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いけばな随想
diary

足りないぐらいがちょうどいい 200710

2020/7/10

だいぶ手慣れてきたと思う。この辺に落とし穴が待っている。
花が思うような姿勢を取ってくれない段階を越えると
花を征服できた気になり、自分の技術にうっかり慢心する。
そして「オレサマ」が出現し、これ見よがしでおこがましい作品に仕上がる。
過ぎたるは及ばざるがごとし!

パウル・クレー様(2) 200702

2020/7/2

 いけばなは、いけた枝や花によって(視覚的に空虚な)空間も生成する。いけた途端に作品として生を受け、同時に枯れ始めるという点で、いけばなは時間的に変化するアートでもある。
 このいけばなの2つの面を私に感づかせてくれたのは、パウル・クレーの次の言葉。
 芸術というものは、見えるものをそっくり写し取るのではなく、見えないものを見えるように表現するものだ。

パウル・クレー様(1) 200701

2020/7/1

 私は学生時代に美術部や演劇サークルに所属して、絵が好きだった。
 いけばなを始めてしばらくのこと、パウル・クレーの次の言葉で私はいけばなに親和感を覚え、継続するモチベーションを得た。
 自然に近づき、自然に学び、自然をさかのぼり、自然に抱かれ、そして自然と訣別することによって、自分自身の自然を展開できる。

Why と How 200602

2020/6/2

 どのように「いけばな」をするかという方法論の問いは、何のために「いけばな」をするかという目的についての問いの後に付属する。
 では、何のためにしているかというと、意地でしかないと思うこともあれば、何かが発見できそうな予感がすることもあるが、何となく続いてきたというのが本当のところで、あまり強くWhyを意識すると、生きていることもしんどくなる。
 だからと言って、あまりHowにこだわるのもしんどい。

象徴するいけばな 200601

2020/6/1

 いけばなは自然を模倣するものではない。自然を象徴するものだと思っている。
 野にある花の姿や周辺の様子を「野にあるように」いけるのではなく、野にあった花の姿や様子、あるいは全植物のありよう、そして、野にあるすべてのもの、大げさに言うと地球の未来も、いけばなを見たすべての人がそれぞれの感受性で想起できるように、「(花が主語ではなく、私自身が私の描く世界としての)野にあるように」いけられるようになるのが目標だ。

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