Why と How 200602
どのように「いけばな」をするかという方法論の問いは、何のために「いけばな」をするかという目的についての問いの後に付属する。
では、何のためにしているかというと、意地でしかないと思うこともあれば、何かが発見できそうな予感がすることもあるが、何となく続いてきたというのが本当のところで、あまり強くWhyを意識すると、生きていることもしんどくなる。
だからと言って、あまりHowにこだわるのもしんどい。
どのように「いけばな」をするかという方法論の問いは、何のために「いけばな」をするかという目的についての問いの後に付属する。
では、何のためにしているかというと、意地でしかないと思うこともあれば、何かが発見できそうな予感がすることもあるが、何となく続いてきたというのが本当のところで、あまり強くWhyを意識すると、生きていることもしんどくなる。
だからと言って、あまりHowにこだわるのもしんどい。
いけばなは自然を模倣するものではない。自然を象徴するものだと思っている。
野にある花の姿や周辺の様子を「野にあるように」いけるのではなく、野にあった花の姿や様子、あるいは全植物のありよう、そして、野にあるすべてのもの、大げさに言うと地球の未来も、いけばなを見たすべての人がそれぞれの感受性で想起できるように、「(花が主語ではなく、私自身が私の描く世界としての)野にあるように」いけられるようになるのが目標だ。
手がうまくなることが「上手」になることなので、やはり「上手」は目指さなくてはいけないけれど、やっぱり私はアタマでっかちが拭えないんだなあ。特化×異化で、どこかユニークさを求めてしまうのだった。
いつも何かを考えている。それが行動に表れる。いつも意識していることが、いけばなにも表れるはずだ。
ところが、大抵、思うようないけばなにならないのは、手の技術が意識に追い付いていないことが原因だ。いつも意識を優先し過ぎなので、ひとまず目の前の花から始めよう。
バラの茎を少し傾けてみると、喜ばしい表情が少し哀しくなる。半音下げたマイナー基調の音楽みたいに。
青いバラを手に入れた。まえに十数本の青いバラをいけたときよりも、凛として見えた。光を宿しつつ伏し目がちないけばな、というものを手にしたい。