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いけばな随想
diary

オーダーシャツ 250501

2025/5/3

 2年前に退職するまで、Yシャツのサイズにはこだわりがあって、何か月かに1回オーダーをしていた。私の体重は高校2年の時からプラマイ3キロの範囲内で45年間保ってきたので、オーダーといっても微調整の必要すらないくらいだった。
 ところが退職後の2年で4キロ太ったために、すべてのシャツとスーツが合わなくなり、スーツのパンツのウエストのほとんどを大きく直すことになった。買った値段と直しの値段とを考慮するとシャツの直しは到底考えられず、今はパッツパツのシャツを着て、お腹をヘコませて歩いている。Tシャツなんか、体を動かす度に太った腹の上まで捲り上がる始末である。
 リモートワークが増えて以降、カッチリしたスーツスタイルが減ってきた。私はカッチリしたスーツで仕事をしてきたので、捨てるのはもったいないし時々必要もなくスーツで出掛ける。しかし、それがふさわしい場で過ごすことはほとんどない。
 社会の変化は居住空間にも仕事場にも表れる。そして生花が飾ってある空間も少なくなった。そういえば、国民の祝日に日の丸の国旗を掛ける家も少なくなった。

内面的作業 250430

2025/5/3

 大枝を1本切るのは、手作業においても内面的作業においても“大事業”だ。手作業では小枝を1本切るのとは比べ物にならない握力がいる。内面的作業でも全体のイメージを決める大きな覚悟がいる。小枝を1本切るときは気軽にチョキチョキだ。
 ところが、いけ終わりの最終段階に差し掛かると、小枝1本を切るか、曲げるか、そのまま残すかという見かけの小さな選択において、決断という内面的作業は大仕事になる。細部に神は宿るからである。それはダンサーの右手の中指1本の開き加減、曲げ加減にも匹敵する。
 だから細かい部分であったとしても、その見え方には当然内面の心の働きが如実に表れている。私の腹回りは最近日に日に大きくなっていて、これはどういう心の働きが表れているのだろうかと思うこともあるが、忘れていることの方が多いからそうなっているのである。つまり、心の働きとは関係なく(というよりも心の働きが足りていない証拠として)、外面的変化が生じていることもあるという事実は見過ごせない。
 そういう配慮の足りなさが、いけばなの場合、細部だけに止まらず表れる。

華道的な何か 250429

2025/5/3

 何かの本に、願うのではない祈ることの価値が説かれていた。願いは個人的な欲求に通じやすく、祈りは利他に通じると。
 倫理に正面から向き合うそのような教養とは別に、理屈を離れてインスピレーションによって解に至ろうとする禅問答のような仏教的態度もある。たとえば「得ようとして追いかけるほど逃げていき、捨てようとして追い払うほど付いてくるものなーんだ」みたいな。
 そこまで謎々めいてなくて、勅使河原蒼風とイサム・ノグチとのやりとりに「松をいけて、松に見えたらだめでしょう」というのがある。これなんかは人によって様々な解釈が可能だが、それでも何となく共有できる着地点がある。わかりやすさにおいて、これは多分いけばな的な着地点で華道的着地点ではない。このように見てみると、昔の華道はより仏教的(とりわけ禅的)で、現在のいけばなは宗教性や精神性の着物を脱いで、芸術性の洋服をまといつつあるというところか。
 いけばなをやりつつ、プチ華道的に3つ書いてみよう。「切れば切るほど生かすことになる」「足せば足すほど消えていく」「見えないものを見よ」

何が神秘的か 250428

2025/5/2

 いけばなと呼ぶとき、そこに神秘性は感じられない。ところが華道と呼ぶと、神秘的な「何か」が宿されているように響く。それは、室町時代くらい昔の人にとって、禅に通じる「何か」があったからに違いない。この「何か」があったという漠然とした気持ちを、私はずっと持っている。
 オイゲン・ヘリゲルという人に『弓と禅』という本がある。日本人にも観取しにくい日本人の精神性を、著者は母国語のドイツ語によって追究しているため、追究の過程を再び日本語に翻訳し直す往復作業によってますます難解さは深まっていると思う。
 それで、読めば読むほど(言葉で理解しようとすればするほど)本質から遠ざかるという逆説的で悲劇的な事態に陥るのだが、ヘリゲル氏は実際の弓道の修行によって実体験を綴っているから、読者も本当は実体験しながら読み進めなければ「わかった!」という境地に至らないというのも絶望的な理由である。
 そしていま、高校に華道部はあるが、華道ではなくいけばなを教えている。そこでは、神秘的な何も教えようとはしてない。私は再び、彼らと共に初心者を始めている。

見つけるもの 250427

2025/5/2

 習い事は、習う側が一方的に受け身で習うものではない。逆に教える側は教える一方ではなく教えられることも多い。師弟間には対話があり、時に役割が入れ替わる(言葉だけでなく、見る=見られるという関係も含めて)。
 師弟というのは便宜的な役割分担だ。その場のその時にたまたま担う役割で、恒常的なものではない(先輩後輩関係は不変でも、師弟関係は流動的。人はそれぞれ成長速度が異なり、弟子が師匠を追い越すことは普通に起こり得る)。
 また、師匠はいつも全てを語ることはしない。全てを語るためには一生が必要なので、その時語るべきことだけを最小限に語ろうとする。弟子が最大限を得ようと思うならば、師匠が語ることの外に自分で見つけ出さなくてはならない。
 また、師匠には語ろうとしても語れない限界がある。花鋏の使い方については、見せることしかできない。だから弟子は教えられるだけでは身に付かず、自分で使いながら発見していくことが上達するためには必要だ。教え方が上手な師匠が理解力のある弟子に教えると、その弟子は自ら発見するチャンスを失うこともになる。

講師の事