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いけばな随想
diary

どこも高齢化 250127

2025/1/28

 1月26日、愛媛県砥部町の町議会議員15人の当選者が決まった。平均年齢65.3歳である(立候補者17人の平均は63.8歳)。ちなみに私は64.8歳。電車に乗ってもデパートへ行っても、飲食店に行ってもホテルの朝食会場でも、自分に近い世代が多くて鬱陶しい。
 私がいけばなを始めた40歳の時、草月の愛媛県支部には20代、30代の会員もたくさんいて、未来が開けているように感じていた。それから少しずつ会員は減り続け、高齢化も進んできた。町村議員のなり手がいない自治体が出ているように、草月会愛媛県支部の役員選出も覚束なくなってきた。
 しかし、光明もある。そもそも華道なるものは、生涯続けられるものなので、仮に身体が衰えても、精神力である程度カバーできる。また、退職後の方が趣味に没頭できるというのは、父母のかつての様子を思い出しても明らかだ。
 さらに言うなら、退職して社会的なしがらみに囚われない表現ができることも強みだ。自分勝手な美意識を支えに好き放題をやって、結果的にそれが批判されようとも気に留めず、最高のわがままを振る舞える。

ほめ言葉 250126

2025/1/28

 けなされて喜ぶ変態は多くない。多くは、ほめられて喜ぶ。近年はほめて育てることが推奨されて、あまり𠮟ったり注意したりしない方がいいということになっているが、世代的に私はほめられ慣れていないから、のべつまくなしにほめられると逆に不信に感じてしまう。
 他人の批評が気にならない人は、よほどの強心臓である。よい批評でも悪い批評でも、なにもコメントがないより数倍は喜ばしい。しかし、よくよく考えてみると、他人の批評に一喜一憂する必要のないことに気付く。なぜなら、自分は、人とは少し違ういけばなを目指しているから、「ほめられるということは、他人の物差しの範疇から抜け出せていない」と自己否定するへそ曲がりな感性があったはずだからである。逆に否定されると、「他人が良いと感じる土俵から抜け出して、新しい境地に向かっているのかもしれない」と自己肯定する部分もある。
 まあ、へそ曲がりにとっては、どんな批評も毒にも薬にもならないのである。ほめられていれば素直に喜び、けなされていたら、むしろなおさら喜んで自分の道を進むくらいがいいのである。

見上げ続ける 250125

2025/1/27

 下から山頂を見上げた景色は神々しく、山頂から水平線を見渡した景色は壮大だ。
 富士山のように圧倒的な高い山は、見上げてただ拝むしかないが、中国山地や四国山脈のように山並みが広がり続く地形では、文字通り山あり谷ありである。習い事はこの地形に似ていて、いけばなも含めて、標高の低い海辺から平野を横切り時間をかけて山裾に辿り着き、ひと山を越えたら次のひと山を目指す息の長い旅を続けるのだ。
 旅路の始めには、いけばな世界の最高峰を見たことも感じたこともないから、とりあえず自分の経験の範囲で「高み」を設定するしかない。たとえば、私が見たことも行ったこともある石鎚山の高みを目標に据えるわけだ。ところが、やっとのことで石鎚山に登頂すると、遥か彼方に日本アルプスの存在を初めて感じる。そして、日本アルプスを踏破しに行く。今度はまた、富士山の高みを知って目がくらみながら次の目標に設定する。
 少しでも高みに登った者は、上には上があることを知る。下の方にいる限り、雲に遮られて本当の高みは見えない。だから、せめて雲の上まで行ってみる必要がある。

秘訣は危機感 250124

2025/1/25

 金を使い、労力を使って、何の成果も上げられないことが、営業の仕事のときにはよくあった。しかし、思い返せば、それで自分の給与が減る直接の契機にはならなかったので、大きな危機感もなく無責任に過ごせた。ただ、営業会議において、緊張感や無力感などを多少は背負わざるをえない追い込まれ方をしてはいた。
 現在、いけばなに没頭するようになってから、自分の持ち金がどんどん減っていくのが気が気でない。危機感まではないけれど、会社員だった頃より緊張感はとても大きい。それで、費用対効果というのをちゃんと考える癖がついた。営業のときは、細かくて正確な数字を使って報告書を書かなくてはならなかったが、それを書いて上司に報告すれば一応の終わり。いまは、報告書を書かないで済むかわりに、決算月もないから終わりがない。
 さて、私の金を自分のために使うというのは、自分自身に対する投資である。投資する自分に対して、投資される側の自分がしょうもない奴だったら困りものである。何とか危機感を持って、財務状況を好転ささなくてはならないと思う今日この頃である。

名声欲と金銭欲 250123

2025/1/24

 ああ、不幸にも、名声欲と金銭欲のどちらも捨て難い。これを大っぴらに喧伝するのは恥ずかしいから、世間に対しては自分を禁欲的な人間だと胡麻化したい。究極の選択としてどちらか1つを選べということになったら、さてどうしたものか。名声はあるが金はない、名声はないが金はある。名声で金が稼げるようになるのと、金で名声を買えるようになるのと、どちらが手にしやすい?
 仮に、いけばなで名声を得たとする。さあ、それで儲けることができるだろうか? 家元ならいざ知らず、大して儲けられない気がする。では、潤沢に金があるとしよう。ひょっとしたら、新しい流派を立ち上げて大いに宣伝すれば、名声も得られるかもしれない。そう考えると、金だ、金だ。
 そういう訳で、今の私は名声よりも金が欲しい。ああ、赤裸々に言ってしまうことは、こんなにも恥ずかしいことなのであった。
 お金持ちでないと、いけばななんかできないわよね、という言葉を耳にすることがある。半分当たっていて、半分はずれている。何のためにいけばなをするのかという目的次第で、何事も可能で、何事も不可能だ。

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