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いけばな随想
diary

自然の力 231104

2023/11/4

 昨日、海辺でインスタレーションを行いました。竹とパンパスグラスで神輿に見立てた筏を組み、(四国八十八ヶ所にちなんで)2mの竹を88本つないだものに結んで沖へ繰り出す計画でした。
 竹を割ったり組んだりする作業は、これまで何度か取り組んだことがあったので、その経験をもとに強度も考えたつもりでした。何より、私はシーカヤックが趣味で遭難の経験もあり、海の怖さは知っています。しかし、水の力は思いのほか強く、私の準備では全く歯が立ちませんでした。打ち寄せる波で、すぐにちぎれちぎれにされ、潮と風にさらわれた筏は“ゴム長”を着て追いかける私の指先をかすめて、あっという間に遠くへ流されていったのです。
 改めて、自然の力を思い知りました。身近な例では、隣の庭からヤマゴボウが越境してきたり、切り倒した枝垂柳の切り株から新芽が出たり、去年咲いていたフジバカマがたった1年でハナトラノオの繁茂に滅ぼされてしまったり、予想外のことが頻繁に起こります。
 花咲か爺さんになりたい私ですけれど、咲かせるも枯らすも、人間の思い通りにはいかないという話です。

文明と文化 231103

2023/11/4

 文明という言葉は、高度成長期を少年で過ごした私にとって輝かしい響きがありました。青年になると、文化という言葉の方により魅力を覚えるようになりました。それが災いして、儲ける楽しさよりも使う楽しさを追い求めた私は、29歳まで借金漬けでした。
 少し成長して、「文化的な暮らし」は「文明的な暮らし」の上に成り立っていると理解した私は、残業につぐ残業でがむしゃらに働き、ひとまず文明的な暮らしを手に入れました。ところが、それにどっぷり浸かると、もっと儲けてやろうという欲求が強くなり、貧乏臭さからの脱却ばかりが人生目標になっていました。結局、合理性だとか利便性の奴隷と化し、若くして体を壊したのです。
 いま、退職して、利便性に流れないものをどれだけ抱えていられるかということを、自分に課し始めました。同時に、汎用性や大衆性の反対側で、どれだけ自分らしさを大事にできるか、いけばなをきっかけに問い直そうとしています。
 文明は生産の側、文化は消費の側で、対立関係ではあるけれど、どちらか一方だけでは人間らしい生活も創造もできません。

解像度 231102

2023/11/2

 年齢とともに視力が落ちるわ老眼になるわで、物を見つめ続けることに疲労を感じるようになりました。明るいところでも暗いところでも目が霞むし、今はいつでも半目で物をボーッと眺めています。
 基本的に、その道でキャリアを積んだ人の見る目は厳しくなります。骨組みも細部も気になるので、他人の作品の評価は厳しいし、自分の作品もなかなか完成しません。
 私自身のことを振り返っても、いけばなを始めた頃は結構自画自賛していましたが、だんだん満足度が低くなり、ついには反省点ばかり気になるようになりました。キャリアとともに、見えるものが増えてくるのです。そして、さらにキャリアを積むと、いけばなを置く空間が見えてきます。空間の大きさや明るさ、人の動く動線、インテリアや小物など……。
 ところが、観察したすべてをトータル・コーディネートしようなどと考えたら、何も手につかなくなるかもしれません。ここで、プロとアマの違いが出るのだと思います。精神力と体力で徹底するか、私のように半目にして薄目で見ることで解像度を下げて妥協するか、この二択です。

仮説と試行 231101

2023/11/2

 いけばなには「折り矯め(おりだめ)」という技術があります。土佐水木などの枝を両手でミシミシと“無理に”曲げて、元の枝ぶりと異なる枝ぶりに変身させる方法です。
 折り過ぎると“骨折したよう”にブランブランと千切れかけて、自立できない枝になってしまいます。どの枝のどの部分をどの向きに矯めるかによって力加減が異なるので、いつも、枝と私の「初めまして」の失敗の関係です。
 その初めての出会いで、これはきっと折れてしまうだろうなと予測して力を入れると、やっぱり折れてしまった! とか、これは180°くらい曲がってくれそうだと思って力を入れると、予想に反して折れてしまった! とか、これを何度も繰り返すうちに、折り矯めができる枝かどうか、触ってみた感じでわかるようになります。木の種類が違っても、大体わかるようになります。
 他人が提示する理論とか、自分の頭で考えた推測とか、“一般的”な常識とか、そういうものが役に立たないのがいけばななのです。自分の仮説と試行の繰り返しによる経験則みが種となって、はじめて身に付いて花開きます。

触感的いけばな 231031

2023/10/31

 日常生活では、五感のうちで視覚が優先しがちです。そんな中、様々な表現活動の中で、いけばなは比較的、触覚の関わりが大きいと思うのです。
 目で見たものは、大体「わかった」ような気になりますが、触ったり嗅いだりしたものは、「そんな感じ」がする程度で、明確にわかったとは言い切れないものがあります。いけばなでは、「そんな感じ」という微妙なフィーリングが大事です。
 日本には四季があることから、日本人は季節感の微妙な違いを細かく感じ分けられるといいます。これは、視覚的な季節ごとの風景の違いに加えて、肌で感じる湿気の重さや気温の上がり具合、風の優しさや流れてくる桜の香りが鼻先で儚く消える感じなど、様々な変化を肌感覚のとても優れたセンサーで感知しているのだと思います。
 いけばなは、この日本人の肌感覚が凝縮されたものだと思います。私は俳句はしませんが、俳人が吟行を好んでするのは、やはり肌感覚で世界を捉え切らないと言葉にならないのではないかと想像します。いけばなは、草花や木を媒介にして、もっと何かを触感的に掴み取ろうとしています。

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