劇場型 260209
2026/2/10
俳句甲子園、書道パフォーマンス、花いけバトル……次々に現れてきたこれら文芸イベントは、劇場型の顔を持つ。元来は1人で取り組む原形のジャンルに、団体競技の面白さを持ち込んできた。
俳句には、古くから連句という共同制作の下地があるので、ことさら特別な感じはしなかったし、はじめから重々しさより抜け感を感じる俳句なので、逆にディベートで闘う激しさに対して、芸術性を再認識したくらいだ。
しかし、書道パフォーマンスが現れた時、私はびっくりした。草月には連花という“座”が企図されることがあり、私も参加したことはあった。にも関わらず、花いけバトルが現れた時、これにも私はびっくりした。驚いた原因は、私がそれらの道に抱いていた先入観に「禅」の要素があって、禅に求める道と彼らのパフォーマンスとは真反対の方向性だと感じたからである。
昨日が投票日だった衆議院議員選挙も、劇場型だったなあとつくづく思う。喩えが不適切だと言う人もあろうけれど、政治と国民の関係を大雑把に見たとき、それはナチスドイツの政治宣伝の有りさまと、相似的ではなかったか。
花の空間 260208
2026/2/8
母の実家があった五十崎町(現内子町)の様子は、この60年ですっかり変わった。人口減少の影響が大きいのだろうと思う。そのように言う自分の実家のある清水町(松山市)の近所も、最近2軒の廃屋が取り壊された。そして気が付くと、この30年で周辺の建屋は減って、100円パーキングや契約駐車場だらけだ。
人が住んでいない場所は、芝居の書割のように薄っぺらだ。暮らす人の表情を伴ってこそ町の風景と呼べる。これは外観の話であるが、屋内についても、人が住まない部屋にいけばなだけがある光景は、何となく胸が締め付けられるような寂しさだ。
かつて、いけばな教室を稼働させるために私は実家を改装した。機能性と「らしさ」をつくり込むにあたって、屋内には少し気を使った。しかし、住んでもいない家の塀や門扉などの外構については、コストをかける気がしなくて、ないがしろにした。このことが、今になって気がかりだ。
私の教室の外観は、人間でいうとボロを纏っている状態に見えるからだ。家の外観や外構も、家具も部屋の内装も、装飾や持ち物も、住む人も、理想は全体の調和である。
花の神性 260207
2026/2/7
包丁1本で「刺身を引く」と「お造り」ができる。日本の板前が素材を生かしてつくる料理だ。手が込んでいないように見えて、包丁さばきの腕によりをかけている。
同じく鋏1本で「はなをいける」と「いけばな」ができる。素材の花を生かしていけた作品だ。手が込んでいないように見えて、鋏さばきの腕によりをかけている。この意に沿えば、いけばなを「生け花」と表記するのはもっともだ。火を自在に操るフランス料理や中華料理のような調理法に倣って加熱すると、花も炒め物になる。日本人は、あれこれ手を加えず、限りなく生きた状態で仕上げる技をいちばんに競いたいのだ。
素材に敬意を払って持ち味を生かすことに注目すると、日本人が万物に神様が宿っていると感じていたことに思い至る。八百万の神である。
草月流では、「生け花」を「いけばな」とひらかなで書く。花を単に材料と見下すわけではないが、花の神性を薄くして、人が「いける」という創造的行為を重視していることが見える。地面や鉢に生きている花と、いけばな花材は、次元の異なる存在だ、無意識にそのように扱ってきた。
撮るということ 260206
2026/2/6
カメラ越しに見る景色は、肉眼で見る景色とは異なる。肉眼の場合は、意識が作用して見たいものに焦点を当てるので、視界内部で焦点はウロウロ動いて定まらない。ずっと動画的に見ている状態だ。しかしカメラの場合、ファインダー内のピントは自在に合わせたりぼかしたりできるけれども、シャッターを押す一瞬の静止画像として固定する。
また、肉眼で見る時に視界は四角くならないが、カメラではファインダーの範囲しか見えないし、しかも直線でスパっと四角く切り取られる。そして、ファインダー外の世界は完全に消去されるのである。肉眼の記憶で「あったかなー? なかったかなー?」という迷いはなく、あるものはあるしないものはないと割り切られてしまう。だから、ファインダーの四角い世界を上下左右に動かしたり、大きくしたり小さくしたりすると、見たくないものを完全に視野から消し、見たいものだけを強調できる。
それだから、いけばなを写真に撮るときは困る。四角く断ち切る範囲をどこまでにするか、それが、いけばな作品として自分が主張する範囲だということになるからである。
自然と不自然 260205
2026/2/5
人の手を加えていない生来の環境や事物を呼ぶときの「自然」と、人の手を加えながらも環境や事物の持ち味を極力生かした「自然な感じ」とがあって、その先に、人間に居心地の良い状態にかなり手を加えた「人工」がある。そしてまた一方に、野にあるようにいけた屋内の花という「不自然」もある。
人工的なものというのは、人の手というよりも機械の手を加えたものが多い。しかし、日本家屋の壁材によく使われていた「焼杉」は、自然な木目を生かし、不自然でない焼きを入れて、庭木などとも馴染むような建材なので、あまり人工的な印象はしない。安藤忠雄に代表されるコンクリート打ちっ放しの建物も、いけばなが似合わないかというとそうではなく、いけばなをよく引き立ててくれる。でもそれは、いけばなが既に人工的だからなのかもしれない。
野にないようにいけた花は、もう自然の花ではない。焼杉と同じ領域に棲む植物なのかもしれない。人の手が加わる以上、生来の自然を求めてもだめだ。
この世の中に、どんないけばなにも適した空間などない。どんないけばなにも適さない空間もないが。