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いけばな随想
diary

花の価値 251127

2025/11/27

 バラを見て、私の目は愉しいけれど、嬉しいというほどでもない。ポピーがあれば、私の目も心も切なさと愛しさが入り交じった気分に満たされる。ポピーの絵でも同じ気分だ。私にとってポピーは、哀愁や哀惜の情を呼び起こすシンボルだ。
 花で人生を送っていない人にとって、地球上にポピーが存在していることの価値など想像できないだろうし、また、なぜポピーなのかを説明したくても、その魅力を言い尽くせる言葉がこの世にないのだから仕方がない。「いけばなはいいですよ」という言葉も、それに価値を見出した私には必然だけれども、そうではない人には届かない。
 花より団子という諺には、時々の状況によって反発したいし、また同意せざるを得なかったりする。どんなに価値がある宝石も金も、土地も家も、他人の物は自分の物ではない。その点では、他人の物でも自分の物でもない、重信川の河原で揺れて咲く外来種のオオキンケイギクや、三ケ村泉の水底のクレソンに価値を見出すのは風流かな?
 枯れる花を使ういけばなも、萎れて枯れて原形を留められない。それに価値を置く姿勢は雅かもね。

無理解と理解と 251126

2025/11/26

 いけばなを自分が始めるまでは、親しい人のいけばなに惹かれても、感動の仕方が解らなかった。「綺麗だね」これで精一杯。感動を表す言葉を知らなかったともいえる。
 いけばなを続けるうちに、いけばなを語る言葉をたくさん覚えた。今度は、感動するよりも前に、そこに見えているいけばなを言葉でスケッチしてしまう。損な話で、美術館の学芸員が鑑賞者のために解説原稿をパンフレットに書くみたいに、思考と論理で作品を搾り取る。言葉で搾り取ったあとの作品は、もう絞り滓である。
 2人以上のお互いの考えや感じ方は、言葉でコミュニケーションを取るしかない。相手がいけばなをしていない人だったら、私は思い付いた言葉で気兼ねなく話し、相手もぼんやりと解った気になって「ホント、いいですねえ」と相槌を打って、会話は幸福に終わる。
ところが、いけばなをしている相手に対して、私はどうしても身構えてしまう。微妙な内容まで理解し合えるものだから、ちょっと用語を間違えると、意思や本心と異なるメッセージが相手に伝わってしまう恐れがあるからだ。解り合えるからこその面倒だ。

簡素な空間 251125

2025/11/25

 今日は、松山中央郵便局にお弟子さんの1人がいけるのに付き合って、改めて感じることがあった。そこは、預金や保険や諸々の掲示物が氾濫していた。
 いけばな作品については「単純化の極」という方向性があることを我々は知っているが、いけばなの空間については「簡素化の極」が望まれると思った。
 それがいけばなであろうとなかろうと、何かを物が溢れかえっている部屋に飾ろうとしても、結局のところ空間を更に汚すことになっても美しく飾ることはできない。いけばな自体に疎密や強弱をつくっても、空間全体が密であるならば、その一部でしかないいけばなには存在する余地がない。時代劇などからも想像できるように、日本の住空間は基本的に物がなく室内の密度が低かった。造り付けのものといえば床の間くらいで、密度の高い部分といえば欄間の透かし彫りくらいだ。部屋空間の密度が低いために、花をいけるとその部分の密度が途端に上昇して強弱のアンバランスが生じ、それで部屋全体に生気が宿るのである。
 重い部屋には、より重いマッス作品をいけるか、たくさんの空気をいける他はない。

鈴なりの柿 251124

2025/11/25

 今日も吹きガラス工房を訪れ、空き時間にたまたま地図を見たら、知らない道があった。山間部を車で走るのが好きな私は、早速その県道154号を行ってみた。
 玉川町から段々畑を左に見ながら山道に差し掛かる。「東予玉川線」の標識があり、「自転車に注意」の看板がいくつも立っている。センターラインのない曲がりくねった道を、誰が自転車で走るん? と思ったら、いるんだな! 沿道には葉を落として実だけの柿の木が多く見られ、中でも明らかに実の数が多過ぎる柿の大木の元で、サイクリスト2人が農家の人を掴まえて話し込んでいた。
 紅葉が不十分で寂しい山々の景色に、枝の折れないのが不思議なくらい鈴なりの柿の木1本が、華を添えているのだった。
 それを見て、色彩の強さを改めて感じた。そして、たわわな柿の重さに耐えかねるように枝垂れて“がんばっている”様子、柿色の玉の密集具合。これは、いけばなの構成要素である「色・線・塊」を、1本の木が合わせ技で体現していると驚いた。しかも、「場にいける」という点でも、場を生かし、場に生かされたあり方をも十分に示していた。

吹きガラス 251123

2025/11/23

 吹きガラス工房での「一輪挿し」の制作体験。草月流の愛媛県支部で取り組んだ研究会だ。サンプルがたくさん並んで、選択肢が3つ提示された。形状、色彩、ひび割れや泡立ち加工の有無である。私は、花のつぼみのような形状、透明ガラスに白と桜色の斑紋、ひび割れ文様を下半分に施すと決めた。
 吹きガラスは、長さが130cmくらいの吹き竿の先で作品をつくる。自分の目から離れているので、吹き加減がよくわからない。また、磁器を焼くときのような絵付けができないので、斑紋の大きさや疎密は偶然に頼るところが大きい。ともかく、熱く焼けたガラスに直接手を触れられない遠隔操作が、こんなにもどかしいとは思わなかった。
 ただ、花瓶の挿し口を成形する際、一旦広げてしまうと改めてすぼめることができないという、いけばなで言えば、一旦切ってしまった枝は元に戻せないこととの共通性もあった。また、いけばなの花材がみるみる萎れてくるように、ガラスも吹き竿の回転を止めると垂れるので、くどくど悩んでいられない手強さが短時間勝負を強制してくる側面も、いけばな制作に似ていた。

講師の事