目立って背が伸びることが多くはない。土の力というか、根の力には敵わないということか。

しかし、俺は負けんと言わんばかり強いのは柳である。花瓶に挿しておくと、小枝も葉も1枚もない棒っ切れの姿から水の中で白い根を出し始め、次第に根の本数と長さを増してくる。そんなになった“棒”を10年ちょっと前に庭に挿し木してみたところすぐに根付いて、3年もしたら大木になり、枝垂れた枝先を地面に擦りながら夜風に揺れるようになった。4~5年目にはお隣さんから「夜のザワザワした音と幽霊みたいな揺れ方が気持ち悪いから切ってもらえまいか」とお願いされ、虫も付いていたので切った。切り株の直径は、15cmにもなっていた。

いま困ってきたのがアメリカハゼで、庭じゅうに根を張って、その根の至る所から新芽を伸ばしてくる。

うちの庭木はみんな成長速度が早くて、枝がビンビン真っすぐ伸びるため、風情がない。いけばな向きなのは、木蓮、椿、千両とアジサイくらいである。

いけばなの片付け 240712

2024/7/14

悲しいことに、夏季には切り花が傷みやすい。朝起きてちらっと見ると、マーガレットの茎がうつむいている。外出から帰宅してふと見ると、アルストロメリアの花びらやおしべの2~3本が床に散り落ちている。

私が片付けようと思うタイミングよりも、妻が片付けてほしいと願うタイミングの方が早いので、妻はいつもそれが不満である。私の方は、花を楽しむ時間が4日も5日あるから、1日くらい少し冴えなくてもいいではないかという気持ちだし、ちょっと元気がないものを2~3本抜いて水を替えたらまだあと1日は持つだろうと思うのに、妻の心の中はきっと、弱った花を半日でも部屋に置いておく私の感覚が我慢できないのだ。

私はベターな花があればいいというのに対して、妻はベストな状態の花は欲しいけれど中途半端な花ならない方がいいということだろう。

つまり、いけばなにおいて気を付けるべきは、いついけるかでも、どこにいけるかでも、誰がいけるかでも、何をいけるかでも、どういけるかでもなく、いつ片付けるかというタイミングが最も重要であると理解することなのである。

劣等感 240711

2024/7/11

勉強や仕事をしていると、他人と比較されたり合否を突きつけられて。自分を情けなく感じることが多い。かつて私が国家公務員上級職試験を受験最中に放棄したのは、敗北という結果を免れるためであった。途中退席したことで、もしかしたら合格していたかもしれない可能性を残す道を選んだのだ。

受験競争が済んでも、退職しても、自分を他人と比較して悲観したり他人が羨ましかったりと、心のありようとしては忙しい。趣味の世界くらいは競争もなく穏やかに暮らせるだろうと思っていたが、そうは問屋が卸さない。テレビ番組の「プレバト」でも、ランク付けされる出演者は大わらわである。

では、いけばなはどうかといえば、こりゃイイぞって感じ。「プレバト」で、華道家の假屋崎省吾氏が出演者の作品を評価していたが、今ひとつ歯切れが悪い。あれは、假屋崎氏のせいではなく、いけばなの本来的性格のせいである。花器は本人以外の作家が作っているし、花材も料理のように煮たり焼いたりはできない。ゼロからつくり上げていく他ジャンルに比べて、いけばなの良否基準はあいまいなので助かる。

自由花 240710

2024/7/11

自由というのは、政治的には、独裁的な絶対王政や様々な統制による圧政などからの解放という場合に使われる。個人的場面では、物理的な拘束や村社会の不文律からの自由、また、道具や技術を使いこなせない不自由からの脱却など、何らかの脱制約状態を自由と称する。

いけばなの流派によって、「自由花」と称するジャンルがある。これは、形式ばった型から解放されたいけばなという意味だ。習い事のはじめは、必ず真似事からのスタートであるから、習い事には全くの自由という前提はない。全くの自由が欲しい人は、他人から習ってはいけない。

草月には、自由花と呼ぶいけ方がない。なぜなら「花はいけたら人になる」というイメージを常に抱いているから、どんな「型」でいけたとしても、最後にはその人らしくなることを許しているのだ。逆にいえば、束縛が好きな人は束縛されたままいけばなをするのもいいし、習い方の選択も自由なのである。

だから、敢えて自由花と呼ぶ必要があるのかと思うが、それは伝統の年月が長い流派においては必要だったのだろうと、同じ日本民族の1人として感じる。

オペレーター 240709

2024/7/9

スマホによって写真家の職業的立場が揺さぶられたと思ったら、今度は生成AIで画家の領域が侵された。私は、スマホ出現を機にデジカメを手放したくちだが、生成AIについては直感的に敵対心を掻き立てられ、絶対世話にはならんぞと思っている。

スマホを使って感じるのは、使う人間の創作力よりも、それを使いこなす操作力によってクリエイティブが支えられているということ。オペレーターとしてどれだけ手際よく操作できるかによって、この端末の創造的(と錯覚する)機能を生かすことができる。

30年前、フイルム式カメラを抱いてニューヨークへ行った。4百数十枚の写真を撮った。気分としては、獲物を狙うハンターだった。フイルム代や現像代がもったいないから、実際にシャッターを切るのは、心の中で切る数の10%にも満たない。撮影時点ではどう撮れたかわからないので、現像されて戻ってきた出来上がりに一喜一憂して楽しむのだった。

いけばなにも技術は要るが、オペレーター的要素は少ない。即席は可能でも量産はできない。そんな面倒な楽しさも、いけばなを好きな理由である。

講師の事