カマキリの卵 260113
2026/1/13
先日、お稽古の蠟梅(ロウバイ)の枝に、カマキリの卵(卵鞘)が1個ついていた。苦手な人にとっては、見るのも嫌だし触ることなど考えられないかもしれない。幸い、その枝で稽古に臨んだ人は、当たり前のこととして使って、平気で持ち帰ったように見えた。しかし、温かい部屋に置いておくと、万一孵化するかもしれないと後で思ったことを、本人にはまだ伝えていない。
花材には、よく見ると、虫や卵が付いていることが少なくない。特に産直市で購入した場合には……。花店で仕入れるときは、出荷者が予め選別したものが市場に出て、それを花店が購入して店頭に並ぶので、多くの人の目を通るぶん安心だ。
過去にはミノムシや、カメムシ、アオムシなど、「ムシ」の名を持つ虫が付いていたことも結構ある。私は、カマキリやアリやクモなど、「ムシ」でない虫の方が苦手ではない。
さて、教室の庭には、化学肥料や化学薬品を何年も撒いていない。それで、サルスベリにウドンコ病が生じたり、アメリカハゼの立木にアリが巣を作っていたりする。セミの抜け殻がやたら多いのは、嬉しいことである。
剣山 260112
2026/1/12
いけばなは、いける行為といけられる花とが合わさって成立している。そして、映画においてエキストラが重要な役割を果たすように、いけばなにも隠れて目立たない役者が存在する。
いけばなで一番目立つのはもちろん花で、次が花器、そして敷板や台を使っている場合はそれらがそのまた次の存在だ。そして、陰の代表が剣山である。水盤を使って「盛花」をいけるには、剣山がどうしても必要になる。しかし、隠されなくてはならない。「いないことにしてくれ」と要求される役者なのだ。
料理の世界でも、ダシは味を支える決め手なのにも関わらず、最終的には隠れて見えない役柄に甘んじる。人間社会においても、同じような役を引き受ける人は多い。しかし、そこに脚光を浴びせようとすれば、有難迷惑になったり、時として恨まれたりすることもあるから注意が必要だ。
私の生徒さんで、剣山を10個高く重ねて主役とし、それに花を添えて作品となした人がいる。びっくりさせられた。そういう主客逆転の行為も、いけばなでは許される。実生活では試みえない剣山革命、素敵で楽しいクーデターであった。
自分の正体 260111
2026/1/11
何で飯を食っているかを、様々な職業名で分類してくれている。私は年金による収入が主であることから、無職という分類に入る。それでは、名刺に印刷する肩書は「無職」なのかといえば、それには抵抗感がある。
氏名だけあればいいじゃないかという指摘もあるなかで、それでも肩書によって社会性が担保されているような安心感もあって、「草月流師範会理事」の名刺が手放せない。いけばなをしている他人の名刺をいただくと、〇〇流師範とか〇〇流教授のほかに、華道家、いけばなアーチストなどなど、皆さん苦心されている。いけばな師だとか花師というのは、まだお目にかかっていない。
他のジャンルで参考になるものはないかと見回すと、料理研究家が応用できそうだ。国家資格の調理師ではなく、料理家でもなく、料理研究家なのである。そのノリで「いけばな研究家」が現れても悪くない。花研究家としてしまっては、牧野富太郎のように図鑑をまとめなければならないから重荷だ。
別に肩書がなくても花はいけられる。しかし、あって邪魔になることもない。「花咲か爺さん」を考えたこともある。
花鋏の重さ 260110
2026/1/10
庭のホトトギスとツワブキの、花が萎れた茎を切る。満開はとうに過ぎているのに、冷たい冬風に揺れて、咲き残った花が灰色がかった曇り空に色を添えている。鋏を持つ手がキンキン冷える。手袋はしないから、鉄の冷たさが直接貼り付いてくるのだ。
冬場は手のひらの乾燥が激しく、鋏の柄がよく滑る。強く握っておかないと、ちょっとした拍子に抜け落ちる。握力が落ちたことも無視できない。70歳くらいまでは筋力の心配はしたくなかったが、こんな調子では本当の仕事はできない。
あなたの仕事は何ですか? と聞かれることに、申し訳なさを抱く。い、い、いけばなを教えています……と小さく答える。万一、何で食っていますか? と聞かれたら答えられない。いけばなだけでは食えてない以上、それを生業と言うのは恥ずかしいから。
日本人が、食うために箸を駆使するように、なんびとたりとも、いけばなのためには鋏を使いこなせなければならない。昔の電車やバスには車掌がいて、改札口の駅員も皆、鋏を持った手でカンカンカカンとリズムを取りながら切符を切っていた。やってみたけれど、乱れる。
花いけの日常性 260109
2026/1/9
愛と言い切るのはおかしいし、愛情というほどでもなく、愛着を持っている、というのが私の庭木に対する思いだ。10年くらい前に庭師をお断りして、自分で庭木の剪定を始めたものの、思った以上に大変だ。
さて、人間は毎日の生活でさりげなく言葉を使っているが、それを俳句や詩にすると、生活の言葉ではなく芸術になる。庭木の枝を1本切って、さりげなくウイスキーの空き瓶に挿しただけではいけばなにならないが、意識的に花器にいけるといけばなになり、もっと意識的に立ち向かうと芸術になることもある。
このように、日常的で特異でもない切りばな花材を、特別なタレントに仕立てるのが、いけばなの一面だ。庭の“草木”は、切り取った瞬間に生花それ自身の本質を失い、“花材”と呼ばれる半死の物になり変わる。面倒臭いと放ったらかして、“金の卵”をバケツの中で腐らせることもある。
「切ったからには、よりよい姿に生き返らせよう」という思いで、新たな生を吹き込むのがいけばなだ。花材自身が歓喜するような仕上がりを、日常的にいけられるようになることが、私たちの仕事なのだ。