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いけばな随想
diary

花器もいけばなの材料 240215

2024/2/26

私のいけばな教室には、飲食関連の仕事をしている人が2人いる。1人はバーテンダーで1人は料理人だ。

2人とも、それで食っているプロだから、仕事に手を抜かない。彼らは、美味しいものを作るという積極的な面と、コストを抑えるという保守的な面でしっかりしている。だから、必要以上にグラスや食器の種類を揃えない。プロは、限られたグラスや皿で、いろいろなカクテルや料理をより美味しく見えるように提供する。最小限で最大の効果を狙うのだ。

一方、私はいけばなでは食えていないから、プロといえるのかどうか疑問である。もし、いけばなを仕事として経営的に考えると、割れにくく汎用性の高い花器を厳選して用意するのが正しい方法だと思う。しかし、仕事ではなく趣味だとすれば、花器をどんどん購入する消費行動はしかたがないともいえるだろう。趣味も、こだわり始めたら手を抜けなくなるものだ。

いけばなは、花材をいけるのであるが、水も花器も花材に匹敵する要素だ。

花器に花をいけるというよりも、空間に花器と花材をいける。だから花と同じくらい花器もいろいろ欲しいのだ。

見えない力 240214

2024/2/26

2月3日に、「古いまま新しく」し続けていく糠床に思いが至った。腐敗せず発酵するという作用は、気まぐれではなく、善玉と呼ばれる乳酸菌などの働きで確実に行われるらしい。

では、エジプトのミイラはどうなってんの? 腐敗も発酵もしないとかさ。子供のころ、水に入れると孵化する古代生物の卵なるものが売られたけれど、あの卵は何千年もどうなってんの? ふつう干からびるんじゃない? 植物の種子も、発芽条件が整うまで、永く生き延びるみたいだよね?

いけばなで花材を扱っていて、興味深いことが本当にたくさんある。萎れかけた花でも、「水切り」すると短時間で元気を取り戻す。人間は、一度弱ると、滋養強壮ドリンクを飲んでもなかなか復活しないというのに!

「挿し木」というやつも、不思議に溢れている。私の永久歯や、一部死滅した心臓の細胞なども、なんとか復活しないものかと羨ましくもある。

そういう生命の働きとは土俵が違うとしても、いけばなで花材を使うならば、彼らの心が晴れやかになるよう、芸術を志す力や美を造形するセンスを鍛えながら向き合わなければなるまい。

より近く! 240213

2024/2/15

花を買うとき、産地を聞くことはあまりない。花は基本的に“裸のばら売り”で、スーパーの食材のような産地表示がない。

私がよくお世話になる花屋さんが言うには、「ハウスもので花木を生産する人がどんどん廃業している」ことや、「一旦、大阪の大きい市場に集まって、そこから再び分散して流通する」ことなどから、地元で直接確実に手に入るものが少なくなってきた。

花は生鮮品だから、まさか遠くから仕入れることはないだろうと思い込んでいたのに、現代の知識や技術に基づく流通はずいぶん先へ進んでいて、一般の花屋さんに並ぶ多くの品は県外産だったり海外産だったりするのである。遠くから運搬する化石燃料や梱包資材などのコストや時間を費やして、そのコスト分を私たちが支払う。

どうせお金を払うなら、少しでも地元の品を買った方がいいという気持ちもあって、産直市にも足を向ける。需給関係によって「いけばな」で使える花材も増えている。よい傾向ではあるが、一般的には花屋さんの方が虫の駆除や水揚げなどの下処理が丁寧だ。

生産者の6次産業化も、消費者も大変なのである。

便利さのピーク 240212

2024/2/12

昨日は、9:30にいけばな教室のメンバーで車に相乗りして、砥部焼の創作体験に行き、1時間余りで花器づくりに取り組んだ。12:00から近所のギャラリー・カフェで昼食を楽しみ、徒歩100m先の窯元で13:40までお話しを聞き穴窯も見学した。そして、生徒さんをそれぞれ自宅や交通拠点に降ろし、私はデパートの駐車場に車を入れ、徒歩で愛媛マラソンのゴール地点へ行き、友人と合流したのが14:30。15:10に共通の友人のゴールを見届けた後、デパートで買物をして自宅へ車を置きに帰り、すぐに電車に乗って16:50にマラソンを走った友人の慰労会へ。慰労会後に店を2軒ハシゴして、帰りにコンビニに寄ってアイスを買い、家に着いてアマゾンでCDを注文してから25:00に寝た。

まどろっこしい字数を費やしたが、自分の体内感覚としては、本当に短時間であちこち移動して、いろいろな予定がスルスルと完結していくのが気持ちよかった。

便利でありがたい世の中だが、宅配業者やコンビニ店員をはじめ、便利さのサービスを提供する人たちの努力は限界点だと思った。

より時間をかけて 240211

2024/2/11

私は1960~70年代に少年期を過ごした。高度成長期の真っ只中では何事もより早くという風潮で、身の回りは様々な競争に明け暮れていた。

一方で茶華道を習う人も多く、教室の看板が至る所に見受けられた。私も8~15歳は書道教室に通った。縁側に吊るした鳥籠の一羽の黄色いカナリヤが、庭の松の木に向かって甲高く鳴いていた。襖を隔てた隣の座敷は琴の教室で、爪弾く音はいつも聞こえていたが、どんな人たちが習っているのか声は聞こえないし、ついに一度も顔を見たことがない。

街なかにありながら、喧騒から隔てられ香を焚きしめたその屋敷は、思えば少年の私にとって竜宮城のように別世界だった。当時は、すべてがより早く動いていたわけではない。反対側でちゃんと釣り合いをとり、しっかり時間をかけるというバランス感覚も世間に働いていたのではなかろうか。

しかし、その教室を一歩出ると、2,3軒隣に「科学教材」という店があり、いつも目新しい教材や玩具を扱っていたので、帰りに必ず立ち寄り、ミニチュアカメラや素敵な星座盤などに目が眩んで、小遣いをはたいていた。

講師の事