汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

フツウの花 260225

2026/2/27

 普通の人というのは、全人類から普通ではない人を差し引いた残り。普通電車というのは、特急や快速ではなく各駅停車で運行される列車。普通預金は、定期預金などではなく、わずかな利息をもらって銀行に預けておくお金。普通というのは、大した取り柄がなく、ありきたりで平均的な様子を表している。悲しいことに、つまらん奴だという卑下の対象になりがちでもある。
 では、普通の花はどうか。幸いにも、普通のいけばなとは? という難問を投げられたことがない。時代的に、古典的とか現代的だとかを考えたとして、その中で普通とはどんな花だろう。芸術的とか生活的だとかを分類したとして、その中で普通とはどんな花だろう。
 私が目指すのは、他人と同じでありたくない気持ちのせいで、まだ誰も目指したことのない普通でない領域の花だ。かといって、誰にも注目されないいけばなを目指す勇気もない。
 草月の諸先輩方に敵わないと思うのは、さもさりげなく普通の態度で、全然普通でないいけばなをいけるからである。ムリもなければ、ムダもない。汗をかいていない様子で振る舞うのも羨ましい。

日本人的 260224

2026/2/25

 いけばなをしていて、いつも「日本の伝統文化」と括られることへの違和感がある。ふと思った。「日本的な」伝統文化というのを「日本人的な」と言い換えると、どう違ってくるのだろうかと。
 いけばなが日本の伝統文化の1つに数えられることは、仕方がないとは思っている。しかし、現代に生きて現代の環境でいけばなをやっている私は、必ずしも「日本の伝統的ないけばな」にこだわってはいない。私がこだわっているのは、昔の日本人から現代の日本人にまで共通する、日本人的な感覚や感性だ。
 それは、いけばなだけに限定されない。散りゆくもの、消えゆくものへの憧憬だ。子どもの頃の夏の裏山での夕立、少し遠くまで散歩した秋の落陽、冬の日の昼休みには溶けてしまっている水溜まりの氷、散った桜の花びらが風に舞い上げられて川に流されていくさま。
 とても日本的な日本人の私が、大いに背伸びをして国際人になろうと人生を旅したけれど、やっぱりここに帰って来たかという寂しいような安堵。私は懐古的ないけばなをしているのではなくて、現代いけばなを日本人的にしているのだと思う。

つくる人・つかう人 260223

2026/2/24

「全国くらしの器フェア」が、今日で終幕を迎えた。この4日間で、数人の作家さんと意見交換もできた。
 1人が自分の花器を抱えて、「口が小さいと指摘する人が多いけれど、あなたもそう思うか?」。高さ20cm前後左右15cmで、てっぺんに開いた口の直径が4cmと、図体の大きさに対して口は小振りだ。心配に及ばないデザインなのだが、作家本人としては売れない物をつくり続ける余裕はないという思いなのだろう。
 いけばなをいける者と花器との出会いは、ほんとうに偶然である。ただ、気付くと、同じような花器を買い続ける人もいるかもしれないし、逆にいろいろなものに手を出して、持て余してしまう人も多いだろう。
 私は、何度いけても思い通りにならない花器をいくつも持っている。私の個性と花器(またはそれをつくった陶芸家)の反りが合わないのだ。厳しく見れば、相性は刀と鞘との関係なので、合わないものは合わない。こちらが自分を曲げて使うか、作家に細かく注文を付け、商売と割り切ってこちらに合うものをつくってもらうほかはないが、無理をせずいけられる腕があるに越したことはない。

軒反り 260222

2026/2/22

 亡母の誕生日だ。中国からの一行を伴って、ふるさと内子町の小田川河畔と大江健三郎の生家に行ったことを思い出す。彼らは中国の北京電影学院の教授や研究生たちで、清流や海の水辺が好きだった。それと、寺に強い関心を示した。
 彼らが撮った写真を見ると、お遍路さんや仏像や蝋燭の火や線香の煙、寺の屋根や軒の景色が多く、また、軒下の装飾的な木組みにも多くの視線を投げかけていたようだ。リーダーの教授が、「中国本土で失われたものが、四国にはたくさんある」と言って、結局四国八十八か所のルートを一周することになるのだが、彼らの感覚を刺激したのは「軒反り」の曲線美だったのではないかと、今になって腑に落ちる。
 日本の社寺の国宝級の建物は、鎌倉から室町時代にかけて建てられたものが多いそうだ。いけばなが成立した時代と一致しているのが興味深い。
 古くて新しいものを表現しようとするとき、古建築に見られる意匠を引っ張ってくるというのも一興だと思い、先日いけたボケの枝は、私なりに軒反りのカーブを思い浮かべて、ゆるやかに下方に伸ばした枝先を僅かに反らせた。

距離 260221

2026/2/22

 1999年5月「しまなみ海道」は開通した。そのPR誌などの制作を、勤めていたデザイン会社で受託して、クライアントや取引先、取材先の間を、プリントアウトした“ラフ”を抱えて走り回る私がいた。
 ホームページを構える会社も少なく、世の中にインターネット環境が広がり始めた矢先で、様々な依頼交渉の基準はまだまだ対面だった。だから、すべて相手先へ出向かなくてはならない。また、その「ひととなり」を知るにも、会うしかなかった時代である。
 今は、簡単に人と人とが繋がり合える。(私の基準に従えば)知り合うための現代のハードルは低過ぎて、「ホンマ、ええんでしょうね?」と、再確認してしまうくらい軽々しい。当時は、海山越えてナンボという感覚は根強く、私が東京の企業や個人に何かをお願いに行くと、「四国からですか!? 遠いところを、どうもどうも」と、たいていの便宜は図ってくれたし、話が不成立でも、何かお土産をくれたものだ。
 いけばなの画像には、スマホで大量に接することはできる。しかし、距離と時間を乗り越えて現物に出会う、労力丸ごとの熱量には敵わない。

講師の事