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いけばな随想
diary

仲間同士は仲良くする 250218

2025/2/20

 いけばなの世界は非常に狭い。意外なくらい狭い。その小さな小さな世界で流派や主義主張を越えて尊重し合うことなくしては、その世界がもっと分裂して小さくなってしまう。
 表現者は自己の価値観や独自性を大事にするからこそ、表現者として立っていられる。だから「全く華道というものがわかっていない、ギラギラ血走ったいけばなをして!」と他人の作品をけなし、また別のところでは「あんな辛気臭いいけばななんて現代の誰が喜ぶの?」と毒を吐くのもわからなくはない。昔のフランスの芸術家同士などは、決闘したり流血騒ぎを起こすくらいだったのだから。
 私にしても、基本的には自信家なので、他の華道家を人間として尊敬してもその作品のすべてをいいとは思わない。しかし、その作品を尊重することはできる。尊重は、好き嫌いとは別物だから。
 今年度、私は「愛媛県華道会」に初めて入会したけれど、「愛媛県いけばな芸術協会」には加入しなかった。この件にしても納得感は薄く、全宇宙的には絶滅の危機に瀕しているいけばななので、木を見て森を見ずという態度は取りたくないものだ。

素人あなどれず 250217

2025/2/17

 私がいけばなに打たれて入門したのは、25年前のこと。文字通り心打たれて感動してしまい、いけばな展のその場で入門もしたし、入門した理由を周りの人たちに熱く語った。いけばなに全く不案内の私が受けたその時の印象は、いけばなの経験を積み始めて以降は味わったことのない強いものだった。
 なぜ素人の感受性が勝っているかというと、おそらく作品を論理的または経験的な解釈として見ることができないために、本能的または感覚的に曇りなく見ることができるからだろう。それを世の中では「素人感覚」と呼んで蔑視するのだが、その方がよっぽど多数の人々を代表する感覚だし、対象の作品を先入観なく見られる。
 料理を食べて「美味しいわぁ」と言うとき調理師資格が要らないように、「すてきだわぁ」と感動するのにいけばなの免状は要らないのだった。それなのに、最近の私は権威主義的な評価に傾きがちだったことは否めない。
 自分への反省を込めて言うと、リラックスして対象を素直に楽しむという基本的な態度が取れない人は、音楽を聴いても人前で体を動かすことを躊躇する人である。

砥部焼体験 250216

2025/2/16

 体験などというものは知らず知らず向こうからやってくるのだが、今日は砥部焼の窯元に分散して“計画的に”体験に行くという草月会愛媛県支部の研究会の2回目だった。
 企画意図は「自分好みの花器をつくる」ということであり、「花材のひとつでもある花器に対する理解を深める」でもあり、研究会である以上、高邁な目的を掲げなくてはならない。
 しかしながら、やり始めてまずぶつかるのが「思い通りにならない」という現実である。いけばなをしている人は、比較的陶磁器について馴染みがある分できちゃうんじゃないかと勘違いしているのだった。自分は器用な方だとも思っているから始末が悪い。実力以上の妄想が湧いていたのをなかなか抑え込めないから、指導する窯元の心配は最高潮だ。こちらは陶作は普段やっていないことだし自分の専門外のことなので、失敗するのが当然だとばかりに突っ走ろうとする。
 いけばなは結果だけを追い求めない。過程も事前事後のあり方も求めるし、考え方や態度も大事にする。今日の土遊びの無心さや「やっちまう勢い」が、日頃のいけばな稽古にも必要だろう。

いけばな効果 250215

2025/2/16

 今晩の集まりで「食事会」と銘打った飲み会があった。老舗ではあるが、現代的なメニューやサービスを提供して価格もリーズナブルだから、一定の評価を得ている店が会場だ。
 襖で仕切られた個室で、まず目に付いたのがいけばなだった。おお、ちゃんとした設えであるなと感心しつつ、生花のいけられた青寂びた花器が私の趣味にドンピシャだったのが嬉しかった。残念だったのは階段の踊り場の「造花100%」物件である。各部屋のいけばなのおもてなしに対して、あまりにも油断が過ぎるのではないか?
 知人が「仙味エキス」という隠れた愛媛の注目企業を訪問したら、いけばなが目に入って嬉しかったという。彼はそれで「もてなされた」と感じることのできる人間だったので、もてなした側も逆に「意を汲んでくれてありがとう」と嬉しいに違いない。
 お客様は高額なスリッパを出してもらっても、それを特に愛でることはしないだろう。お客様は高級なソファに座らされても、それで特に「ホホウ」とは唸らないだろう。いけばなは、それが一輪であったとしても、主客が意を交換する素晴らしいアイテムだ。

大量生産に向かない 250214

2025/2/14

 セント・バレンタインデーにあやかった業界主導のチョコレートデーは、商業上の大成功である。商業化されることと大量流通とは、ほぼ同義的になった。そしてあらゆるジャンルの大量生産が高度成長期の姿だった。
 ところが、大量生産・大量消費に疑問を持つ人も現れ、それに反応した業者は何でもかんでも「手づくり」をアピールする戦術を取った。手づくりに定義はないので、工場での大量生産の煎餅にも「手づくり」と標記され、消費者もそれで納得していた始末。結局、高度成長期に合わせて成長した世代は、大衆として大量生産社会に馴染んでいたのだった。
 ところが最近の若者は、ファッション表現においても自由度が高い。マスメディア離れをしているせいか、好みが非常に個人的だったり小グループ的だったりするようだ。
 そんな彼らが関心を持ってくれれば嬉しいのだが、いけばなは大量生産に適さないジャンルの代表格だ。2つとして同じものはない、2度と同じことを繰り返せない、仮に技術があったとしても、2度と同じ花が手に入らない。これは料理も同じで、レシピ通りになりはしない。

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