感謝 240702
2024/7/2
人への感謝は、ただ単に何かをもらったことに対するようなものではない。「お年玉ありがとう!」の向こう側には、幼児らしい感謝の気持ちがあるとしても、祖母や伯父の心情や期待などの心の奥までは見通せていない。大人になったいま(老人にして初めて大人になりつつある気分だが)、人の気持ちをもっと汲めるようにならなくては! と思う。
草月では「花に感謝の日」を毎年3月に設けていて、行事を執り行ってきた。私は昨日はじめて花への感謝を意識したばかりなので、年度末のその記念日をこれからは大事にしていかなくてはならない。
花も生きものだから、花に対する感謝の気持ちも持ちやすくはある。しかし、次なるは、花器や水など花以外の材料に対する感謝の気持ちの番だ。草月の世界では、花と水と花器を等価だと見ることになっている。心では花にいちばん高い価値を与えたいとしても、頭ではどれもがいけばなの材料である。飲み水の貴重さは身に沁みていても、いけばなの水についても意識的であれ、そう諭されるのだ。
で、改めて見つめるのが、道具の筆頭ハサミである。感謝してる?
お返しと仕返し 240701
2024/7/2
私はいつも、お返しの機を逸する人間だった。「総領の甚六」で、王様気取りだったんだろう。タチが悪い。
お返しができない人を挙げてみた。親に対して、子はあまりお返しができない。上司に対して、部下はあまりお返しができない。先輩に対して、後輩はあまりお返しができない。どうやら、立場の下の者ほど上に甘えているようだ。私は、上にも下にも横にもお返しが下手だった。世にはお返しの上手な人がいて、そういう人は上手なわけではなく、たいてい感謝の気持ちが自然に表れているに過ぎない。
さて、いけばなである。私は王様気取りなので、花の個性を引き立ててやるのだ、どうだ、参ったか! そんな上から目線だから、花の方も、本当に優しくない人ね、もう! 悲しすぎるから病気で萎れてやる! と仕返しされるのがオチなのだ。
映画でも、俳優よりも監督の名前の方が大きく出るから、監督は王様だ。しかし、テレビ番組だと、プロデューサーやディレクターより、タレントの名前の方が大きい。私もいけばなディレクターとして、タレントである花たちにお返ししていかなければならんのだ。
マナー 240630
2024/7/1
マナーというのは明確なルールではない。また、目の前にいる相手に対するエチケット(気遣い)とも異なる。マナーは礼儀と訳されるが、私は社会規律とか社会常識と訳したい。しかし、そんな日本語訳の方がピンと来ないくらい、マナーという言葉が日本語化しているこんにちである。
私が自分自身に戒めている1つが、悪口や陰口をたたかないこと。だいたいにおいて、世間で禁止されていることを隠れて行う楽しみは蜜の味だし、禁止まで厳しくなくても後ろめたさを伴う行為は甘い味がする。だから私はヘビースモーカーで大酒飲みだった。ほかにも、ささやかな悪さをしたし、悪口や陰口もたたいた。悪口をたたき合えるくらい仲良くしている友人なら、これも甘い味なのだが、そうでない場合はシャレでしたと逃げるわけにもいかず、苦い味になる。
マナー違反かどうかの境界は人によって違う。
仮に故人の美術作品を並べる場合は、学芸員なりディレクターが適正と思う間隔で並べるから全体として美しい。生きた人だけのいけばな展では、隣の作品との相互の影響が云々されるので、油断禁物である。
免状 240629
2024/6/30
免許というと公的機関が認可を下す資格で、免状というと様々な団体が任意に下すお墨付きという感じ。その分類に照らすと、私がこの生涯で手を付けたいろいろな仕事は、全部無免許だった。無免許というと聞こえが悪いので、免許いらずと言い換えて、政治家秘書、画廊・喫茶店従業員、デザインの自由業、広告・出版の会社員、専門学校教員等々。
ひとくくりにすればサービス業だが、私は好き嫌いが激しかったし、人におもねることが嫌いだったし、人を立てることも苦手だったので、結果的にはお客様に上質なサービスを提供できないまま退職してしまった。
若い頃にはドクターの呼称にも憧れ、国家資格の何かを得たいという気持ちになったこともあるが、大学4年で国家公務員上級職試験会場を受験途中で退室してからというもの、試験嫌いが身に付いてしまって、試験とか資格の話からはいつも逃げ腰になるのだった。
いまは、いけばなの師範の免状で人に教えている。趣味かと問われれば趣味かもしれないし、アマチュアリズムの性格が強いプロフェッショナルだという自覚もあるから、仕事でもある。
猿真似 240628
2024/6/29
猿真似は、人間がそれをやっていると否定的に評価される。しかし、実際の猿社会でそれが行われている様子が報告されていて(『想像するちから』松沢哲郎著)、子猿が親猿を模倣して成長していくさまが肯定的に描かれる。子猿は、親や先輩の模倣を繰り返しているうちに、他者の気持ちが理解できるまでになるそうだ。
人間の私は、いけばなの型を文字通り猿真似してきたが、それを通して家元の気持ちまで理解しようとしてきたかと問われると、答えに窮する。猿以下の形骸的な猿真似だったとしか言いようがない。
また、人間の私は(仮に猿だったとしても)、いけばなのやり方についても自分自身が好む行動の癖が邪魔をして、新しい行動様式を広げにくい。だから、もし、テキストに示される「花型」がなかったら、私のいけばなのレパートリーはずいぶん幅が狭く、味気ないものになっていたと思う。
猿真似する見本が幅広く用意されていることは、私が抱えている狭苦しい好みの範疇を押し広げ、自分だけでは試みることのなかった作風を真似してみるという、可能性を広げる機会を用意してくれる。