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いけばな随想
diary

落とし穴 240617

2024/6/17

花鋏を選ぶ基準がわからない。ステンレス製は錆びにくく切れ味がへたれないメリットがあるようだ。で、買った。確かに錆びにくい。確かに切れ味も悪くなりにくく感じる。問題は全くないのだが、問題はこの「問題がない」ということかもしれない。

私のマイカー歴は、友人から5万円で買った三菱ランサーから始まる。2台目が喫茶店で顏なじみの人から20万円で買い受けたトヨタカムリ。次が正規ディーラーで中古のトヨタカローラ50万円。次が吉田町のマツダの販売店から中古のフォードハッチバック45万円。

趣味がカヌー(カヤック)だったこともあり、車の天井にカヌーを載せるし、しかも海カヌーを運ぶと潮水が滴るため、確実に車体が錆びるのだ。トヨタ車は、走行上の問題はなかったが、カヌーを2艇載せて中国自動車道を山口までカローラで往復した際、カヌーが受ける風圧で天井が沈み、前席ドアが押し広げられた。車体を軽くする工夫が強靭さを失わせた。フォードは骨組みが無骨に重いため、ルーフレールを取り付けて物を運ぶには良かった。

車でも鋏でも人でも問題児に愛着が湧く?

私の鋏 240616

2024/6/17

いけばなを24年続けていると、花鋏も何本か溜まった。最初の1本は、祖母が使っていたであろう錆びた鋏で、実家の押入れの奥で見つけた。

2本目はホームセンターで買った。2千円以下の安物を500円で研ぎに出す気になれなくて、ヤスリの棒を買い自己流で研いでいたが、綺麗に研げていない鋏を人目にさらすのが恥ずかしく、それ以降も2年に1度いけばな展があるたびにホームセンターで買い足した。

いちばん古くなった鋏は、庭仕事用に格下げする。時に土を掘って庭木の根っこを切るので、小石を噛んで刃が欠ける。そうすると、2番目に古かった鋏の出番である。

さて、次第に師範の格が上がり、数年前、昇格試験などで家元の目に留まる可能性が出てきた。その頃は土佐打ち刃物のちゃんとした鋏を使うようにはなっていたが、そろそろ草月のロゴ入り鋏を買わなくてはなるまい。

しかし、鋏の手入れが苦手なことをわかっているから、最高の鋏を買うのはまだお預けだ。草月流の「流」(松竹梅の「梅」に相当)の鋏を買った。その鋏で直近2回の昇格試験を受け、その後専門の研ぎ屋に出した。

鋏の価値 240615

2024/6/17

昨日、貴重品は花鋏というところに落ち着いた。しかし、花鋏を自分で鍛造できない以上、お金を出して買うしかない。ということは、大事にしたい花鋏を手元に置くためには、それに先立つお金が必要なのだ。お金は何にでも交換できる。しかも、お金は目減りしない(為替等の影響は度外視する)。

一方、花鋏は同程度の価値のものとも交換しにくい。わらしべ長者のように、価値の高い物と交換するのは困難だ。そんな鋏に貨幣価値はない。貨幣価値のない鋏が、売り払う際に安く値切られるのは仕方ない。でも、カネがすべてというのは悔しい。

千利休や勅使河原蒼風が使った鋏だったら、その価値はどんどん上がり続けるだろうが、私の使い古しの元値6,000円足らずの鋏は、錆が浮けば浮くほど価値が下がっていく。そんな鋏が貴重であるためには、せめて何か世間を唸らせるような物語が必要だ。室町時代の骨董であるとか、火星人にもらったとか。その鋏が純金製だったりしたら、物ではなく貨幣に近い。

そんな訳で、別に取り柄のない花鋏は、使って使って使うことで、使用価値を高めるしかない。

貴重品は鋏? 240614

2024/6/16

ウイスキーが売り物だから、知人のショットバーは、地震に備えてボトルが落ちない工夫を凝らしている。私の貴重品は? お金は大事だけれどまあ品物ではないから除外すると、品物としては花器なのかもしれないと思い至った。しかし、その貴重なはずの花器は、いけばな教室の至る所に散らかっているし、強度が不安な棚に無造作に並んでいる。

さっそく明日ホームセンターに行って、滑り落ち防止のストッパーとして細い角材でも購入し、取り付け作業をしなくてはいけないと思った。

ところが、貴重品が時計だとか指輪だったら身に着けられるし、財布やスマホでも身近に置いておけるが、花器となると肌身離さずというわけにはいかない。と考えたとき、花鋏は非常に身近な道具だし、私の立場を考慮すれば花鋏こそが私の貴重品ですと言うべきかもしれない、そう思った。日本人気質というものがあるならば、その1つは昔から「道具」に対する愛情の抱き方が半端ではないことだ。

そんなことに薄々気付いていた今日この頃、私はやっと、鋏をちゃんと磨き始めた。いけばなを始めて24年目のことである。

陶酔 240613

2024/6/16

自分のいけばな作品に対して、誰がいちばん関心を持っているか? まぎれもなく自分である。他人の作品を見てあれこれ言うのは、当人を前にしたときの社交辞令であって、当人がいなくなると交わした言葉の半分も覚えていない。

同じように他人のほうも、私のいけばなに対して、私以上に興味があったりはしない。彼らも彼らで、やはり私がそこにいるから、義務として社会性のある人間としてコメントをひねり出しているに過ぎない。

いけばな展で、求めていないのに他人の作品を批評する人がいる。それは、自分の作品に自信がないことの裏返しである。私は自分の作品に陶酔しているから、他人の作品があまり気にならない。陶酔していることは自信があることとは異なるけれど、陶酔は相対評価に無縁であるところが面白い。自信のあるなしは、すでにその時点で自己評価を伴っている。私に言わせれば大損である。

会期中は自己評価しない、反省は全てが終わってからでいい。会期中は自分の作品に自己陶酔して、誰彼構わず笑顔を振り撒くこと、それが見に来て下さったお客様への礼儀ではないだろうか。

講師の事