より時間をかけて 240211
2024/2/11
私は1960~70年代に少年期を過ごした。高度成長期の真っ只中では何事もより早くという風潮で、身の回りは様々な競争に明け暮れていた。
一方で茶華道を習う人も多く、教室の看板が至る所に見受けられた。私も8~15歳は書道教室に通った。縁側に吊るした鳥籠の一羽の黄色いカナリヤが、庭の松の木に向かって甲高く鳴いていた。襖を隔てた隣の座敷は琴の教室で、爪弾く音はいつも聞こえていたが、どんな人たちが習っているのか声は聞こえないし、ついに一度も顔を見たことがない。
街なかにありながら、喧騒から隔てられ香を焚きしめたその屋敷は、思えば少年の私にとって竜宮城のように別世界だった。当時は、すべてがより早く動いていたわけではない。反対側でちゃんと釣り合いをとり、しっかり時間をかけるというバランス感覚も世間に働いていたのではなかろうか。
しかし、その教室を一歩出ると、2,3軒隣に「科学教材」という店があり、いつも目新しい教材や玩具を扱っていたので、帰りに必ず立ち寄り、ミニチュアカメラや素敵な星座盤などに目が眩んで、小遣いをはたいていた。
有限世界 240210
2024/2/10
時間はずっと未来へ続く。空間は宇宙の果てまで続く。無限の時間と空間が、我々を取り巻いている。これは、科学的根拠に基づくものではなく、私の感覚的な印象だった。
「だった」と言うからには、今はそう思ってはいない。来世を具体的にイメージできない以上、私の人生の時間はいずれプッツリと途切れて終わる。また、月世界旅行を夢見た少年だった私は、もうそれを夢見ていないから、私の空間世界は地球上に限られて、水深3メートル、標高2000メートルくらいの範囲に収まることを自覚した。
資本主義のグローバリズムもやっと限界を自覚したようで、有限空間においてなぜ成長発展を当然のことと言い張ってこられたのか不思議でしょうがない。時間にしても、個体においては有限だし、株式会社にしても今や誰も無限に続くなどとは思っていない。
いけばなは、「切りを付ける」トレーニングに向いている。花材購入にも季節的・産地的制限があって、いけ終わった途端に枯れ始める。時間は留まってくれない。法人だったとしても、どんなにあがいたところで、人と同じように死ぬときは死ぬ。
花材の平等 240209
2024/2/9
小学校の時、社会科の教科書に「発展」「成長」の言葉が見つかるたびに、違和感を覚えていた私。誰かが「得した」と言っているのを聞くたびに、どこかの誰かが損をしていることを想像していた私。
そんな違和感は消えることなく、大人になってからは、政治経済の不平等に対してもっと敏感になった。マネーゲームに対する嫌悪感と興味が入り交じり、マイナス残高が記帳された銀行通帳を眺めて悶える若い日々もあった。
私は悪人として大成功するタマではないので、それなら善人でありたいと思う。人の気質は人格と密接な関係だろうし、他人を優劣で評価して見下すようなマネを、花材に対してもしたくないと思う。
稽古の花材を自分で1本1本選ぶとき、生徒さんに対してこの枝の広がりはどうか? というような適性の視点で選んでいる。時々は花の種類だけ注文して、あとは花屋さん任せのときもある。そんなとき、枝ぶりや花の付きが悪いとかいうことは、一切言わないよう心掛けている。
むしろ、花はどれも個性的で可愛げがある。「発展」「成長」とは無縁の世界で暮らせるひとときである。
コレクター 240208
2024/2/9
いけばなを対象とした作品蒐集は無理である。枯れて亡骸となった作品を蒐集するなら話は別だが……。
思えば、私たちは、生活用品であれ趣味の道具であれ、様々な種類のたくさんの物を蒐集している。世界中の先進国の人間には共通した蒐集癖がある。大抵の家には冷凍食品がストックされ、大抵の人は服や靴を2つ以上持っている。極めつけは貯金だ。より多くを手放す(投資する)者がより多くを得るという可能性について、多くの人が理解しているはずだが、特に日本人の貯蓄好きは世界的にも群を抜いている。
集め始めると止まることを知らないで、暮らしには滞留する物が溢れてくる。気に入った茶碗や湯呑、グラスやぐい呑みを、毎日思い入れを持って使っているが、それでも時々類似品を買い足してしまうので、戸棚の空間が埋まってしまう。
私のいけばな教室にも、たくさんの花器がある。使って使って使い倒した花器はわずかしかない。それなのに、また買い足してしまうのだ。地震が恐ろしい。
しかし、いけばなだけは保存性も再現性もないから、すっきり諦めがつく。何とイカしたヤツだろう!
朝の花、夜の花 240207
2024/2/9
朝の花は、愛らしく屈託のない庶民だ。そして夜の花は、シナを作る個性的な舞台俳優だ。
朝は、花を大きく包み込むように光が取り巻く。太陽光が満ちていると、照明光は無力に等しい。姿態や表情、肌合いまでもあからさまに照らし出されると、人は自らを演じることを諦めざるを得ない。花も同様だ。影は濃くても、陰を纏うことはできない。
夜は、部屋の中では月の光も届かない。空間は暗転した舞台と化す。ホリゾントの照明がほのかに夜を感じさせたりするところで、不意に細いスポットライトが当てられると、俳優である花は、キメのポーズで観客にアピールするのだ。
私は退職してから、朝のいけばな教室も始めた。そして、夜の教室と比べて、自分の気分も生徒さんの作品もまるで違ったものになることをつくづく感じている。午後の教室も始めたので、それはそれでまた違った体験が得られている。草月では、花を「場にいける」と言う。だから、朝は朝の良さを生かし、夜は夜の良さを生かす。
いずれにしても、太陽光が少ない状況での照明光が果たす役割の大きさに、今更ながら驚いている次第。