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いけばな随想
diary

新しい環境 241102

2024/11/2

知人が企画書を書くのにAIアプリを使い始めた。いっぱしの経営コンサルが書くような叩き台が、あっという間にスマホ画面に表示される。
試しにチャットで入力してもらった。「いけばな教室の生徒を増やす方策は?」数秒後に、つらつらと計画案が示された。さらに条件を追加して「草月のいけばな教室の生徒を増やす方策は?」また数秒後に示された内容は、見事に草月バージョンに書き替えられており、ターゲット層の設定やコラボレーションすべき相手先の属性もちゃんと考慮し直されているではないか! 私は驚くと同時に後ろめたさを感じた。昔、営業先に対して半徹夜を繰り返してプレゼン準備をしていた努力は何だったんだろう?
また、疑問も湧いた。ライバル企業の2社が同じ問いを同時に設定したら、同じ企画案が2社の担当者に示されるのだろうか? プレゼンする企業の個性や特長は、どのくらい反映されるのだろうか? 企業倫理や経営哲学が、AIアプリに付随するオマケのように軽くなってしまわないだろうか?
次のいけばな展に出す作品は、どれだけ強く自分の作品だと主張できるだろう?

厄除け 241101

2024/11/1

 42歳で急性心筋梗塞を患ったとき、両親は私に「ほら、厄除けをせんかったから……」と、ぼそっと言った。私は「これだけ国際化が進んでいる世の中で、イギリス人の誰が厄払いする? アメリカ人の何人が厄除けする?」と悔し紛れの悪態をついた。非科学的な迷信に惑わされたくないという本心だった。
 慣習から逃れようとでもいうように、それからも酒と煙草を切らさないでいたら、45歳で再び心筋梗塞に陥った。因果応報、てきめんであるが、まだ酒はやめていない。
 さて、いけばなを通じて、植物に触れる機会がとても多くなった。それも影響しているのだろう、最近は超自然的な力に対して頼る気持ちが芽生えかけている。若い頃は何でも自力で打開していく自信に満ちていたが、それはもうしんどい。近頃は自分の手に余ることばかりだ。完全な他力本願の気分ではないにしても、すべてが偶然ではないという、目に見えない意志のようなものを感じてしまうことがある。
 冗談めかして言うが、文明に偏り過ぎた文明人は急いでいけばなでもして、半分は未開人であった頃の人間を取り戻すべきである。

分解能 241031

2024/10/31

 合理性や効率が求められる現代社会では、遠いものは望遠鏡で、小さいものは顕微鏡で観察し、身ぐるみ剥ぐように「見える化」する。また、複雑に絡み合ったものは解きほぐし、より単純に「モデル化」する。このように、分割とか分解という作業を経て様々な発見をしてきたと思うし、文明が進歩発展してきたのだと思う。
 しかし、春の海辺の潮と草の香りとか、真夏の山の蝉しぐれとか、夜明け前や黄昏時の風景とか、そういう五感で味わうべきイメージは分解してしまうと何も面白くなくなってしまう。
 いけばな展で作品についていろいろ質問を受けたとき、私はいい気になって説明を試みたものだ。しかし、言葉にしようとすれば、どうしても作品を切り刻んである一面から説明しないと内容が複雑になり過ぎてしまう。ところが、わかりやすく分解すればするほど、イメージの全体性を失っていくのだ。
 他人の作品を見るとき「解釈してはいけない」と、私は自分のノートの表紙に書いてある。これは、あるとき直感的に思ったことを書き記したのだった。いま再び、それを忘れかけていたことを思い出した。

未常識 241030

2024/10/31

常識に対して非常識がある。その対立軸から少し離れたところに未常識がある。今は肯定も否定もできないし、将来、非常識になるか常識になるかわからないものだ。

いけばなは経営センスを磨くものである。この命題は、そんなことはない! と即座に否定できない内容を持っているという感じがある。私が私淑する州村衛香先生は、この命題の正しさを証明しようとするかのように、ビジネスマンや経営者によるいけばな展の開催を推し進めてこられた。コロナ禍以降は中断されているようだが、私はその会場へ足を運んだ時、その先見性にびっくりした。

ビジネスの基本的な態度が、選択と集中であるならば、いけばなも同じプロセスで制作する。枝を切り、葉を落とし、主となる花材の存在感を磨き上げる。不要な枝葉を残しておくと、基本的なカタチが見えてこない。また、制作に時間を掛け過ぎると花材が水気を失って枯れてしまうから、スピード感も大切である。

本来の華道が人生を鍛えるものだとして、現代では経済活動に対して何らかの好影響をもたらすという常識を獲得しなければ、華道は滅びるのか?

流派を超えて 241029

2024/10/30

いけばなというジャンルの輪郭は、正直なところはっきりしない。私が捉えるいけばなは、草月の家元が捉えるいけばなとは、きっと異なっている。また、ひとくちに「いけばな」と言っても、無数の流派を持ついけばな界である。

いけばなはフラワーデザインとの相対的な関係として立ち現れる側面もあれば、華道という世界との関係で現れる側面もあるし、芸術全般の座標での位置付けも可能だ。もっと広く、趣味という大海での位置付けや、生活文化という軸での捉え方もできる。

先日の「県民文化祭いけばな展」で、他流派の方々とお話をする機会を得て、とても勉強になった。特に、池坊の先生の「過去・現在・未来」を作品に包括する意識や、嵯峨御流の先生の「原点に向けて削ぎ落していく」態度などは、私の足りないところを再認識させるような示唆に富んでいた。

いけばなに限ったとしても、それに取り組む私の心身には、いろいろなものが混じり合って入ってくるし、いろいろなものが脱落し続けてもいる。食べ物と同じで、いろいろなものを貪欲に食べて、大いに消化した者が育つのではないか。

講師の事