汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

他流いけばな 260228

2026/2/28

 他流派のいけばな展を見た。いいなあと感じる作品が多くて良かった。展示の構成も良かった。現物展示による様々な型の解説や、壁作品や吊作品などのバリエーションにも心が踊った。いけばなの基本的な技術は、切る・矯める・留めるの3つで、それらすべてについて、私たちの草月流とは異なる技法も随所に見えた。
 今まで何度も見てきたにも関わらず、今回改めて感じたことも多い。オクラレルカの葉など、葉ものの使い方の美しさが際立っていたこと、枝ぶりのつくり込みが私の感覚を跳び越えていたこと、水を見せる意識が高いこと、たくさんの花材を使った作品だけでなく一種いけも少なくないこと、木の皮や枯れかけた枝葉などを積極的に使っていること、葉の減じ方や枝先の微妙な矯めなど細部への配慮が行き届いていること等々。
 全部に「参りました」と言うのは悔しかったので、一矢報いるポイントはないかを探して、異質素材の使い方と、造形的な大胆さにおいては、草月に分があるのではないかと、そんなことを思いながらグイッと近接した撮影をしていたら、係の人に注視されていて弱った。

記録 260227

2026/2/27

 スケッチは重要だという話。いけばなの稽古が終わったら、写真に撮っておくことは誰もがする。加えて、自分のいけばなをよく観察して、スケッチに残すことを誰もがすべきである。スケッチをした方がいいことを、私はその理由も含めて1度は語ることにしている。状況によっては2~3度しゃべる。
 しかし、親子関係でもない大人同士なので、それをしなかったら破門だということではないし、「歯を磨きなさい」と親が子にしつこく言うような責任も感じない。
 たまたま『宮大工 千年の知恵(松浦昭次)』をめくっていると、次のフレーズに出くわした。「写真を撮れば簡単ですが、絵を描くということは、そのものをよく見るということになりますから、カメラのファインダーから覗いている時は気づかないようなもの、見逃してしまいがちなものにも気づくことになります」。
 先日、同じ教室でいけばなを習っていた年下の女性に、最近の私のいけばなの写真を見せた。彼女は、「玉井さんも随分上手になったじゃない!」と褒めてくれた。この嬉しさもちゃんと記録しておこうと、ここに記す次第である。

覚えないこと 260226

2026/2/27

 本人の自覚はなくても、1つのことを長く続けていれば、頭で覚えていることも、体で覚えていることも増えている。身に付くというのは、まさに体で覚えた好ましい状態である。
 ところが、間違って身に付いてしまった悪癖もある。私は、つい最近まで、いける時には必ず花器に水を張って、という指導を怠っていた。この良くない状態をやり過ごしてきた原因の1つは、短時間なら乾き切らないだろうという怠け心があったこと。もう1つは、水を張った水盤に木屑が浮くと掃除が大変だからという、これも怠け心である。
 世の中には、覚えるよりも忘れた方がいいものがある。私はだいたい、茶碗(抹茶席で使う形状)の形をした花器が苦手だ。苦手意識を1回でも持つと、その意識は次第に濃く沁み込んでくる。早い時点で取り除きたいが難しい。
 また、最近はSNSなどによって、“時短いけばな”とでもいうような技が披露されている。そもそも、いけばなは急がない。少なくとも、華道においては、度を超えた時短は無意味であるどころか、ブザマである。何を見て、何を見ないかを選ぶ行為も華道である。

フツウの花 260225

2026/2/27

 普通の人というのは、全人類から普通ではない人を差し引いた残り。普通電車というのは、特急や快速ではなく各駅停車で運行される列車。普通預金は、定期預金などではなく、わずかな利息をもらって銀行に預けておくお金。普通というのは、大した取り柄がなく、ありきたりで平均的な様子を表している。悲しいことに、つまらん奴だという卑下の対象になりがちでもある。
 では、普通の花はどうか。幸いにも、普通のいけばなとは? という難問を投げられたことがない。時代的に、古典的とか現代的だとかを考えたとして、その中で普通とはどんな花だろう。芸術的とか生活的だとかを分類したとして、その中で普通とはどんな花だろう。
 私が目指すのは、他人と同じでありたくない気持ちのせいで、まだ誰も目指したことのない普通でない領域の花だ。かといって、誰にも注目されないいけばなを目指す勇気もない。
 草月の諸先輩方に敵わないと思うのは、さもさりげなく普通の態度で、全然普通でないいけばなをいけるからである。ムリもなければ、ムダもない。汗をかいていない様子で振る舞うのも羨ましい。

日本人的 260224

2026/2/25

 いけばなをしていて、いつも「日本の伝統文化」と括られることへの違和感がある。ふと思った。「日本的な」伝統文化というのを「日本人的な」と言い換えると、どう違ってくるのだろうかと。
 いけばなが日本の伝統文化の1つに数えられることは、仕方がないとは思っている。しかし、現代に生きて現代の環境でいけばなをやっている私は、必ずしも「日本の伝統的ないけばな」にこだわってはいない。私がこだわっているのは、昔の日本人から現代の日本人にまで共通する、日本人的な感覚や感性だ。
 それは、いけばなだけに限定されない。散りゆくもの、消えゆくものへの憧憬だ。子どもの頃の夏の裏山での夕立、少し遠くまで散歩した秋の落陽、冬の日の昼休みには溶けてしまっている水溜まりの氷、散った桜の花びらが風に舞い上げられて川に流されていくさま。
 とても日本的な日本人の私が、大いに背伸びをして国際人になろうと人生を旅したけれど、やっぱりここに帰って来たかという寂しいような安堵。私は懐古的ないけばなをしているのではなくて、現代いけばなを日本人的にしているのだと思う。

講師の事