非実用で行こう 231023
2023/10/23
この数日、「華道」と「いけばな」の関係性にこだわっています。
「華道」からの連想で「茶道」を思い出します。浅薄な理解で恐縮ですが、その昔、クライアント・ファーストに我慢できなくなった利休が命を断たざるを得なくなったのは、自分の信念を曲げることに妥協できなかったからです。他人のそれよりも、おそらく自分の人生を掘り深めることが〇〇道の真髄という点で、茶道も自分ファーストです。
そして、華道も元来自分ファーストだと思うのですが、かつて花嫁修業の一端を担っていた頃の華道は、家庭や職場で実用的でした。以来、華道はともかくとして、「いけばな教室」はクライアント・ファーストで糊口を凌いできました。
しかし、実用にシフトしていたいけばなも、より直接的にお金を増やし効率的に時間を短縮することが正義の現代社会では、非実用的だと見られます。なおさら、華道は唯心的・自省的で外から分かりにくいため、実用面から疎遠にされます。
ゴールの出来以上にプロセスの完成度を高めたい華道は、「武士は食わねど高楊枝」っぽい精神性でカッコイイのにね!
面白さの見つけ方 231022
2023/10/22
浮気性は、私の回りの人を傷つけてきました。それはどうしようもなく良くないことです。
一方、習い事を継続できるかどうかも、これまた浮気性と関係していると思います。逆説的ですが、飽きっぽい人の方が、1つの物事に対して長く興味を持ち続けられるような気がしているのです。
1つの物事に対してどっぷり浸かっていると、「茹でガエル現象」と言われるように、身近な環境に甘んじて鈍感になってしまい、気付かないうちに大きく変化していた外界に不適応となって死んでしまう恐れがあります。死なないまでも、小さな世界に胡坐をかいていると発見もなくなり、つまらない日々を送るようになります。
いけばなに対する私の刺激の大半は、いけばな以外から得ています。関係なさそうな出来事が「いけばなの参考になりそうだぞ!」と感じさせてくれたときや、いけばなに生かせそうな言葉と出会ったとき、「ああ、自分は結局いけばなを軸にしている」と再認識します。いけばなと別の何かとの新しい関係を発見すること、これが面白さの全部です。いけばなだけで、いけばなをやってはいられません。
美意識と生活 231021
2023/10/21
大量生産・大量消費の高度成長期を生きてきた私は、仕事も生活も慌ただしく、いろいろ雑で汚かったと振り返ります。1980年代は生活文化という言葉が盛んに使われていて、デザイン出版会社で制作ディレクターをしていた私は、それを高めようという愛媛県発注の仕事などでちょこちょこ稼がせてもらいました。
生活文化とは言っても、普段の生活はたいてい普段着なので、さほど美しい文化が現出するわけもありません。現役時代の私は、現実過ぎる毎日に進んで忙殺されていて、美意識を膨らませることができませんでした。日常的に徹底して美しさを追求するのはとても無理だと思っていました。
いま準隠居生活に入り、五感も頭も空きができたので、もう少し美意識に忠実でありたいと思い始めています。「文化」というと純粋に芸術などに親しむことを思い浮かべますが、「生活」というとスポーツや旅行、読書などを娯楽的に思いうかべることができます。そんなとき、「生活文化」という中間的な言葉にすごくフィットする感じがするのがいけばなじゃないかしらん? と含み笑いをしてしまうのでした。
素敵な遭難 231020
2023/10/20
遭難することは、誰もが避けたい。だから、遭難しないように事前調査と準備をします。私の自慢は、若気の至りで遭難経験が2度あることです。
ある時、重信川の源流点を求めて、10人ばかりで東三方ヶ森という山へ沢伝いに登りました。天候が急変して霧に巻かれ、計画を諦めて方角だけを頼りに谷と尾根を越えてひたすら北へ歩き、幸運にも設置アンテナをチェックしに来たアマチュア無線の人たちに日没前に林道で出くわし、車で救出されました。
またある時、愛南町の鹿島で仲間に落ち合うため、単身カヌーを漕いで渡りましたが、天候悪化のニュースで仲間は既に島を脱出していました。即座に私も後を追いましたが、高波と追い風に煽られて転覆・漂流しました。強運にも、沖で漁船を救助した通りがかりの船に救い上げられました。
用心深く暮らしていると、あまり遭難しません。いけばなでは、用心しても、花が落ちたり茎を切り過ぎたり枝を折ってしまったりと、一見とりかえしのつかない失敗を繰り返しますが、どんな場合でもリカバリーできるという経験を何度も積めるのが素晴らしいのです。
面白がること 231019
2023/10/19
先般、全国高校生花いけバトルの四国大会を見に行きました。愛媛からエントリーした4校を応援しに行ったのだけど、もう、全部の学校が素晴らしかったです。
「華道部でもないのに、何で出場しようと思ったの?」「面白そうだったからです!」。このイベントが、意識的に花に触れる最初の機会だったという生徒さんには仰天しました。彼は、まさに面白がれることを見つけたのです! バトルだというのに、勝ち負け以上に、自分が全力アタックできるかどうかに何のてらいもなくチャレンジしたのです。
私などは、いけばなの昇格試験を小さな会場で受けるのにもいろいろ考えて二の足を踏むのに、彼らは成果を得る可能性が高いとか低いとか、全く問題視していませんでした。始める前から結果のことで気を揉んでいないのです。ああ、あんな少年に私もなっていたかった!
私は、自分が設定した幸せに届こうと、もがきもがいて人生を過ごしてきました。結果を問わず面白がれるのは、まさしく才能です。華道をはじめ「〇〇道」は、届かないからこそ面白がって追い続けられる土俵なのかもしれません。