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いけばな随想
diary

生長変化 240101

2024/1/3

 変化することこそが、生きている証だと思う。ただ、その変化の大小については検討したことがなかった。
『ウサギとカメ』では、ウサギは変化が大きく(スピードが速く)、カメは変化が小さい(遅い)。その能力を過信して怠けるウサギに対して、休まず堅実に歩み続けるカメが勝つ。
 カメは万年の寿命があるから目的地に到達するかもしれないが、私の余命は数年か十数年だから、そうゆっくりもしていられない。私の身体的な変化は、月日と共に微妙に継続的に成長した後、感覚的には27歳をピークに衰退曲線を描き、40代の大病を機に急降下している。 
 元気な若者であれば、考え方が180度変わっても体が付いていける。何かを契機にまた180度変わっても、角度は360度回って元の位置だが、蔓草のように、より高みに生長していける。私の歳でそれをやると、目が回って倒れるのがオチだ。
 だから、回転角度にして45度、下降角度15度くらいを私の今年の目標にする。そのベクトルの先には、いけばなを続けられるよう何かで稼ぐという、とてもぼんやりした「坂の下の雲」が浮かんでいる。

三年の計 231231

2023/12/31

 百年の計を実際に立てたことはない。1人の寿命を超えた先のことは五里霧中だ。五里霧中といえば、私は海でも山でも霧に巻かれたことがあり、幸い仲間がいてパニックには陥らなかった。
 シーカヤックを趣味にしていた頃、小型船舶4級免許の講習教師から、あまり近い距離に航海目標を置くと、風や潮に流され始めると、景色のめくるめく変化でパニックに陥る恐れがあると教えられた。常に自分の現在地と遠い岬とを直線で結んで、流されても、その岬を目標に漕げば大きく進路をはずれない。後に愛南町で遭難した時、教訓が生きた。
 63歳にもなると、海はあまりに広過ぎて恐ろしい。山は体力的にダメだし、『ポツンと一軒家!』を見て里山も大変そうだ。
 年明けには目標を立てたい。百年の計は大き過ぎる。人生の終活をまとめていくのか散らしていくのかによって、五年の計くらいが適当か、やはり一年くらいかとも思うが、どうだ?
 多年草としてせめて5年以上の計を立てるか、一年草として次の1年限りの計にしておくか、何だか中途半端な三年くらいを目途にしてしまいそうな自分が情けない。

結果と原因 231230

2023/12/30

 あらゆる結果には原因がある。
 いけた花が、翌日枯れた。原因は、おそらく1つではない。水が早く干上がってしまった、もともと花が枯れかけていた、花が暑さに耐えられなかった、花にエアコンの風が当たっていた……等々。
 私は、かつて急性心筋梗塞を患った。原因はたくさん考えられた。喫煙、暴飲、偏食、睡眠不足、運動不足、ストレス……等々。では、原因をすべて完全に取り除けるかというと、そう簡単ではない。その証拠に、3年後、再び急性心筋梗塞を患った。そして、喫煙だけは完全に取り除くことができて現在に至る。
 いけた花が、不本意だったと思うことがしばしばある。ボリュームと密度をもっと徹底的に高めるべきだった、一枝の曲線にこだわって花を減らすべきだった、もっと小さくてシンプルな花器を選ぶべきだった、暗い場所には繊細過ぎる表現だった……等々。
 しかし、よりよい結果を得るために原因を洗い直しても、そのすべてが功を奏するということでもない。自然の花材と自然の影響を受けた空間の中では、完璧主義で突き詰めても、結局、完璧ないけばなは得られないから。

直接的に 231229

2023/12/30

 私は、自分の信じるものに自信がなかったから、つまり、本当に信じるには至っていなかったから、他人の意見にうろたえることが多かった。自信満々の人を前にすると、我慢するか遠慮するか妥協して、心の奥底では自分の考えを改めたり曲げたりもできず、ストレスを溜め込む。
 そんな対立する人間関係では、仲介者を置いて相手と向き合うと互いに深手を負わない。後腐れが残ったり、仲介者に迷惑をかけたりはするが。
 いけばなで、花材辞典を仲介者に仕立てて現物の花木と会話するのは不幸だ。花材辞典は確かにありがたいが、先にそれを見てしまうと、現物に対する自分の指先や眼の感覚がおざなりになる。しかし、自分の感覚に自信がないから、どうしても先に見てしまう。
 これは、旅行の場合も同様だ。どうしても、ガイドブックを先に見ておきたい。ビジョンというほど大げさでなくとも、先に知識を得てから行程表を準備したくなる。旅先の知識が全くない状態では、なかなか出発できない。しかし、問題は、どの程度で抑えられるかということで、それによっては、印象や感動をもっと深められる。

当り前 231228

2023/12/30

「精査して事実を明らかにし、しかるべき時が来たら説明責任を果たし、適切に処置します」。最近の政治家の当り前な問答は、もはや日本語を不適切に使う見本として当り前になった。日本人同士の日本語での会話が、加速度的に成立しなくなっている。当り前と思う常識的な事柄も、なかなか日本人同士の共通感覚になりにくくなってきた。
「当り前の行動をしただけです」。道端に座り込み、虚ろに空を見上げる高齢女性を見かけて、どうもおかしいと感じた少女が声を掛けた。老女は、自分の居場所も自宅の住所もわからなくなっていた。当り前が特別になる世の中だ。
 年末に感じるのは、クリスマスに向けた繁華街や家々の盛り上がりに比べて、正月に向けた盛り上がりが低いこと。クリスマス関連のヒットソング特集はテレビで放送されても、正月を連想させるヒットソングは思い出せない。「もう幾つ寝ると、お正月……」という童謡くらいか? 家庭でも、クリスマス・ツリーやリースは飾っても、門松や日本国旗を準備することがない人も多い。
 正月を迎える花を、私もちゃんといけられるだろうか。

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