いけばなごっこ 250115
2025/1/15
いけばなの稽古で、面白いやり方がある。批判があるかもしれないが、聞こえないふりをしておく。
そのやり方というのは、自分が誰か別の人になったつもりで「あの人ならどういけるだろう」とチャレンジするのだ。一緒にお稽古をしている人がいたら、互いに誰になったつもりでいけるかを教え合ったうえでいける。恥知らずと腹をくくって、「家元ごっこ」をするのがいちばんエキサイティングだ。気が引けるなら「総理大臣ごっこ」や「アントニオ猪木ごっこ」、「MISIAごっこ」や「明石家さんまごっこ」など、著名人で遊ばせてもらうのが特徴を掴みやすく、想像も羽ばたかせやすい。
テキストに沿った稽古には、安心と保証がある。安心というのは、多くの人と同じように習っていること。伝統にのっとっていること。誰からも後ろ指をさされないこと。保証というのは、テキストの修業によって確実に段位が取れること。
私は、小中高校で文部科学省が認めたり教育委員会が定めた授業を受けた上で、そういう教育に異を唱える人からもたくさん教えられる機会があった。幸せだったというしかない。
力の出し入れ 250114
2025/1/14
いけばなは引き算である。これは最終的な決め文句だ。しかし、いけばな制作において、始めに花材を足さずにおいて引くことができないのは自明で、作業は足したり引いたりしながら進んでいく。
いけばなは強弱、疎密で成り立つ。これも最終的な決め文句だ。1枚の絵画を見ても、描き込んでいる部分と意図的に描き込んでいない部分があるのに気付かされる。音楽を聞いても、音の密度差や大小差、高低差などによって、単なる音が音楽として成立する。
制作する側の人間についても、力の入れ加減をコントロールできるかどうかで華道家になれるかどうかが決まる。ずっと入れっ放しだと、繊細な花茎を折ってしまったり潰したりしがちなものだ。力を入れっ放しだと、作品も息のつけない重い感じになるものである。
自動車の運転も、アクセルとブレーキを組み合わせて走りを整える。何かを成したり、何かを行うとき、相反する力を総合することが大事だ。カーリングやビリヤードは、まさに力の出し入れが求められる競技だ。力で押し切る場面と、狙ったポイントに誤差なくスッと止める場面とが両極端だ。
重力の風景 250113
2025/1/13
高度1万メートルの飛行機から見下ろすと、青い洋上に浮かぶ島が黒い点に見える。目に入る対象への距離が遠くて空間が大き過ぎるから、あまり重力を感じない。
ところが、飛行機が陸地の上を飛ぶときには、高度が同じでも海と違って景色に凹凸が多く目測の対象が増えるせいか重力を感じる。電車やバスなど地上の交通機関に乗ったときには、目に映る景色は完全に重力に支配されている。乗り物が止まって景色も静止画になると、風景にかかる重力はぐっと重くなる。
さて、いけばなは、重力場で制作する。生花を使うとき、どうしても花器に水を入れなければならず、それがこぼれないようにしなくてはならない。重力に反した花をいけようとすると、水の問題をまず解決する必要があるのだ。
水の次は花材である。枝や茎を重力に逆らって剣山に立てたり花瓶に立てたりして、好みの角度に保たなくてはならない。直立させるのが最も安定した姿勢である。角度をつけて寝かせれば寝かせるほど、重力の影響をもろに受ける。体操選手のように、重力に逆らったり耐えたりする姿勢に、人の目は釘付けになる。
空漠とした平原 250112
2025/1/12
行ったこともないモンゴル平原は、小学生の私の憧れの地だった。知らない土地が憧れとなった理由は、不思議なことに何度も空想のモンゴルを夢で体験していたからだ。草原と風と砂漠しかしかない空想のモンゴルは、後に写真や映像で見ることになる現実のモンゴルそのものだったので、私は密かに自分はモンゴル人の生まれ変わりだと思ったりもした。
迷宮のような風景に魅力を感じる私は、それとは反対にモンゴルの空漠とした風景も好きだ。迷宮の方は差し招かれるままに行ってみたいのに対して、平原の方は大変そうだし絶対行きたくないのに磁石に後ろ髪を引かれるようで忘れられない。
もし、迷宮のようないけばなをいけることができたら、次は空漠としたいけばなの出番だと思っている。どちらが先になるかはわからないが。
迷宮作品は光と影が複雑に入り組んでいて、草原作品は無口でポツンとひとり、影も作らずに佇んでいる、そんな感じになるだろう。これは言葉では言えても、実際には永遠に辿り着けない制作イメージなのかもしれない。いずれにしても、観念的で造形的ないけばなの方法だ。
趣味の迷宮 250111
2025/1/11
旅行をしても、街の裏へ裏へと足が向くのだった。特に海外の初めて訪れる街では、地図をざっと眺めて入り組んだ路地の奥に行き止まりの小路などがあると、行って見ずにはいられない。
裏通りの汚い路面やゴミの吹き溜まりは犯罪の匂いがするような怖さがあり、床几を出して碁を打つ老人たちや狭い路地の狭い空になびく洗濯物を見上げると、無遠慮に迷宮に迷い込んだような緊張と期待で背中がぞくぞくするのだった。
山海の壮大な自然の風景も好きではあるが、そしてまた、香港や大阪難波の雑然と密度の高い都市風景も好きだが、私は都会の背中側の無秩序な(狂騒と静寂が背中合わせになった)感じにいちばん引かれる。屈託のない楽天的な自由を味わいながら、胸の中は孤独感でいっぱいになる。相反する気分で心がざわつく。
絵を上手に描ければそうしたいところで、しかし、自分にはそれをやる力量がないから、かわりに大きいいけばなをするときは、そんな感じを表現してみたいと思う。まず、奥行きと広がりは必要だろう。それから、不規則な複雑さと、予想外の花材の組合せも欲しいところだ。