汀州Japanlogo 汀州Japanlogo

いけばな随想
diary

黒い服 240205

2024/2/8

昇格試験がうまくいかなかった気分的なこともあって、今日は黒い服で過ごした。

1週間前、法事で喪服を着用したとき生地の右胸部分に皺があって、アイロンをかけても伸びてくれない。10年以上使ってきたので、そろそろ寿命だと諦めた。明日、新調しに行くことにしたが、今度の喪服の寿命は私の寿命といい勝負になりそうだ。

さて、いけばな展を開催するとき、男女共たいてい会期前の設営は黒ずくめで、会期中は盛装という切り替えが求められる。設営は非公開なので、服装などどうでもいいではないかと思われるかもしれないが、バックヤードで様々な第三者に会う可能性が高いことから、裏でも油断しない構えだ。

公開の場でいけこみ(設営ライブ)する場合は、いける姿も展覧の一部だと捉えて盛装することがある。これは、特に単独で臨むときに多い気がする。一方、1つの作品を複数人でつくる合作では、メンバー全員が黒子に回り、作品を主役とする。

作家として立つときは盛装で、技術者・職人として立つときは黒ずくめ。これは全く個人的な理解の仕方だが、あながち間違いではないだろう。

ひろげさがす 240204

2024/2/5

今日は、草月の昇格認定試験だったが、筆記試験の花型図で失敗した! 知識がちゃんと身に付いていなかったからからである。出直しが必要である!

私はこの数か月、いけばなを軸にあれこれ考えてきた。ここに至っても、あれこれ考えることには諦めがついていない。一点集中で考えるやり方はあるだろう。しかし、性分としてあれこれ考えてしまう気質は入れ替えがきかなさそうだ。

芸術としての位置づけを自分なりに考えてみたし、生活文化としての捉え方もしてみた。音楽やダンスなどとの関連性や、俳句的な性質を思い描いたり、書との響き合いも試したりした。しかし、それらはすべて、いけばなとの関係においてのことである。気持ちはピュアだ。

昔、「読売アンデパンダン展」というのがあって、間接的に知っている。無審査美術展なので、主催者の考えが及ばない作品が出品されるなど(腐って異臭を発するなど)収拾が付けられず、結局開催されなくなった。

糞味噌ごっちゃにしていくことは避けるとしても、空気清浄機で浄化するような、排除につながる“無菌いけばな”になることは避けたい。

いけばなは未完の物語Ⅱ 240203

2024/2/3

花瓶に草物の花だけをいけると、全部が同じ頃に枯れ始める。しかし、いけばなでは、枝物などを草物と併せて使うので、枯れ始めるのに時間差が生まれる。草物が枯れても、もったいないから枝物は残しておく。水を替えながら大事に扱えば、2か月も元気でいてくれることもある。

偉そうな場面だけでなく、家庭でも花を上手にいけられないと、昔は姑から嫌味を言われた。花をいけるのは毎日のことなので、枯れない枝物に対して、花のあしらいを替えて臨んだ。各家庭に普通にあった「ぬか床」のように、ずーっと「古いまま新しく」し続けていく、切れ目も終わりもない行為。

これを思うと、いけばなは、芸術というより生活文化なのかもしれないが、日本人は、ただ花をいけることで済ませられず、それを華道にまで高めた。

日本人は、生活と芸術、生活と宗教、生活と哲学というふうに分けることをして来なかったから、芸術や宗教や哲学などと取り沙汰されると苦手だと敬遠したけれど、いやいやどうして、日本人だけが、生活の中に華道や書道や茶道などを平気で溶け込ませて来たのではないだろうか。

いけばなは、何者? 240201

2024/2/1

いけばなは、花展会場にある限り作品である。しかし、凡百のいけばなは、花展会場を出るとたちまち作品の立場を失い、家庭の中に入ってしまうと、もう完全に作品だとは言ってもらえなくなる。

草月の初代家元(勅使河原蒼風)は、1本の流木に着色して湖の畔に置いた。写真家によって切り取られたその風景は、彼の作品集に収められている。花展会場でも美術館でもなく、額縁に収められてもいない1本の流木が、揺るぎなく作品と呼ばれるのだった。

ところで、マルセル・デュシャンの『泉』という作品は、男性用の小用便器が美術館に展示されたものだ。一方、私の家にある便器はもちろん泉ではなく、排水管につながる実用的な便器でしかない。

私のいけばなは、作品になったり、ただの部屋の飾りになったりする。さらには、もっと肩の力を抜いた「あしらい」になったり、ついには、形態はさほど意識されず、行為のみが取り上げられて「たしなみ」になったりもする。

芸術のようで、そうとも言い切れないいけばなは、ディスプレイとして商業空間に置かれたとき、まさに実用的なインテリアである。

入門 240131

2024/1/31

少林寺を描く中国映画などでは、入門早々から拳法は教えてもらえない姿が描かれる。遠い井戸まで水汲みに行かされたり、薪を割らされたりする。

結婚式場に就職した現代の新人も、はじめはトイレの掃除ばかりやらされて、「修行したいわけじゃなく、プランナーの仕事がしたいの!」と、意義を見出せず早々に去っていく。だから、現代社会では教え惜しみをすると拙い。教える側は惜しんでいるのではなく、教わる本人に学び方を見つけて欲しいと思っているのに、明日には「退職したらしいよ」というニュースに驚くことになる。

入門というのは、狭義にはギチギチの弟子になることかもしれないが、広義には“その世界”で暮らす一員になることだ。会社の門やサークルの門をくぐったら、それはひとまず入門だ。

どんな組織に入門しても、先輩達は、その世界の空気や匂いを頭ではなく肌で感じ取った者にしか、流儀や技術を上手く教えられないことが判っている。特に奥義は、とうてい言葉だけで教えられるような代物ではないから、本人が意識的にトイレの神様にも繰り返し習って体得するほかはない。

講師の事