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いけばな随想
diary

消すということ250709

2025/7/22

 野山では無数の草花が風景を成しているので、目を付けた「その花」を撮ろうと思っても、上手に構図を決めなければ「他の花」も一緒に写って、どれを撮ったのかわからない写真になる。
 いけばなでは、「そこに」いけると決めるとき、背後にあるポスターがなければもっといいのにとか、横の本棚が邪魔になるとか、気になる物が周辺にいろいろあって困る。いけばなのために設えられた空間というのは、なかなかない。そう考えると、制約は多いとはいえ、床の間というのはありがたい空間だった。
 花をいけるとき、野山とは違って、「そこに」いけるならば「そこ以外」からは基本的に花を排除する。へそ曲がりな言い方をすれば、花をいけるということは、周辺空間から意識的に花を排除するということでもある。ショットバーでいけるときも、「そこ」と「あそこ」以外の花は排除する。
 ホテルや旅館に行って、ロビーや玄関まわりを見ると、そこの人たちがどれくらい空間に気を配っているかがよくわかる。自分のことは棚に上げて、気配りしている施設に共通するのは空間からの物の排除が綺麗なことだ。

着崩した花 250708

2025/7/22

 子どもの頃、私にはハンサムな友人がたくさんいて、彼らが羨ましかった。私は痩せてガリガリで、それも嫌だった。とにかく思春期である。少年にとって容姿は人生最大の問題で、完全無欠な人間に憧れた。
 憧れの対象の1人はドイツのサッカー選手で、後にドイツの代表監督も務めたベッケンバウアーだった。日本人の顏は、欧米人の顏には負けてしまうと感じていたし、雑誌のグラビアでもアグネス・ラムなどのエキゾチックな可愛さに目が引かれていた。
 海外旅行に行き始めたのが29歳で、その頃からやっと欧米コンプレックスが抜け、美意識や趣味も変化したように思う。きめ細かい完成度よりも、粗削りな素朴さに美しさを感じるようにもなった。偏執狂的な細密画も好きではあるが、これはダークサイドの趣味として秘めておきたい。
 草月のいけばなに入門したのは必然で、ほかの流派に感じる緻密さに対して、草月には気取らない雑さみたいなのがあって、その雑さというのは、一張羅の服を敢えて着崩しているようなカッコよさを私は感じたのである。ちなみに今は、ハンサムコンプレックスもない。

枝葉末節 250707

2025/7/12

 七夕である。願い事を書いた短冊を吊るすために、竹を使う。笹だろ? という話もあって、厳密には竹と笹は異なる。しかし曖昧なままでいいんじゃないか。笹竹という言葉や竹笹という言葉もあるし、生活上はごちゃ混ぜである。
「吊るす」という表現も、「吊る」のではないかという議論があるかもしれないが、短冊の場合は吊るすのが正しいようだ。また、七夕飾りは一夜飾りとされている。織姫と彦星も、年に1度しか会えないから「願う」ことに繋がる。年に365日会えるとしたら、むしろ会わない日があることを願う。じゃあ2晩しか会えないとするならばどうなんだ? と食い下がるような人は三夜でも十夜でも飾っておけばいい。
 すべてにおいて枝葉末節にこだわっていると、神経が衰弱する。とはいえ、いけばなをする時に枝葉末節にこだわらなくてどうする? と確かに私も教えられた。
 しかし、いけばなでのこだわり方は多様だ。自分の癖として心身に溜まっている垢を取り除くように枝葉末節をバッサリ切り落とすのも有りだし、逆に枝先の1輪の花を選び取るため、他を全部取り除くのも有りだ。

一貫性 250706

2025/7/6

 「一貫性がない」という批評は、たいてい否定的だ。一貫性は、徹底的に極めるための必要条件だと思う人が多いと思う。
 私はへそ曲がりだからそんなに厳密には考えない。頭の中に、1本の長い線を引くイメージを思い浮かべるとしよう。幅が1mmの細い線だ。この線の上を足を踏み外さないで歩き続けることが、一貫性のイメージである。では、幅1kmの太い線を引く。ここまで太いと、広い道と呼ぶべきかもしれない。この広い道を歩き続けるとき、右へ行ったり左に来たりしても、それを一貫性がないとは断じられまい。
 私のいけばなは、自分が演劇の演出家になったつもりで、花材を書家が引いた墨文字の線に見立てたり、体操選手に見立ててみたりと、花材をいろいろに見立てることが多い。この前など、三段跳びの選手の空中姿勢が目に焼き付いて、そんなイメージのいけばなができたらいいなと思った。
 いけばなにはたくさんの流派があり、芸術にはたくさんのジャンルがある。そういうものをちょっぴり舐めたり齧ってみたりしながら、自分の中では草月の広い道を一貫して歩いている自覚がある。

集中と弛緩 250705

2025/7/5

 いけばなの生徒さんの甥御が水泳選手である。そして、十分の1秒を縮めようとして力みが出てしまい、大会で1位を獲ることはできても目標タイムを出せないでいるらしい。
 昨晩、日本陸上選手権をテレビで見た。100m走は緊張と集中のうちに競技が始まり終わるように見えるが、選手には果たして緊張を緩めるタイミングがあるのだろうか。そして、アスリートが極めようとする1秒は、アーチストにとっては何だろう。
 日本画家が襖絵を描いている動画を見た。最初のひと筆を紙の上に置く瞬間、見ている私が息を呑む。ぐっと唾を呑み、顔がスマホ画面にせり出して足指に力が入る。画家本人はサラサラサラと軽やかに筆を運ぶ。幅が30cmもある刷毛に持ち替え、「えっ、そんな!」と声を上げるほどの大胆さと脱力感で、刷毛をスイーッと1m以上も走らせる。
 私がいけばなをする時、他人の目があると緊張を緩めることができない。嫌な汗をかきながら力んでいる。玄人という言葉の「玄」、幽玄の「玄」は、私がそこに至りたい境地で、深みはあるのに重さがない感じ。充実していて垢抜けた感じ。

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