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いけばな随想
diary

沈黙の表現 240825

2024/8/26

無声映画と呼ばれる芸術は、「無言無音で語る!?」ことで観衆の目に訴える技術を磨き上げた。チャーリー・チャップリンはその代表格で、数多くの名作を通して喜劇王とも呼ばれた。しかし、私の中では喜劇性よりも攻撃性を強く感じてきたので、冷静な激情王と呼びたい。

それはさておき、無声映画はセリフがないため、喜怒哀楽は文字通り体現するしかない。基本的には、パントマイムをデフォルメしなければ伝わりにくい。大道具・小道具も大いに助けとなるし、1人芝居ではないので共演者の演技力もそれを助ける。

しかし、難しいのが、小さくさりげない喜怒哀楽の表現だ。演劇部員だった経験から言えば、食事中にちょっと咳き込むとか、仕事中に不覚にも眠たくなるなど、日常的な何気ない演技ほど難しいものはない。

さて、ジャンルは違えど、いけばなも沈黙の表現だ。生活空間にいけるとき、その存在感が大き過ぎると、デフォルメされた大袈裟な演技と同じようになってしまう。部屋の空間に寄り添うように、静かでさりげない演技が必要となる。それでいて「黙して語らず」ではまずいのだ。

コンディションづくり 240824

2024/8/24

昨日、特定健診に行った。私は既往症のため毎月かかりつけ医に通っているので、年1回の健診は安心のための行事だ。

検査前の看護師の問診は、通り一遍の質問に通り一遍で答えて終わりにしてしまうこともできたが、「ほかに日頃気になっていることはないですか」と聞かれ、「腹回りが……」と言うと「お腹回りですねえ……」と復唱され、「注意しましょうか」とにっこりされて終わりだった。

いけばななんか、そんなに体力を使ったりしないだろうと思われる節がある。それは間違いだ。テレビを見るのだって、背筋を伸ばして座っているだけでしんどい時もある。体調が優れないとモチベーションは上がらず、体を動かすことも頭を働かせることも億劫なのだ。検査後に20年来の医師の問診で、「胸やけと、足先のしびれと、肩こりと……」と言うと、「どんな感じ?」と聞かれて細かく答えたら、「数値的には問題ないし……、まあ、様子見ましょう」。

病は気から、というのは若い頃の話で、歳を取るとすべては体からで、数値の問題ではない。体調を整えないと、いけばなですらまっとうにできない。

国際的いけばな 240823

2024/8/23

世界を知るために、少年の私は世界地図帳で勉強した。世界を知るために、英語も勉強した。そうやって知識を広げてきて、大人になってからは実際に外国へ行ったり、ホームステイを受け入れたりして、拙い英語でコミュニケーションを取る努力もした。

知識と体験で少し世界を知ったとき、足元の日本のこと、身近な松山のことをあまりに知らない壁に当たった。京都のことも福岡のことも知らないし、新居浜のことも宇和島のこともあまり知らなかった。地理的なことだけではない。天皇制のこと、自衛隊のこと、茶道や歌舞伎のこと、神楽や密教のこと、浮世絵や源氏物語のこと、歴史も伝統文化も知らなかった。華道にも床の間にも興味はなかった。

知りたいという欲求は、関心を広げていく作業と、狭めて深めていく作業の両方によって満たされる。広げないと相対的な位置取りが見えないし、深めないと語るに足りないということになる。

パリ五輪で、柔道の審判やその判定に意見が噴出したが、国際化においてそうした現象は想定内でなければいけない。いけばなの国際化も進んでいて、華道も変化する。

文化的いけばな 240822

2024/8/22

文化的な過ごし方というと、まず浮かぶのは読書だ。私の読書生活の最盛期は、中学生の時。吉川英治の『三国志』『宮本武蔵』『新・平家物語』等の大部を、夜な夜な読んだのもこの時期だ。私が理屈っぽくなったのは、文字へのこだわりが強過ぎたからかもしれない。度を超えていたため、家族から「屁理屈マン・キング」と呼ばれてもいた。

読書の次は習字で、小学2年から中学3年まで毎週通った。墨の香りが沁み込んだ部屋の縁側にはカナリアの鳥籠が吊られ、襖を隔てた隣室は琴教室だった。都合8年間、文化的な字と音と香りの洗礼を受けたと思う。

美術部員で過ごした高校時代は筆のすさびで終わり、大学の演劇サークルでは舞台美術も担当したが、雌の烏ではなく女烏の役で歌わされもした。そして20歳からは、前衛ロックバンドを組んだ。

こうしたキャリアが幸いして(災いして)、私のいけばなは叙述的である。語り口が多過ぎる説明的ないけばなだ。我ながら恥ずかしく思うけれど、屈折して理屈っぽい。昔から、文化人というのは鼻持ちならないと嫌われてきたように、文化人は複雑なのだ。

健康な花 240821

2024/8/21

暗い花の反対は、明るい花。不健康な花の反対は、健康な花。一般的に好まれるのは明るく健康な花で、就職活動に向かう学生にも、明るく健康な表情や見かけを整えるよう指導される。先日、フランスの俳優アラン・ドロンが亡くなった。彼の魅力は美男子であり且つ憂いや狂気を秘めていたことで、完全無欠の絵に描いたような好男子でしかなかったならば、あれだけの人気を博すことはなかっただろう。

葉っぱを齧られた庭木を、不完全だということもできれば、虫が食べたいと思ったくらい健康な花だと見ることもできる。農薬等に守られて健康そうに見える切り花を、ほんとうに健康だと言い切れるかという隠れた問題もある。

さて、松山市内には、フィットネス施設がどんどん増えているように感じる。美容と健康志向が進行している証拠だろう。これは、不健康でない自分を保つための節制行動なのか、より健康的に見せたい欲求のための消費行動なのか?

精神的健康を志向する人ならばこそ、不健康で暗い美術やいけばなを、感性的なワクチンとして定期的に注入することが有効だと思うがどうだろう。

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