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いけばな随想
diary

ひねり出す 250912

2025/9/12

 いけばなの強さや柔らかさ、空間の取り方や軽やかさは、計算を何度やり直しても納得のいく所には到達しない。ぎりぎり1cmまで切り詰めても、それはまだ5㎜ずつに分割できる。それもまた半分になり、ずっと半分にし続けていける。そんなミリメートルにまで追究の手を緩めないで取り組むのは、実際のところナンセンスだ。
 しかし逆に、それでは10cmにこだわるのはどうかということになると、その長さにはこだわるべき大きさがある。では5cmは? というふうに再び長さを半分にしていくと、堂々巡りになる次第でどうにも解決しない。植物は切り花にしても成長(変化)を続けるので、こちらの計算など楽々跳び越えてしまうという難しさもある。
 また、例えば、作品がちゃんと立っていられるかという心配な作品をつくることもある。その重心を保つ微妙なバランスは、植物自身の変化によって、より危ういことにもなりかねない。
 私たちの仕事は、計算も取り入れながら、最後は計算を捨てて未来予測をするというか、エイヤっと直感をひねり出す瞬発力が必要だ。計算と答えは、たいてい一致しない。

失敗は成功のもと 250911

2025/9/11

 1つの失敗をしても、失敗経験をたくさん積み重ねている内にいつの間にか大きく成長していた、というのが人間の成長スタイルだ。単発では失敗だとしても複数の失敗を束ねて挽回するやり方、これがロボットや生成AIと違う特長ではないかと思う。
 そして一方、成長というのは最終的に死に至る変化なので、その過程でいくら大きい成功をたくさん手に入れても、死によってリセットされる宿命からは逃れられない。
 これまで、いけばな展への出品や施設等への祝い花の制作などを行ってきて、自分なりに納得できたときもある。しかし、その“成功いけばな”にも、いくつもの小さな失敗が含まれていたので、少なくとも大成功ではない。また、数多い“失敗いけばな”にも、わずかずつながらでも小さな成功が含まれていた。悲観する必要はない。
 それより何より、いけばなは「場」との関係によって成り立つのだから、「場」の時節や時間帯や雰囲気などによって、いけばな単体での成功や失敗もありえない。だから、完璧を求めるのは難しく、大成功もないという諦めに立ったうえで、よりよく枯らせたい。

色気 250910

2025/9/10

 色気があるというのは大好きな言葉だが、誤解を招きやすいので使い方に気を遣わなければならない。色気ムンムンなどと言うと一気に低俗になる。逆に、色気がない物の様子から想像していくと、色気というのが価値あることだ分かってもらえるだろう。
 たとえば、色気のない料理。食材が綺麗で美味しそうだが、目を凝らすと刺身の切り口の照りがボンヤリしていたり、ツマの大根がやや乾いていたりする様子。丁寧に盛り付けて品行方正な佇まいだが、隙がなさ過ぎて余裕や個性が感じられない様子。料理の色気は、鮮度に影響される割合が高いのも弱味だ。
 これらのことは、そのままいけばなへの置き換えが可能である。料理よりは作品の鮮度は長持ちするし、人間ほどではないにしても、枯れかけた色気というものもある。人間は、若過ぎたら色気は出せない。それに似て、花や草は若さも一生も短く、色気を出す暇がない。いけばなの色気というのは、やはり枝ものに限る。枯れても“枯れもの”として色気を失わない。
 そうすると、人間の色気はどこに表れやすいのか。新陳代謝の早い肌よりも、骨だろう。

三つ巴 250909

2025/9/9

 何かを得るために何かを失うというのは悲愴な感じが漂うので、せめて何かを得るために何を諦めるか、または替わりに何を捨てるかという少しでも前向きな廃棄・消去が、心の平穏には必要だ。しかしこの考え方は、そもそも土台の部分の二者択一の世界観にある。陰陽や善悪で世界を見ると、どうしても対立関係に見てしまう。終活でモノを捨てることも、あたかも正解のように語られるが、地球資源全体を眺めると正義ではない。
 実際の世界は、三つ巴の危うい関係でバランスを取っていると見える。じゃんけんのグー・チョキ・パーは、どれかが1人勝ちすることがない。人間関係や国際関係は、四つ巴、五つ巴と呼ばなくてはならないくらい複雑だ。
 いけばなを構成する基本要素は、線・色・塊で、どれか1つの要素だけで花をいけるのは難しい。どんなに細い枝や茎の線でも、一定の表面積があればその色が必ず見える。色は言うまでもなく、線や塊を省いて存在できない。まあ、塊にしても、丸太を彫って塊はつくれるが色はある。
 このような三つ巴の関係の中では、完全な選択を厳しく求めてはいけない。

いけばな降臨 250908

2025/9/8

 経済的に、社会的に、いけばながどういう貢献をするのか、これを主題に掲げると失敗するような気がしてきた。いけばなは目に見える実益から距離があるからこそ、心も体もひとまとめに洗われるような、滝に打たれる禊ぎのような性質に近いのかもしれないからだ。
 花を束ねて壺に挿すという行為を物足りないと感じ、そこに作為を加えていくといけばなに近付き、目の感覚では達成感があってもまだ満ち足りなさを覚える。それを越えると「ゾーンに入る」というか、滝行や座禅の域に向かうというか、遂に目的さえも霧消して、気付いたときには心身が健康になっている、そうあることができれば申し分ない。
 生きるということの主題(目的)は掴みきれないけれど、みんな薄々わかっている。だから、あとは生き方(方法)の問題である。いけばなのある生き方というのが、精神衛生上いいかもしれないし、経済生活上はよくないかもしれない。しかし、人はいつも正解を選ぶとは限らない。
 選ぶというよりも、むしろ、心を開放して着想が降りてくるのを待つという態度が望ましい。他力本願の積極的選択だ。

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