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いけばな随想
diary

完全体 250915

2025/9/15

 銀座木村屋の店頭に紅葉したモミジが飾られたと、テレビでレポートされていた。見ると真っ赤の葉が繁っている。枝は黒い。本物かもしれないが、人工物のように見えた。
 人工物(工業製品)は、宿命的に標準化や単純化が求められるので、自然のモミジに見られるような「折れた枝」「虫食い葉」「部分的な枯葉」「枝の色味のまだら模様」などを再現しにくい。
 ところで、韓国のタレントをはじめ、最近の日本の若い人たちの容貌もおしなべて非常に整っている。これは私の好むところではない。昔の映画でよく描かれたように、つくりもののアンドロイド的な匂いを感じてしまうからだ。日本のアニメの主人公は、作者が意図していたと思うのだが、『サイボーグ009』や『ブラックジャック』に見られるように、どこかに弱味や傷を負っていた。生き物である以上、人間もシミやソバカス、病気などがあってこその完全体である。
 飛行機や自動車などには、不備がないという意味で完全無欠が求められるが、人間や人間がつくるいけばなには、どこか足りないか、どこか過剰な仕上がりが自然な印象を与える。

記憶の化石 250914

2025/9/15

 人間の記憶量はとても小さいうえに、老化に伴って減退し死とともに消える。手帳や日記やスマホやパソコンに記憶させていた「個の記憶」たちも、ほぼ眠ったまま化石化する。片やクラウド上の「衆の記憶」たちは、増える一方なのだろうか。
 大昔からの動植物すべての記憶総量は、DNAレベルのものを含むと相当量だろうが、進化した記憶装置やネットワーク等を含む地球全体の記憶総量は、どれだけ大きいのだろう。総量が加速度的に増えると、1人の人間が思い出さなければならない物事は、生きている時間だけでは到底足りない。過去を思い出すだけでも追い付かないのに、記憶すべきことをこれ以上新しくつくっていかなければならない人生には、どんな意味があるのだろうか。
 さて、小学校以来、世界の名画といわれる実物を、何百枚かは見てきた。写真や画像では、ひょっとしたら千枚以上見たかもしれない。いけばな作品も、気付けば相当量を見てきた。見れば見るほど自分の糧になるはず。それはそうだが、人間の記憶量はとても小さいから、捨てて捨てて常に空きを作っておくことも大事だろう。

不完全作家 250913

2025/9/13

 協調性を重んじるなら、手間なことをやらなければ成立しない。同意や共感を得たいなら、常識的な様々の要請に応える努力が必要である。そんな労力を自分に対して義務化するかどうか、これは作家としての自己プロデュースの方向性を左右する。ともすればプレーヤーでなく、ディレクターの側に近寄る。
 人は誰でも、意図した何者かになれる。作家という肩書も、自己責任と自己の権利で表明できる。私も、しばらくのあいだ副業として恐る恐るいけばな作家を名乗っていて、生業を退職して今や専業いけばな作家を名乗っても構わない身分になったが、名刺に作家と書くのはためらわれる。偽者ではないから堂々と書けばいいものかもしれないけれど、自分の不完全さを自覚している以上、胸を張れない。
 世の中には、未完の作家も数多くいる。学生時代に美術部員だったり演劇部員だったりした私は、未完の画家であり、未完の俳優でもあった。20歳代後半には、自室に希少品や珍品を並べて「百物館」館長を名乗ったこともあったなあ。
 さて、今後のことである。不完全ないけばな作家の私の行く末や如何。

ひねり出す 250912

2025/9/12

 いけばなの強さや柔らかさ、空間の取り方や軽やかさは、計算を何度やり直しても納得のいく所には到達しない。ぎりぎり1cmまで切り詰めても、それはまだ5㎜ずつに分割できる。それもまた半分になり、ずっと半分にし続けていける。そんなミリメートルにまで追究の手を緩めないで取り組むのは、実際のところナンセンスだ。
 しかし逆に、それでは10cmにこだわるのはどうかということになると、その長さにはこだわるべき大きさがある。では5cmは? というふうに再び長さを半分にしていくと、堂々巡りになる次第でどうにも解決しない。植物は切り花にしても成長(変化)を続けるので、こちらの計算など楽々跳び越えてしまうという難しさもある。
 また、例えば、作品がちゃんと立っていられるかという心配な作品をつくることもある。その重心を保つ微妙なバランスは、植物自身の変化によって、より危ういことにもなりかねない。
 私たちの仕事は、計算も取り入れながら、最後は計算を捨てて未来予測をするというか、エイヤっと直感をひねり出す瞬発力が必要だ。計算と答えは、たいてい一致しない。

失敗は成功のもと 250911

2025/9/11

 1つの失敗をしても、失敗経験をたくさん積み重ねている内にいつの間にか大きく成長していた、というのが人間の成長スタイルだ。単発では失敗だとしても複数の失敗を束ねて挽回するやり方、これがロボットや生成AIと違う特長ではないかと思う。
 そして一方、成長というのは最終的に死に至る変化なので、その過程でいくら大きい成功をたくさん手に入れても、死によってリセットされる宿命からは逃れられない。
 これまで、いけばな展への出品や施設等への祝い花の制作などを行ってきて、自分なりに納得できたときもある。しかし、その“成功いけばな”にも、いくつもの小さな失敗が含まれていたので、少なくとも大成功ではない。また、数多い“失敗いけばな”にも、わずかずつながらでも小さな成功が含まれていた。悲観する必要はない。
 それより何より、いけばなは「場」との関係によって成り立つのだから、「場」の時節や時間帯や雰囲気などによって、いけばな単体での成功や失敗もありえない。だから、完璧を求めるのは難しく、大成功もないという諦めに立ったうえで、よりよく枯らせたい。

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