三つ巴 250909
2025/9/9
何かを得るために何かを失うというのは悲愴な感じが漂うので、せめて何かを得るために何を諦めるか、または替わりに何を捨てるかという少しでも前向きな廃棄・消去が、心の平穏には必要だ。しかしこの考え方は、そもそも土台の部分の二者択一の世界観にある。陰陽や善悪で世界を見ると、どうしても対立関係に見てしまう。終活でモノを捨てることも、あたかも正解のように語られるが、地球資源全体を眺めると正義ではない。
実際の世界は、三つ巴の危うい関係でバランスを取っていると見える。じゃんけんのグー・チョキ・パーは、どれかが1人勝ちすることがない。人間関係や国際関係は、四つ巴、五つ巴と呼ばなくてはならないくらい複雑だ。
いけばなを構成する基本要素は、線・色・塊で、どれか1つの要素だけで花をいけるのは難しい。どんなに細い枝や茎の線でも、一定の表面積があればその色が必ず見える。色は言うまでもなく、線や塊を省いて存在できない。まあ、塊にしても、丸太を彫って塊はつくれるが色はある。
このような三つ巴の関係の中では、完全な選択を厳しく求めてはいけない。
いけばな降臨 250908
2025/9/8
経済的に、社会的に、いけばながどういう貢献をするのか、これを主題に掲げると失敗するような気がしてきた。いけばなは目に見える実益から距離があるからこそ、心も体もひとまとめに洗われるような、滝に打たれる禊ぎのような性質に近いのかもしれないからだ。
花を束ねて壺に挿すという行為を物足りないと感じ、そこに作為を加えていくといけばなに近付き、目の感覚では達成感があってもまだ満ち足りなさを覚える。それを越えると「ゾーンに入る」というか、滝行や座禅の域に向かうというか、遂に目的さえも霧消して、気付いたときには心身が健康になっている、そうあることができれば申し分ない。
生きるということの主題(目的)は掴みきれないけれど、みんな薄々わかっている。だから、あとは生き方(方法)の問題である。いけばなのある生き方というのが、精神衛生上いいかもしれないし、経済生活上はよくないかもしれない。しかし、人はいつも正解を選ぶとは限らない。
選ぶというよりも、むしろ、心を開放して着想が降りてくるのを待つという態度が望ましい。他力本願の積極的選択だ。
主題から方法へ 250907
2025/9/7
松岡正剛さんは、多くの著作の中で何度も「現代はもう主題の時代ではなく、方法の時代」だと言っておられた。みんな幸せになりたいのに、その方法がわからない。金儲けや戦争で勝つ方法はわかるというのに。
いけばなでは、「美しい」「かわいい」「素敵な」等の形容詞と組み合わせるか、「意外な」「個性的な」「印象的な」等の言葉と組み合わせた主題が設定されがちで、それらは遠い昔から多くの人に試し尽くされてきた。私たちがいま試されているのは、どのようにいけるかという方法の新しさである。
今日のお稽古で、1人の生徒さんに「カボチャ尽くし」を要求した。いびつな形の重たいヒョウタンカボチャ2個と、ソラナムパンプキンという鑑賞用の花茄子3本の2種。大きく湾曲した薄褐色のヒョウタンカボチャは大きい方の長さが50cm、花茄子は40~50cmの枝に直径4cmのカボチャの形の赤と黄の実が6~7個ずつ付いていた。
彼女はこれらをどのように組み合わせ、間を取り、安定させるだろうかとギャラリーの気安い立場で見守った。結果は期待を上回る斬新さで、嬉しかった。
AI無効 250906
2025/9/6
確立された業務ならば、ロボットの早さ・確実さには敵わない。また、経験を土台にした工夫も、生成AIには敵わないかもしれない。しかし、いけばなの面白さは、「AI無効」という局面に立たされるところにある。
さて、技能オリンピックで見ることができるのは、どんな精密機械でも設計図に表されない“遊び”がないと動作できず(例えばエンジンのシリンダーとピストンの関係)、その“遊び”は、最終的に人間が研磨するしかないということだ。
花の場合、花店に注文しても「今日は市場に出荷がなかったんです」とか、「黒っぽい赤はあったけど、明るい赤はなかったんで」とか、「茎の長さ、足りませんかねえ」とか、買い手のイメージ通りのものが手に入るとは限らないし、ほぼイメージ通りだったとしても、枝ぶりが広がり過ぎているとか、花が大き過ぎるとか、問題は少なくない。作業を始めても、茎が折れたの、枝を切り過ぎたのと、問題が増えることはあっても減ることはあまりない。
結局は、現場での試行錯誤発生率100%という、面白さが尽きない状況に身を置くことになるのだった。
スタイル 250905
2025/9/5
ピカソは、表現のスタイルを変え、多様な表現による作品群を遺した。例えば東山魁夷には、ピカソに比べると類語反復的な作品が多く、見る者が作者の心情を追体験できるくらい、それらの作品は必然的に描かれたと感じられる。私がうわべで知っている日本画家にはその傾向が強く、毎年繰り返される四季が、それでも少しずつ違っているよという如く、マイナーチェンジを繰り返しながら同じテーマを追求する。
ただし彼らも人間なので、偶発的に思いがけない作品をつくることがあると思う。それを、世間に発表するかどうか、おそらく自分の手元に隠し持っている作品もあるのではないだろうか。現代語で言うセルフ・ブランディングである。
そんな日本的アート界にあって、ピカソ的スタイルで制作したのが勅使河原蒼風なのではないか。類語反復を意識的に避けて、脱皮につぐ脱皮を繰り返すには、大きな包摂力と強い意志の力が必要だ。
私はそれを目指したい気持ちはありながら、単なる飽き性だから継続性が保てないという性格と、惰性的に自分のスタイルを踏襲してしまう安易さを脱ぎ捨てられない。