自分の正体 260111
2026/1/11
何で飯を食っているかを、様々な職業名で分類してくれている。私は年金による収入が主であることから、無職という分類に入る。それでは、名刺に印刷する肩書は「無職」なのかといえば、それには抵抗感がある。
氏名だけあればいいじゃないかという指摘もあるなかで、それでも肩書によって社会性が担保されているような安心感もあって、「草月流師範会理事」の名刺が手放せない。いけばなをしている他人の名刺をいただくと、〇〇流師範とか〇〇流教授のほかに、華道家、いけばなアーチストなどなど、皆さん苦心されている。いけばな師だとか花師というのは、まだお目にかかっていない。
他のジャンルで参考になるものはないかと見回すと、料理研究家が応用できそうだ。国家資格の調理師ではなく、料理家でもなく、料理研究家なのである。そのノリで「いけばな研究家」が現れても悪くない。花研究家としてしまっては、牧野富太郎のように図鑑をまとめなければならないから重荷だ。
別に肩書がなくても花はいけられる。しかし、あって邪魔になることもない。「花咲か爺さん」を考えたこともある。
花鋏の重さ 260110
2026/1/10
庭のホトトギスとツワブキの、花が萎れた茎を切る。満開はとうに過ぎているのに、冷たい冬風に揺れて、咲き残った花が灰色がかった曇り空に色を添えている。鋏を持つ手がキンキン冷える。手袋はしないから、鉄の冷たさが直接貼り付いてくるのだ。
冬場は手のひらの乾燥が激しく、鋏の柄がよく滑る。強く握っておかないと、ちょっとした拍子に抜け落ちる。握力が落ちたことも無視できない。70歳くらいまでは筋力の心配はしたくなかったが、こんな調子では本当の仕事はできない。
あなたの仕事は何ですか? と聞かれることに、申し訳なさを抱く。い、い、いけばなを教えています……と小さく答える。万一、何で食っていますか? と聞かれたら答えられない。いけばなだけでは食えてない以上、それを生業と言うのは恥ずかしいから。
日本人が、食うために箸を駆使するように、なんびとたりとも、いけばなのためには鋏を使いこなせなければならない。昔の電車やバスには車掌がいて、改札口の駅員も皆、鋏を持った手でカンカンカカンとリズムを取りながら切符を切っていた。やってみたけれど、乱れる。
花いけの日常性 260109
2026/1/9
愛と言い切るのはおかしいし、愛情というほどでもなく、愛着を持っている、というのが私の庭木に対する思いだ。10年くらい前に庭師をお断りして、自分で庭木の剪定を始めたものの、思った以上に大変だ。
さて、人間は毎日の生活でさりげなく言葉を使っているが、それを俳句や詩にすると、生活の言葉ではなく芸術になる。庭木の枝を1本切って、さりげなくウイスキーの空き瓶に挿しただけではいけばなにならないが、意識的に花器にいけるといけばなになり、もっと意識的に立ち向かうと芸術になることもある。
このように、日常的で特異でもない切りばな花材を、特別なタレントに仕立てるのが、いけばなの一面だ。庭の“草木”は、切り取った瞬間に生花それ自身の本質を失い、“花材”と呼ばれる半死の物になり変わる。面倒臭いと放ったらかして、“金の卵”をバケツの中で腐らせることもある。
「切ったからには、よりよい姿に生き返らせよう」という思いで、新たな生を吹き込むのがいけばなだ。花材自身が歓喜するような仕上がりを、日常的にいけられるようになることが、私たちの仕事なのだ。
境界にて 260108
2026/1/9
表現行為は、爆発力0%から100%のプラスの範疇で行われる。外に出さず内に沈むマイナス表現というのは想像しにくい。ひけらかす欲望がアクセル全開のとき、制作者は大満足でも、見る方は「見ちまったぜ!」という後悔に苛まれるかもしれない。反対に、アクセルを踏み込もうとしながら、抑制のブレーキを全力でかけてしまうと、表現行為は1mmたりとも進まず、制作者は悶々とした時間を過ごすことになる。他人にとっては、無駄なものを見ずに済む。
自己表現欲求のアクセルと社会的自制心ブレーキとのバランスで、結果としての作品ができる。いけばなは、純粋な芸術と比べるとブレーキがかかっていることが多い。私の中では、神社での献花に最もブレーキがかかっているのは致し方ない。
一般的に、茶室における花、卒業式での花、旅館の玄関の花などなど、そこに集う人々は芸術作品の鑑賞に来るわけではない。そしてもう1つ寂しいことは、いけばな展であっても、来場者の多くは芸術作品の鑑賞に来る感覚ではない。
いけばなは、芸術と生活の波打際で、泳いだり浜に上がったり、忙しくしている。
個性を隠す 260107
2026/1/7
1980年代は、ウイスキーといえばサントリーオールドが全盛だった。私がアルバイトをしていた銀座のホテルが提供していた銘柄は、英国のブレンデッドウイスキー「バランタイン」で、バランスの良い透明で華やかな味が素敵だった。
松山で会社員になってお金に余裕ができた頃、スコッチのシングルモルトウイスキーを中心に飲ませるバーが現れた。入り浸っているうちに、スモーキー且つピーティーなアイラ島の味の虜になった。とにかく、香りと味が際立って強い。
ところが、60歳頃から、エッジの立った味がしんどいと感じることが増えてきた。人の話によると、本場グラスゴーの酒飲みはシングルモルトの比較的明瞭な味を簡単に美味いと言うよりも、ブレンデッドの微妙に隠された味を探して首をひねる方が好きらしい。通(つう)になると、重箱の隅をつつきたくなるわけだ。
通(つう)ぶりたい時は、花を見ても「まあ綺麗」と即座に言わないこと。「うーむ」と唸って首をひねろう。いける人も、特徴を出して分かりやすいいけばなにするのは避けよう。角を隠して、一見個性のない作品に仕上げよう。