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いけばな随想
diary

季節感 250210

2025/2/10

 日陰の風はまだ冷たく重かったが、午後の空は晴れ晴れと明るく冬の終わりが感じられた。それは視覚的なものと、空気の温度の肌感覚と、庭の土の匂いと、近所の中学校から聞こえる声など、たくさんの要素が私の感覚に訴えた。
 人に備わった感覚は個人的なものだから、当然「まだまだ冬!」と思っている人はいるはずで、他人と共有したいと思っても季節の感じ方は微妙に異なるだろう。感覚を共有したいのなら、理屈ではなく同じような経験を当人同士が緊密に持っていることが重要である。
 1つには家族がある。血の信頼によって結ばれていることに加えて、同じものを食べて共に過ごした家や土地や環境に対する愛着がある。慣れ親しんだ親戚や近所や風景もある。もう1つは学校や職場である。1日の半分を一緒に過ごす者同士は、やはり分かり合えるものだ。
 外国人にもいけばなが広がり、日本人でも新しい育ち方をする人が増えるなかで、私の感覚も影響を受けて少しづつ変わってきている。ほかの人の感覚も、環境や世代などによって大いに変わってきた。いけばなに、季節感さえ込めにくい時代だ。

教えない 250209

2025/2/9

 お金をもらうからには、いけばなを教えなければいけない。ところが過ぎたるは及ばざるがごとしで、教え過ぎると生徒は学ばなくなる。学ぼうとする機会や気持ちを摘み取ってしまうことにもなる。
 野生動物の子どもは、人間に比べて何倍も速く大人になる。裏側では天敵に食い殺されたりして種全体の死亡率は高いが、たいていの動物は自己責任で学んで命を永らえる。危機に瀕するたびに注意力や観察力が自ずから育っていくわけで、危険な目に遭えば遭うほど経験は蓄積され、五感や直感も磨かれて、学ぶという才能が身に付く。
 私が親に感謝していることは多い。まず、基本的に禁止を命じなかった。また、裏で監視していたことはあっても放置しているフリをしていた。だから、物心つくまで、私は自分自身の力で育ってきたと思い込んでいた。実際、自分が見つけたり編み出したりしたこともあるだろう。しかし、中年になってから思い返すと、両親や祖父母や学校の先生の無言の導きがあったことを痛感した。そして、両親が他界してから空っぽの実家に座っていると、ますますその思いが強くなった。

不慣れ 250208

2025/2/8

 旅行をする。不慣れな土地へ行くと、目的地までの道々、標識をよく見るしとにかく周りの景色や商店の佇まいや住宅のポストなどにも目を配る。不慣れな土地へ行って面白いのは、こうして発見がたくさんあるからだ。慣れた土地では周辺の様子にほとんど気を遣わなくなる。慣れるというのはつまらないことで、毎日の生活や長い人生を面白く過ごしたいなら何事にも慣れないように心掛けることだ。
 不慣れなことをする。手際が悪く、うまく運ばない。しかし、それがいいことなのだと気付かない人がいる。たちまち上手にできてしまうようなことは、人生においてさほど役に立たないちっぽけなこと。すぐに上達するようなことこそAIやロボットに任せていい。
 中学校や高校の授業が面白くなかったのは、多くの同級生が同じように物分かりが良かったから。小学校では勉強嫌いや暴れん坊や鼻たれ小僧が混じっていて、本当に楽しかった。
 大人のいけばな教室がいま面白いのも、本来は馴染めない人々が集まっているからだと思う。いろいろな意味で慣れさせてくれない。だからいつも新鮮な気持ちで望める。

取合せの妙 250207

2025/2/7

 枝ものと花の取合せについて聞かれたときほど困ることはない。ジーンズにはどんなシャツが似合うでしょうと客に聞かれるアパレルの人も、きっときっと同じ気持ちだ。「そんなこと聞かんといて」もちろん商売上、愛想良く対応するが。
 いつだったか若い頃、京都の蕎麦屋で「にしんそば」という文字から熱いアピールを感じた。少年時代を過ごした愛媛でも、青年時代を過ごした東京でも食べたことがなく、しかし噂には聞いたことのあるその響きは、実際に文字で見ると更に京都らしく旨そうだった。
 しかし冷静に考えると素晴らしいと思えない取合せだったし、実際に食べても苦み走った濃い味のにしんは重過ぎて、京都人の味覚に疑問しか残らなかった。酒も取合せるべきだったのだろうか。以来、にしんそばを心から旨い! と感じたことは1度もない。それなのに、事に寄せてはにしんそばを食べて「うーん、70点」と唸っている私である。
 枝と花についても、その取合せについては個人個人の苦手意識や好みがある。そして、「こりゃ、だめだろう」と思う取合せも、やってみるとうまくいったりする。

材料依存のいけばな 250206

2025/2/6

 日本料理の板前の仕事は、素材の良さを引き出し、素材の良さを生かすことである。伝統的な献立はもちろん、現代でも日本由来の食材を使わないことには始まらない。これは、高低差のある狭い国土では山海の多様な食材が新鮮なまま手に入ることによって、濃い味付けや加熱で食材をこねくり回さなくても美味しく食べられたことが大きい。
 局所的には、保存の必要性などから干したり醗酵させたりということも行われたが、それらにしたところで味を加えたり加工度を高める方向には行かなかった。
 この取り組み方は、いけばなにも当てはまる。日本には山も森も林も野も川べりも海岸もあって、この狭い範囲での多様性によってたくさんの木や花がいつも必ず身近に生育している。だから日本人は誰もがいつでも木と花を取り合わせていけばなを始めた。花木の魅力を掛け合わせて、客人を招く空間を“美味しく”演出した。
 ところがいま、近隣の花木を近所の花屋から買うことができなくなりつつある。山で竹を切る人がいなくなり、露地やハウスで木を育てる人がいなくなってきた。早晩いけばなは滅びるか?

講師の事