時間といけばな 250919
2025/9/19
もし、散文的ないけばながあったら、豊かな時間を愉しむという鑑賞のしかたもできるだろう。時間を愉しめることは、急いで到着しなければならない約束がないという幸せと同じだ。
ただ、言葉は多義的だから、俳句のような短詩形であっても時間をかけて咀嚼する深みがあるが、いけばなの鑑賞は難しい。見たことのある花が使われ、名前も知っている花だということになると、その具象的な花しか目に入らない。また、一切名前を知らない花だとすれば、抽象絵画を見て「わからん」と呟くような対象となる。どちらに転んでも、5秒くらい眺めて「ふん」と言って立ち去られる。
鑑賞者は、作者に対する思いやりなどないから、作者としては、無理矢理にでも目を引く装いを取らざるを得ない。展覧会場を舞台とみなし、他の作品を共演者とみなし、自分が最も輝ける主役として出演俳優の中で最も強い個性を強調することで、“冷酷な鑑賞者”や“無関心な鑑賞者”の目を1分でも2分でも長く自分に向けてもらいたい。
アイディアや演出に走り過ぎて“王道”を忘れるのは、青二才の新米俳優の愚行であるが。
巨大迷路 250918
2025/9/18
人生は選択行為の連続だ。ふと溜め息をつくような些細なことを含めて、一瞬一瞬の「点」の選択で人生の「線」が描かれてきた。その一筆書きの自分の歩みを俯瞰したら、きっと迷路に迷う蟻のように心許ない自分の姿を見つけるだろう。
そんな「イエス・ノー・クイズ」みたいな選択を生まれてから何千万回も繰り返した挙句に、たまたまいけばなを始めることを選択し、その選択をずっと繰り返している自分がいることを自覚すると、これは大変なことではあるなと思う。今更、いけばなを選択しなかった自分を想像することは難しいが、明日にでもいけばなを放棄する選択ができるということは想像できなくもない。
その昔「巨大迷路」というのが流行った。迷路は抜け出すことを目的につくられていて、もし小学生が巨大迷路で丸一日迷い続けることがあったりしたら、PTAから悲鳴と苦情の嵐が来ただろう。
しかし、大人が迷路に迷うのは自業自得だとされる。また、人生の迷路は、元々抜け出すことを目的につくられていない。ああでもない、こうでもないと迷えるいけばなは、趣味であって人生である。
純化 250917
2025/9/17
いけばなのアプローチでの1つに、「単純化」がある。工業製品の大量生産では必須の条件なのだが、いけばなで言うところの単純化は、工業製品の生産における単純化とは意味が異なる。
草月における単純化は、「それ以上省略すると、その植物素材ではなくなってしまう、いけばなではなくなってしまう、というぎりぎりまで作品のあり方を考えていく(『草月のいけばな』より抜粋)」ということで、「最少の要素で最大のものが表現されていなければ(同抜粋)」ならない。俳句的といえば俳句的だと思う。
この作業は、不用な枝葉・無用な枝葉を削ぎ落し、残す枝葉を切ったり曲げたりして強調するというものだ。これを単純化と呼んできたのだったが、単純化という語句には効率化という概念が張り付いており、豊かさを増すという意味が足りていない。
そういうわけで、単純化に代わる言葉として、「純化」を推したい。ただ、この語にしても、私にはまだフィット感が薄い。純に磨くと同時に複雑さも増すような、相反する成果を実らせる感じである。磨いて開かせる大吟醸酒を造るやり方のイメージだ。
作品の消去 250916
2025/9/16
記憶しておくべき自分自身の作品は少ない。今や恥ずかしいだけの稚拙な作品にこだわることは、続けなければならない航海の途中、寄港した港に錨を下ろしてしまうようなものだ。
自分の作品だけでなく他人のいけばな作品も、片っ端から撮り溜めてきた。スマホの膨大な画像をさてどうすべきか。ということで、私は私の基準で、撮り溜めたいけばなの画像を少しずつ捨て去りながら、自分の好みを広げたり狭めたりしている。
人類史で、図書館が果たしてきた役割はとても大きい(私も青年期までは大変世話になった)。しかし、図書館が書籍を収蔵するだけで一切破棄しないとすれば……それは無理だ。すると、誰がどんな権利で捨てるものを決めるのか。制度上は決まった手続きで処理されているにしても、取捨選択の基準など、ほんとうは誰も決められないのではないか。
私が捨てられないのは、図書館にあるような、いけばなでいえば1冊の作品集、音楽でいえば1枚のCDやLPだ。一定の意図で編集された作品集は、作品制作の意図と編集の意図が二重に張り付いているからか、捨てるに捨てられない。
完全体 250915
2025/9/15
銀座木村屋の店頭に紅葉したモミジが飾られたと、テレビでレポートされていた。見ると真っ赤の葉が繁っている。枝は黒い。本物かもしれないが、人工物のように見えた。
人工物(工業製品)は、宿命的に標準化や単純化が求められるので、自然のモミジに見られるような「折れた枝」「虫食い葉」「部分的な枯葉」「枝の色味のまだら模様」などを再現しにくい。
ところで、韓国のタレントをはじめ、最近の日本の若い人たちの容貌もおしなべて非常に整っている。これは私の好むところではない。昔の映画でよく描かれたように、つくりもののアンドロイド的な匂いを感じてしまうからだ。日本のアニメの主人公は、作者が意図していたと思うのだが、『サイボーグ009』や『ブラックジャック』に見られるように、どこかに弱味や傷を負っていた。生き物である以上、人間もシミやソバカス、病気などがあってこその完全体である。
飛行機や自動車などには、不備がないという意味で完全無欠が求められるが、人間や人間がつくるいけばなには、どこか足りないか、どこか過剰な仕上がりが自然な印象を与える。