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いけばな随想
diary

生命 240908

2024/9/9

子どものころ夢中になった「鉄腕アトム」、「サイボーグ009」や「どろろ」などの漫画は、生命らしさとは何かという問題を突きつける。そんな大問題を子どもが正面から考えるにはハードルが高かったし、不思議な感覚を覚えながら、ただ心が囚われていた。

思えば、生物の生命ほど多様性に富むものはない。標準化してこれが最高だといえる完成形がない。遠からず必ず死ぬということが、生命の神秘性のバックボーンにあると思う。

さて、生成AIの登場で、絵画までもが人間の想像力の手を離れてしまうような心配もあるというが、私はそれを心配していない。人間には隙がある。人間には油断もあるし、人間はふと思い付いたりふと気が変わったりもする。また、気分が塞ぐことも快活になることもあるし、気圧で頭が重いことも、食べ過ぎ飲み過ぎで逆流性食道炎になったりもして、捉えどころがない。

この、捉えどころのなさこそが、生命らしさの原点ではないだろうか。どこまでもどこまでも他人に理解されないいけばなをいけること(私にはできないけれど)、それが生命力のあるいけばなだろう。

目当てなし 240907

2024/9/7

カヤックで海へ漕ぎ出すとき、目線はできるだけ遠くへ向ける。パドルを海へ差し込む近い所だけを見ていると、進むべき方向を見失ってしまうからだ。逆に水平線の彼方だけを見ていると、これも危ない。目に映る景色が変わらず無力感に襲われるし、海面ぎりぎりに突き出た岩礁で船底をこすったり、乱れた潮目に捕まったりするからだ。

また、カヤックでは、目的地なしの航海ほど不安なものはない。漂い続ける行為の向こうには、仮に遭難しなかったとしても死ぬイメージしかないからだ。

私がいけばなの道を歩き始めたとき、目的地はなかった。20余年を経て目的やゴールイメージははっきり見えないけれど、少しずつ靄が晴れつつある気分だ。それは、ある意味で行く先を探すことをやめて、漂い続けることを目的にしてしまうという思い付きによる。シーカヤックでは死ぬ覚悟が必要かもしれないけれど、いけばなでは目的意識がなくても死ぬことはない。

いいじゃん、いけばな! 目的地に到達することに意味があることがらと、目的地に関係なく「それ」をしていること自体が目的なのもいいことだ。

花とカヤック 240906

2024/9/6

この夏がシーカヤックを漕ぐことなく過ぎる。唐突なことを言ってしまうと、いけばなとシーカヤックは私の心を行ったり来たりさせるこっち側とあっち側にある。重なったり離れたりしながら、私はカヤックに寄せて花をいけていることがある。

どちらも季節季節の移ろいと密接に関係した楽しみ方がある。また、花材がなくてはいけられず、海がなければ漕ぎ出せない。そして、かつての私は月影が星空を映す9月に、誰もいない海辺でテントを張り、堤防の向こうの荒れ野のススキのひそかな集会に耳を傾けたりした。

花をいけるとき視界と意識は狭まり、自分の正体も失ってただ花びらの薄さや葉の厚みを指先で感じる。シーカヤックを漕ぐとき視界と意識は拡がり、自分の正体を失ってただ潮の流れと風の誘いに身を任せる。共通しているのは、私の存在を消しゴムで消すようになくしてしまえること。

もう1つ……。私の花は私が忘れていてもそこにあり、カヤックも私が忘れていてもそこにあること。行ってくるよと言わずに置き去りにしても、ただいまと言わずに気ままに帰ってきても、そこにあること。

レシピ 240905

2024/9/5

レシピ通りに作った料理が必ずしも美味いとは限らない。楽譜が読めても、その通り弾けるかどうかはわからない。成績が良くても、就職後の給与がいいとは限らない。

レシピと知識も別物だ。私のばあちゃんは、レシピ本など見たこともなかったが、美味しい晩御飯や、美味しいバラ寿司をよく作ってくれた。昔の人は料理の知識は豊富でも、体で全部覚えて、それをレシピとして整理し直すことをしていなかっただけなのだ。

いけばなに、レシピに相当するものがあるかと問われた。改めて考え込んだ。料理や建築などの場合、材料、材料の数量、大きさや形状、作業の順番、加熱・冷却時間や発酵時間や乾燥時間、使用する用具などが示される。演劇の台本も、配役、衣装、順番、時間、道具や音響照明等を示している点で似ている。いけばなには「型」があるというものの、数量と大きさや形状については例示されるが、レシピと言うほどの縛りはない。習字を習ったときも、そういえば手本と筆順はあったが、それくらいだった。

YouTubeを見てわかったわかったというのは、半分正しく、半分足りていない。

学び過ぎ 240904

2024/9/4

学び過ぎは良くない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。

小学生のとき、隣家のO君と路上で対決した。ひらかなの「そ」を「一画で書くのと二画で書くのはどっちが正しいか勝負」を、舗装されていない地面に小枝で互いに書きなぐりながら言い争った。じいちゃんには二画で書く「そ」を習ったかもしれないが、小学校の国語の授業では一画で書く「そ」を習ったので、一画で書くのが正しいということに決着したが、勝った私の心は晴れずに曇った。

学ぶことは、闘うためではない。百条委員会に臨む兵庫県斎藤知事の答弁にやるせなさを感じる人は多いだろうし、似たり寄ったりの答弁をする総理大臣や閣僚が多いのも悲しい(にもかかわらず、それを見逃す国民が多いのも悲しい)。彼らは相手を言い負かす自己正当化を、学ぶことの結果にしているから。

いけばなの世界も無縁ではない。学んだことを金科玉条のように振りかざしている人々には辟易する。そういう発言は、人に投げると自分に帰ってくるブーメランなので、「よく学びよく遊べ」と、バランスよく学んで突き詰め過ぎないユルさが大事だ。

講師の事