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いけばな随想
diary

いけばなの空間 231010

2023/10/10

 先日、わが教室の庭が綺麗でないと指摘されました。庭が不様な原因の1つは、無計画に庭木を増やしたことにあります。
 庭師さんならば、庭を1つの全体として捉え、構成要素として草木や石を計画的に配置します。しかも、木々の生長を見越して! その行為は、敷地に大きくいけるいけばなと言っていいくらいです。
 私も屋外の花展で作品を制作するときは、周辺の風景も一体的に捉えて臨みます。おそらく庭園と同じで、背後の山などを借景として意識します。すると、どこまでが作品でどこからが背景なのか、自分でも説明できません。記録を撮ろうとした時の気分次第で、「写真に写り込んでいる範囲が作品です」ということになります。
 ふだんも家や店の空間全体を意識していけばなをしますが、屋内の花展のときは、いけばなを独立・完結した作品としていけることになります。周辺には仲間の作品が所狭しと並んでいるので、作品同士が干渉し合うからです。そんなとき、自分の作品空間はできるだけ小さく設定することになり、見る人にも「もっと近寄って見てください!」と要求しがちなのです。

いけばな教室の庭 231009

2023/10/9

 いけばなの生徒さんから、「庭先をもっと綺麗にしておいた方がいいんじゃないでしょうか」と指摘されました。自分でも気にしていたことなので余計なお世話だとも言い返せず、「うちはアトリエだから。要は作業場なんだから」と負け惜しみを言ったり、「紺屋の白袴」を引き合いに出してみたりと防戦一方。しかし、手抜かりはダメですね。
 教室は、実家を改装して使っています。駐車スペースを確保するために2棟の家の1棟は取り壊しましたが、祖父の代から植えられていた木蓮や百日紅、柘植、木槿などはそのまま遺しました。その後、行きつけの床屋でもらった紫陽花やクチナシを挿木したり、道の駅で買った桃の苗などを無計画に空いた地面に適当に植えているうちに、枝垂柳や野薔薇、シマトネリコ、アメリカハゼ、万作なども茂ってしまい、猛暑で手入れを怠っていると汚い庭になっているのでした。
 救いといえば、教室には看板を出していないので、通りがかりの人にはそこがいけばな教室だとは分からないことでしょうか。もう少し涼しくなったら、剪定を始めるつもりです。

無の用 220403

2022/4/3

『老子』十一章。……なかが“うつろ”だから、物が入れられる……「無」のはたらきがあるからこそ、「有」が役に立つ。4/23-24は草月会愛媛県支部の花展(松山市二之丸史跡庭園)だ。花展を前にすると、いつも作品テーマや花材を決める過程で右往左往する。心構えに余裕がないからだ。スーパーで買い物するときですら、マイバッグの中が空っぽであればあるほど物をたくさん入れられるというのに。

いけばなと「いえばな」 220227

2022/2/27

何らかの事情で余った花や飾り終えた花が、家に時々やってくる。あまり意匠をこらさないで、それよりもできるだけ捨てずに全部使って、廊下やリビングにいけさせてもらう。漁師は魚の肝や皮まで余さず使うとも聞くが、料理人は魚のおいしいところを選んで使い、あとは「まかない飯」に回すくらいで使い切るのは難しい。お酒もそうだ。大吟醸酒ともなれば、米はどんどん削られて使う部分は小さい。さて、まかない飯のような普段の「いえばな」にこそ、その人の趣味や本性が丸ごと表れていそうで、だから恥ずかしくて人目になかなか晒せなかった。

実体と気配 220130

2022/1/30

いけばなを始めて21年が経過しました。始めた頃から何かしら予感はありました。それは書道に通じるような気がしたことです。枝や花をいけた瞬間、周りに空間が出現します。紙に墨を置いた瞬間、余白が拡がるように……。枝や文字などの実体を取り巻く世界は、とりとめのない気配に満ち満ちています。私は、気配をいけたかった……今更ながら音楽もそうだった。歌詞で語り過ぎて気配のない浅薄な音楽は嫌いなのです。

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