流れで、いける 251129
2025/11/29
テレビの「プレバト」で、一筆書きをやっていた。2~3分で仕上げるところに妙味があって、丁寧なデッサンで仕上げるのならば一筆で描く必要はないという開き直りだ。コツは省略にあるという。
石丸繁子書道展に行った。今日も正岡子規の俳句を、前回同様タンゴの曲に合わせて2分30秒で揮毫した。一筆書きでなくとも、音楽に合わせて書いているから、流れが連続している。前回は動画を撮るのに集中して流れを体感できなかった反省から、今回はスマホを持たず肉眼と肉体で鑑賞した。ご本人も語っていたのは、あらかじめゴールが決まっているわけではなく、練習(シミュレーション、下書き)を70回は重ねたが、本番のライブは本番の流れで出来上がったということだ。
いけばなにも、ゴールイメージはある。しかし、油絵のように時間をかけるものでも、下書きを重ねて臨むものでもない。分かっている結果を目指して進むのではなく、むしろ自分にも予想できない無人島に漂着できれば幸いとでもいうような航海だという醍醐味だ。
前の一手から次の一手へ、不確定な連続技でいけばなは出来上がる。
山師 251128
2025/11/28
教え子のU君が、12月に開く写真の個展の案内に、昨日高知からやってきた。私の庭に放り出している流木や切株を見て、「高知に有名な木工の知り合いがいるんですよ。玉井先生にも似たところがあるんですかね」と言う。
今晩テレビを眺めていたら「山師・ウッドアーティスト高橋成樹」のドキュメンタリーが流れてきて、まさか! と思ってU君に電話したら、まさに彼のことだった。
高橋成樹さんは自分が木を伐採する山師であり、それに手を入れるアーティストでもある。ということは、私は枝ものを使ういけばな師であるし、枝をちょん切る山師まがいになれるかもしれないという気がした(アホ丸出し!)。この1ヶ月というもの、ずっと考え続けていたのが花材の入手に関することだったので、こんなにタイムリーに素敵な番組に遭遇できるなんて!
高橋さんの素晴らしいところは、虫食いやひび割れを疵と見るのではなく、魅力的な個性と見る感性である。だから、彼が創るものは、スツールなどの実用品であっても、同じものが2つとない。私たちのいけばなも、陰の花材に光を感じるようでありたい。
花の価値 251127
2025/11/27
バラを見て、私の目は愉しいけれど、嬉しいというほどでもない。ポピーがあれば、私の目も心も切なさと愛しさが入り交じった気分に満たされる。ポピーの絵でも同じ気分だ。私にとってポピーは、哀愁や哀惜の情を呼び起こすシンボルだ。
花で人生を送っていない人にとって、地球上にポピーが存在していることの価値など想像できないだろうし、また、なぜポピーなのかを説明したくても、その魅力を言い尽くせる言葉がこの世にないのだから仕方がない。「いけばなはいいですよ」という言葉も、それに価値を見出した私には必然だけれども、そうではない人には届かない。
花より団子という諺には、時々の状況によって反発したいし、また同意せざるを得なかったりする。どんなに価値がある宝石も金も、土地も家も、他人の物は自分の物ではない。その点では、他人の物でも自分の物でもない、重信川の河原で揺れて咲く外来種のオオキンケイギクや、三ケ村泉の水底のクレソンに価値を見出すのは風流かな?
枯れる花を使ういけばなも、萎れて枯れて原形を留められない。それに価値を置く姿勢は雅かもね。
無理解と理解と 251126
2025/11/26
いけばなを自分が始めるまでは、親しい人のいけばなに惹かれても、感動の仕方が解らなかった。「綺麗だね」これで精一杯。感動を表す言葉を知らなかったともいえる。
いけばなを続けるうちに、いけばなを語る言葉をたくさん覚えた。今度は、感動するよりも前に、そこに見えているいけばなを言葉でスケッチしてしまう。損な話で、美術館の学芸員が鑑賞者のために解説原稿をパンフレットに書くみたいに、思考と論理で作品を搾り取る。言葉で搾り取ったあとの作品は、もう絞り滓である。
2人以上のお互いの考えや感じ方は、言葉でコミュニケーションを取るしかない。相手がいけばなをしていない人だったら、私は思い付いた言葉で気兼ねなく話し、相手もぼんやりと解った気になって「ホント、いいですねえ」と相槌を打って、会話は幸福に終わる。
ところが、いけばなをしている相手に対して、私はどうしても身構えてしまう。微妙な内容まで理解し合えるものだから、ちょっと用語を間違えると、意思や本心と異なるメッセージが相手に伝わってしまう恐れがあるからだ。解り合えるからこその面倒だ。
簡素な空間 251125
2025/11/25
今日は、松山中央郵便局にお弟子さんの1人がいけるのに付き合って、改めて感じることがあった。そこは、預金や保険や諸々の掲示物が氾濫していた。
いけばな作品については「単純化の極」という方向性があることを我々は知っているが、いけばなの空間については「簡素化の極」が望まれると思った。
それがいけばなであろうとなかろうと、何かを物が溢れかえっている部屋に飾ろうとしても、結局のところ空間を更に汚すことになっても美しく飾ることはできない。いけばな自体に疎密や強弱をつくっても、空間全体が密であるならば、その一部でしかないいけばなには存在する余地がない。時代劇などからも想像できるように、日本の住空間は基本的に物がなく室内の密度が低かった。造り付けのものといえば床の間くらいで、密度の高い部分といえば欄間の透かし彫りくらいだ。部屋空間の密度が低いために、花をいけるとその部分の密度が途端に上昇して強弱のアンバランスが生じ、それで部屋全体に生気が宿るのである。
重い部屋には、より重いマッス作品をいけるか、たくさんの空気をいける他はない。