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いけばな随想
diary

いけばなの伝統 260106

2026/1/6

 日本らしさは、日本の中だけでは成立しない。西洋に対して東洋が意識されるように、西洋文化や中国文化という対象がなければ、日本文化というカテゴリーも生まれない。他との差異によって捉えられる日本文化だ。
 また一方、西欧に騎士道があるのに対して 日本には武士道があった。新渡戸稲造の『武士道』は、剣術についてではなく義や仁などの人倫についての内容が主であり、騎士道が「ノブリス・オブリージュ(大きい責任のもとでの優越的地位)」にプライドを置いていた点で、両者は通じ合う。他との類似に注目して見い出せる日本文化だ。
 華道はその狭い領域に留まらず、茶道や書道その他の「道」と共通する伝統の土台を持っている。茶道における日本文化の伝統を数え挙げたら、華道におけるそれと大いに一致点があるだろう。なぜなら、華道も茶道も別々の日本人がやっていたことではなくて、きっと武士道的センスを大事にする1人が、さりげなく全部やっていたことだから。
 そのような日本人は特別ではなく、普通の人だった。普通の日本人の普段の生活の中に、いけばなの伝統も潜んでいる。

伝統とは? 260105

2026/1/5

 まずは体の構えがあって、次に心を入れるという順序が、習い事の初期段階ではないだろうか。身構えができてはじめて心構えに向かう。神様も、依り代があってこそ降りて来られる。カタチは大事だ。
 伝統というものは、その奥義を易々と覗き見ることができない。いけばなも「型」を依り所として、蜘蛛の糸のように心細い糸を頼りに“奥の院”に降りて行かなければならない。頼るものが何もない状態で、一気に核心に触れるような跳躍は難しい。
 昭和の時代、良妻賢母になるための習い事が盛んに行われた。料理・裁縫・お茶・いけばな等々である。それは、自分を表現する手段というよりも、女性に対して自分を殺して戦後日本を安定成長させるために仕掛けられた罠であった。逆に男性は、そういうことに見向きせずひたすら生産行動に邁進すべく方向付けられた。
 いけばなの伝統は、そこで一旦途切れている。そもそも、いけばなが興ったとされる室町時代の日本家屋は板張りである。常に正座でいけていたとは到底考えられない。日本の四季と特別感を出そうと思っても、世界中にそれなりの四季はある。

語り部 260104

2026/1/4

 100年の歴史を振り返るというのは、普通に考えて面倒臭いことだ。それをAIに「いけばなとは要するにどういうものか」と聞けば、4行で答えてくれた。「いけばな草月流の100年の歴史を総括すれば?」と聞くと、1秒で8行の回答が出た。いまさら、語り部は不要なのでしょうか?
 伝統文化においても、技術の継承や先進技術の修得は必要だ。しかし、惧れを振り払って言えば、いけばなというものに大層な技術は要らない。それよりも大事だと思う事柄がたくさんある。ところが、たくさんあることをたくさん喋ると、誰も聞いてくれない時代になった。1人でも耳を傾けてくれる人がいれば、語り続けるべきだとある人は言う。
 私ですら、たくさん喋りたいことがあるのだから、私より先輩はもっと喋りたいことがあるに違いない。それを半現代人の私は聞き逃してきた。早く聞いておかなければ、聞く機会が失われてしまう。
 草月流の家元は、いま四代目である。家元の言葉も聞き洩らさないようにしなければいけないし、初代、二代目、三代目家元の作品から、語りたかったことを掘り起こさければならない。

AI表現 260103

2026/1/3

 終活として、去年から録画していた映画を見直している。1970年代は、客の「入れ替え無し」、「3本立て」や「オールナイト上映」も多く、1,000円で長時間楽しめた。オールナイトだと思い込んで映画館に入り、朝4時に徳島市内の冷たい町に放り出されたこともある。
 今日は、『007』の第6作から第8作を3本立てで見ようと思ったのに、第7作「ダイヤモンドは永遠に」の途中で何度も眠たくなった。その度に巻き戻して見るから、2時間の映画を見るのに2時間半もかかった。
 『007』シリーズは、ストーリーも演出も単純なので、途中で眠ってしまっても全体が理解できなくなるということはない。文字で書かれた脚本を映像化するというのは、たとえば大爆発やカーチェイスなどはとても大変なことだったし、映像が見る側の私の想像力を超えることが稀だったからだ。こんにちでは、SFXやAIで何でも映像化できる。むしろ、非現実的な映像を言語化することが難しいくらいだ。
 思想や言葉と視覚表現との間に、緊密な関係が見えるか、解離が見えるか、最近のAIいけばなを見ても面白さの本質を考えさせられる。

表現の燃料 260102

2026/1/3

 献花祭でいけばなを奉献した。いつもは繋がった1つの連続空間の本殿と拝殿とが、今日は薄衣で2つに隔てられていた。幕が掛かっているとはいえ布地が薄いので、向こう側の様子は半分見えている。
 いつもは低い拝殿でいけた花を、階段を上って神職が本殿に奉るのだが、今日は本殿の中で花をいけた。その最中もずっと、私の背後ではお賽銭が投げられる音と、手を打つ音が聞こえている。しかし、布地1枚で区切られただけにしては神聖さが格段に強く感じられ、参拝者の気配はずいぶん遠い所にあるような気がした。
 昨日「感知」という言葉を使ったことを振り返った。「感じる」ことは、「知る」こととは少し違う。「感知する」というのは、感じることと知ることの両方を含んだ便利な言葉なので、胡麻化しがあってズルかったと思う。
 何が言いたいかというと、知ることも自分の表現に影響を与えるし、感じることも同様だとしたうえで、知ったことで自分の表現に与える変化は、感じたことで与えるそれには到底及ばないということである。知覚よりも感覚で直接的に感じることが、表現の燃料となる。

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