陰影礼賛 260201
2026/2/1
今日は護国神社での献花祭の日。境内の朝の空気は、冷たく冴え冴えとしていていた。そして、すべては太鼓の音で始まる。太鼓が鳴り止み無言の空間が演出されると、無音かと思われたその本殿には、遠くから車のエンジン音や鳥や人の声がかすかに聞こえ始める。もともとそこにあった音が、意識によって聞こえなかったり聞こえたりする。
本殿の奥に目を凝らす。陰影の多い建築なので、至る所に陰があり、影が映っている。奉献された神饌とそれらを載せた三方なども、それぞれに陰を纏い影を映す。陰や影には輪郭をぼやかす作用がある。煙や霧にも同じように実体をぼやかす作用があるが、光が弱くなり闇が強くなる陰影作用の方が、より神秘的である。
したがって、献納された花も、本殿の奥の方に置かれることで、距離的に遠くなると共に、陰に溶け込もうとしていることによって明瞭さを失い、神秘化される。明瞭さのないことが、むしろその価値を保っているのだ。そこでは、黄菊の黄色も絵具的に明瞭な黄色ではなく、奥の暗さに溶け込んで尚も黄色を感じさせるような、気配の黄色となっている。
伝統文化か新文化か 260131
2026/2/1
文化の振興は悪くない。しかし、悪い癖で私は何にでも疑問を持つ。文化は歴史を振り返って認識できるけれど、新たに短期間で定着させられるようなものではない。つまり、文化は地域の土壌や生活に沁み込んでいるいるもので、またはその分野を取り巻く世間で常識化されてきたものであって、意識的に掬い上げようとした途端に、それは砂上の楼閣として崩れ去る宿命だ。
たとえば、日本の伝統文化の1つとされるいけばなを、もう一度定着させようという目論みは、捨て難いけれど苦難の道だ。既に生活現場から追放されつつあるこの文化は、遺失文化の象徴である。薄れゆく影に光を射すと、完全に見えなくなるように、侘び寂びという美的観念も、いけばな世界からはほぼ失われた。
残念ながら、いけばな教室も人工照明によって明るい。花器も色とりどりである。伝統的ないけばなを再現するには、いけばなの容れものである家屋や調度から変える必要がある。
しかし、実際には、多くの流派が新しいいけばなを模索してきた。ただ、生活文化の変貌が甚だしくて、いけばな文化の進化が追い付いていない。
いけばなファミリー 260130
2026/1/30
ウチの猫は、4年もかかって、ブラッシングに対して体を横たえ手足を伸ばしてくれるまでになった。効率などは無関係の、ゆっくりした世界である。いけばなにも非効率極まりない悠長な作業は多く、この季節であれば、水仙の「葉組み」というやつは、慣れるまでは時間がかかって堪らない。剣山の針を起こす作業も、わざわざやるとなれば面倒だが、手すさびにやれるようになると何てことはない。
SNSやマッチングアプリによる出会いは、自分が好ましいと思う相手を予め選別できるから、比較的失敗がないだろうと想像する。失敗がないというのは、非常に効率的だ。いまでは、スポーツの分野でも根性論が遠ざけられて、科学的で効率的なトレーニングが行われる。
いけばなは、大儲けにあくせくしないスローライフの象徴だと思う。金銭的利益のためではなく、花に対する美的消費をよしとする者の集まりである。いけばなは販売もできないから、生産面では役立たずの代表である。そんな老若男女が大きな巣に集まって、女王アリを支えているというのが、家元を中心としたいけばなファミリーなのだ。
思わぬ出会い 260129
2026/1/30
SNSやマッチングアプリによる出会いは、自分からのアクションで出会うタイプも人数も自分で制御できる。メリットも大きいが、出会いの範囲に意外性が起こりにくいという面も否定できない。
昔は、結婚関係、仕事関係を問わず、リアルな出会いの場があった。業務上は、こんにちでも同業者同士では協同組合などがあるし、商工会議所、商工会、経済同友会、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、倫理法人会等々、先輩企業が結び付きを活発に取り持ってくれる異業種交流の場がある。
そういう会に入りたくても入れない人は、それなりの異業種交流会を自分で立ち上げた。そんなインフォーマルな会には規約もなく、ただ飲み会で騒ぐだけというものも少なくない。それでも有難かったのは、思いもよらない人に偶発的に出会うチャンスがあったからだ。
いけばなの地方組織が硬直化するのは、同業で凝り固まっているのと、おこがましいメンバーが閉鎖的に他を排除しがちなことによる。新しい風が吹きにくいということに尽きる。期せずして襲い来る自然災害は御免でも、思いがけない出会いは楽しい。
できるフリ 260128
2026/1/29
若い世代と話してみて、大勢が勉学や自己投資に勤勉なことと、物事に対する損得勘定が早いことを感じる。なぜ、そんなに追い立てられるように、いろいろなことをちゃんとするの? と聞きたいくらいだ。もっともっといろいろなことを、やり散らかしてみたらいいのにと思う。老獪に計算ずくで手堅くやって計算通りうまくできたとしても、何の面白味もないだろうに。
しかし、私自身は老獪にやらねばならない歳で、いまさら奇をてらうのも若気の至りという自覚もあり、トライして失敗するより教師としていけばなが上手なフリをしなければならない。そのためには型(花型法)をマスターするのが手っ取り早く、それをマスターさえすれば、頭で考えなくても手が勝手に働く。
自由花創作の場合は事情が違って、体と同時に頭を動かす必要がある。できる・できないが、容赦なく表れるからだ。
来年、草月創流100周年迎えるにあたって、できなかったことをできるようにしておきたいものだ。できるフリだけでは、全く突破できない。後ろ指を指されても仕方がない年齢と立場になってしまっているのだから。