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いけばな随想
diary

花屋の付加価値 241109

2024/11/9

 一昨日の花の購入については、もう1つ重要な側面がある。今春だったか、バラを買いに行くと1本500円だった。「何じゃ、こりゃ!」と私が驚愕していると、花屋は「これは国産じゃけん。ケニアのバラなら400円、インドのバラは300円」
 国際化がそこまで進んでいたのか! とショックだった。飛行機に乗って、バラたちが世界中を旅しているのだ。水飲まなくて大丈夫? いやいや、どうやって飲んでるんだ? ネットでの購入では、こういう話の広がりは期待できない。商品の売買は物と金の交換でしかない。
 合理化されたネット取引市場は便利だが、対人の売買はそれに止まらず人間関係の構築という果実が付いてくる。時にダラダラした愚痴の言い合いで時間を食うけれど、間違いなく花に関する知識や花業界に関する知識が増える。
 AIでまかなえるだろう? という主張もあるだろう。しかし、AIは自ら進んで提案してはくれない。よい質問をすれば、驚くほどよい答えを出してくれるけれど、質問が下手だったら思うような答えを返してはくれない。生身の販売者は、いらんことまで話してくれる。

好みは不安定 241108

2024/11/8

 いま、やることが一段落してウィスキーを飲んでいる。今日はいくつかの仕事が順次一段落していったので、昼過ぎからずっと飲んでいる。足掛け10時間、飽きっぽいので、もう4種類目のスコッチだ。ボトルを空けてしまう飲み方ではなく、ブレーキを踏みながらアクセルをチョイとふかす感じ。
 目の前にはグレンファークラス10年。12年物に比べるとモッタリしているし、値段も少し安い。ところが、一段落後の憩いのマッタリ気分にはこのモッタリが合う。生きることは飲むことである、という異常な愉しさに満たされる。
 しかし、他のウィスキーの方が旨く感じられることが頻繁にある。その酒についての知識や気分や体調や天候などで、好みの順位は毎日入れ替わる。
 好みの花もいろいろだ。このところ、枝ものはアセビ、実ものはヤブサンザシ、花ものはデンファレとリンドウに思いを寄せている。昔からコスモスやマーガレットが好きではあるが、いけばなには使うほどの腕がまだ私にない。アネモネやラナンキュラスの寂しげな怪しさもずっと好きだが、これを使うと面妖ないけばなにしたくなる。

花の購入 241107

2024/11/8

 花を買うとき、かつては花屋さんに行って物色し、色や形を見極めながら買ったものだ。目の前にあるものから選んで買う。たいていのものは、同じ買い方をしていた。
 いまは違う。何はともあれネットで検索し、赤い花だとか小さい花だとか検索条件を変えながら、自分の意図が先行して購入したい商品が決まったりする。そして、それを花屋さんに示すと「そんなもん、今年はまだ咲いてないわい!」今年は異常気象で、まだ流通していないのだとか。
 こちらが買いたい希望を示すのとは逆に、花屋さんがこれを買ってくれないかなあという希望をそれとはなく出してくることがある。先日は、コウテングワの立派な漂白仕上げだった。客が1本欲しいと注文すると、花屋さんは6本1箱で仕入れなくてはならない。手元に5本もの在庫を抱えることになる。しかも、そんなに売れる代物ではない。で、花屋さんは黙ったまま、言葉にはしないで私の目を覗き込むのだ。
 かつてLPレコードをジャケ買い(ジャケットの好みで視聴もせず買うこと)していた頃のように、いまは花の様子を見て気に入ると買ってしまう。

自然に出来上がる作品 241106

2024/11/8

 花で手遊びをしていて、気付けばいけばなが出来上がっていた。こういう無意識につくられた作品は、作為が働いていない点で自然的だと言ってしまいたくなる。昨日は空間的な自然を思い浮かべ、今日は精神的な自然を思い浮かべている。
 しかし、私自身が作為的でなかったとしても、私のいけばなの癖は体に沁み込んでいるのではないか。無意識だったかもしれないけれど、体が覚えていた記憶が、いつでも私のパターンを描いてしまうように方向付けされている可能性は大きい。
 特段に意識していなくても、人は動作ひとつにしても持っている癖が勝手に振る舞う。むしろ意識していないときほど、癖はことさら確実に立ち現れる。私は自分の癖について、あまりたくさんの知識を持っていない。だから、自然に振る舞っているつもりであっても、深層に隠れた自分が表層の私を易々と操っているのだ。
 人は、法律とか慣習などの社会的拘束力に縛られているというよりも、自分の個性により強く縛られていて、「自然に湧いてきたインスピレーションによって作品ができちゃった」などということはないのである。

自然と不自然 241105

2024/11/8

 40歳代になって、アレルギーの症状が表れた。子どもの頃から海や川で泳ぎ、山でキャンプをしていた自分だっただけに、自然のフィールドと友達でなくなったような気がしてショックだった。しかも、いけばなを始めた時期と重なっているのが皮肉だ。以降、薬を飲んでいるにも関わらず花粉症の症状がしばしばやってくる。アレルギー検査を2度行ったけれど、原因は分からずじまいだ。
 人口減少で都市開発も一段落してきた日本ではあるが、山と町(里)が近付き過ぎて「里山」がなくなってきたと専門家は言う。熊や猿が、人の生活圏に頻繁に出現している。熊や猿に言わせれば、逆に「最近ガンガン来るんよねー、遠慮のない人間が」と言われている(はずだ)。
 そもそも自然というのは、人間が暮らす集落も含めて呼ぶのか、人間が立ち入らない聖域を指すのか。人間が働きかけた自然は、もう自然ではなくなるのか。
 切り花は、もう不自然になった自然である。だから、いけばなで自然を表現することはできない。人間の作為と無縁なのが自然だとすれば、自然を売り物にした観光も不自然極まりない。

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