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いけばな随想
diary

自分で探し出す強さ 241002

2024/10/3

中学3年生のお弟子さんがいる。彼の素晴らしさは、お稽古に来た2回に1回は、私を驚かせることである。彼がいろいろな発想でいけたり、より確実な仕掛けを自分で考えてみているとき、私は楽しみで仕方がない。

私は、教えられたやり方やテキストに載っているやり方を学ぶと、ともかく納得して、そこに懐疑的精神が生まれることはない。しかし、彼は違う。彼は、草月の「型」を破りたいわけではない。ただ、教えられることを話半分で聞いているのかもしれないし、テキストに書いてあることをあまり読み込んでいないのかもしれない。彼は、自分が取り組んでいるいけばなの作業の確実性を追い求めているうちに、私が見たこともない作業手法を見つけ出してしまうのだ。

他人に押し付けられたやり方は、それがたくさんの人に支持されていたり、数値的に証明できたりすれば安心できるが、たぶん彼にとっては、不確実なものをいくらたくさん集めても、不確実さは増すばかりなのだろう。

だから彼は、自分の手と頭だけを頼りにして、自分のやり方の正しさを強固で信じられるものに仕上げていくのだ。

雪月花 241001

2024/10/2

四角く長く黒い一輪挿しの胴の3面に、それぞれ雪・月・花の1文字が白く浮き出ている。古いものであることは間違いなく、父の時代のものか祖父の時代のものかどちらかだ。

季節ごとの風情や、気候に表れる特徴や、身近な自然の姿に対して、私たち日本人は昔から変わらず心を寄せてきたといわれる。そういう対象を象徴するのが雪月花だ。これらには、手応えという確固たる存在感はない。何しろ象徴なのだから、実体を伴っているかどうかは初めから問題としていない。

私は、いけばなで“気配”をいけたいと思っていて、でもそれはおそらく自分にしかわからないいけばなだ。他人に受け入れられるためには、少なからず手応えを感じてもらえる主張を伴わなくてはならない。

気配というのは、それそのものだけでは表せない。周辺の物事との関係としてどれが主役なのかわからないという場合に、気配が本領を発揮する。だから、写真を撮って、これが表現したかった気配だというふうに画角を決め込むのが難しい。気配を撮影するときの難関がピント合わせで、どこにもピントを合わせてはいけないのだ。

越境 240930

2024/10/1

血縁の近い者同士の結婚は、タブー視されている。人類の経験的な知恵である。この考え方に倣うと、「習い事でも小さな一流派内の意見ばかりを突き合わせて検討しても、面白い結論は得られない」ということになる。

話が飛ぶけれど、小学生の時、校区外へ行くときは、それが友人宅へ遊びに行くのでも買物に行くのでも、親が同伴でなくてはならない決まりがあったような……。つまり、越境という冒険をしてはならないという暗黙の決まりがあった。しかし、校区の範囲を示す線が道路に引かれているでもなく、いい子は、はっきりしない区切りを自分に課すしかなかった。

だから越境は冒険である。精神的な越境の場合には超えるべき境界線を自分で引く以外にない。境界線では、向こうとこちらの価値観の大きな変化に晒される。

私のいけばなのお弟子さんの1人は、2つの流派を掛け持ちしている。二重国籍者である。両方から不届き者と指差される。私はこの越境に拍手を送る。越境すべき人と、越境して壊れる人がいるというのが、私の見方だ。越境すべき人には、境界線の方がすっと消えてくれる。

枯物を捨てる 240929

2024/9/29

枯物というのは、ドライフラワーをはじめとした枯れた植物を指すいけばな用語だ。枯れた植物を何気なく見過ごすと、それは単に枯れて無価値な物として捨てられることになるが、その枯れた感じが素敵だと気付いたとき、それは花材として第二の人生を歩むことになる。

我が家には捨てられない枯物が増えてきて、次第に限られた空間を占領してきた。しかも数年を経過したヒオウギやニゲラなどが風化して、粉になって崩れ散る。使わないまま大事に取っておいても、結局は儚く脆くも風化してしまうのだ。

私の家では映画のDVDも枯物のようになりつつある。仮に2時間の映画を1日1本観ると、1年で365作品を観ることが可能だ。しかし、せいぜい1週間のうち1日くらい観るのが関の山だから、1年を52週として年に52作品しか観ることができない。

それではマズいのだ! 私のコレクションは720作品ほどあって、これを1回ずつ観ていってもあと14年くらい年数が必要で、その頃には78歳。現実にはもう観ないで捨てるものが出ざるを得ない。人生の一部を捨てるようで忍びないけれど。

アタマの仕事 240928

2024/9/28

手仕事とアタマの仕事は、連携しつつそれぞれ別々の領域を分担している。

いけばなを制作するとき、まずアタマが仕事を始める。ああでもないこうでもないと、あらゆる可能性を検討して、どんどん可能性を広げる仕事をしてくれる。一定のプランが見えてくると、手仕事でミニチュアを作ったり部分的な習作をして、広がった可能性を試してみる。それをすることで、できることよりもできないことがはっきりする。手仕事は、確実性を担保する仕事なのである。

できないことを切り捨てて、できるだろうと思われることの範囲で、また、あれやこれやをアタマが考える。手を動かしてみて範囲を狭める。そして、またアタマが考える。手が「できない」と言っているのに、アタマは「できるはずだけどなー」と、手に対してノーテンキに要求する。

実際のところ人間は工夫する動物なので、「できない」を「できる」に変えてしまえる能力があるから、せっかく狭めた可能性の範囲がまた広がってしまう。1つ広がるともう1つ広げたくなる。アタマは手に対する思いやりなどなく、いけいけドンドンなのであった。

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