技術と情熱 240516
2024/5/18
いけばなの技術が少しは上達してきたと思っている。技術は、学ぶことができるし、積み重ねていくことができる。一度身に付いた技術は、そう簡単に擦り減ることもないはずだ。華道の道は果てしないから、果てしなく技術力は上がっていくだろう。
ところが、何としたことだ! 情熱というやつが、なかなか厄介な代物なのだ。体温が上がったり下がったりするように、自分が自分でコントロールできないところがある。何かのショックですぐに萎えてしまったり、何かの弾みでたちまち燃え盛ったりする。
情熱が乗りに乗っているときは、制作の途中で気付いた失敗に対して、その事実を正面から受け止めて始めからせっせとやり直すことができる。ところが、情熱の火が消えかけていると、だいたいにおいて「ま、いいか」と、良かろうが悪かろうが立ち止まらず振り返らず、いい加減すぐに「できた」と言ってしまう。
技術があると、一定のレベルの物はつくれるだろう。しかし、情熱がないと、それ以上の物はつくれない。情熱があると、時にとんでもない物をつくることができる。仮に技術がないとしても。
「綺麗」の演出 240515
2024/5/18
汚い花より、綺麗な花の方がいいと素直に思う。では、汚いいけばなと綺麗ないけばなは、どっちがいいだろうね? この問いに対しても、少なくとも汚いいけばなは嫌だなあと思う。では、汚い人と綺麗な人のどっちが好き? と聞かれたらどうしよう。「汚いだけの人は嫌いだし、でも、綺麗なだけの人も嫌いだね」そう答えようか。
つまり、綺麗か綺麗でないかというような、イエス・オア・ノーを単純に求めようとする質問のしかた自体がナンセンスであって、そんな問いに答えたところで、別に人生において何の意味もない。
いけばなは、真副控の3つの「主枝」で構造がつくられ、それを取り囲むように「従枝」が何本かいけられる。そして、それが特定の空間に置かれる。もちろん素晴らしく綺麗なバラを一輪挿しに一輪だけいけることもあるだろう。いぜれにせよ、どこにどのように置くかによって景色は大いに変わる。
やはり、いけばなをする人は、総合プロデューサーにならなければならない。「綺麗」のために陰や影をつくり、「綺麗」のために破調も用いて、綺麗なだけの「綺麗」を嫌わなくては!
具象と象徴 240514
2024/5/18
「いければ花は人になる」
これは、初代家元、勅使河原蒼風の言葉だ。「いける」行為が伴うかどうかで、地面から生えていた松が、いけばなという作品に生かされ直して先程までの松ではなくなり、いけた人の人格を纏った存在として立ち現れるのである。
昨日は「松をいけて、松に見えたらダメでしょう」という一節を取り上げて、具体的な花木をいけて抽象化を目指す重要性を考えたが、千利休にまつわる逸話で、庭の朝顔を見に来た豊臣秀吉を迎えるために、庭の朝顔をすべて摘み取って茶室にたった一輪を飾った。この朝顔は、確かに利休の思いと手によって演出されいけられた朝顔なのだが、「朝顔をいけて、朝顔に見えなかったらおかしいでしょう」というくらい朝顔しか見えない。
要は、いける際の意図の問題だ。その一輪の朝顔は、本来一輪だけで庭に咲いているということはないので、その意味で非現実的だ。一輪の花を残して見せるのは、デフォルメ(削除と強調)の極限で、全くもって朝顔にしか見えないいけばなも、この世の具象の朝顔ではなく、別世界の象徴としての朝顔かもしれない。
抽象へのジャンプ 240513
2024/5/15
「松をいけて、松に見えたらダメでしょう」
これが草月のいけばなの目指すところで、私は何度も反芻してきた。
この一見禅問答のようなテーゼは、改めて説明するまでもないとは思うが、敢えて嚙み砕いておく。「グッチを持って、そのバッグだけが浮いて見えたら悲しいでしょう」というのに通じる。トータルコーディネートしたその人の全体が、グッチのバッグ1つに負けているケースだ。
料理にも通じる。「母ちゃん、今日の肉じゃが、この肉すごく美味いね」という誉め言葉を息子からもらった母親は、「わかった? 今日の肉は奮発して高い肉の小間切れだからねー」と言いながら、心の中では「肉じゃなくて、肉じゃがを誉めてほしいんだけどさ」
とはいえ、難しいのは難しいのである。旨い刺身を食べて「うわあ! このアナゴってフグみたいに旨いじゃん!」とか、函館で寿司食べて「うーん、このウニ溶けそー、サイコー!」とか喜んでいるのは、それはそれで刺身とか寿司とかいう料理なのではあるが、本人にはアナゴやウニにしか見えていない。
2日前にいけた芍薬が、芍薬にしか見えない悲しさよ。
いけばなの場 240512
2024/5/13
昨日の茶席にいけられていた芍薬は、直立したその1輪が、部屋の中で最も鮮やかな色彩を放っていた。綺麗だった。ところが、私には物足りなかった。それは、私がいつも花ばかり気にしてしまうせいであって、場を設けた人の部屋全体のしつらえとしては完璧かもしれなかった。
二之丸庭園のその茶室の後背は、城山の緑が萌えたっていて、確かに「山滴って」薫風が立ちこめていた。茶室に重いいけばながあると鬱陶しいかもしれなかった。
掛け軸について、茶会の主はこういう趣旨のことを言った。勝海舟は書家ではなく、むしろ政治家であった人なので、必ずしもこの書が素晴らしいと誰もが賛辞を贈るものではないかもしれないが、勢いがあって「山滴る」というテーマにはふさわしかろうかと思ったと。
もし私がその茶席に芍薬をいけるとしたら……。「いけばなは場にいける」というが、その場をつくり上げたコーディネーター(主人)の意図を解す必要がある。あらゆる催事では、できあがったその場は大事だが、主催者と客人の期待や好みを推測しなければならない。場とはそういうものだと思った。