面白がること 231019
2023/10/19
先般、全国高校生花いけバトルの四国大会を見に行きました。愛媛からエントリーした4校を応援しに行ったのだけど、もう、全部の学校が素晴らしかったです。
「華道部でもないのに、何で出場しようと思ったの?」「面白そうだったからです!」。このイベントが、意識的に花に触れる最初の機会だったという生徒さんには仰天しました。彼は、まさに面白がれることを見つけたのです! バトルだというのに、勝ち負け以上に、自分が全力アタックできるかどうかに何のてらいもなくチャレンジしたのです。
私などは、いけばなの昇格試験を小さな会場で受けるのにもいろいろ考えて二の足を踏むのに、彼らは成果を得る可能性が高いとか低いとか、全く問題視していませんでした。始める前から結果のことで気を揉んでいないのです。ああ、あんな少年に私もなっていたかった!
私は、自分が設定した幸せに届こうと、もがきもがいて人生を過ごしてきました。結果を問わず面白がれるのは、まさしく才能です。華道をはじめ「〇〇道」は、届かないからこそ面白がって追い続けられる土俵なのかもしれません。
いける距離 231018
2023/10/18
私は海(ともかく水辺が)が大好きで、雅号は汀州です。汀の字は私の先生の雅号から1文字頂きました。私のお弟子さんにも、師範になると汀の字を使った雅号を名乗ってもらい、水辺の領土を広げます。
夏の海辺でキャンプをすると、真昼の砂浜の浅い所では白い網目の波模様や小魚の群れ。夜、テントから波打際を見ると砕ける小波に煌めく夜光虫。翌朝、コーヒー片手に水平線で溶け合う海と空を見るのも素敵だし、帰りがけに、半島の小道から夕日に染まる雲と海のコントラストを眺めるのも綺麗。海は、あらゆる距離から常に魅力的です。
さて、いけばなを見る距離は人それぞれですが、屋内作品だと0.5~2m、屋外の大作だと1~10mくらいでしょうか。私は、人に見て欲しい距離を勝手に設定していけています。これが私の「いけばなをいける距離」です。
しかし、その距離が、記録で残す撮影にふさわしい距離かというと、必ずしもそうでないところに悩みが尽きません。近過ぎると空間全体が見えないし、遠過ぎるとディテール(葉の模様や花の色の陰影など)が見えなくなってしまうのでした。
描きいけ(かきいけ) 231017
2023/10/17
いけばなの取り組み方には、3つのパターンがあります。(1)完成予想図を頭に描いてから花材を用意して着手。(2)与えられた花材を眺めつつ完成予想図を頭に描いて着手。(3)完成をあまりイメージせず気ままに花材と戯れつつ進める。
料理人も、普通はメニューに従って(1)の要領で食材を調達しますが、私の知る小松要さんというシェフは、かつて漁師さんや農家さんに「旬のものを今日は3kg持ってきて~」という調子で発注し、やってきた食材を並べつつ(2)の要領でその日のディナーコースを考えておられました。家庭で日々の料理を作る人も、冷蔵庫の食材とにらめっこしながら(2)の要領で献立を考えることがあると思います。
私がお稽古用の花材を仕入れる時は、生徒さんの顔とその日のカリキュラムを思い浮かべつつ、花店に並んだ花木の中から直感的に相性のいい花材を仕入れます。生徒さんは(2)か(3)のパターンで取り組みますが、(3)のパターンで取り組んで終わりなく楽しんでしまう人のために、草月流には「描きいけ」というカリキュラムがあって、完成予想図を紙に描いてからいけ始める(2)を練習します。
AIに負けるな、いけばな 231016
2023/10/16
自分が描けない絵を生成AIが描いてくれるんですよ。そう聞いた時は、何だと? と疑問ではなく怒りに近い感覚を覚えました。
3Dプリンタで家も建てられるんですよー。そう知った時は呆れてしまいました。家というのは様々な建材を組み合わせて建てられるもので、プリンタでは複数材料の取り合わせが困難だろうという直感から、モルモット気分で殺風景な空間に住まわされる光景を想像したのでした。
複数材料の取り合わせという点では、いけばなも同じです。花材の大小や数量に加えて花器の取り合わせや水の量まで考慮すると、ほぼ無限の組合せができます。そこにできあがった作品には、必ず試行錯誤の痕跡が残ります。人の顔が人生の苦楽と共にできあがっていくように。
質感の表現は好みや成り行きなので、おそらくAIの見込み通りにはならないと思います。成り行きというのは、ああでもないこうでもないと迷い道を経て、余計な時間とチャレンジを費やした後に独自表現として表れてくるということです。
計算通りにならないいけばなを、計算通りにはいかない人生の楽しみにいかがでしょう。
創造と想像 231015
2023/10/14
いま無職の私は、専門学校で教職に就く前に、広告出版の会社員をしていました。広告は、クライアントの魅力や思いをターゲットのお客様に届けるのが役割でした。
しかし、私は自分で言うのも何ですけれど創造力はまあまあでしたが、想像力に欠けるところがありました。クライアントの思いをヒアリングしたり観察したり、そして想像するところからクライアントとビジョンを共有しなければならないのに、自分の表現欲がそれを上回っていて、結局はクライアントへの理解が不足した広告を作ってしまうのでした。
反対に、クライアントへの想像力が忖度に陥ってしまうと、クリエイティブのない凡庸な広告になる恐れがありました。
コミュニケーションとは聞くこと(理解すること)と話すこと(表現すること)の両輪で成り立つということに気付かないまま過ごした年月の長かったこと!
この1年、私は知人のショットバーに花いけをさせてもらっています。マスターと店のお客様に対して自分勝手な創造にならず、気を回し過ぎない想像力とのいいバランスで取り組みたいと思っていますが、さてさて?