写生的 240920
2024/9/20
正岡子規についての知識も俳句についても明るくないし、彼の写生説というものがずっとよく分からなかった。
創作は個性の表現行為であるという常識とされる立場に反して、かつてエリオットが、芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅であるという感情移入を避けた没個性説を唱えた。たまたまこの記述に出会って、「それ、子規の写生説?」と閃いた。
17文字の制約を設けたことで、俳句は「私は」や「私が」という主語の自己主張から自由になれた。私たちのいけばなには制約がないことで、作品の規模は大きくなり、個人の作業ではまかなえなくなった。花を主役の座から引きずり下ろし、自分が主役の座に君臨した。俳句の主役は、そこに言葉で写生された花やカエルや暗示された状況である。
いま、私は迷いに迷っていて、主観的につくり込んだいけばなをいけようとしてみたり、一歩引いて自分の気配を消したいけばなの方が“華道的”には品格がありそうだと思ったりしている。意思の力を消し続けるという意思の強さを要求するというところが、没個性説の逆説的で面白いところだ。
サーカス 240919
2024/9/19
サーカスがなぜ人の心を捉えるか。猛獣使いや象の曲芸、空中ブランコや綱渡り、火吹き男やオートバイショーなどのめくるめく演目に加えて、ピエロの登場が欠かせない。演劇も、演芸を超えた総合芸術であるところまではサーカスに似ているかもしれないが、演劇の舞台にはピエロは現れない。
正直なところ、いけばな展はつまらない。総合プロデューサー不在で、個々の作家の発表会で終わってしまっているからだ。サーカスに比べて演目のバリエーションに欠け、抑揚のある演出がないから飽きがくる。
ショットバーを例に挙げると、スコッチウイスキーのボトルをどれだけたくさん並べてもそれは百科事典的陳列であって、そこにドラマがまだ生まれていない。
では、いけばな展を面白くするにはどうしたらいいか。言うは易くであることを分かったうえで言うと、「編集」の導入である。個々の作品の創造性は各作家の力量に任せるしかない。あとは展覧会場の作り込みである。二次的創造と呼んでいいかどうか、絵画の展覧会でも学芸員が全力を投じて企画展を開催しているアレ=見せ方の新しさ、である。
あなたの自分応援ソングは? 240918
2024/9/18
今朝のテレビ番組のタイトルだ。ちなみに、私に自分応援ソングはない。哀しさを味わうための自分しんみりソングはある。
妻と話していて、「自分応援ソングのある人はカラオケ好きの人だよね」という仮説を立てた。彼女も私も、カラオケで心を込めて歌うことができない。曲をちゃんと解釈できていないという以前に、歌詞の詩を読み下していく意欲がないのである。悲しいとか愛してるという類の日本語を、人前で発声する勇気がない。
歌のように、花も人を慰めたり労わったりすることができる。私なんかは花で人を刺激したい欲望があって、人を刺激するのだったら別の方法が手っ取り早いんじゃない? と言われるが、「人を応援する花」はある。言葉を使わなくていいから、花で応援するのは恥ずかしくない。入学式や卒業式、ピアノリサイタル等の舞台花などは、まさに応援花だ。
しかし、私自身を応援する花には出会っていないかな? 人への応援花でも、私は花言葉で花材を選ぶことは避ける。花言葉を花に託すことは、愛してるとか頑張れという言葉を歌うのと同じで、とても恥ずかしいからだ。
醗酵 240917
2024/9/18
発酵については以前にも書いた。しかし、その時よりも発酵が進んで「醗酵」の文字を使うくらいだから、もうちょっとマシな考えになっていて欲しいと思う。
思い付き段階の考えを、自分1人の頭の中で急いでまとめてしまおうともがいても、決していいものにはならない。そのままでは、自分の限界領域を突破できないからだ。何か“酵母”の助けが必要だ。そして、働きの良い酵母は、たぶん思い掛けない所に潜んでいて、それは遠い近いということではなく、本当に思い掛けない所にずっと前から潜んでいるのである。
そんな酵母に出会うと、さあ、醗酵が進み始める。危うく腐るかもしれなかったアイディアや企画が醗酵して、とても美味しいアイディアや企画に成長していく。ウィスキーならば48~72時間くらい。ここで焦ってはいけない。醗酵に加えてもう1つ必要なのは熟成時間である。どれくらい寝かせるかというと、ウィスキーならば木樽で3~15年くらいだ。
いけばなも同じで、いける以前にイメージを醗酵・熟成しておくと、いける際に底力を発揮する。木樽の代わりが私たちの体と頭である。
奥義 240916
2024/9/18
むかし何かで読んだことがある。免許皆伝となった者が、師匠から巻物の奥義書をもらう。装丁も立派で、さぞかし多くの秘技秘術がまとめられているだろうと期待して開くと、中は白紙であったと……。
むかしの師匠は、教え惜しみを常套的に行っていた。質問されても「お前には、まだまだ早い」とすげない。弟子が疑問に思うような、一見関係ないような訓練を課す。弟子は不信に陥るかもしれないが、師匠にしてみれば最も効果的な、段階的な方法を検討し尽くしている。
秘術というのは、秘しているわけではない。あるステージに至らない者には見えないだけである。より高次の段階に至った弟子には、「秘すれば花」が効果を持つ。師匠が秘した花を、弟子はもう探し当てる技量をモノにしているからだ。教えられなくても、見つけられる。
さて、奥義書は白紙である。いけばなの世界にも、流派によって「奥伝」と呼ばれる書物がある。何かが記されていれば、それは奥義書の一歩手前の教えだ。奥義を身に付けた者は、師匠の教えそのものではなく、師匠を一歩超えた何かを教えられる境地に至っている。