感じる準備 251116
2025/11/16
一昨日は「高校生総合文化祭」で、空間の大きないけばなを制作するよう生徒達に働きかけた。他校の作品と並ぶ中、私の勝手な思いでいちばん大きい作品を3つ並べ、会場全体のアクセントにしつつ目立たせたかった。大きい枝を大きいまま傾けていけると、重力によって倒れやすくなる。そこで反対側の重さになるような枝を挿し、さらに重しの剣山を使って、倒れないギリギリのバランスを取ってもらった。
ギリギリを攻めるのは、体操競技やフィギュアスケートで分かるように、ダイナミックな勢いを感じさせる。そして、このギリギリの魅力を感じるためには経験が必要である。
いけ終わった時点で、触ったり動かしたりして倒れないことを確認したものの、一晩過ぎて不安になり、私は昨日、現場に確認に行ったら大丈夫だった。経験のない生徒たちが、そういう心配をしないのは無理もない。
だから今日、撤花の際に自分たちの作品を傾けさせて、どれくらいギリギリだったのかということや、かといって展示中に倒れてしまわないようにしなければならないことを、無邪気で罪のない華道部員達に伝えた。
アートの軽さ 251115
2025/11/15
岡本太郎の「芸術は爆発だ!」が、新語流行語大賞を受賞したのが1986年。私の記憶では、その頃から芸術家と呼んだり名乗ったりするのを上回って、アーティストと自称する人がめっきり増えたのではないか。私の偏見では、芸術家と言えばたいてい生活に困っていたものだが、アーティストは違う。金は持っているし、おしゃれだ。
ここ数年、愛媛県も道後(松山市)も、まちづくりにアートを導入する事例が増えた。そして、香川と岡山で展開される腰の据わった「瀬戸内国際芸術祭」の謳い文句も、「現代アートの祭典」である。あれ? 催事名がせっかく芸術祭なのに、展示作品はアートなの?
理由はおそらく、「芸術」では作家にも観客にもハードルが高く、「アート」ならば参入障壁が低いのだ。ああ、そうなのかそうなのか。「華道」では家庭にも作家にもハードルが高く、「いけばな」なら参入障壁が低いのだ。
私の文章に日本語化した英語の表現が多いのは、漢字の日本語は胡麻化しようがないからだ。異なる文化圏の言葉を使うと、どうにでも言い逃れられるユルさがある。何か、クールだしさ。
COOL 251114
2025/11/14
ひところ「クール・ジャパン」という言葉をよく聞いた。肌感として解らなくて、クールって何だろ? と初めのうちは違和感が拭えなかった。
「かっこいい」「おしゃれな」という意味で使われてきたが、「クリエイティブな」という意味で、今日の高等学校総合文化祭での松山商業高校華道部の生徒たちの作品は上出来だった。私の気分としては、「エキサイティングな」「型破りな」という感情表現としても使いたかった「クール」である。
型破りといえば、型があってこそ成立するもので、型から逃げる態度ではそれ以上先へは進めない。しかし、「逃亡する」「脱出する」等々の否定的意味合いではなく、困難を切り抜けたり膠着状態から抜け出すなど、工夫や努力によって新しい局面を切り開くというふうに捉えると、全く状況が違ってくる。非難される自己流だけでなく、クールな型破りと称賛される自己流もあり得るのだ。
私基準で、ワーカホリックを含め、〇〇中毒と呼ばれる人々の足跡は、すべてCOOLである。その点、私はまだまだいけばな中毒には至っておらず、残念なことに酒中毒なのである。
日常の非日常 251113
2025/11/14
日常というのは、つまらないものだとされてきた。昔は大した余暇やレジャーがなくて、「せめて、ハレの日はこうでありたい」などと願うような特別な日が、1年に数度しかなかった。
最近は楽しむための余裕も増え、日常でハレの気分を味わう機会が増えてきた。ハレとケの入れ替わるインターバルが短くなると、どっちが普通の状態なのかわからなくなる。ハレの機会が増えた分だけハレが日常に近付いてくるので、ちょっとのことでは気分が高揚しなくなる。そうすると、小さなことで大きく感動することのできる素質を持った人が得ということになる。
私は次回の人生では、できるだけ早くからいけばなをやろうと思う。書道や茶道もいいけれど、華道には大きなアドバンテージがある。生きた花材がパートナーなので、墨や茶に比べて意外性に富んでいるのだ。つまり、より大きな感動や高揚感を味わえる可能性が高いということである。
ともかく生きた花材は、花屋で出会う時点で一期一会であり、日々枯れた葉や散った花を取り除いて手を掛ける過程でエキサイティングであり、飽きるということがない。
床の間 251112
2025/11/13
いけばな教室での普段のお稽古は、洋間でテーブルに向って立っていける。このところ、出来上がった作品を和室の床の間に置いて、洋間での出来映えと見比べてもらうことが多い。生徒さん本人に対して正直に「いい出来映えです」と言いながら、頭の端っこでは「床の間には、やはり少し大きかったな」とも思っている。
洋間のテーブルで立っていけるときは、ひと部屋の全体が「いけばなをいける空間」だと認識されるので、生徒さんも大きめの花器に大きめの花をいける。ところが、床の間は一部屋の中のたった1畳分だけなので、いざ作品を置いてみると、1畳分の狭さに対して前後左右上下ともに、窮屈な感じがするわけだ。
だから、はじめから床の間にいけようと思うときは、あらかじめ「いけばなを見る空間」としての床の間をイメージしておくことが大切である。
私の考えでは、大きくいけられる人は、工夫すれば小さないけばなもいけられる。一方、小さくいけられるからといって、必ずしも大きくいけられるとは限らない。だから、普段のお稽古は、大きめ大きめで進めているという事情なのだ。