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いけばな随想
diary

連花 260219

2026/2/19

「全国くらしの器フェアin愛媛2026」という催しに、「器といけばな作品展」が付随していた。出展窯元等の花器16点に、複数流派が手分けして花をいけるもので、草月流には同一窯元の2点が割り振られた。
 いい機会なので、2人で「連花」をすることにした。これは和歌の連歌や俳句の連句にヒントを得た制作手法なので、本来はもっと多い人数で座を囲み、前者の作を受けて次の人がつくるリレー方式の遊びだ。作者は自作をつくったあとは鑑賞者になり、鑑賞者は次の順番では作者になるという、そんなライブ・パフォーマンスなのである。
 したがって、座に直接参加していない観客にとっても、刻々と作品がつくられていく様子を体感するのが醍醐味であり、出来上がってしまった作品群を見ても、死んでしまった魚を魚屋で眺めるくらい心は踊らない。
 今日、私たちは2人しかいなかったから、二神→玉井→二神→玉井……と、4回くらい回したものの、伝言ゲームが大きく変化していくようなエキサイティングな逸脱にはならず、また、2人の性格が大人しい方だったので、まずまず落ち着く所へ落ち着いた。

信頼 260218

2026/2/19

 オリンピックのフィギュアスケートでの「りくりゅうペア」の活躍が、大きな話題になった。メディアも、心理学やメンタルトレーニングの専門家たちも、彼ら2人のコミュニケーションについて称賛している。その感想や解説を聞いて、改めて彼らの演技の映像を見ると、ますます涙が止まらなかった。「自分の幸せを考えられない人が、他人の幸せを本気で考えられるはずがない」というのが私の常識にあって、それは親子の間柄であっても突き崩せない壁だった。
 専門家たちやメディアの論調では、「りくりゅうペア」には強固な信頼関係があって、それこそが、かけがえのない相手のために全力を尽くす原動力なのである。いまさら気付かされた私なのだ。
 人間相手でも軽々しかった私だから、私が植物に向ける気持ちの軽さも容易に想像できるだろう。花材に対する信頼ということを、私は一度も考えたことがなかったけれど、例えば建築家は、木材に対する無意識の信頼を持っているのではないのか? そして信頼は、相手への理解の上に成り立つのではないか。まずは、花材への理解を深める必要を自覚した。

古調 260217

2026/2/18

 音楽を聞くことが好きだ。絵を見るのも好きだ。特別に熱心というほどではないから、そういう分野の物識りではない。物好きと呼ばれるような、偏った聴き方や見方はしている。そして新しいもの好きだった。
 さて、好みが変わってきたからいけばなを始めたのか、いけばなを始めたから好みが変わってきたのか、25年前の自分に聞いてもよく分からない。その頃から、ほかの新しいものを摂取する意欲に欠けてきて、音楽も絵も、新しいものに接する機会が極端に減った。それは、行きつけの飲食店の開拓面でも著しく、生活全般において見聞する世界が小さくなったようだ。
 それでも時間が足りないというわけは、同じ曲や同じ絵を繰り返し聴いたり見たりするからだし、その曲や絵の生まれた時代の物事に思いを巡らすことが増える一方だからである。これは、未来よりも過去の方が多くなった年齢相応の態度なのかもしれない。
「いいなあ」と思う曲や絵は、実際に古いかどうかは別として、古調(私の感覚としてはクラシックな様子)を感じさせる。これはいけばなも同様で、私も古びた新しさを求めたい。

値踏み 260216

2026/2/16

 寿司屋の大将やレストランのオーナーシェフが、旅館の女将やホテルの支配人が、客を値踏みするような言動を取るのを見たぞという話を、たまに伝え聞くことがあった。そういう店は、取引先に対しても、同じような対応をするということを、私自身、調理・製菓やホテル・ブライダルの専門学校で勤めていて経験したことが少なくない。
 いけばなをやっていて、初代家元が、花屋で買う花だけでなく、庭で摘んだような花も使いなさいという趣旨の発言をしていることを知り得る。これは、いわゆる立派な花を使うだけがいけばなではなく、身の回りの花材を生かしきることの大切さを教えている。そして、立派な花器だけでなく、身の回りの雑器であってもその魅力を引き出してあげなさいという教えだとも解釈している。このことは、私が知る茶道の教えの源流にも窺える。
 値踏みが好きな人は、格付けが大好きだ。私は、自分の生徒さんに、そういうふうになって欲しくない。誰かより誰かが優れているなどと査定するような態度は、はしたないのである。
 花は、いけたら、人になる。各人が突き抜けて欲しい。

はしたない 260215

2026/2/15

 伝説や昔話によく出る「はしたない」という言葉は、最近あまり使われない。語義は、慎みがなく、礼儀に外れ、品格に欠けて見苦しいという、半端ない状態を指す、字面以上に怖い言葉だ。草月流100年の歴史は、昔と言うには短いが、それでも、はしたないことを避けるという点では、いけばな全体の伝統を引いてきた。
 しかし、特に現代日本の政治の世界を眺めると、はしたない振る舞いが多くて困る。それは遠い間接的なものではなく、いけばなの立場にも私の神経にも直接関わるからだ。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」は、やり過ぎ・有り過ぎは、足りないのと同じくらい良くないという意味で、この諺は、いけばなの「切って、切って、切っていく」態度を後押ししてくれる。「及ばざるは過ぎたるがごとし」と言わないところを思えば、日本人の感覚として、どちらに肩入れしているかというと、足りない方の側なのである。
 これは、散り急ぐ桜に対する日本人の思い入れにも通じている。小野小町の歌「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」に、共感するようになった私だ。

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