天啓 250926
2025/9/26
技芸の継承は口伝や書物によるバトンタッチ形式だ。華道の場合も、どこかの師範の門下となって公式テキストが与えられ、順を追って考え方や技術をモノにしていく。
家元ご本人も常に研鑽し続けることを世間や身内から求められ、自作テキストを日々アップデートしなくてはならない。1つ1つの型はすべて、いけばな草月流の奥義に踏み込みかけている(はずだ)から、私たち門下の者は、いくらか稽古を積んでいくうちに「これが奥義だろうか、あれが奥義だったのだろうか」と、奥義にかすかに触れたような、心に光が射す瞬間が何度か出てくるようになる。
しかし、数日の後に冷静になって振り返ると、それは改めて言語化してまとめ直すには幼稚な解釈だったことが自覚されて、せっかく出くわした喜びは単なる思い込みだったとして捨てなければならない。
口伝やテキストによる継承は、地球の表面を水平的につなげていく。しかし、1人の天才による突発的な気付きというか覚醒というか、水平的に広がる地理や歴史とは無縁に、天啓と呼ぶべき科学的発見や芸術的表現が降りてくることも期待したい。
創作という非合理 250925
2025/9/25
母校の文化祭で手に取ったのは、文芸・俳句部の年刊誌。たまたま開いたページに、「創作という非合理」の表題で1年時の中津くんが書いていた。
その文章は、俳句甲子園に初出場した不安や苛立ちを低音部で奏でながら、創作におけるインスピレーションとしか言いようのないものを説明しろと要求される圧力に抗いたい自分と、他人が勝手に自分の作品を解釈する腹立たしさと、最後にはその2つの強迫に向き合って、来年は血祭りにあげられようともリング上で闘うことを覚悟する自分というメロディーが展開する。何という神話的な物語だろう。
しばし、美術部員だった16歳の自分が情けなくなったし、今年の美術部員、書道部員、写真部員、華道部員にも、中津くんの爪のアカを煎じてやりたかった。創作というのは、技術やセンスが大事でも、意識や態度が伴わなければ表現が成就しない。
いけばなも、花材をありのままに扱っていてはダメだ。創作は、人間の意識的行為によって紡ぎ出されるフィクションだ。言葉や花が喋ることを期待しても無理で、自分の表現をまな板に載せなければ始まらない。
時を経て 250924
2025/9/24
効率化を求める気持ちは、わかる。寿命には限りがあるのだから、少しでも多くを見たり聞いたりしたいし、やってもみたい。しかし急ぐと見えないものがある。一瞬見えた気がして見失うものも多い。
私の庭先には流木がいくつも転がっていて、季節に数回あっちへ持って行きこっちへ動かすというようなことをして、朽ちていき欠けてゆくことを繰り返しながら姿を保っている。昨年は、いちばん大きな流木に蟻が巣作りしたのを見つけ、日中の焼けたアスファルトの熱と夜の水攻めを繰り返して、どこかへ移住してもらった。ゆっくり過ごしていれば、それはそれでいろいろなものが見える。
存在感が大きいため使い辛くはあるが、そんな流木のような年月を経た“枯れもの”を、新鮮な切り花と共に使うことがある。しかし花材はともかく、出来上がったいけばな作品は、経年変化を楽しむことができない儚さだ。
人を写した写真は何十年経っても生々しさが蘇るのに、いけばなの写真はそれほど心ときめかない。だから最近は、作品だけではなく、制作者のにこやかな顏も入れたスナップ写真を撮るようにした。
見ないこと 250923
2025/9/23
たとえば、初恋が成就したと勘違いした人生最良の日を、人は毎日繰り返して生きたいだろうか。私にとっては、細部まで同じ1日がもう1日繰り返されることは、どんな佳き日が再現されるとしても地獄の1丁目である。
目覚めてから次の眠りに至るときまで、その1日に目にした全てのものを覚えておくことはできない。はじめからほとんどのものを忘れるのが人間ならば、覚えるものも見るものも最小限に絞っておくのはどうだろう。
または、フィルムカメラにフィルムを装着せず常にシャッターを開放しておくように、目に映ったどんな光景も網膜に焼き付けないでおけば、思い出す必要に迫られないというものだ。
現実的な行動として、私はいけばな展に行ったとき、直感的に「パス」と感じた作品は知覚しないでただボーッと見る。目に焼き付く暇がないくらい早く、そして脳との連絡を意識的に絶って。そのかわり、「コレ」と感じた作品の前では、左からも右からも、近くからも遠くからも、下からも裏からも覗き込む。これは、いくつかを見ないことによって別の大きな時間が得られたことを意味する。
万花彩 250922
2025/9/22
きのう百貨店で、陶芸家・葉山有樹氏の“万花彩”に出会った。細長い皿とも細長い水盤ともいえる陶磁器で、遠目には青く、近付けば五彩による華やかな細密画とわかる。日頃接する絵付けを超えて、魔術に近い細かい花で全体が埋め尽くされており、余白が一切ない。
私は魅入られながら困ってしまった。花をいけることで、何もない空間(余白)をどれだけ大きく取ることができるかということに眼目を置いてきた自分だから。
一夜明けたきょう、1個のぐい呑みを実家の押入れで発見した。焼酎の店「夢中居」でもらった『別冊・季刊えひめ』のコピーを去る7月18日に見つけていたが、それと一緒にもらったものだ。「夢中居」のオーナー・渡部晃夫さんが、真鍋霧中の揮毫した「夢中摘花則天下文詞無所不知」から「夢中摘花」を選び取り、その4文字が砥部の龍泉窯が焼いた器の腹に浮かぶ。文字のまばらな大小と緩い線、何といっても白磁の朗らかで大きな余白が魅力だ。
私は2日間で、最も余白がない焼物と最も余白に満ちた焼物に、連続で接してしまった。気持ちの収拾をつけなければならない。