境界にて 260108
2026/1/9
表現行為は、爆発力0%から100%のプラスの範疇で行われる。外に出さず内に沈むマイナス表現というのは想像しにくい。ひけらかす欲望がアクセル全開のとき、制作者は大満足でも、見る方は「見ちまったぜ!」という後悔に苛まれるかもしれない。反対に、アクセルを踏み込もうとしながら、抑制のブレーキを全力でかけてしまうと、表現行為は1mmたりとも進まず、制作者は悶々とした時間を過ごすことになる。他人にとっては、無駄なものを見ずに済む。
自己表現欲求のアクセルと社会的自制心ブレーキとのバランスで、結果としての作品ができる。いけばなは、純粋な芸術と比べるとブレーキがかかっていることが多い。私の中では、神社での献花に最もブレーキがかかっているのは致し方ない。
一般的に、茶室における花、卒業式での花、旅館の玄関の花などなど、そこに集う人々は芸術作品の鑑賞に来るわけではない。そしてもう1つ寂しいことは、いけばな展であっても、来場者の多くは芸術作品の鑑賞に来る感覚ではない。
いけばなは、芸術と生活の波打際で、泳いだり浜に上がったり、忙しくしている。
個性を隠す 260107
2026/1/7
1980年代は、ウイスキーといえばサントリーオールドが全盛だった。私がアルバイトをしていた銀座のホテルが提供していた銘柄は、英国のブレンデッドウイスキー「バランタイン」で、バランスの良い透明で華やかな味が素敵だった。
松山で会社員になってお金に余裕ができた頃、スコッチのシングルモルトウイスキーを中心に飲ませるバーが現れた。入り浸っているうちに、スモーキー且つピーティーなアイラ島の味の虜になった。とにかく、香りと味が際立って強い。
ところが、60歳頃から、エッジの立った味がしんどいと感じることが増えてきた。人の話によると、本場グラスゴーの酒飲みはシングルモルトの比較的明瞭な味を簡単に美味いと言うよりも、ブレンデッドの微妙に隠された味を探して首をひねる方が好きらしい。通(つう)になると、重箱の隅をつつきたくなるわけだ。
通(つう)ぶりたい時は、花を見ても「まあ綺麗」と即座に言わないこと。「うーむ」と唸って首をひねろう。いける人も、特徴を出して分かりやすいいけばなにするのは避けよう。角を隠して、一見個性のない作品に仕上げよう。
いけばなの伝統 260106
2026/1/6
日本らしさは、日本の中だけでは成立しない。西洋に対して東洋が意識されるように、西洋文化や中国文化という対象がなければ、日本文化というカテゴリーも生まれない。他との差異によって捉えられる日本文化だ。
また一方、西欧に騎士道があるのに対して 日本には武士道があった。新渡戸稲造の『武士道』は、剣術についてではなく義や仁などの人倫についての内容が主であり、騎士道が「ノブリス・オブリージュ(大きい責任のもとでの優越的地位)」にプライドを置いていた点で、両者は通じ合う。他との類似に注目して見い出せる日本文化だ。
華道はその狭い領域に留まらず、茶道や書道その他の「道」と共通する伝統の土台を持っている。茶道における日本文化の伝統を数え挙げたら、華道におけるそれと大いに一致点があるだろう。なぜなら、華道も茶道も別々の日本人がやっていたことではなくて、きっと武士道的センスを大事にする1人が、さりげなく全部やっていたことだから。
そのような日本人は特別ではなく、普通の人だった。普通の日本人の普段の生活の中に、いけばなの伝統も潜んでいる。
伝統とは? 260105
2026/1/5
まずは体の構えがあって、次に心を入れるという順序が、習い事の初期段階ではないだろうか。身構えができてはじめて心構えに向かう。神様も、依り代があってこそ降りて来られる。カタチは大事だ。
伝統というものは、その奥義を易々と覗き見ることができない。いけばなも「型」を依り所として、蜘蛛の糸のように心細い糸を頼りに“奥の院”に降りて行かなければならない。頼るものが何もない状態で、一気に核心に触れるような跳躍は難しい。
昭和の時代、良妻賢母になるための習い事が盛んに行われた。料理・裁縫・お茶・いけばな等々である。それは、自分を表現する手段というよりも、女性に対して自分を殺して戦後日本を安定成長させるために仕掛けられた罠であった。逆に男性は、そういうことに見向きせずひたすら生産行動に邁進すべく方向付けられた。
いけばなの伝統は、そこで一旦途切れている。そもそも、いけばなが興ったとされる室町時代の日本家屋は板張りである。常に正座でいけていたとは到底考えられない。日本の四季と特別感を出そうと思っても、世界中にそれなりの四季はある。
語り部 260104
2026/1/4
100年の歴史を振り返るというのは、普通に考えて面倒臭いことだ。それをAIに「いけばなとは要するにどういうものか」と聞けば、4行で答えてくれた。「いけばな草月流の100年の歴史を総括すれば?」と聞くと、1秒で8行の回答が出た。いまさら、語り部は不要なのでしょうか?
伝統文化においても、技術の継承や先進技術の修得は必要だ。しかし、惧れを振り払って言えば、いけばなというものに大層な技術は要らない。それよりも大事だと思う事柄がたくさんある。ところが、たくさんあることをたくさん喋ると、誰も聞いてくれない時代になった。1人でも耳を傾けてくれる人がいれば、語り続けるべきだとある人は言う。
私ですら、たくさん喋りたいことがあるのだから、私より先輩はもっと喋りたいことがあるに違いない。それを半現代人の私は聞き逃してきた。早く聞いておかなければ、聞く機会が失われてしまう。
草月流の家元は、いま四代目である。家元の言葉も聞き洩らさないようにしなければいけないし、初代、二代目、三代目家元の作品から、語りたかったことを掘り起こさければならない。