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いけばな随想
diary

いけばなの目 260315

2026/3/15

 2027年に、草月は創流100周年を迎える。昔の資料が欲しいと思っていると、そんな機会に恵まれるもので、昨秋から草月に関りのある古い花器や書籍などが集まり始めた。幸運を招くためには思うだけではだめで、会う人ごとに喋っていたのが奏功したのだろう。
 得られた書籍や資料は50年くらい前のものが多く、当時の私は高校生である。私が所属した美術部の顧問教師は若く、絵を描きながらサックスを吹いたり、詩人や書道家や舞踏家らと合同で舞台を演ったりしていた。それを真似て、私も美術部と書道部と写真部の交流を始めた。文芸部の友人を真似て自費出版冊子も仲間と作ったし、VYSの人形劇も手伝った。
 草月の100年を書籍や資料で振り返ると、草月はいけばなの世界外との交流が盛んだった。草月ホールに様々な芸術文化が集まってきたことも大きい。第三代家元の宏といえば、もとは映画監督として名を上げていた。
 いけばなを遅い年齢から始めた私の役割を思うと、いけばなそのものの力量には限界を感じていて、「いけばなのための視野の拡大」に貢献できるかもしれないというところだろうか。

庭師と私 260314

2026/3/15

 来年のいけばな展のため、改めて萬翠荘の各所の長さを計測に行った。顔見知りの庭師が、ブロワーで落葉を吹き飛ばしていた。養生のため「芝生内立入禁止」の札があちこちに立てられていて気が引けたが、私たちは全貌を俯瞰する必要から芝生の中も計測した。
 3~4年前から何度か顔を合わせるうちに、彼は「(展覧会花材として)要るのがあったら、切っていいよ」と言ってくれるようになったが、私は竹と葉蘭くらいしか切れない。下手に剪定すると、元の木を台無しにしてしまいそうで恐いのである。庭師の買いかぶりであることは、庭木を相手に苦しむ私自身が証明している。
 庭師は、そこに生えている木の全体を生かすという考えが根底にあって、枝打ちするにはどこがいいかも知っている。いけばなをする身では、既に切ってある枝を花屋で買ってそれを生かそうとするだけなので、切り残された元の木のことにまで思いが至らない。
 同じように木を扱う仕事なのに、切り残した幹と根に情熱を傾ける人と、切り落とした枝にこだわる人とが対照的で不思議な思いがして、一人こっそり笑ってしまった。

90分1本勝負 260313

2026/3/14

 ある企業の、社内コミュニケーション促進のプログラムで、いけばな体験会を開いてもらった。講師は私と仲間の2名、参加者は21名で、うち1人の草月流の若手がアシスタントをした。
 プレバト風に! という無茶な注文は笑って無視したが、ホントに素人は無邪気で恐い。しかし、社風なのだろうか、積極的に自分をさらけ出せる人が多くて助かった。初めての人がほとんどだったにも関わらず、皆さんのいけていく手が早く、疑問や質問をぶつけてくることにも躊躇がない。
 ビギナーズ・ラックというのは、なにも不思議なことではなく、先入観がない状態で新しい事をやると、キャリアのある人間が予想していない切り口を見せることが往々にしてある。いやはや、そう来ましたか! という出会いは、こちらの方が興奮してとても楽しい。
 しかし、ただ喜びの表情を浮かべているだけでは、多少とも報酬をいただく身としては失格である。宣言通り、作品には「難癖」を付け、相手の人格は否定しないように気を付けながら講評し、私の一手を加えて回る。言葉数も手数も多いと、相手も自分も納得感が低くなる。

いい花器とは 260312

2026/3/13

 昨日、子規記念博物館でいけこみをしていると、来館した老夫婦の男性が沈丁花の花に顔を寄せて、「いい香りだ、いい枝だ」としきりに呟いていたので、私は「どうですか」といけばなに対する意見を求めた。
 彼は、待ってましたとばかりに「この沈丁花の枝ぶりは、見つけてくるのも手間を掛けられたんでしょう? 花屋ではとてもこういうものは手に入らない」と言う。「植物にお詳しいんですね。庭木でも育てていらっしゃるんですか? 実際のところ、この枝は知り合いの庭からもらってきました」。
 すると、「花器もええですなあ。花器が良くないと、花も冴えないですからな。私は画家をしていましてね、花の絵をよく描くんですが、花器が悪いと絵も仕上がらない。花器がしっかりしていると、絵も生きてくるんですよ」ときた。「これは一本取られました!」
 確かに、花器によって気分も上がったり下がったりする。花との取り合わせにもよるが、どうにもできない花器もある。基本的には、どうにもならない花器はなくて、自分が使いこなせるかどうか、花器に力量を試されていると思うようにしている。

無をいける 260311

2026/3/13

 子規記念博物館の、玄関の花台と子規像の位置を逆にできないか、昨日の思い付きを相談してみた。検討の余地はあると言っていただけたが、お話を伺った上での私の考えはこうだ。
 開館当初、彫刻家の手になる子規像が設置された。玄関を入った風除室の広い壁面の中央である。座像に向かって右上には、博物館名が控えめにある。その2つだけの、一切無駄のない完璧な空間が仕上がった。ところが、寒々しいと感じる人が多かったのではないか。それで、いけばなを飾る花台が置かれた。次々と、企画展の内容を伝える掲示や、関連パンフレットを置く棚も置かれた。そして、温かみのある空間になればなるほど、設計者の企図から離れていった。
 おかげで、私たちのいけばなを見ていただけるようになったので、とやかく言う筋合いではないが、ひょっとすると、いけばなの良し悪し以前の課題を考えなくてはならないのかもしれない。いけばなに省略が重要であるように、空間にも省略が重要だということである。
 いけばなで、「ない」という空間をいけることを徹底すれば、物を排除するといういけ方になる。

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