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いけばな随想
diary

心で願う 241020

2024/10/21

目を見開いていても見えないものがあることを知る人は、少ないかもしれない。どんなに視力が良くても見えないものは見えないし、どんなに視力が悪くても見えている人には見えているものがある。

もう少し深みを覗くと、こっちが見ているとき、あっちから見られている可能性はとても高い。『裏窓』というアルフレッド・ヒッチコック監督の映画を観たとき他人の視線に対する恐怖を実感したが、こっちが見よう見ようとしている場合ほど、あっちからも見よう見ようとされていることを知るべきである。

そういう局面では、全くのところ視力の問題ではなく、「見たい」意識のえげつない強さが勝っているかどうかということで、普通なら見えないものが見えてしまうという欲望の強さの問題なのである。これは裏返すと、「見せたい」という欲求が強ければ強いほど、普通なら見えないものまで見せてしまうということで、見えるか見えないかは、互いに心を開いて見せようとしているか、見たいと思っているかにかかっている。

小手先ではなくそういう気持ちの強さが、当然のこととしていけばなにも表れる。

手を見る 241019

2024/10/19

私は「この枝をこう切ろう」と思って、枝を左手で支え、右手に持ったハサミを凝視しながら枝を切る。よく切れるハサミなので、指を切ってしまったら元も子もない。私の手は私の頭が操る道具である。

すごいなと思うのは、熟練した音楽家たちが手元を見ずに演奏する姿である。彼らの手は、彼らの頭が操っているとはとても思えない。手そのものが“彼として”主体的に演奏しているように見える。卓球選手などもすごい。彼らが球を打つとき、頭が手に対していちいち命令を出していない。待てよ、剣道だってそうではないか!

このように考えたとき、書道や茶道も自分の手元をよく見ていることに思い当たった。手を道具として使っているのは「文科部系」で、手が自身として動いているのは「運動部系」であり、音楽は「運動部系」の仲間なのだ。

これは、自分と時間の関係に由来するのかもしれない。運動も音楽も、試合中や演奏中の流れに対して、自分が勝手に休みを入れることができない。いけばななどは、自分の動作と時間をある程度好き勝手に操ることができる。だから、じっと手を見る暇がある。

精神と身体 241018

2024/10/19

剣道を思い浮かべる。剣道はオリンピック競技になっていないが、フェンシングはオリンピック競技の1つだ。私は未経験なので想像するしかないが、剣道には武士道精神や礼儀など精神的な軸が据えられていると理解している。フェンシングに騎士道精神が宿っているかどうかは知らない。

フェンシングは突いたり切ったりした判定が電気的に行われている。素人がコメントするのは失礼ながら、だから体勢や気合いなどは評価されない。競技上は結果がすべてである。

一方、剣道は人間の審判が判断する。しかし、剣さばきが早過ぎて、いや、判定基準もおそらく審判個々に差異があって、審判でさえ全員の判断が必ずしも一致しない。仮に剣道がオリンピック競技になったら、やはり電気的審判やビデオ判定が導入されるだろう。しかし、それでは「肉を切らせて骨を断つ」的な、選手の狙いや技の確実性が評価されなくなりそうだ。

華道を含む「〇〇道」は、身体行為の内側にある精神性を重んじてきた。だから、結果だけでなく目に見えない取組姿勢(鍛錬そのもの)を大事にするから、習う先に終着点はない。

伝統的な文化 241017

2024/10/19

いけばなの歴史は室町時代に遡る。600年の歴史ともなると押しも押されもせぬ伝統である。ただ、伝統という言葉には固定化された印象が付きまとうので、伝統文化と聞いて形骸化したつまらなさを感じる人もいるだろう。

しかし、1人の人間が生まれ、成長過程で身長も人格も変えていくように、いけばなも室町時代に生まれてから幾多の時代を経るうちに、その実態はどんどん変化してきたはずである。現代のいけばなが600年前とは全く違った見かけと中身を持っていても不思議ではない。

ところで、文化というのは、狭いジャンルのみで独立して成立できるようなものではない。いけばなを取り巻く様々な要素との関係性の中に文化が生まれる。建物、部屋の間取りやしつらい、衣服や花器の種類、入手できる花木の種類や量、気候や夜間の照明……、挙げればきりがない要素と共にいけばながある。

こんなに周辺の要素が変化しておきながら、いけばなだけが伝統的であると言い切るのは不自然だ。伝統的であると言うならば、変わっていないものが何なのか、いま一度問い直してみることも必要である。

成長の源泉 241016

2024/10/19

いけばな展(10月11~13日開催)を振り返って感じるのは、52人の出品者の作品のバリエーションが豊かだったことが大きい。大小もさまざま、キャリアもさまざま、スタイルもさまざまで、会場全体に自由な気分が充満していた。

団体競技でよく言われるのは、選手1人ひとりの個性が際立っていて、かつ組織としてのまとまりがあると強いということ。芝居やドラマも同様で、似たような外見や才能の俳優は2人も要らない。その点で、私たちのいけばな展は、各作品が一見バラバラなのに全体として「意外性に満ち、楽しくて元気がもらえた」という評価が多かったことからも、展覧会としては成功したのではないかと自負している。

独自性というのは他人との比較によって生まれるもので、他人の存在を意識しないところには生じて来ない。他人との比較を通して、もっと自分らしくありたいという気持ちは高まるもので、他人がいてはじめてオリジナリティは獲得される。

いけばなは伝統的文化に位置付けられているが、少なくとも草月には、常に今の自分を超えていこうとする意欲がみなぎっている。

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