感覚と意識 241008
2024/10/16
いけばなは、感覚的にもいけることができるし、意識的にいけることもできる。
感覚はある意味純粋で、思考による作為的な態度の反対側にある。遊びというか手遊びで花をいじっているうちにできてしまったいけばなは、感覚的いけばなだといえるだろう。肉体的いけばなと言い換えてもいい。
意識的ないけばなは、型に引きずられるし理屈をこね回す。ゴールイメージを大切にするのが意識的いけばなの性質だとすれば、目標達成に向けたプロセスを構築していくビジネスライクな取組だともいえよう。頭脳的いけばなと呼べるかもしれない。
私が理想とするのは、この両者のいいとこ取りだ。ゴールをイメージしながら手を動かし、手を動かす感覚に応じてゴールイメージもマイナーチェンジしていく。必要とあらばフルモデルチェンジに移行だ。
日常生活の食事において、昔はまあまあ美味しく満腹になればよかった。今は美味しいことは必須で、その上で満腹になりたい。いけばなをする身になって、それがきれいなことは必須で、その上で独自性を持ちたい。頭脳的いけばなの一層の活躍が望まれるところだ。
専門家の時代 241007
2024/10/16
近年は“専門家”が至る所で跋扈している。部屋の片づけが上手な専門家、断捨離のアドバイザー、寝る姿勢や枕のマイスター、漬物づくりの師匠等々。私は彼らを評価するつもりではなく、人々が暮らしの知恵や技術を失いつつあることを危惧している。
3世代同居が当たり前だった私の子供時代には、近所づきあいも盛んな記憶がある。祖父母や近所のお母さんたちが、暮らしの質を高める知識や技能を学び合う環境があった。親戚づきあいも頻繁で、生活に密着した話題に事欠かなかったし、「玉井家のばら寿司」というような定番のレシピを親戚一同が共有していた。
花をいける行為も、生活サイクルに自然に取り込まれていたと思う。しかし今、いけばなを見ても「よくわからない」とか、「いけばなは習ったことがないから」というふうに、ちょっと距離を置いた反応が少なくない。花をいけることは物を食べることくらい日常的だったはずなのに、さびしい限りである。
人間の行為のほとんどは、生きて生活することに関連したり、そこから派生したりしているものばかりだったのは、遠い昔のことらしい。
場の設定 241006
2024/10/16
花をいける。いけばなが仕上がる。お稽古では、具体的な「場(シチュエ-ション)」を設定していないことがほとんどで、家に帰ってからもう一度いけ直そうとするとき、リビングにいけようか、寝室にしようかと迷ったりする。
そして、そのいけばなの写真を撮ろうとするとき、明かりは重要だ。メインの枝もの(主枝の“真”)に光を当てるか、正面位置にくる“目線の従枝”を目立たせるか、それとも全体を均一な光で包み込むか、光の具合によって作品イメージは大いに変わる。
写真に撮るとき、明かりの次に考えられるのは画角だろう。いけばなの背景をどこまで入れるのかという、写す範囲の問題だ。広く撮った方が、いけばなを含む空間の性質がよく分かる。パーティ会場などの場合は、周辺の人の表情なども写り込んでいる方が臨場感が増す。一方で、作品に近寄って一部分だけクローズアップすることも可能だ。作品そのものに肉薄できる。
ほかにも、一点にピントを合わせて背景や周辺をぼかすなどの方法の他、いけばなの場を作り込むには無限のアレンジが可能で、迷うけれども楽しい作業だ。
ヴィジョンとプラン 241005
2024/10/6
ヴィジョンは描き、プランは立てる。ヴィジョンは言葉で詳細に述べられなくて、プランは言葉で説明できる。
いけばなには「描きいけ」があり、目の前に花材がなくても、まずは自分のインスピレーションや心にずっと温めていたイメージを紙に描いてみる。そして、そのヴィジョンに合わせて花材を選び、実際に制作するという取組だ。
いけばなのキャリアが積み重なってくると、いろいろな花材が頭にインプットされているため、イメージしようとした途端にどうしても花材を先に思い出してしまい、純粋なインスピレーションが立ち上って来なくなる。つまり、ヴィジョンというのは、現実の具体的な物事に囚われると描きにくいもので、ヴィジョンを描こうとしているのに現実的で具体的なプランを立ててしまうことになりやすい。
料理も同じだろうか。宇和海の鯛や松山のアボカドというように、地域特産を前提条件にしてしまうと、食材に囚われて新しい料理イメージが出てきにくいとか……。料理を例に挙げるのは違うか。料理はあくまで口に入り、健康を害さないという具体的な材料把握が必要だから。
孤島の世界? 241004
2024/10/4
哲学は、人間や社会の全てに関わるものだから、昔から欧米の大学では基礎的な学部や学科としての地位を得ていた。その影響を受けて日本の大学にも設けられたが、私の知る限りでは、文学部哲学科という括りがほとんどだったと思う。そして、文学部は実学の反対側に位置付けられ、哲学科は最果ての地にあるようにも感じられた。
私は政治学科に在籍して、ズブズブに世間ズレしていた。本来は政治にこそ哲学が必要なのだが、有権者である国民が経済を優先するものだから、政治家も近視眼的にそれに応えて哲学を無視する。
こうして、哲学は、他のジャンルから切り離されて、絶滅危惧種のように心配される対象になってしまった。いけばなも、哲学同様に仕事や生活の場から切り離され、まるで絶海の孤島での活動だ。
ハレの花もケの花もある。展覧会の花は素晴らしいし、日常の小さくさりげないいけばなも素晴らしい。食事のスタイルと同様、いけばなのスタイルも様々あるということを大事にしたい。入学式の花もあればトイレの花もある。いけばなが、世の中のあらゆる局面に顔を出しますように。