いけばなのこだわり 250506
2025/5/6
部品にこだわる工場は多い。生地にこだわる仕立て屋も多い。ハサミにこだわる床屋も、材料にこだわる料理店も、シューズにこだわるランナーも、画材にこだわる絵描きも、墨にこだわる書家も多い。
私には何かこだわりがあるだろうか? 花器はたくさん持っていて、置き場所さえあればもっと欲しいが、もう十分という気持ちでもある。花材はできれば季節感を大事にしたいがそれ以上は特に求めないから、花屋の店頭にあるものを買う。花鋏も生徒さんの何人かが私より高価なものを買ったから、仕方なく同程度のものを買った。驚いたことには、私の持っている花鋏は、私が家で毎晩飲み比べている6本のスコッチウイスキーのどれよりも安い。
そんなことをうつらうつら考えていると、先日思い切って購入予約した花器は、一昨日買ったTシャツのたった2枚半の金額だと気付いた。値段の高い安いの感じ方で言うと、いけばなに関連する道具その他はどれも高く感じている自分がいたわけだ。
高いものを買おうとしたのか、こだわった結果それが高いものになってしまったのか、大いに見直してみたいと思う。
15度の意味 250505
2025/5/5
草月流の「立真型」は、最も主となる枝=「真」を垂直から15度、左右どちらかに傾け、そして前傾姿勢を取らせる。決して直立させないのがミソだ。もちろん人の数だけ感じ方や表し方があるので、分かりやすく15度と言い切ることは単純化を招く恐れがある。テキストに15度の理由が書かれていないのは、きっとそれが奥義の1つだからである。
直立は静かなる「止」の姿勢だ。生きているのかどうかわからない。彫像でさえ、その静止した姿の中に動きを宿している。15度傾いて前傾した姿勢は、ギリギリ立っていられるかもしれないし、もう立っていられないという際どい立ち姿だ。つまり「立真型」は、主役の枝が今にも動きだしそうな緊張を孕んだ、アクションの前触れなのである。
草月には45度傾けた「傾真型」や水平に張り出した「平真型」、垂れ下がった「垂真型」もある。「傾真型」は体操選手やスケーターのように「動」を感じさせる。その動きがいけばなの空間を広げ、大きくて深い呼吸を呼び寄せる。「平真型」は水平線までの遠い旅路を暗示し、「垂真型」は慎み深さを表現する。
向き不向き 250504
2025/5/4
自分を人にアピールしたいとしても、自分らしくない振る舞いで頑張り過ぎると長続きしないし、何より不自然で不健康だ。人には向き不向きがあるので、無理をして頑張ると病気になる。昨日は、金に飽かしてひけらかすのは嫌いだというようなことを書いたが、それが向いている人はそれでいいのだ、と一晩明けると少し譲歩しておきたい気分だ。
向き不向きについては、やる前から自分には不向きだと思ってしまう人がいる一方、私は30歳代で4年もやって下手糞だったゴルフについて、それを認めたくないばかりに去年久々に友人に連れられて打ちっ放しに行ってみた。やめておけばいいのに、友人からお古のセットを譲り受け、別の友人からドライバーももらい、ゴルフ用品店でシューズほか一式を揃えてのことだ。
久々にやって分かったことは、私にゴルフは向いていないということだった。だからもう無理をしてはいけない。
いけばなに関して言えば、働き盛りの40歳代だった頃は、何度も辞めようと思ったことはあった。続けたから向いてきたのか、初めから向いていたのか、そのへんは分からない。
お洒落な花 250503
2025/5/3
お洒落さは、コーディネートの上手さと着こなしの上手さによって成り立つ。衣服そのものが高価であっても、仮にコーディネートが完璧でも、それを着る人の立居振舞がフィットしていなければ台無しだし、着る場面がそぐわなかったら滑稽だ。衣服をひけらかすと、お洒落どころかダサく映る。
いけばなのお洒落も同じで、花そのものよりもいけ方が肝心だ。仮に高価で豪勢な花を取り揃えたとしたら……、衣装に置き換えて考えればよい。結婚式の新婦なのか、招待客なのか、親族なのか、スタッフなのか。普通の家の普通の暮らしを楽しむために、高価で豪勢な花は必要ない。花器も同様で、ないときはグラスやグラタン皿を使えばいい。
お洒落は、それまで生きてきたその人の感性が表れる。衣服の着こなしも、いけばなのいけ方も。
だから習う人にお伝えしたいのは、できれば学問に親しみ、芸術に親しみ、望ましい生活習慣を身に着けてもらいたい。お洒落にもいろいろあるが、着飾ることで人目を引くのはお金があれば誰でもできるから、シンプルに高質なコーディネートで慎み深く振る舞って欲しい。
国民意識 250502
2025/5/3
松山商業高校華道部は琴部、茶道部と併せて、今春から日本文化部として始動した。枠組みは変わっても、活動のやり方は変わっていなくてホッとした。運動部に所属する中高生が減っているという報道があり、特に団体競技は少数精鋭というスローガンでは成り立たないことを痛感した。
さて、日本の(伝統)文化という言葉が、やたら安易に使われる傾向が強くなっていると感じる。中身の空洞化を心配するが、私自身が便利に使っているから他人のことをとやかく言えない。
寂しいと感じるのは、国旗掲揚に対する抵抗感である。何の疑問も持たずに国旗を掲揚して君が代を歌っていた少年時代が懐かしい。高校生まで疑問を持ったことがなく、大学生で疑問は持っていなかったが少し抵抗感が生まれた。国会議員の秘書を辞めた頃から遊び仲間の顔ぶれが大きく変わって、私の国民意識は薄らいでいった。
ウクライナやパレスチナ、チベット自治区や琉球王国、香港や台湾など、気になってきたナショナリズムはあったけれど、日本というものに対して眼差しを持ってきたかと問われるとノーに近いグレーである。