見たくなかった実花展 250202
2025/2/2
先日行った京セラ美術館の蜷川実花展は、早歩きで回ってそそくさと退場した。先入観に囚われずに何でも見て何でも吸収するのがいいと思っていたが、長居をしたくなかった。
展覧会のタイトルは「彼岸の光、此岸の影」。画像・映像・照明・ペインティングと音楽をミックスしていて、かつ、展示室の一室を床・壁・天井としてではなくキャンバスやスクリーンに見立てた、広い空間的な表現が多かった。
ところが、目に入るのは順路に沿ってだらだらと進む、まるで神戸ルミナリエでデートしているようなカップルや自撮りのポジション取りにいそしむグループの混雑ばかりだし、耳に入るのは人の流れを誘導するスタッフの声ばかりで、視覚も聴覚も作品以外の要素に占領され、払った2,300円は初詣の賽銭より多かったという残念さであった。
もともと、美術作品は美術館に展示されるものだった。ところが、ミクストメディアの作品の展示は、単に美術館の箱があればいいとは限らなくなった。いけばなも、ミクストメディアの手法を取り入れた表現もあるだろうし、展示空間の課題も改めて意識したい。
考えのウンコ 250201
2025/2/1
ずっとテーマにしてきたもの、ずっと思想的基盤にしてきたもの、そういうものは放っておくと必ず腐る。糠床を混ぜるように、新しい空気に触れさせなければダメだ。過去のある時点では新しかったかもしれない自分の考えは、現在では全く新鮮さを失い、未来には地層の深いところで炭になってしまう。
新陳代謝を高めるには、自分の中だけで自分の考えをこねくり回していてはいけない。新しい目で新しいものを見つけなければ。新しい消化酵素で、未知のものを自分に取り込まなければ。目を皿のようにして、見たことのないものを見つけたら、ともかくむしり取って食べてみることだ。食わず嫌いとはオサラバだ。
汚い話ではあるが、ミミズだってエビだって、他人の糞みたいなものを食べて大きくなっていく。どんなカスにも、まだまだ搾り取れる栄養がたんまりあるということだ。だから何を食べてもムダになることはないので安心だ。
ということで、「考え」も成長させるためには、常に新しい考えを摂食しなくてはならないし、消化した残滓は速やかに排便しなければ、便秘になってしまうのである。
越境 250131
2025/1/31
今日、写真家の村上亘さんと佐々木知子さんとのトークショーに行った。自身が絵も描く村上さんは、彫刻家や音楽家と制作過程で意見交換したり示唆を与えあうことの楽しさを語った。社会学をやる佐々木さんも、写真以外をどれだけ知っているかが写真家としての表現力を高めるためには重要だと言った。
私の経験上、「門外漢は黙っておれ!」とか、「若造が他人を批評するのは10年早いわ!」などと、石の上にも3年以上の玄人しか発言してはいけないと圧力をかける人が、特に地方都市にはうようよしている。それに対する鬱積が晴れて嬉しかった。
食べ物でも、たくさんの種類を摂取してこそ健康な体が養われるのだ。そして、健康な心を養うためには、たくさんの人やたくさんの物事に出会わなくてはなるまい。もし、たくさん人に出会えない環境にあったら、本であっても音楽であってもいい、人が表現したものにどんどん出会うべきだ。
草月流は、創始されて以来、ハイブリッド化にはとても貪欲だと思う。それは、いけばなをないがしろにするどころか、いけばなに幅と深みをもたらしてくれる。
いけばなビジネス 250130
2025/1/31
旧来の慣習で、花をいける行為に対して十分な対価が支払われてこなかった。いける側も、いけるチャンスが得られるだけで良しとして、花材代を持ち出しながら手弁当で向かう。いけてもらう方も、そういうものだとあぐらをかいて、ボランティア活動を受け入れてきた。
いけばなをビジネスを成り立たせるためのプランとしては、「いけばな作家」での成功が考えられる。印象的なキャラクターづくりをして、テレビやネットなどの媒体をうまく使うことで成功率を高める。また、名声欲や金銭欲などを強く持つことも下支えになる。假屋崎省吾さんは、典型的な存在だろう。
作家としては、もちろん評価される作品づくりが基盤となる。話題性のある環境設定のコーディネート力と、よい作品をつくり出す実力が必要だ。職人的、芸術家的なアプローチである。
もう1つのプランは、「プロデューサー」としてのアプローチである。1人での取組ではなく、いけばなをする人たちの総合力を発揮する場づくりを行う。社会的に、いけばながビジネスの成功に効果があることを証明するか、説得しなければならない。
多作、量産 250129
2025/1/29
この随想は、2023年の9月10日に始めた日記。見たり読んだりしたものをきっかけに、いけばなとリンクさせて書いている。考えを広げて、まとめ直したいという動機だ。
続けることを目標にしてきて、筆が進まないこともしばしばある。基準にしている文字数460字のために半日を費やしたこともある。筆に勢いが乗り過ぎてとても収まらないときは、切り口を変えて2回分に分ける。毎日書いていると、自分で自分の文章に飽き飽きすることもある。また、書きながら「同じことを以前も書いたぞ?」と、堂々巡りをしていることもある。そんなときは、しょうがないので思い詰めずに、流す。時に、別人になったつもりで書いてみる。
いけばなも同じだ。自分のパターン(作風)から抜け出せないと感じるときはやるせない。しかし、これも、数をこなしてこそのパターン化現象だと思って、自分を慰める。やはり、たくさんいけることは、それが余り意識的でなく惰性的であったとしても、それなりに大事だ。前にやったことがあるような、自分の過去のいけばなに再会するような気分になったとしても。