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いけばな随想
diary

俳句のような花 241217

2024/12/20

 日本には俳句がある。短詩型文学は語句が少なく説明的ではないから、分かるものは分かっても、分からないものはてんで分からない。だからといって「それは、どういうことを言ってるんですか?」とは、国民的地位の俳句に対して今さら聞けない。こんにちでは国際俳句も盛んだ。
 国際化が進み、日本で暮らすにもグローバルスタンダードに寄り添うか、ダブルスタンダードで乗り切るか覚悟しなければならなくなった。料理のレシピも、「塩少々」とか「しょうゆ適量」では通じない場面がある。
 日本人は島国で肌を寄せ合って生きてきて、「多くを言わんでも分かり合う」ことが当然の美徳である。分かり合っている部分がどれくらいあって、分かり合えてない部分がどれくらいあるのか、それを問題にすることも控えてきた。ところが、いけばな展の会場では、感じようとせず、ただ理解しようするものだから、不思議な物でも見るように首をかしげる人が少なくない。
 いけばなも、短詩型文学のように引き算を徹底すると、1本の線で広い空間を表現しようとする世界に至る。そこには、もう何も説明はない。 

磁石の関係 241216

2024/12/16

 きょう流木を採取に行った。現地の3人が、私が欲しそうな流木を事前に選んで並べてくれていた。その3人、去年も私の流木拾いを手伝ってくれた人たちで、私がどんな大きさ、どんな形のブツを好んでいたかちゃんと記憶していたのだった。
 採取に同行して行った2人も夢中で積み上がった流木の山を歩き回り、完全にトレジャーハンターの目になっていた。そして、この2人は初対面だったが、流木拾いを通して何か互いに理解をし合えるような関係を短時間で築いていた。
 そういえば、そもそもこの流木拾いができる環境を最初に整えてくれたのは、私同様に草月のいけばなをしている人だ。同じいけばな仲間だが、それまで特に意識して話をしたことがない人だったのに、流木をきっかけに一気に話せる関係になっていた。
 人間関係を築く過程は本当に不可思議で、同行の2人がそのことについて会話していて、1人が「人間関係は磁石みたいなもの」と言った。合う人同士は、策を弄さなくてもたまたますれ違っただけでビタッとくっつくし、逆の場合はプンと反発し合うから、何も考える必要はないそうだ。

いけばなの批評 241215

2024/12/15

 習い事である以上、私は生徒さんのいけばなにコメントする責務がある。頭の中には「もっと強弱、疎密を付けて」「思い切って葉を落としましょう」「花器の向きを変えてみましょうか」「表現したい主題は何?」……いろいろな指摘事項が思い浮かぶ。しかし、傲慢にならないよう賢者を装いたい私は、多くの言葉を吐くことなく暗示する態度を取りたい。
 だから、いけばな制作と同じで、最後段階で言葉の引き算を試みる。足し算は際限なく盛っていけても、引き算はこれ以上引けない臨界点を越えると、意味そのものが消えて伝えたい中身も説明できなくなってしまうのは怖い。
 さて、師範の有資格者は、引き算で残った私の用語が理解できるので、[私の考え]→[私が発した言葉]→[相手が聞いた言葉]→[相手の理解]というプロセスがうまく繋がる。
 初心者に対するコメントの場合は、次のようだ。[私の考え]→[相手が理解できる考えに転換]→[私が発する相手に理解できるであろう言葉]→[相手は理解できる範囲で言葉を拾う]→[相手の理解には取りこぼしや取り違いがある]。難しい。

消えるいけばな 241214

2024/12/14

 いけばなは、作品の形を長く残さない。冬場で4日、夏場で2日。水替えをちゃんとすれば、もっと長く持つ。花材や他の条件にもよる。枝ものは1か月くらい平気で持つので、心苦しいがむしろ早く処分しなければ部屋が枝ものに占領されて熱帯雨林のようになる。
 いけばなは、食材の腐りやすい料理と同じで、花材の姿や性質が変わりやすいし、枯れやすく腐りやすい。一定の時間が経つと、この世からおさらばだ。消え去ってくれるから、仮に出来が悪くても尾を引かないのはいいことかもしれない。枯れる前にいけ終わらなくてはならないため、制作時間も長引かない。
 ドライフラワーやプリザーブドフラワーで作ったブーケなどは長持ちするが、いけばなの基本技術の1つである「矯める(曲げる)」ことが難しいので、そのへんの枯れものを、いけばなではあまり積極的には使わない。ドライやプリザーブドのアレンジメントは、形が長く残るぶん、良し悪しに関わらずその成果がずっと人生に付いて回る。
 恋も同じで(?)消えるから愛おしい。いけばなの大きな魅力は、恋よりも早く消えることであろう。

現場のいけばな 241213

2024/12/13

 いけばな展に出品することは、ひとつの大きな目標である。長時間かけて「いけこみ」を行い、2~3日の展示期間、作品を人目に晒す。
 会期中、自分で何十回も見直しながら、自作を見てくれる人の姿を横目でこっそり観察して、念入りに見てくれている人がいたら喜び、一瞥しただけでさっさと通り過ぎる人がいたらがっかりする。喜怒哀楽の大波がひっきりなしに訪れる。
 これまで稽古で身に付けてきた知識や技術が試されているので、展覧会で他人に評価されることは恥ずかしかったり怖かったりするけれど、その知識と技術を再確認する絶好の機会が、この“現場”なのだ。そこで、針の筵という言葉がぴったりするくらい究極に追い詰められたとき、マゾヒズムに没入してカタルシスをはかれるくらいになると、いい意味でパンチドランカーに成長している。
 私と同じような日本人は、叩かれ慣れていない。だから、叩かれると執念深くすねる。頑張って心頭滅却しなければならないのは、まだまだアマチュアである。右の頬を打たれたら左の頬も差し出すくらいになれば、現場を2倍に生かせる逸物である。

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