インスタレーション 260212
2026/2/12
いけばな展が終わったら、私は使った花材のほとんどを廃棄する。石やブロンズの彫刻ならば、押入れに仕舞い込んでおくかもしれない。いかんせん、生花の寿命は短い。
昔、松山市内の大街道商店街で、川俣正という芸術家が、インスタレーションを披露した。アーケード内に木材を組んで、橋のようなトンネルのようなジャングルジムのような“建築物”を組み上げたのだ。これは、作品をつくるというより、出現させる行為だと思った。ウルトラマンでもゴジラでも、出現したら退場する。川俣正の作品も、せっかくつくり上げたのに、壊し始めるということをしないとインスタレーションの道に反する。そして、跡形もなく消し去ってインスタレーションは終わっても、私の記憶には残り続けたのだった。
一発芸ではないけれど、いけばなも、硬い彫刻として残せないなら、見た人の記憶に残せたら嬉しい。
いけばなは「よくわからない」。いけばなを「どう見たらいいの?」。声に出して聞かれたことはないが、そういう人に、考えるよりも先に驚かせたり、うっとりさせることをしたいと常々思ってはいる。
アート 260211
2026/2/11
今日が誕生日の亡父は、公務員だった。私は宇宙飛行士になりたいと書いた小学生時代、サッカー選手になりたいと思った中学生時代、アーチストになりたいと思った高校時代を経て、父子喧嘩も挟みながらそのどれにもならず、今いけばなをしている。
いけばなは、いけばなであってアートではないという考えは、私は持っていない。草月流は、いけばなを芸術たらしめる気概を持って始まったからだ。しかし、いけばなはいけばなであり、家元だけはアーチストである可能性があるとしても、その門下は家元制度の下にいる限り本当の意味でのアーチストにはなれないという意見もある。
これと同じくらい曖昧なものに、パブリックアートがある。松山空港や道後温泉界隈のモニュメントやアート作品だ。砥部町の「陶街道」もそうだ。地域をシンボライズしたり、芸術を身近に感じさせたり、“いいね”を数多く集めたりすることが、アートの目的だろうか。アートはもっと孤高の独自性を出すものではないのか。
この議論はずっと続いていくと思ったので、私はもう、はっきりした境界線を引くことは止めている。
作品のメッセージ 260210
2026/2/10
生徒さんに聞く。そのいけばなをいけたビジョンや思いは? このような質問に慣れていない人は、花に意味を盛り込む必要があったんですか? という表情で困惑している。慣れた人は、饒舌にしゃべってくれたり、サービス精神で作品にタイトルを付けてくれたりする。
そうなのだ。いけばなには、タイトルがあったりなかったりする。初代家元の作品集の頁をめくると、1作1作にタイトルの付いていることが多い。4代目家元は付けていないことが多く、ともかく私は、基本的に付けない。
さて、今度開催される華展で、私が「男と女」というタイトルを自作に付けるとしよう。まず聞かれるのは、どこが男と女なんですか? しかし、いけばなは、具象画の親戚というよりも抽象画の友人であるから、作者とて、ここのこの部分が男でね、とか説明できる代物ではない。あくまでもイメージの世界なのである。
それならば、見た人が見た人なりのイメージを羽ばたかせるべきで、タイトルなんか付けて意味を限定させるなよ! と批判されそうだ。まあ、どっちがいいかは、作者も見る人も、一概に決め付けないことだ。
劇場型 260209
2026/2/10
俳句甲子園、書道パフォーマンス、花いけバトル……次々に現れてきたこれら文芸イベントは、劇場型の顔を持つ。元来は1人で取り組む原形のジャンルに、団体競技の面白さを持ち込んできた。
俳句には、古くから連句という共同制作の下地があるので、ことさら特別な感じはしなかったし、はじめから重々しさより抜け感を感じる俳句なので、逆にディベートで闘う激しさに対して、芸術性を再認識したくらいだ。
しかし、書道パフォーマンスが現れた時、私はびっくりした。草月には連花という“座”が企図されることがあり、私も参加したことはあった。にも関わらず、花いけバトルが現れた時、これにも私はびっくりした。驚いた原因は、私がそれらの道に抱いていた先入観に「禅」の要素があって、禅に求める道と彼らのパフォーマンスとは真反対の方向性だと感じたからである。
昨日が投票日だった衆議院議員選挙も、劇場型だったなあとつくづく思う。喩えが不適切だと言う人もあろうけれど、政治と国民の関係を大雑把に見たとき、それはナチスドイツの政治宣伝の有りさまと、相似的ではなかったか。
花の空間 260208
2026/2/8
母の実家があった五十崎町(現内子町)の様子は、この60年ですっかり変わった。人口減少の影響が大きいのだろうと思う。そのように言う自分の実家のある清水町(松山市)の近所も、最近2軒の廃屋が取り壊された。そして気が付くと、この30年で周辺の建屋は減って、100円パーキングや契約駐車場だらけだ。
人が住んでいない場所は、芝居の書割のように薄っぺらだ。暮らす人の表情を伴ってこそ町の風景と呼べる。これは外観の話であるが、屋内についても、人が住まない部屋にいけばなだけがある光景は、何となく胸が締め付けられるような寂しさだ。
かつて、いけばな教室を稼働させるために私は実家を改装した。機能性と「らしさ」をつくり込むにあたって、屋内には少し気を使った。しかし、住んでもいない家の塀や門扉などの外構については、コストをかける気がしなくて、ないがしろにした。このことが、今になって気がかりだ。
私の教室の外観は、人間でいうとボロを纏っている状態に見えるからだ。家の外観や外構も、家具も部屋の内装も、装飾や持ち物も、住む人も、理想は全体の調和である。