思わぬ出会い 260129
2026/1/30
SNSやマッチングアプリによる出会いは、自分からのアクションで出会うタイプも人数も自分で制御できる。メリットも大きいが、出会いの範囲に意外性が起こりにくいという面も否定できない。
昔は、結婚関係、仕事関係を問わず、リアルな出会いの場があった。業務上は、こんにちでも同業者同士では協同組合などがあるし、商工会議所、商工会、経済同友会、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、倫理法人会等々、先輩企業が結び付きを活発に取り持ってくれる異業種交流の場がある。
そういう会に入りたくても入れない人は、それなりの異業種交流会を自分で立ち上げた。そんなインフォーマルな会には規約もなく、ただ飲み会で騒ぐだけというものも少なくない。それでも有難かったのは、思いもよらない人に偶発的に出会うチャンスがあったからだ。
いけばなの地方組織が硬直化するのは、同業で凝り固まっているのと、おこがましいメンバーが閉鎖的に他を排除しがちなことによる。新しい風が吹きにくいということに尽きる。期せずして襲い来る自然災害は御免でも、思いがけない出会いは楽しい。
できるフリ 260128
2026/1/29
若い世代と話してみて、大勢が勉学や自己投資に勤勉なことと、物事に対する損得勘定が早いことを感じる。なぜ、そんなに追い立てられるように、いろいろなことをちゃんとするの? と聞きたいくらいだ。もっともっといろいろなことを、やり散らかしてみたらいいのにと思う。老獪に計算ずくで手堅くやって計算通りうまくできたとしても、何の面白味もないだろうに。
しかし、私自身は老獪にやらねばならない歳で、いまさら奇をてらうのも若気の至りという自覚もあり、トライして失敗するより教師としていけばなが上手なフリをしなければならない。そのためには型(花型法)をマスターするのが手っ取り早く、それをマスターさえすれば、頭で考えなくても手が勝手に働く。
自由花創作の場合は事情が違って、体と同時に頭を動かす必要がある。できる・できないが、容赦なく表れるからだ。
来年、草月創流100周年迎えるにあたって、できなかったことをできるようにしておきたいものだ。できるフリだけでは、全く突破できない。後ろ指を指されても仕方がない年齢と立場になってしまっているのだから。
日課のいけばな 260127
2026/1/27
K君のことは、生徒とも弟子とも呼ぶことがはばかられる。彼は私より遠くへ、イッてしまっているからだ。距離的に遠くへ行くのではなく、そこに居ながらイッているという、まさに芸術家が芸術家の花をいけている。勅使河原蒼風の作品に比べて、無機的な性質と重量の軽さが彼の作品の印象だ。
Yさんの作品もイッていたことを思い出す。Yさんのいけばなは、手数が多い時と少ない時があったのに対して、K君のいけばなは一定して省略が効いている。
私はと言えば、はなをいけることが特別ではなく、日々のルーティンになりつつある。表面的には悪いことではない。いけばなをする人になったなあと自賛してやりたくもある。しかし、そこには怠惰と妥協が入り込み、質の低下を招くことに繋がっている。朝夕に歯を磨く感じ。これはピンチだ。
人に見せる意識が薄く、自分だけを相手にしているわけで、美しく仕上げるよりも花材を余らせないことに軸足が置かれるからである。レストランの賄い食のような、花材の消化試合みたいな感じかな? という、なし崩し的な取組が非常にマズい日課なのである。
グローバル化の草月 260126
2026/1/26
19世紀、ヨーロッパ芸術として西洋絵画の伝統を揺さぶったとも評価されている。西洋美術は、上流に浮世絵が伝わり、日本趣味としてもてはやされると共に、階級の保守的な哲学や教養と、金銭的後ろ盾による囲い込みから、変革のチャンスを得にくかったのかもしれない。
そんな堅苦しさを、異文化である日本の美術工芸品が現れることで、ことさら後ろ指を指されることなく変化を起こせたという見立てもある。日本人の与り知らぬところで、シニャックやゴッホのほか、たくさんの芸術家が日本の美術工芸を芸術として受け入れた。
さて、1927年に興った草月流であるが、記憶しておかなくてはならないのは、初代家元の蒼風は、「人類に花の芸術を普及したるにより」インターナショナル・トロフィーをパリで受賞している。彼のヨーロッパでの評価が逆輸入され、日本でも「前衛いけばな」と呼ばれることになったが、現在の日本国民の大多数はこれを知らないし、草月人の認識も浅い。
一方では幽玄の世界や、禅や、侘び寂びを目指す態度も捨て難く、他方では芸術の土俵へ上がる使命にもビビる私である。
グローバル化と日本文化 260125
2026/1/25
政治経済のグローバル化に並行して、芸術文化のグローバル化も、既にかなりの度合いで進展した。その状況下で自国第一主義が欧米に台頭し、国際的な協調ムードは減退し、至る所で衝突が絶え間ない。
私たちは、日本文化だ伝統文化だと言っていても、もう既に国際化の大きな土俵に投げ出されていて、いけばなの組織も海外支部の方がむしろ活発に見えたりする。もともと欧米人は耳目を引く演出に長けているし、いけばなでも小技よりも大技が目立ち、こうなると日本らしい日本のいけばなは、西欧型の論理的にアピール度の高い表現で競争するのではなく、より一層「幽玄」の世界へ向かうことが、伝統のユニークさを生かすことになるという考え方はアリだ。
西欧型の論理と私が言うのは、構図における遠近法や彩色上の色彩論などで、それらは分析と説明が可能であり、日本の伝統たる幽玄は、なかなか分析できるものではなく説明がつかないこともあって、それゆえに幽霊の幽の文字が当てられている。
西欧芸術に伍して始まった草月流のいけばなという自覚と、日本らしさの見直しは、現世代の課題だ。