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いけばな随想
diary

自然の枝、栽培の枝(2) 251209

2025/12/9

 元同僚が、葡萄の専業農家を継いでいる。栽培品種はシャインマスカットとピオーネ、そしてブラックビートだ。圃場は広く、品種ごとに区分けされている。収穫をゴールとして、1年前から畑の手入れは始まり、肥料や農薬の散布など、休みなく作業は続くようだ。
 そして、来年の収穫までの作業がしやすいように、樹形と枝の配置を整えるための剪定が12月から行われる。私もそれに参加させてもらった。整列した木のそれぞれの枝は、幅2メートル長さ8メートルくらいに整える。前年に伸びた部分を、2個の芽を残して切る。その一部を、先に私が失敬して持ち帰るわけだ。残った枝は、燃やして灰にされ畑に戻る。
 わかったことは、シャインマスカットの枝は素直で行儀が良く、いけばなの花材には向かない。ピオーネは、わずかに個性がある。ブラックビートは、とても個性的で力強い。私は、ブラックビートの枝だけを切って回った。
 要は、自然界の枝だろうが圃場の枝だろうが、暴れる品種は暴れるということだ。森の木々も、全部がぜんぶ行儀が悪いわけではなく、個性が薄くて欲しくもない木は多い。

自然の枝、栽培の枝 251208

2025/12/8

 一昨日は知人の山へ入り、今日は別の知人の葡萄畑に入った。花材の高騰が甚だしいので対策を考えたくて、知人を標的に現地視察を敢行したのだ。今日は、まず、山の自然の枝に対して賛辞を述べたいと思う。
 特にサンキライが素晴らしい。シュロや玉椿、野茨などに絡みついてサンキライのジグザグの枝が伸びている。枝が細いため、密生部分の絡まりをほどくことが極めて難しい。ネックレスの細いチェーンや毛糸のもつれがほどけないのと同じである。
 足元の向こうは谷に向かって急傾斜なので、手を伸ばして野茨を用心深く切りながら、サンキライの枝を引っ張り出す。手が届く限界でハサミを入れると、欲が祟って途中がねじり折れてしまったが、3メートル余りの枝が取れた。
 流通の関係で、花屋で見られるサンキライはたいてい1メートル足らずである。しかも、ジグザグではあっても直線的な物が多い。ところが、自然界のサンキライは伸びられるだけ枝を伸ばし、それ以上は宙に浮いて不安定だとわかると、Uターンして自分の体を支えにしてでも伸びている逞しさ! 曲がったことが大好きな奴だ。

場のニーズ 251207

2025/12/7

 亡母の17回忌は、久しぶりの寺での法要だった。「お供えしたい花があれば……」と言われて考え込んだ。母から好きだと聞いた覚えがあるのはワレモコウだが、時期がもう遅い。こんなとき、いけばなの先生として面目ない選択はできないプレッシャーには弱る。
 草月流では「場」にいける意識が重視され、その場の性質にふさわしい花をいけようと考える。かつて私が仕事としていたマーケティングでは、顧客ニーズを満足させることで商品価値が高まるとされてきたことからも、自分軸ではなく他人軸の考え方は正しい。
 しかし、個性化が進んだ現代は、多数のニーズを一括りにすることが難しく、また、それに応じようとすれば平凡・陳腐に陥る危険もあるので、半歩だけ先へ行くか半歩だけ特異性を出すことが肝要である。ま、こんなふうに小難しく考える仕事の癖は、なかなか抜けない。
 考えても答えが出ないときは、人の気持ちに寄り添うふりをするよりも、場を驚かせる身勝手な花の方が、自他共に楽しいかもしれない。私はまだ水分も油分も多過ぎて、枯物花材のように解脱の域には達しえないようだ。

仕事と誇り 251206

2025/12/6

 高校生と接して感じることがある。どこへ進学するのか、どこへ就職するのか、その進路を選択するにあたって何をどこまで承知しているのかわからないし、どういう誇りをもって志願するのか伝わってこないのである。仮に大人の歪んだ善意によって、現時点での相対的な能力・成績等の外的要因を基に、若い人たちの意志的なやる気が望んでいない方向に“矯正”されることがあれば悲しいことだ。
 自分も専門学校で18年間進路指導をしてきたし、自分自身が5つも職業を変えた経験から、人が進路を決めてそれを続ける最大の理由は、そこに身を置く誇りがあるからだと思ってきた。何らかの理由で誇りが失われたとき、人は転身する。
 いけばなには、枝を矯める(ためる=曲げるの意)という言葉がある。枝の表情が良くないと思ったとき、その人の好ましい枝の姿に曲げることを言う。下手に曲げられたら、枝にとっては「放っといてくれ!」という大迷惑な話である。
 私が「いけばなでは暮らしていけません」と笑って言えるのは、そこに誇りを感じているからで、何気なくついでにやっているからではない。

商神祭 251205

2025/12/5

 松山商業高校の文化祭は商神祭と名付けられていて、毎年この時期の開催だ。商いというのは、お金を払う者と商品を売る者とのコミュニケーションで、その関係がより良くなるなるように差配しているのが商神なのだろうと勝手に思っている。その商神との交歓の場が商神祭だ。
 今年の華道部員は17人。昔はもっとたくさんの部員がいたと聞く。商業高校から直接就職する生徒も少なくなってきた。かつては、百貨店や銀行などに就職して、企業の華道部に所属することも普通にあったとも聞く。
 さて、いけばなの起源説のひとつは、神様に降臨していただく依代として竹などを立てたことが原形である。その流れを引けば、いけばなは商神を招き入れるために重要な役割を演じていると考えられる。高額商品を扱う店頭には、だから今でもいけばなが凛と座っている。あれは単に艶やかな花がお客様をお迎えするだけでなく、神様をお招きして、おろそかにできない商談の場を浄めるためでもある。
 唯一絶対神に対する信仰はない。しかし私も、事あるごとに「神様、仏様!」と連呼する典型的な日本人の1人である。

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