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いけばな随想
diary

不慣れ 250208

2025/2/8

 旅行をする。不慣れな土地へ行くと、目的地までの道々、標識をよく見るしとにかく周りの景色や商店の佇まいや住宅のポストなどにも目を配る。不慣れな土地へ行って面白いのは、こうして発見がたくさんあるからだ。慣れた土地では周辺の様子にほとんど気を遣わなくなる。慣れるというのはつまらないことで、毎日の生活や長い人生を面白く過ごしたいなら何事にも慣れないように心掛けることだ。
 不慣れなことをする。手際が悪く、うまく運ばない。しかし、それがいいことなのだと気付かない人がいる。たちまち上手にできてしまうようなことは、人生においてさほど役に立たないちっぽけなこと。すぐに上達するようなことこそAIやロボットに任せていい。
 中学校や高校の授業が面白くなかったのは、多くの同級生が同じように物分かりが良かったから。小学校では勉強嫌いや暴れん坊や鼻たれ小僧が混じっていて、本当に楽しかった。
 大人のいけばな教室がいま面白いのも、本来は馴染めない人々が集まっているからだと思う。いろいろな意味で慣れさせてくれない。だからいつも新鮮な気持ちで望める。

取合せの妙 250207

2025/2/7

 枝ものと花の取合せについて聞かれたときほど困ることはない。ジーンズにはどんなシャツが似合うでしょうと客に聞かれるアパレルの人も、きっときっと同じ気持ちだ。「そんなこと聞かんといて」もちろん商売上、愛想良く対応するが。
 いつだったか若い頃、京都の蕎麦屋で「にしんそば」という文字から熱いアピールを感じた。少年時代を過ごした愛媛でも、青年時代を過ごした東京でも食べたことがなく、しかし噂には聞いたことのあるその響きは、実際に文字で見ると更に京都らしく旨そうだった。
 しかし冷静に考えると素晴らしいと思えない取合せだったし、実際に食べても苦み走った濃い味のにしんは重過ぎて、京都人の味覚に疑問しか残らなかった。酒も取合せるべきだったのだろうか。以来、にしんそばを心から旨い! と感じたことは1度もない。それなのに、事に寄せてはにしんそばを食べて「うーん、70点」と唸っている私である。
 枝と花についても、その取合せについては個人個人の苦手意識や好みがある。そして、「こりゃ、だめだろう」と思う取合せも、やってみるとうまくいったりする。

材料依存のいけばな 250206

2025/2/6

 日本料理の板前の仕事は、素材の良さを引き出し、素材の良さを生かすことである。伝統的な献立はもちろん、現代でも日本由来の食材を使わないことには始まらない。これは、高低差のある狭い国土では山海の多様な食材が新鮮なまま手に入ることによって、濃い味付けや加熱で食材をこねくり回さなくても美味しく食べられたことが大きい。
 局所的には、保存の必要性などから干したり醗酵させたりということも行われたが、それらにしたところで味を加えたり加工度を高める方向には行かなかった。
 この取り組み方は、いけばなにも当てはまる。日本には山も森も林も野も川べりも海岸もあって、この狭い範囲での多様性によってたくさんの木や花がいつも必ず身近に生育している。だから日本人は誰もがいつでも木と花を取り合わせていけばなを始めた。花木の魅力を掛け合わせて、客人を招く空間を“美味しく”演出した。
 ところがいま、近隣の花木を近所の花屋から買うことができなくなりつつある。山で竹を切る人がいなくなり、露地やハウスで木を育てる人がいなくなってきた。早晩いけばなは滅びるか?

いいものをあれこれ見よう 250205

2025/2/6

 世間が思っているほど、「草月ふう」のいけばなというきちんとした類型はない。世の中、銀行員ふうだとか、遊び人風情だとか、しきりに類型化したがるけれど、例外が多過ぎて結局はよくわからない。
 それでも世間は意固地で、教員や警察官や役場職員はキチンとしなければいけない、いいや、キチンとしているはずだと思い込んでいる人が多く、そういう輩に限って政治家は嘘がつけるくらいでなくちゃ務まらんなどとうそぶく。いけばなを見るにもそういう固定観念のようなものを持っている人がいて、絵に描いたようなしとやかさを常に求められても無理だし、花の名前を全部知っているかのように聞かれても知らないものは知らない。
 もちろん私はいけばなが好きだ。だからといって、いつも「草月らしさ」を意識しているわけではない。過ぎたるは及ばざるがごとしと言われるように、わざとらしく鼻に付くような真似はしたくない。
 何かを決めつけず、いいものをたくさん見る習慣があれば、その人の知識や感覚の平均点がどんどん上がり、さりげなくやったことが、いい味を出すようになるのだろう。

アートとビジネス 250204

2025/2/4

 思いは溢れても、アーティストに金はない。金は溢れても、ビジネスリーダーには使い方に対する思いがない(足りている人も多いとは思う)。アーティストは思いを実現させるために稼ぐ力を身につけたいと心から願っていて、その稼いだ金を愛すべきことに使いたい。そんなことは誰しも心の底ではわかっているが、実行することに抵抗があるし、やり方もわからないのである。
 かつて「六次産業化」という言葉が産業界に蔓延した。これは、たとえば葡萄農家が自らホームページを開設して顧客を集め、ロゴやパッケージをデザインし、メッセージやカタログを同封し、運送会社と連携して末端消費者の手に直接商品を届けるというものだ。
 要は1人で第一次産業から第三次産業まで(1次×2次×3次=6次)を担って商売をするのであるが、これは相当に難しい。そもそも専門分業化することで生産性を高めてきたのに、それを統合化してさらに生産性を上げるのは理屈として矛盾しているからだ。
 いけばな作家としての追究と、ビジネスマンとしてのマネジメントと、両立させるのがゴールイメージである。

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