国民意識 250502
2025/5/3
松山商業高校華道部は琴部、茶道部と併せて、今春から日本文化部として始動した。枠組みは変わっても、活動のやり方は変わっていなくてホッとした。運動部に所属する中高生が減っているという報道があり、特に団体競技は少数精鋭というスローガンでは成り立たないことを痛感した。
さて、日本の(伝統)文化という言葉が、やたら安易に使われる傾向が強くなっていると感じる。中身の空洞化を心配するが、私自身が便利に使っているから他人のことをとやかく言えない。
寂しいと感じるのは、国旗掲揚に対する抵抗感である。何の疑問も持たずに国旗を掲揚して君が代を歌っていた少年時代が懐かしい。高校生まで疑問を持ったことがなく、大学生で疑問は持っていなかったが少し抵抗感が生まれた。国会議員の秘書を辞めた頃から遊び仲間の顔ぶれが大きく変わって、私の国民意識は薄らいでいった。
ウクライナやパレスチナ、チベット自治区や琉球王国、香港や台湾など、気になってきたナショナリズムはあったけれど、日本というものに対して眼差しを持ってきたかと問われるとノーに近いグレーである。
オーダーシャツ 250501
2025/5/3
2年前に退職するまで、Yシャツのサイズにはこだわりがあって、何か月かに1回オーダーをしていた。私の体重は高校2年の時からプラマイ3キロの範囲内で45年間保ってきたので、オーダーといっても微調整の必要すらないくらいだった。
ところが退職後の2年で4キロ太ったために、すべてのシャツとスーツが合わなくなり、スーツのパンツのウエストのほとんどを大きく直すことになった。買った値段と直しの値段とを考慮するとシャツの直しは到底考えられず、今はパッツパツのシャツを着て、お腹をヘコませて歩いている。Tシャツなんか、体を動かす度に太った腹の上まで捲り上がる始末である。
リモートワークが増えて以降、カッチリしたスーツスタイルが減ってきた。私はカッチリしたスーツで仕事をしてきたので、捨てるのはもったいないし時々必要もなくスーツで出掛ける。しかし、それがふさわしい場で過ごすことはほとんどない。
社会の変化は居住空間にも仕事場にも表れる。そして生花が飾ってある空間も少なくなった。そういえば、国民の祝日に日の丸の国旗を掛ける家も少なくなった。
内面的作業 250430
2025/5/3
大枝を1本切るのは、手作業においても内面的作業においても“大事業”だ。手作業では小枝を1本切るのとは比べ物にならない握力がいる。内面的作業でも全体のイメージを決める大きな覚悟がいる。小枝を1本切るときは気軽にチョキチョキだ。
ところが、いけ終わりの最終段階に差し掛かると、小枝1本を切るか、曲げるか、そのまま残すかという見かけの小さな選択において、決断という内面的作業は大仕事になる。細部に神は宿るからである。それはダンサーの右手の中指1本の開き加減、曲げ加減にも匹敵する。
だから細かい部分であったとしても、その見え方には当然内面の心の働きが如実に表れている。私の腹回りは最近日に日に大きくなっていて、これはどういう心の働きが表れているのだろうかと思うこともあるが、忘れていることの方が多いからそうなっているのである。つまり、心の働きとは関係なく(というよりも心の働きが足りていない証拠として)、外面的変化が生じていることもあるという事実は見過ごせない。
そういう配慮の足りなさが、いけばなの場合、細部だけに止まらず表れる。
華道的な何か 250429
2025/5/3
何かの本に、願うのではない祈ることの価値が説かれていた。願いは個人的な欲求に通じやすく、祈りは利他に通じると。
倫理に正面から向き合うそのような教養とは別に、理屈を離れてインスピレーションによって解に至ろうとする禅問答のような仏教的態度もある。たとえば「得ようとして追いかけるほど逃げていき、捨てようとして追い払うほど付いてくるものなーんだ」みたいな。
そこまで謎々めいてなくて、勅使河原蒼風とイサム・ノグチとのやりとりに「松をいけて、松に見えたらだめでしょう」というのがある。これなんかは人によって様々な解釈が可能だが、それでも何となく共有できる着地点がある。わかりやすさにおいて、これは多分いけばな的な着地点で華道的着地点ではない。このように見てみると、昔の華道はより仏教的(とりわけ禅的)で、現在のいけばなは宗教性や精神性の着物を脱いで、芸術性の洋服をまといつつあるというところか。
いけばなをやりつつ、プチ華道的に3つ書いてみよう。「切れば切るほど生かすことになる」「足せば足すほど消えていく」「見えないものを見よ」
何が神秘的か 250428
2025/5/2
いけばなと呼ぶとき、そこに神秘性は感じられない。ところが華道と呼ぶと、神秘的な「何か」が宿されているように響く。それは、室町時代くらい昔の人にとって、禅に通じる「何か」があったからに違いない。この「何か」があったという漠然とした気持ちを、私はずっと持っている。
オイゲン・ヘリゲルという人に『弓と禅』という本がある。日本人にも観取しにくい日本人の精神性を、著者は母国語のドイツ語によって追究しているため、追究の過程を再び日本語に翻訳し直す往復作業によってますます難解さは深まっていると思う。
それで、読めば読むほど(言葉で理解しようとすればするほど)本質から遠ざかるという逆説的で悲劇的な事態に陥るのだが、ヘリゲル氏は実際の弓道の修行によって実体験を綴っているから、読者も本当は実体験しながら読み進めなければ「わかった!」という境地に至らないというのも絶望的な理由である。
そしていま、高校に華道部はあるが、華道ではなくいけばなを教えている。そこでは、神秘的な何も教えようとはしてない。私は再び、彼らと共に初心者を始めている。