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いけばな随想
diary

上下関係 251111

2025/11/11

 花と自分との間に、上下関係があるなどと思ったことはないけれど、無意識に自分を上位に見なしていたはずだ。私から花に働きかける一方で、花は黙って受け入れるばかりだから。
 しかし、本当にそうだろうか。きのう掃除したところなのに、庭のキンモクセイの花が散り広がって、再び一帯がオレンジ色だ。バラの枝も、不定期的に切り散らかしているのにグイグイ若枝が伸びるし、捨てた種から発芽したのか、ナンキンハゼも一人前の大きさになった。庭の様子を漠然としか見ていないから、木々の1本に対してどれだけ注意を払っていないか、証拠を突きつけられる。「もっとちゃんと見なさいよ」という植物からの働きかけである。「すみません」
 現実に即して見直せば、私は花木の使用人という立場のようではないか。年から年中、剪定や草引きに追い立てられている。報酬も出ない。稽古の切り花にしてもそうだ。虫が付いていないか、死んだ小枝はないか、明日まで花持ちするだろうかと目と頭を働かせる。
 人間界では赤ちゃんが王様扱いされるように、喋ることのできない、か弱い花が一番の女王様だ。

根っこ 251110

2025/11/10

 家にフィカス・アルティシマという観葉植物がいる。15年間、共に過ごしてきた。3~4回は鉢を換えながら少しずつ大きく育てたが、もう5年くらい前からは換えていない。これ以上たくさん土が入る大きい鉢にすると、持ち上げられなくなるからだ。
 去年から、鉢底の穴から根が何本も湧き出して、鉢の周りでとぐろを巻いている。油断すると鉢の受け皿からはみ出した元気なやつが、フローリングにへばりつくように根毛を張っている。引き剥がすと、根毛が床板に食い込んだまま千切れる。そんな根の生命力に反して、葉っぱの元気が少しずつなくなってきた。たぶん、根を張る方にエネルギーを余計に使っているからだろう。
「根も葉もない噂」という表現は、根を原因、葉を結果に喩えているらしいし、「事実無根」という言葉では、根っここそが証明のための根拠になっているし、その「根拠」の語からしても、根がすべてのおおもとである。
 いけばなをする上で、根っこは何かということを、先日の広島のいけばな展から帰って考えた。そして、花器がそれに相当するのかもしれないという直感である。

暗示(2) 251109

2025/11/9

 昨日のいけばな展は、草月会広島県支部長の先導で2時間半かけて見て回った。話もたくさんして飽きることがなかったのは、会場に“暗示”がたくさん潜んでいたからである。
 最も大きな暗示は、いけばな作品を通じて何かを訴えるのではなく、いけばなそのものを訴えることが力強いということ。いくつかの作品の全体や部分が私の気を引き、特に花材の一部として使われていた木材やアルミニウム板や真鍮の細釘などの古びた質感が、何ともいえない郷愁や時間の重みを感じさせてくれた。
 評論が、言葉によってある特定の問題意識を伝達するスタイルだとすれば、小説は、限定し切れない大きな主題を言葉の隙間に沁み込ませたもの、そして詩は、言葉そのものを味わえというようなものだろう。詩には既に世界が詰まっていて、その向こう側に、現実世界における課題など想起する必要がない。
 いけばなは、私が誤解していたより、もっと直接的に表現した方がいいと思った。言葉それ自体にこだわる詩のように、花の魅力を再発見しつつ、それらを組み合わせで創造した目の前の作品を直感的に味わいたい。

暗示 251108

2025/11/9

 シンプルな言葉やスタンプでやり取りする“超効率的コミュニケーション”が蔓延し、私も現代のその傾向に加担しているという自覚から、気分が優れない。これは、「イエス、ノーをはっきりさせる」米国型文化が、言葉を慎んだり選んだり紡いだり濁したりする日本型文化を駆逐しつつあるという寂しさである。
 何はともあれ、今の世は効率が重要で、それによって生産性を高めなくてはならない。回り道で余計な時間を取られないためには、意思を明示することが求められる。
 今日は草月流の広島県支部いけばな展に行き、様々な様式の作品を見せてもらった。そして、いけばなは暗示の表現だと再認識した。私は自分の思いに陶酔できるタイプで、好きなものとそうでないものが明確だ。それなのに、好きな根拠をわかってもらおうと言葉を尽くしたところで、何日もかかってしまうか、鬱陶しくて嫌われるかのどちらかだ。
 今日のいけばな展では、私がその世界に入り込める(暗示内容が見える)作品と、そうでない作品とに二分され、半分だけ見えたかな? というのはありえなかった。暗示はそういうものだ。

神秘の綿 251107

2025/11/7

 花は神秘的に語る。風船唐綿の風船のような薄緑色の果実の中には、初め固く閉じた組織があって、それがだんだん絹糸のような極細の繊維束に変化する。その銀色に輝く100本を超える繊維それぞれの先には2mmくらいの黒い種。そして表皮が割れる頃には、束がほどけて、1本1本の白い種髪が空気をまとってふわりと飛び立てる軽さを準備する。無重力にほどけて空に舞う。
 10年以上も前のこと。私は憧れのカウアイ島で、レンタル・カヌーで河口からジャングルに向かって川を漕ぎ上っていた。1人で漕いでいたから、急に暗くなり土砂降りのスコールに襲われて肝を冷やしたが、30分で雨が弱まると、雲間から日光が幾筋もの線になって背後の彼方の大海に降り注ぎ、そのいくつかの光線はついに私に追い付いて、私の周りで静かに降る雨粒と靄を輝かせた。
 カウアイ島から戻ってしばらく後に、風船唐綿の輝く種髪をひたすら集めて、いけばなとして“雲”をつくった。あのカウアイ島の雲だ。神秘の“雲”は、10年の時を経てもまだ私の手元にあり、ハワイの神秘と響き合って、仄暗く光っている。

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