やさしい日本語 260119
2026/1/19
インバウンドの受け入れ側としては、英語をはじめとして中国語や韓国語などでおもてなしすることができれば、お互いに幸せなコミュニケーションがもたらされる。もし外国語を使うことができない場合は、「やさしい日本語」を使うことで、相手との距離はわずかでも縮まりそうだ。
いけばなを始めた頃、理解できない言葉があった。「水切り」とか「矯める」もそうだ。言葉そのものが解っても、それがどういうことを指しているのか、また実際にはどうすればいいのか、言葉の表面的な理解とその奥の内容の理解と、両方を解決させないと“わかった!”とはならない。
おそらく「水切り」は、これ以上やさしい日本語に置き換えることはできない。それでは、「矯める」を「曲げる」というやさしい日本語に置き換えたらどうだろうか? いけばな歴25年の現時点での結論は、「ノー!」である。なぜなら、矯めるという言葉には、単に曲げるだけに留まらない、目的の形に整える意思が強く含まれるからである。
やさしい日本語と、理解を促進する日本語とは違う。また、単語理解だけでは心許ないことも多い。
何を教えるか 260118
2026/1/18
人に教えることは難しい。思うのは、教え込んじゃダメだということ。そして、相手により場合によっては、ゴール近くまで教えることも大事だということ。
つまり、へそ曲がりな相手には、教え込んでやろうとすればするほど反発心を助長させて、教えることが逆効果を招く。逆に依存心の強い相手には、ゴールまで目を離さず伴走しなければ、逆恨みに繋がること請け合いだ。
それはそうとして、相手が誰であっても共通する成果を提供できないだろうか。それはきっと、野生動物の親が子に示す教育がヒントだ。最終的な選択やアレンジは子の権利であり、子に任せるしかない。親はしょせん、自分が信じて行ってきたことに頼るほかなく、自分の方法が最良であると信じていることくらいしか持ち合わせがない。子が受け入れるかどうかは、親の手に余る。
「花は、いけたら人になる」というのは、つまり、いけた花にはいけた人が反映することだ。教える人は自分の答えを強要してはならず、生徒がいけた花が教える人の作品になってしまってはいけない。私が教えられることは、答えではなく方法のみである。
落とし物 260117
2026/1/17
終活の呼び名の下に、不用物を減らす生活の持って行きかたは、頼りなかった人生をエッジを立ててまとめ上げる最後のチャンスである。せっかくいけばなで訓練してきたのだから、その手法を大いに活用したいところだ。
いけばなでは、大枝であればあるほど不要な枝を切り落とす。小枝を5本切るよりも、大枝1本切る方が、全体の印象を形づくるためには有効だ。そして、定めをつけた主要な枝を1~2本強調させ、そのイメージを助けたり強調したりする数本の花材だけでまとめ上げると、シンプルで力強い作品が出来上がる。
ところが、人生において張り伸ばしてきた何本もの大枝は、1本といえど切り落としにくい。そこで、どうでもいいような細々としたゴミみたいなものだけしか捨てられないから、人生の様相はほとんど変わらないことになる。
一方、人生では、落とし物は拾い直すことも不可能ではないし、忘れ物も思い出せば取りに帰ることができるが、いけばなでは、切り落した枝を元に戻すことはできないから、方針を変更して残った枝で何とか解決するか、新しい枝を持って来て足すしかない。
水仙 260116
2026/1/16
見るのはいいが扱うのはちょっと、と言う人が多い花材、水仙である。この正月に、護国神社に1瓶いけさせていただいたのは、そんな苦手意識を克服せんがためでもあった。
水仙の扱いとして、葉よりも高い位置にある花を、葉よりも低く組み直す「葉組み」という方法が用いられる。ところが、花菖蒲については、花を垂直に高くいけて、葉をそれよりも低くする。似たような形に思える水仙と花菖蒲なのに、よく見ると異なることに気付く。
水仙の花は、元気のあるなしによらず、やや俯き加減である。だから、葉先よりも高い位置に花があると、全体的に俯いた印象だ。だから、上に伸びた葉を高くすることで、伸びやかな印象を与えることができる(と私は思う)。春の花菖蒲は、大きな花びらを上に向いて咲かせるので、混み合った葉の間にあるよりも、上に突き抜けている方が花を強調できる(とテキストに書いてある)。初夏のかきつばたは、花を葉先の高さと同じくらいにする(というのは何故だろう)。
すべて、日本人の美意識によって醸成されてきた型なので、何故? と問い続けながら尊重したい。
苔梅 260115
2026/1/15
護国神社に奉献した正月花の手直しに行った。今日は、多くの若者が清掃奉仕をする姿が目立つなかで、梅の古木に張り付いた苔を注意深く削ぎ落としている高齢者が1人。
せっかく風情のある苔を、なぜ落とすのか理由を聞くと、「例年これをしていた人が、去年体調を崩して手が付かなかったから、今年は自分がボランティアでやっている。苔が付いたままだと木が弱るから」。私はそんなことも知らず、苔むした枝の「苔梅」を、ただ貴重な花材として認識しているだけだった。
茶器の歪みや割れや欠け、金継ぎなどの景色を愛でる美的感覚と、ゴツゴツした荒れ肌にも見える苔梅を愛でる感覚は、少しは似ているのではないだろうか。そしてこれらは、日本人の特筆すべき性分なのではないだろうか。そう考えて「いや、いや、いや」と即刻否定する私。
茶器については、そういう“へうげもの”を好む“織部好み”は伝統的感覚でも、花器については聞いたことがない。現代の花人が苔梅を好む理由が、高額だからというだけでは哀し過ぎる。霧の舞う山蔭に苔むす枝に、赤い蕾がふくらんでいる梅は美しい。