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いけばな随想
diary

家元のロングブーツ

2025/10/4

「いけばなの先生でいらっしゃいますか。季節の花のお名前もよくご存じなんでしょう?」と初対面の奥様。私は花の名前をあまり知らないから、勝手に嫌味だと受け取ってしまったのだが、たぶん相手に悪意はない。私は花の名前を覚えるよりも、花の新しい使い方をしていきたいのだと、そのとき言い訳しておけばよかった。
 かつて、いけばな展の会場で、結婚式場のお下がりの木製の椅子を積み上げて花器に見立て、ソテツの葉などを来場者に自由に挿してもらうインスタレーションを行った。椅子は座るものである。その椅子をひっくり返すと、人を座らせる機能を失い、意味不明のオブジェに変身する。そのオブジェに、花器代わりという新しい意味(機能性)を付与したのだ。
 私は何でもいけばなの土俵から物を見る。だから、形のいいグラスやデキャンタがあると、それはいずれも花器に見える。竹や流木が転がっていると、全部花材に見える。人は自分の立場で見たものに意味付けすることに慣れているから、各流派の家元がロングブーツやパンプスを花瓶に使う新しい見立てには、みんな驚いてしまう。

ナンセンス 251003

2025/10/3

 意味があるようで意味がない、これがいけばなの正体である。敢えていけばなに意味を持たせようと思ったら、何をどうすればいいか無駄に考えてみた。
 手始めに花言葉を復権させる。赤いバラには強い恋愛感情を表す意味が込められている。ヒガンバナには「I miss you」と愛情の対象を失った感情があてられる。花と花言葉とがもっと強力に結び付いたら、バラはもっと徹底的にカルメンを演じてくれるかもしれないし、ヒガンバナは黒衣の未亡人のはまり役かもしれない。ちなみに、オペラの原作でカルメンが投げた花はカッシアという黄色い花で、その後の演出家が情熱をより強く表現するために赤バラをカルメンに咥えさせたのが端緒らしい。
 そのように、いけばなを1つの舞台として、花材を俳優として演出すれば、オペラ「カルメン」の幕開きである。しかし、俳優全員が無言劇を演じる舞台なので、無声映画のようにオーケストラの演奏が付いたり、弁士が代役で下手なセリフを語ったりしなければ、観客には何のことやらさっぱりわからないだろう。
 花言葉の復権くらいでは、どうしようもなさそうだ。

アドリブ 251002

2025/10/2

 私はジャズが好きだ。歳を取れば取るほど好きになる。スタンダードな演奏も嫌いじゃないが、個性的なアドリブがツボにはまった演奏には心が躍る。
 言ってみれば、いけばなの型は楽譜に相当する。いけばなの花材は音符であり、各パートだ。テキストに掲載された型の写真通りに花をいけたら完成度の高い作品が出来上がるし、アドリブがうまくいけば万々歳である。またそれは、料理のレシピに相当する。レシピに一工夫してもっと美味しくなったら、これはもう満面笑みである。
 しかし待てよ? レシピ通りの料理を、本当に厳密に作れるのか? 楽譜通りの演奏を本当に正確に再現できるのか? 型通りの花を本当に写真通りにいけられるのか? ほとんど無理な注文であることに、やっと気付く私であった。
 ということは、楽譜やレシピや型というのは1つの指標であって、演奏や調理やいけばなは、どんなに指標を再現しようと思っても、取り組んだ人の数だけ微妙に異なった結果が生まれるのだ。没個性的に演奏しようという方が無理で、大なり小なり、みんなアドリブを利かせているというところだろう。

猫と花 251001

2025/10/1

 宇宙や深海に向けて、現実空間に対する人類のアプローチはどんどん範囲を広げ、未知の世界は減り続けている。子どもの頃は洞窟探検に憧れがあって、映画では人体内探検の『ミクロの決死圏』に食い付いたが、自分の身体や心理については大人になっても全然理解が深まらない。
 最近、心が乱れることが多く、呼吸を整えようといろいろ試している。背伸び、深呼吸、暴食、深酒、散歩、猫の相手などをしてみて、いちばん落ち着いたのが猫の相手だ。
 心が乱れている時に、いけばなは良くない。植物は泣いたり怒ったりしないから、彼ら花の声を聞くことなく人間の私の意思が強く出てしまい、自己表現することを優先してしまう。ところが、猫が相手の場合はそうはいかない。私がこちらのペースで対峙しても、向こうは絶対に合わせようとしてくれない。背後から恐る恐る距離を縮めて、尻尾の様子などからご機嫌を窺う必要がある。
 そうして、声なき猫の声を聴き、私を同期させる気持ちで佇んでいると、私の呼吸が落ち着いてくるのだった。猫を通して自分に聞き耳を立てるような感じと言っていいだろう。

頭の中のいけばな 250930

2025/9/30

 頭の中に枯れた立木が1本、思い浮かんだ。頭と心が暇だったので、それを使ったイメージトレーニングを始めることにした。
 それは枯れたまま根を張っている。私はそれを動かさず、頭の中で「エアいけばな」を行う。イメージした季節は初冬で、駅裏再開発で造成工事が進む殺伐とした更地の片隅だ。そこに1本、暗褐色の幹を晒す姿は、美しいとは言い難いけれど、放っておけない寂しい魅力があった。
 枝分かれした大枝とたくさんの小枝を持つその木を、大地から引き抜くつもりはない。いっそのこと、その木を花器と見なしていけてみようと思う。そのへんに転がっている、剥がしたアスファルトの破片や事務机の残骸に混じって、誰かがオフィスで毎朝使っていたコーヒーカップやスプーンもある。そんな雑多な物たちを搔き集めて、枯れた立木に組み込んでいく。クリスマスツリーのように飾りをぶら下げるのではなく、作品の一部としてしっかり組み上げていく。その木が、小さなオフィスビルの裏庭の木だったことがわかってくる。
 私は最後に、何本かの枝先だけ残して、ほぼ全体を包帯で巻き覆った。

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