閑雅ないけばな 260124
2026/1/24
とても上品な学校の先輩がいる。1年あまり前のいけばな展で、そのご婦人がいけばなをしていることを偶然に知って驚いた。彼女の作品は、挿している花々は洗練されて小さく、それでいて周囲から際立って目を引いた。アスパラガスとアンスリウムの緑、オンシジウムの黄色、ノイバラの赤い実に対して、足首の細い黒い花器とチョコレートコスモスの暗い色とが怪しかった。その「暗く黒いリズム」は、今でも思い出せる。
その時に感じた印象は「風雅」だったが、改めて思い直すと、あのいけばなは「閑雅」だった。風雅という言葉は、悪く言うと、ひけらかす感じのわざとらしいニュアンスが奥床しさに欠ける。閑雅の方が鄙びた感じを含んで、より精神性が高く感じられる。
精神性とまで言ってしまうのが堅苦しいならば、侘び寂びと艶っぽさが一体的に感じられて魔法のようだった。魔法は解けると、そこには幻滅が残る。しかし、あの時のあのいけばなは、秘すことで見る者を魔法にかけて、ついに解けることなく消えてしまった。いけばなの素敵さは、謎を解く暇を与えず消えてしまうところにある。
表現のウラオモテ 260123
2026/1/23
悲しいから涙を流す表現と、悲しいから涙をこらえるという表現とがドラマにはある。俳優は、彼の経験や想像力によって、台本の真意を探りつつリアリティのある演技を追究しなくてはならない。また、一般人の一般的な見方では、能面は表情の乏しいことと見なされがちだが、鑑賞に慣れた人にとっては、隠された心をより深く感じさせる誇張された表情にも見えるそうだ。
これらのことから言えるのは、大袈裟で直接的な表現は、その派手さによって却って噓臭く感じさせる惧れがあるということだ。“陰ながら”“秘かに”“むせび泣く”というところに、悲しみの深さが感じられるというもので、“髪を振り乱して”“地面に頭を打ち付けながら”“オイオイ泣く”のは、近隣の某国の悲しみ方の流儀で、日本人にはそういう泣き方が理解しがたい。
また逆に、いけばなをインターナショナル化しようとする意図のもとでは、ある程度の単純化や形式化も必要で、解りやすくなければ広まらないというジレンマもある。
しかし、先を見てしまった者が、あえて現在地に留まったり後戻りするのは愚かである。
欠如と過剰さ 260122
2026/1/23
いけばなが完成する。もうこれ以上、枝の1本も足さず花の1輪も引かないという決心に至ったということ。いけばなとして調和が取れ、自分の心の状態としても平穏を迎えたということだ。
ところが、もう1人の自分があれこれ思う。「わたしは、一体全体、こんな“中庸”を目指していたのだろうか。むしろ、削り過ぎた単純化や過剰過ぎた存在感で、見る人にある種の不安や衝撃を示したかったのではないか」
改めて考えてみたい。会社に客人を迎える際のいけばなは、その会社の社風を感じさせ、また、相手に対して粗相のない儀礼を尽くすものとして、常識のうちに調和や平穏が期待されるだろう。一方、家庭に客人を迎えるいけばなは、ホストの感性や個性が溢れ、相手との懇意さによっては、ユーモアを感じさせたり楽しませたりする積極的なエンターテインメントを出すチャンスでもある。堅苦しい礼節よりも、ホストの気分がストレートに表れて好ましいと思う。
誰かに対するアプローチとしていけばなを使う場合、そのやり方には両極があるのだった。大人しくやり過ごすのか、目を見張らせるのか。
いけばなの三角 260121
2026/1/21
いけばなの基本単位は、三本、三角形、三角錐である。強固さや安定を求めるならば、人が暮らす家のように、四本、四角形、立方体や直方体を基本にすればいい。土地の有効活用や間取りの標準化などの面からも合理的だ。しかし、ギリギリまで削ぎ落とした状態を目指すとき、いけばなでは4ではなく3が単位となる。
まず三本。2本の枝では縦×横の平面はつくれても、縦×横×高さの空間をつくることはできない。枝が3本あれば、立体造形が生まれる。
次に三角形。枝を4本平面的に組んで隙のない「四角四面」をつくると、窒息して躍動感を損なう。三角形は程良く不安定で、自由に隙をつくることができる。
そして三角錐。剣山を基点として、「真副控」の3本の主枝の先端3点を結んだ三角錐が、そのいけばなが取り込んだ空間である。
これら3つが、いけばなの基本の構えだ。剣山を使わず自立させたい場合も、4本足で立てようと努力するよりも、3本足の方が安定する。3本の足の長さが違っていても、いけばなの重心が足の三角形内に納まっていれば、ガタつくことなく落ち着いていてくれる。
いけばなのルーツ 260120
2026/1/20
国際化が進むと、文化芸術の分野も、国を越えて互いに刺激し合う。日本がヨーロッパで生まれたフラワーデザインを、アメリカを経由して取り入れたように、海外ではいけばなに対する関心が高い。
そういう事柄について、いずれも15年くらい前に何度か話したことがあるのは、イタリア人のシェフ(イタリア在住、来日経験は数知れず)と中国人の写真家(中国在住、来日経験は多く息子は日本の大学に在学中)だ。
そのイタリア人は、若くして空手に興味を持ち、20代でバイク日本一周をした。彼は日本食以上に禅や道教ないし陰陽道にも関心が高く、その熱意から日本語だけではなく中国語も解する。中国人は、中国では名だたる写真家で大学教授も務め、ゼミ生と共に四国八十八ヶ所を回って『同行二人』という写真集を出版した。私は、そのツアーをアテンドさせてもらい、「四国には、失われた中国の歴史が現に残されている」と感嘆している言葉を聞いた。
2人に共通したのは、日本らしさの奥には中国らしさが潜んでいるという感覚や認識だった。あれから15年、そろそろ私も勉強しなくてはなるまい。