鈴なりの柿 251124
2025/11/25
今日も吹きガラス工房を訪れ、空き時間にたまたま地図を見たら、知らない道があった。山間部を車で走るのが好きな私は、早速その県道154号を行ってみた。
玉川町から段々畑を左に見ながら山道に差し掛かる。「東予玉川線」の標識があり、「自転車に注意」の看板がいくつも立っている。センターラインのない曲がりくねった道を、誰が自転車で走るん? と思ったら、いるんだな! 沿道には葉を落として実だけの柿の木が多く見られ、中でも明らかに実の数が多過ぎる柿の大木の元で、サイクリスト2人が農家の人を掴まえて話し込んでいた。
紅葉が不十分で寂しい山々の景色に、枝の折れないのが不思議なくらい鈴なりの柿の木1本が、華を添えているのだった。
それを見て、色彩の強さを改めて感じた。そして、たわわな柿の重さに耐えかねるように枝垂れて“がんばっている”様子、柿色の玉の密集具合。これは、いけばなの構成要素である「色・線・塊」を、1本の木が合わせ技で体現していると驚いた。しかも、「場にいける」という点でも、場を生かし、場に生かされたあり方をも十分に示していた。
吹きガラス 251123
2025/11/23
吹きガラス工房での「一輪挿し」の制作体験。草月流の愛媛県支部で取り組んだ研究会だ。サンプルがたくさん並んで、選択肢が3つ提示された。形状、色彩、ひび割れや泡立ち加工の有無である。私は、花のつぼみのような形状、透明ガラスに白と桜色の斑紋、ひび割れ文様を下半分に施すと決めた。
吹きガラスは、長さが130cmくらいの吹き竿の先で作品をつくる。自分の目から離れているので、吹き加減がよくわからない。また、磁器を焼くときのような絵付けができないので、斑紋の大きさや疎密は偶然に頼るところが大きい。ともかく、熱く焼けたガラスに直接手を触れられない遠隔操作が、こんなにもどかしいとは思わなかった。
ただ、花瓶の挿し口を成形する際、一旦広げてしまうと改めてすぼめることができないという、いけばなで言えば、一旦切ってしまった枝は元に戻せないこととの共通性もあった。また、いけばなの花材がみるみる萎れてくるように、ガラスも吹き竿の回転を止めると垂れるので、くどくど悩んでいられない手強さが短時間勝負を強制してくる側面も、いけばな制作に似ていた。
松をいけて、松に見えたらだめでしょう 251122
2025/11/23
今日は、とにかく成果が多かった。その1つは、「AIはコンサルとして敬うのではなく、スタッフとして使い倒せ」という態度を、昔の仲間との飲み会の席で教わったこと。
さっそく、「松をいけて、松に見えたらだめでしょう」というイサム・ノグチが勅使河原蒼風に言った言葉の意味を、遠ざけていたChatGPTに聞いた。すると、回答としてたった3秒で、「松を活けても、それが単なる松の再現に見えるなら創造ではない。素材を超えて新しい形・概念を生み出すことこそ芸術だ」と結論付けた。それでは、刺身を引く料理人も、最高度に手を掛けないという技術でもって刺身本来の魅力を引き出す。このムダのない的確な答えには参る。自分がぼんやり考えていたことが、はっきり見えた。
その一方で、疑問に思う内容も明らかになった。芸術的な技を使い、且つ、その技術を見せないように神経を使って客に提供する。鯛なら鯛に対して、持てる技術の全てを出し切って、その技術を感じさせずに素材の鯛の旨さを提供する。同じように、花そのものの魅力を打ち出すいけばながあってもいいのかもしれない。
単純さとシンプルさ 251121
2025/11/22
草月テキストの4‐8「単純化の極」は、哲学というか禅というか、テキスト曰く「それ以上省略すると、その植物素材ではなくなってしまう、いけばなではなくなってしまう、というぎりぎりまで……ということは、極限まで単純化されたその作品は、逆にすべてを含んでいなければならない……」。
ここで言う単純化は、ある方向に向かって作業を徹底しなければ成り立たない。簡素化とは違うし、シンプルであることともまた違う。昨日お会いした葉山有樹氏は、筆で極細線を描くことを徹底されていた。日々飽くことなく線を引き続ける。展覧会場の片隅でも。で、私は何を徹底するのか自問して、行き詰まる。
葉山氏の線引きは50年で、片や私はいけばな25年(しかも本業ではなく)。半分の時間で彼に匹敵するくらいの徹底行動をするにも、時間が足りない。この歳になったからには、時間の長さではなく、切り口や軸足の置き方にこだわるしかないのだろう。
葉山氏の陶磁器も、弦楽器のストラディヴァリウスも、唯一無二の哲学的単純さと緻密さで何百年も魅力を保つ。いけばなには何が残せるかな。
葉山有樹氏に会う 251120
2025/11/21
いよてつ髙島屋に「葉山有樹展」を観に行った。事前の情報では“売れそうな”陶磁器を“高額で”売って、“小説や絵本”も書く“同世代”の“世界的な”作家のようだから、きっとギトギトして気取った男ではないかと予想して、妬みに近い反発心もあった。
今日は寒い平日で、会場の客はまばらだった。否が応でも販売員たちの目に留まる。腰は引けているのに顏は前のめりな私に興味を持ってくれた1人が、作家に引き合わせてくれた。神の思し召しか、私は彼と小一時間言葉を交わし、私との写真にも収まっていただいた。妬みも反発心も消えた。
彼は洗いざらしの白いシャツを着て、会場の片隅の簡易机で安物のライトスタンドを照らし、ポケットティッシュを広げて2枚重ね、普及品の絵具皿から蒼い墨で超細密画を描いていた。中筆に近い小筆で、1mmよりも細い線で、下描きなしの夢幻の世界が浮かび上がってくる。修練を続けているのだと、純粋な語り口で言う。
そして、完璧で華やかな薔薇や牡丹もいいが消えゆく儚さを宿した枯葉や落葉がいいと言う修行僧のような彼に、心の底から降参である。