暗いいけばな 250725
2025/7/28
芸術の世界では、おどろおどろしい絵や抑鬱されたような重く暗い絵も、それが狂気的な絵でも、傑作は傑作として歴史的に長くそして世界的に広く支持されてきた。名画のテーマは、「喜」「楽」「快」「生」だけでなく、「怒」「哀」「悲」「死」なども同じくらいの割合で存在する。
絵として描かれた人間らしさは、見かけの美醜に惑わされることなく評価され受け入れられるにも関わらず、なぜか人間そのものに対する評価は偏ってくる。見かけの第一印象で人間性まで決め付けられることも多いから、油断ならない。可愛いヒロインは受け入れられやすく、コワモテの悪役は子どもは大泣きするし、大人まで一緒になって嫌うのである。
いけばなは芸術に近いと私は思っていたが、世間はそうでもないようで、カワイイいけばなの好感度がどうしても高い。いけばなは芸術よりも人間に近いのか、暗い表情をしていては振り向いてもらえないようなのだ。
それでなおさら、私は怖いようないけばなをしてみたい。オーブリー・ビアズレーのモノクロのペン画のような、宵闇を連れてきそうな耽美的ないけばなだ。
好き嫌い 250724
2025/7/28
真偽や善悪ではなく、美醜でもなく、好き嫌い。
せちがらい現代社会に暮らしながら、正面切って「真善美を追求しています」と公言するのは、あまりにも現実離れしていてキョトンとされるに違いない。そういう漠然とした予感があるから、選挙においても差し障りのない議論レベルに落として立候補するし、投票する。政治とはそういうものだと、ぼんやり諦めている(悲観しているのではない)。
人が表現するという点で、芸術においても、漫画の世界においても同様である。ピカソの『ゲルニカ』や中沢啓治の『はだしのゲン』のように、社会に対する真摯な思いを真っすぐに表現すると、賛同もあれば嫌悪や無視も起こる。しかし、それこそが一流の表現者の表現だ。
二流の表現者である私は、衝突を招きかねない表現をするだけの気概も勇気も足りていないから、問題意識を薄めて、好き嫌いの範疇でやんわりと表現してしまう。作品に対する最初の観客でもある自分が、自身の不甲斐なさに少し腹を立て、少し反省してお茶を濁す。
まずは好き嫌いを越えたいと思う自分に正直に、はみだしてみたいものだ。
見事な完璧さの孤独 250723
2025/7/28
またしても料理の話。ある一皿が見事に完璧な美味しさだとする。すると、他の料理と合わせると、その完璧な味が乱されることになる。完璧な“それ”は他の何者をも拒否してしまう孤高の身であり、他者との協同や共存は必要ないよと高飛車だ。強いけれど残念ですね。
コース料理や懐石料理は、味が濃いもの薄いもの、味が尖ったもの丸いもの、一皿ずつにいろいろな個性があってこそ全体の陣形が整う。漫才でも、ボケとツッコミの役割がうまく機能してこそウケる。だから、いけばなにおいても、尖っていたり凹んでいたりすることで、その部屋のインテリアの別の要素と補い合って完成度を高める。ボケてもいいし、ツッコンでもいい。
これはあくまでも私の場合であるが、人間に対しても、見事に完璧な美人は記憶に残らない。面白味がなくて、要はつまらない。
いけばなの面白さは、自然に生えていた姿とは似ても似つかない枝葉の様子に凝縮される。もちろんTPOはわきまえた方がよく、一般家庭で一般的なお客様を迎えるならば、爆笑問題のような存在感の強いいけばなは避けるべきかもしれない。
こなれた花 250722
2025/7/27
先般わたしは、「着崩した花」という表現で完璧ではないいけばなの魅力、一定の粗さがある魅力について書いた。今日たまたま、ビル・エヴァンスのアルバム『Sunday at the Village Vanguard』を聴いていて、「着崩す」よりも「こなれた」の言葉が、私が言いたかったニュアンスにもっとぴったりだと思った。
このジャズのアルバムは、私が生まれた翌年1961年に録音されたもので、ピアノトリオの演奏だ。このトリオは1959年に結成された顔ぶれで、互いのセンスとスキルが調和して、ちょうど聴き頃に熟していたのではないかと感じられる。
彼らの演奏は、粒立ちが良く硬めに炊き上がった白ご飯のようである。つまり、間違いなく美味しい。けれども、毎日食べる白ご飯だから、ことさらの主張は意識されないまま、気付いたら2杯3杯とお代わりしているような、そんな音楽だ。
着崩すのは、まだまだ意識的であり過ぎる。気持ち左右どちらかに傾いた眼鏡で、煙草を短くなるまで咥えたまま、かなり猫背で鍵盤に向かうビル・エヴァンスこそは、自己顕示欲も観客も無関係に、こなれた演奏に没頭しているのだった。
枝葉にこだわる 250721
2025/7/26
一般に、枝葉末節よりも、根っこや幹に相当する重要課題の解決が大事だと言われる。資本主義社会の企業行動ではそうなのだが、実際の世の中には例外が多く、たとえば、政府は国家の長期ビジョンを描いたり示したりすることが決して選挙で自党を利することにならないとわかっているから、数値的に効果を見せるため、くみしやすい具体的な課題を取り上げて対症療法で済ませようとする。
また一方で、「細部に神は宿る」というとても日本人的な感性があり、それは現代にも生きている。私の体にはこの感性がこびりついており、大事よりも小事に意識が向いてしまいがちなので、企業人よりもいけばなの方が向いているのは間違いない。
いけばなの材料は、野山や畑や温室で育てられた花木を切り取った、切り花である。特に樹木の太い幹は屋内で使いづらいので、枝を切った「枝もの」を使う。はじめから、枝葉末節でスタートするわけである。そうすると、作業はどんどん細部に向かっていくことが必然で、いけばなは宿命的に枝葉末節にこだわるしかないようにできていた。それの打開も草月のテーマだ。