花の神性 260207
2026/2/7
包丁1本で「刺身を引く」と「お造り」ができる。日本の板前が素材を生かしてつくる料理だ。手が込んでいないように見えて、包丁さばきの腕によりをかけている。
同じく鋏1本で「はなをいける」と「いけばな」ができる。素材の花を生かしていけた作品だ。手が込んでいないように見えて、鋏さばきの腕によりをかけている。この意に沿えば、いけばなを「生け花」と表記するのはもっともだ。火を自在に操るフランス料理や中華料理のような調理法に倣って加熱すると、花も炒め物になる。日本人は、あれこれ手を加えず、限りなく生きた状態で仕上げる技をいちばんに競いたいのだ。
素材に敬意を払って持ち味を生かすことに注目すると、日本人が万物に神様が宿っていると感じていたことに思い至る。八百万の神である。
草月流では、「生け花」を「いけばな」とひらかなで書く。花を単に材料と見下すわけではないが、花の神性を薄くして、人が「いける」という創造的行為を重視していることが見える。地面や鉢に生きている花と、いけばな花材は、次元の異なる存在だ、無意識にそのように扱ってきた。
撮るということ 260206
2026/2/6
カメラ越しに見る景色は、肉眼で見る景色とは異なる。肉眼の場合は、意識が作用して見たいものに焦点を当てるので、視界内部で焦点はウロウロ動いて定まらない。ずっと動画的に見ている状態だ。しかしカメラの場合、ファインダー内のピントは自在に合わせたりぼかしたりできるけれども、シャッターを押す一瞬の静止画像として固定する。
また、肉眼で見る時に視界は四角くならないが、カメラではファインダーの範囲しか見えないし、しかも直線でスパっと四角く切り取られる。そして、ファインダー外の世界は完全に消去されるのである。肉眼の記憶で「あったかなー? なかったかなー?」という迷いはなく、あるものはあるしないものはないと割り切られてしまう。だから、ファインダーの四角い世界を上下左右に動かしたり、大きくしたり小さくしたりすると、見たくないものを完全に視野から消し、見たいものだけを強調できる。
それだから、いけばなを写真に撮るときは困る。四角く断ち切る範囲をどこまでにするか、それが、いけばな作品として自分が主張する範囲だということになるからである。
自然と不自然 260205
2026/2/5
人の手を加えていない生来の環境や事物を呼ぶときの「自然」と、人の手を加えながらも環境や事物の持ち味を極力生かした「自然な感じ」とがあって、その先に、人間に居心地の良い状態にかなり手を加えた「人工」がある。そしてまた一方に、野にあるようにいけた屋内の花という「不自然」もある。
人工的なものというのは、人の手というよりも機械の手を加えたものが多い。しかし、日本家屋の壁材によく使われていた「焼杉」は、自然な木目を生かし、不自然でない焼きを入れて、庭木などとも馴染むような建材なので、あまり人工的な印象はしない。安藤忠雄に代表されるコンクリート打ちっ放しの建物も、いけばなが似合わないかというとそうではなく、いけばなをよく引き立ててくれる。でもそれは、いけばなが既に人工的だからなのかもしれない。
野にないようにいけた花は、もう自然の花ではない。焼杉と同じ領域に棲む植物なのかもしれない。人の手が加わる以上、生来の自然を求めてもだめだ。
この世の中に、どんないけばなにも適した空間などない。どんないけばなにも適さない空間もないが。
節分 260204
2026/2/5
2月3日は節分ということに、今日気付いた。子どもとの関りが薄れてしまった証拠である。「鬼は外、福は内」の掛け声と共に豆を撒くのは楽しかったかどうか、鬼のお面を被った大人が逃げる役を担っていたのだったかどうか、自分が子どもの頃の記憶もおぼろげだ。
言いがかりのようなことを言うと、桃太郎の話にしても鬼は悪であり、水戸黄門やウルトラマンが闘う相手にしても、権力を振りかざす地位にある者や宇宙人は危険極まりなく、勧善懲悪こそが正しい道だというような気配が世の中に蔓延していた。
そして、大人になったからには真面目に働いて、働いて、家族や社会に尽くすのが正義である。家も乗物も家電もインフラも、機能的で経済的なものこそが正義である。そう仕向けられてきたし、自分もそれに加担してきた。
しかし、本当に鬼は悪者か? 鬼を駆逐しようとした小市民的日本人こそ、「無知は罪」と断罪されるべき張本人ではないか? 暇人になると、面倒臭いことをゆっくり考える時間があるし、いけばなを落ち着いて続けられる余裕もあるというものだ。物事を単純化してはいけない。
いけばなの見方 260203
2026/2/3
幹線道路を車で速く走ると、街路樹や電柱が飛び去る景色が見える。気になる人が歩道を歩いていても、減速しないで顔を覗き込むのはよくない。追突事故を起こすから。夜の繁華街を肩をすぼめてヨタヨタ歩くと、店内の酔狂な客の顏まで見える。生きるスピードによって、人生で見える光景も違うはずなので、生き急がないよう、また歩みを止めないようにしたい。
人にはそれぞれに気持ちのいい歩き速度があると思う。長年の友だちは、そのへんのスピード感覚が似ていて同調しやすい。抜群に速い奴に合わせようとすれば、こちらはヘトヘトになり、何も見ていないまま時間だけが過ぎていたということにもなる。
ヒトがモノを見るとき、動きながら動くモノを見る、動きながら動かないモノを見る、動かずに動くモノを見る、動かずに動かないモノを見る、この4パターンがある。ややこしいことに、ヒトとモノとが同じ方向に同じ速度で動いている場合には、互いに静止していることになるのだが、などと考えていると話は前に進まない。
いけばなを見る態度としては、どういう見方がふさわしいのでしょう?