日課のいけばな 260127
2026/1/27
K君のことは、生徒とも弟子とも呼ぶことがはばかられる。彼は私より遠くへ、イッてしまっているからだ。距離的に遠くへ行くのではなく、そこに居ながらイッているという、まさに芸術家が芸術家の花をいけている。勅使河原蒼風の作品に比べて、無機的な性質と重量の軽さが彼の作品の印象だ。
Yさんの作品もイッていたことを思い出す。Yさんのいけばなは、手数が多い時と少ない時があったのに対して、K君のいけばなは一定して省略が効いている。
私はと言えば、はなをいけることが特別ではなく、日々のルーティンになりつつある。表面的には悪いことではない。いけばなをする人になったなあと自賛してやりたくもある。しかし、そこには怠惰と妥協が入り込み、質の低下を招くことに繋がっている。朝夕に歯を磨く感じ。これはピンチだ。
人に見せる意識が薄く、自分だけを相手にしているわけで、美しく仕上げるよりも花材を余らせないことに軸足が置かれるからである。レストランの賄い食のような、花材の消化試合みたいな感じかな? という、なし崩し的な取組が非常にマズい日課なのである。
グローバル化の草月 260126
2026/1/26
19世紀、ヨーロッパ芸術として西洋絵画の伝統を揺さぶったとも評価されている。西洋美術は、上流に浮世絵が伝わり、日本趣味としてもてはやされると共に、階級の保守的な哲学や教養と、金銭的後ろ盾による囲い込みから、変革のチャンスを得にくかったのかもしれない。
そんな堅苦しさを、異文化である日本の美術工芸品が現れることで、ことさら後ろ指を指されることなく変化を起こせたという見立てもある。日本人の与り知らぬところで、シニャックやゴッホのほか、たくさんの芸術家が日本の美術工芸を芸術として受け入れた。
さて、1927年に興った草月流であるが、記憶しておかなくてはならないのは、初代家元の蒼風は、「人類に花の芸術を普及したるにより」インターナショナル・トロフィーをパリで受賞している。彼のヨーロッパでの評価が逆輸入され、日本でも「前衛いけばな」と呼ばれることになったが、現在の日本国民の大多数はこれを知らないし、草月人の認識も浅い。
一方では幽玄の世界や、禅や、侘び寂びを目指す態度も捨て難く、他方では芸術の土俵へ上がる使命にもビビる私である。
グローバル化と日本文化 260125
2026/1/25
政治経済のグローバル化に並行して、芸術文化のグローバル化も、既にかなりの度合いで進展した。その状況下で自国第一主義が欧米に台頭し、国際的な協調ムードは減退し、至る所で衝突が絶え間ない。
私たちは、日本文化だ伝統文化だと言っていても、もう既に国際化の大きな土俵に投げ出されていて、いけばなの組織も海外支部の方がむしろ活発に見えたりする。もともと欧米人は耳目を引く演出に長けているし、いけばなでも小技よりも大技が目立ち、こうなると日本らしい日本のいけばなは、西欧型の論理的にアピール度の高い表現で競争するのではなく、より一層「幽玄」の世界へ向かうことが、伝統のユニークさを生かすことになるという考え方はアリだ。
西欧型の論理と私が言うのは、構図における遠近法や彩色上の色彩論などで、それらは分析と説明が可能であり、日本の伝統たる幽玄は、なかなか分析できるものではなく説明がつかないこともあって、それゆえに幽霊の幽の文字が当てられている。
西欧芸術に伍して始まった草月流のいけばなという自覚と、日本らしさの見直しは、現世代の課題だ。
閑雅ないけばな 260124
2026/1/24
とても上品な学校の先輩がいる。1年あまり前のいけばな展で、そのご婦人がいけばなをしていることを偶然に知って驚いた。彼女の作品は、挿している花々は洗練されて小さく、それでいて周囲から際立って目を引いた。アスパラガスとアンスリウムの緑、オンシジウムの黄色、ノイバラの赤い実に対して、足首の細い黒い花器とチョコレートコスモスの暗い色とが怪しかった。その「暗く黒いリズム」は、今でも思い出せる。
その時に感じた印象は「風雅」だったが、改めて思い直すと、あのいけばなは「閑雅」だった。風雅という言葉は、悪く言うと、ひけらかす感じのわざとらしいニュアンスが奥床しさに欠ける。閑雅の方が鄙びた感じを含んで、より精神性が高く感じられる。
精神性とまで言ってしまうのが堅苦しいならば、侘び寂びと艶っぽさが一体的に感じられて魔法のようだった。魔法は解けると、そこには幻滅が残る。しかし、あの時のあのいけばなは、秘すことで見る者を魔法にかけて、ついに解けることなく消えてしまった。いけばなの素敵さは、謎を解く暇を与えず消えてしまうところにある。
表現のウラオモテ 260123
2026/1/23
悲しいから涙を流す表現と、悲しいから涙をこらえるという表現とがドラマにはある。俳優は、彼の経験や想像力によって、台本の真意を探りつつリアリティのある演技を追究しなくてはならない。また、一般人の一般的な見方では、能面は表情の乏しいことと見なされがちだが、鑑賞に慣れた人にとっては、隠された心をより深く感じさせる誇張された表情にも見えるそうだ。
これらのことから言えるのは、大袈裟で直接的な表現は、その派手さによって却って噓臭く感じさせる惧れがあるということだ。“陰ながら”“秘かに”“むせび泣く”というところに、悲しみの深さが感じられるというもので、“髪を振り乱して”“地面に頭を打ち付けながら”“オイオイ泣く”のは、近隣の某国の悲しみ方の流儀で、日本人にはそういう泣き方が理解しがたい。
また逆に、いけばなをインターナショナル化しようとする意図のもとでは、ある程度の単純化や形式化も必要で、解りやすくなければ広まらないというジレンマもある。
しかし、先を見てしまった者が、あえて現在地に留まったり後戻りするのは愚かである。