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いけばな随想
diary

モノ真似いけばな 240430

2024/5/7

 仕草を真似ると「ヒト真似」、作品を真似ると「モノ真似」だ。私の記憶には、草月の初代家元の作品が印象深い。モノの記憶である。そして、複数の作品群の記憶は、蒼風という初代家元の生き様に関係づけられた記憶でもある。だから、もし蒼風の作品を真似たら、モノ真似でもあり、ヒト真似でもあるということになる。
 記憶を完全に消し去ることはできないので、厳密に言うと、私のいけばなはどこかに誰かの作品の断片が含まれる。全くのゼロから生み出す作品はありえない。20数年もいけばなを習ってきたものを、すべて白紙にしてしまうことはできない。
 子が親を真似るように、まずは真似ることから始まる。人によっては、いつまでも真似続けることが嫌になって、早い時期に独り立ちする。人によっては、我慢強く(そういう人は、別に努力などすることなく、素直に継続するものではあるが)親や先生を真似し続ける。
 人は自分に厳しくすることが難しい。自分はカワイイものだ。だから、人を真似することは、自分にはないものを表現することであり、自己流で自分を甘やかさないことにもなる。

いけばなの見方 240429

2024/5/7

 抽象画を見て「わからない」とつぶやく人が大勢いる。しかし、人間を見て「わからない」と嘆く人はいない。他人なんて所詮わかるわけがないのだという当たり前の諦めがあるから、わからなくったって別に不安ではないし、それを問題にすらしない。なのに、抽象画の前では肩を落として斜めに睨んで「わからない」と言う。
 先日の「日本いけばな芸術展」の会場で、来場者の歩みが速いことが少々残念だった。「わからん」と言うこともなく、作品を一瞥するだけでスースーと行き過ぎるのだ。知人の作品を見つけるとワーワー言っている。それとなく立ち止まってその会話を盗み聞きすると、「このユリ真っ白できれいだわねぇ」とか「このひん曲がった枝は自然なの? 何なの?」とか、花材1つひとつに対して美しい花だ、変わった枝だと見たままを言葉にしているに過ぎない。
 いけばなは、出来上がったいけばなは抽象的だが、名前を持つ具体的な花で制作されていることから、作品全体を見て「わからない」ということを避けて「このバラかわいい」とコメントすることで「わかった」と安心するのである。

イメージと観察 240428

2024/5/7

 いけばなをする時、飾る場所をイメージしなければならない。場所が決まっている場合、そのスペースより大きいいけばなは邪魔なだけだから。
 いけばなをする時、用意した花材すべてと花器とを見渡さなければならない。イメージと花材と花器とが、一体的にコーディネートされるために。
 いけばなをする時、花材の一枝一枝をよく観察しなければいけない。その一枝の一番の魅力を探し出してやるために。
 いけばなをする時、手元の鋏から目を離してはいけない。大事な枝や、もっと大事な指を切ってしまいかねないから。
 いけばなは、思い描くイメージと、材料である花や花器の観察とによって形作られていく。全体を見て、指先を見る繰り返しである。構想が優先しすぎると花材が付いていけないので、花材の細かい観察は重要だ。
 日頃の花材観察が足りていないことが原因で、私のいけばなは構想倒れに終わることが多い。そんな時は謙虚になって花材の性質に合わせたいけばなをすればいいのに、自分の構想に固執してしまって、花材を切り刻んだり折ったりしてどうしようもなくなることがある。悲しい。

小で大を表す 240427

2024/5/7

 俳句の魅力の1つは、最少の言葉でどこまでも大きな世界を描けることだ。それは、1語1語の持つ力を高めることによって実現できる。また、語と語の組み合わせや順序から、思い掛けない世界を広げられもする。私が最終的に目指したいのは、いけばなでその域に達すること。
 最近、腱鞘炎が慢性化してきた。左手の親指が痛くなり始めたのが3年前の夏だ。今では左手の肘まで痛い。右手の手首の外側も痛くなってきた。海に囲まれた四国に暮らしているのだから、流木を使った作品をつくりたい気持ちがあったし、それを諦めたわけではないけれど、何しろ流木は重い。できれば、軽くて小さい花材でやりくりしたいものである。そこで、俳句のようないけばなという文脈が生まれたのだった。
 草月の二代目家元・勅使河原霞が、ミニアチュールという小世界のいけばなジャンルを1つの形にした。それは、複数の小作を組み合わせて、ひとまとまりの作品に仕上げるもので、小作の1つ1つが俳句の5・7・5に相当するともいえる。
 私が夢見るのは、花と葉や枝の5・7・5で1つの小作を構成することだ。

作品の大きさ 240426

2024/5/7

 いけばな展では、作品ごとに花席と呼ばれる空間が提供される。慣例的に、小作・中作・大作に分類されることが多く、出品料はスペースの大きさに比例する。
 だいたい、キャリアの浅い人が小作を出し、キャリアのある人が大作をつくる。県展や日展の絵画を見てもそのような感じがしないではないが、初心者で大作を出す人もいるらしいし、逆に細密な小品を得意とする画家も少なくない。
 学生時代に所属していた演劇部では、初めの頃、最大限の発声と大げさな動作を促された。小さな声の持ち主は大きな声を出せないが、大きな声の持ち主ならば小さな声も出せるという理屈だ。しかし、何か月か稽古を積んでくると、「お前の動作は大き過ぎる! 真の悲しさを表現したいなら、大げさに泣かず肩だけ震わせてみろ!」と、演出家からアドバイスが来るようになった。
 人が舞台に立つ芸術文化は、演じる人が等身大の身振りで精一杯演じる。千利休の茶道の世界では、茶室がどんどん小さくなっていった。映画だけは大きい画面で見たいが、いけばな作品は、必ずしも大きさが良し悪しに結び付くわけではない。

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