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いけばな随想
diary

いけばな展 240117

2024/1/17

若い頃、ロックコンサートや芝居によく行った。歳を取り、コンサートや芝居に行くことが減った分、美術館に行くことが少し増えた。

コンサートは、ステージと客席の一体感が堪らない。美術展は、仮に友人同士で行ったとしても、それぞれ個々のペースで自分の鑑賞の仕方に沈潜する感じだ。不思議なのは映画館だろうか。暗い場所で1人ひとりがスクリーンと向かい合っているのに、何だか客同士の仲間意識も感じられる。

そんな中で、いけばな展に行ったとき、私はいつも物足りない。だから、1つの作品の前での滞在時間が、美術展のときに比べて格段に短い。私自身がいけばなに興味があるのに、いざ見てやろうとすると、あまり関心がない人のような見方をしている。

原因は、作品が鑑賞に堪えるように展示されていないからだ。そしてその原因となっているのは、たいていのいけばな展は、多目的の展示室でただ展示台に並べられていることである。目黒雅叙園等で開催されるいけばな展に見ごたえがあるのは、作品と作品を包み込む空間とが一体的になって、本来のいけばなを丸ごと見せているからだ。

情報過多 240116

2024/1/16

沢山の人のいろいろな作品を、様々なメディアでいつでも見ることができる。それらを見ては、ああ、こんないけばなもあるのかと、感心したり驚いたりする。自分では試みたことがないような方法もあって面白い。

作家数の何倍もの作品数があるので、それらを見ていると、私の思い描くアイディアの何倍もの無数のアイディアが次から次へと私の頭の中を通り過ぎていく。そしていつしか、自分のアイディアなのか、他人のアイディアなのか混然としてわからなくなる。私自身のアイディアを固めようとしても、通過していく作品たちから降り注ぐ雨風のような刺激を受けて、いつまでもドロドロとして固まる気配を見せない。

それならば、もう、自分のアイディアを膨らませることを諦め、他人のアイディアを搔き集めてジグソーパズルを組み上げる方が、よっぽど面白い作品ができあがるのではないかという誘惑も生まれてくる。

体力と気力が充実しているときは、他人のアイディアを栄養として分解・吸収できるのだが、そうでないとき、私は自分というものがないコピー機になり下がってしまうのだった。

花材と私 240115

2024/1/16

ベンチマークとしている作品を、まだ越えられない。私自身の経験と感性の小さな範囲に収まっている技能では、まだ足りないというわけだ。他人の作品に自分と似た感性を見つけて、すぐにそれを嬉しがっているようでは、これも限界だろう。

さて、作品制作では、私の思いと私の手が花材を扱い、足したり引いたりして形づくっていく。花材を征服しようとは思っていなくて、ただ仲良くしたいだけなのに思い通りにはいかない。むしろ、つくり手である私の思いの方が、花材の主張によって盛られたり削られたりする。花材を盛りながら自分が盛られ、花材を削りながら自分が削られる関係だ。

花材の主張(個性)が強い場合の対応は2つ。1つ目は、花材に降参して妥協点を見出す。2つ目は、着手前のプランを白紙に戻し、再度始めからやり直す。後者を選ぶ方が難しいが、花材に自分を預ける余裕があるときには自分でも思いがけない作品になることがあって、「殻を1つ割ったな」と嬉しい瞬間だ。

このスタンスを普段の人間関係でも生かせばいいじゃん、と自分に言い聞かせてやまない今日この頃である。

いけばなの見方 240114

2024/1/15

いけばな展の会場で、私はできるだけ1点か2点に目を付ける。多くても4点までに絞る。私の目線は、それらの作品に注がれて、記憶の中の作品と見比べられる。記憶の中の作品がいくつあるのか、自分でもわからない。しかし、目の前の作品に触発されて、記憶の倉庫から、ベンチマークとなっている作品像が立ち上ってくる。

そのとき、「いけばな」の領域内の作品と見比べることで、いけばなの世界により深く入っていくこともあれば、領域外の彫刻やインスタレーションを思い浮かべて、「いけばな」の核心を離れ、目前の作品にすら背を向けてしまうような見方をすることもある。

内に向かう見方をしているとき、私は目で見ていながら、枝葉のしなりや傾きのつくり方を自分の手でトレースするように、いわば手で見ている。作家の創作精神への共感が膨らむのだ。

外に向かう見方をするときは、目で見ていながら、その作品が置かれた部屋全体のことや、作品間の距離なども気になりつつ、未来のいけばな展にまで心が行ってしまう。おこがましくも、その作品を夢想のための踏切板にしているのだった。

前衛的いけばな 240113

2024/1/15

付和雷同とか、尻馬に乗るというのは、生きる態度として否定的な評価を受ける。しかし、日本のある時代のある社会においては、それが生き延びるためには望ましい態度だった。

私は、母方の祖父に会ったことがない。第二次世界大戦中、同僚教員からの密告で「アカ」と宣告され、牢に繋がれた挙句、洗脳教育を受けた。そうして心身を消耗し、若くして死んだ。

その血が流れているからか、私は子供の頃から「アンチ・ジャイアンツ」だった。しかし、気弱なために、それを他人に悟られないよう、表面的にはメジャー志向を演じてきたし、そのようになり切っている自分もいた。時に頑張ってリーダーシップを発揮することもあったけれど、居心地がいいのは世間に紛れ込んでおくことだった。

茶の世界も、花の世界も、もともと前衛的な性格を持っていたと理解している。時代時代で、その新しさが脚光を浴びて持て囃され、ファンを獲得してきたのではなかったか。

こういうことを思いながら、一方では、流派のテキストに対してきちんと継承しなければならないという思いを強く持っているのも嘘ではない。

講師の事