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いけばな随想
diary

道楽 250323

2025/3/26

 好きな道を大いに楽しんで歩く状態を道楽と言い、何かを犠牲にしながら自分の楽しみに没頭できる人を道楽者と呼ぶ。趣味は他人や家族が認めてあげられる範疇にあっても、道楽は周囲の人々を悩ませたり自身の生活が破綻したりするくらい、のめり込みが激しい。
 食道楽は美食の食べ歩きによって身体を壊す。着道楽は一生かかっても履き切れない数のパンツや靴を持っている。そうして、茶道楽や映画道楽、ピアノ道楽などがあって、ついには花道楽へと向かうのであった。
 花道楽は花三昧という贅沢病に陥りやすい。美味い食べ物を体験してしまうと口が驕り、もう元の口には戻れないというのと同じで、値段の高い花はそれなりに綺麗なので安い花ではもう満足できなくなるという病気である。こうなると、いつも高価な服を着ていないと恥ずかしくて人前に出られないという病状に近く、いけばな展においても立派な花を使うことで作品の価値をアピールすることになる。
 しかしそれでは、高額な花を仕入れられる立場にあるという自慢でしかない。いけばな作家としての腕前を披露したことにはならない。

断捨離 250322

2025/3/25

 日本人の「もったいない」感覚は、賛否はあるにしても広く共有されてきた。しかし、その癖と感覚は、近年では「断捨離」にその座を追い落とされた感がある。
 今日は華展のいけこみだった。デルフィニウムの青い花をぎゅっとボリュームを出して使いたかったので、1本の長い茎の枝分かれ部分を一旦切り離してから長さを揃えて束ね直す。切り離した茎の部分によっては、白っぽいままのつぼみばかりで青い花が付いていない。その部分は作品に使わないので捨てる。言い訳すると、それらの茎はまだ十分に生長していないから、短過ぎて使えない。家だったなら小さな1本も大事にするんだけどなあと気持ちを慰めて、古新聞にくるんで捨てる。
 さて、料理が上手な人は食材を余すところなく使う。しかも、全部おいしく仕上げてしまう。何も捨てずに価値あるものにしてしまうのが面目躍如たるプロの技だ。
 押入れ一杯に溜め込んだ新聞折り込みチラシというのは昔よく見た風景で、それを折って屑入れを作り、こたつの上に置いて蜜柑の皮入れに使ったりしていた。風景としては微笑ましいが、ダサかった。

入口はカンタン 250321

2025/3/21

 やり始めは何でも簡単だ。周りの人の協力や的確なアドバイスをいただいて、思ったよりもうまくできる。しばらくやっているうちは、ひょっとして自分には適性があるんじゃないかと自惚れたりもする。自惚れることは結構大事で、それによって継続する意欲が湧く。周りのおだてもあって、ますます入り込むという流れができる。
 そうやって私はいけばなを続けた。まともな人は3ヶ月もすれば少し躓くことも出てきたり上手くいかない苛立ちを覚えるものだが、私は2年以上スランプがなかったように思う。反省しない猫のようだ。
 それでも3年くらい経つと、他人の作品の意図が見えるようになり、自分の作品が単に手遊びに過ぎないと感じられるまでに成長した。どのように花をいけても下作に見えてしまった。それで、いけばなというよりオブジェと呼んだ方がいい作品に逃げたりもした。手を抜く気持ちは全くなかったのに、私が手を抜いたかのような批評を聞くこともあった。
 こうして修行を重ねるうちにまた新しいステージの修行道場が現れ、紆余曲折しながらその人生ゲームのコマを1つ進めるのだ。

体で覚える 250320

2025/3/20

 人は過去に学んだり体験したことの積み重ねによって物事を素早く判断する力を身に着けるが、その素早さでもってしても間に合わない事態があるから、「頭で覚えるな、体で覚えろ」とよく言われてきた。
 世の中には素早さの何倍も素早く、反射的な対応が求められることがある。少年時にやっていたサッカーの試合でも、常に局面がコロコロ変わるし、チームメイトとの意思疎通も時に俊敏な敵の対応によって崩された。大人になって車を運転しているときなどもそうだ。高速で走っているとき障害物を避けようとする動作は、勘といってもいいくらい直感的な筋肉の動きで行われる。
 このように命に係わる判断力は、やはり頭から出てくるというよりは体から出てくる。頭でデータや経験則を検索する余裕はない。
 そういうことは、瞬発力が要求される場面だけでなく、いけばなでは花材との関係において重要だ。個々に違いはあっても、梅の枝は一般的に曲げやすい。しかし、曲げ方を失敗すると折れる。折れかけていても折れてしまわないというギリギリを攻められるのは、やはり体験の量で体が覚えたからだ。

芸術はイノベーションなしにはいられない 250319

2025/3/19

 来年度から、松山商業高校華道部は茶道部・琴部と「(伝統)日本文化部」(名称は知らないが、内容的にはそういうことだろう)に組み込まれる。その中で華道部門ということになるようだ。
 芸術はイノベーションなしには真価が問われることになり、「伝統芸術」という表現をしてしまうと意味の矛盾した言葉の組み合わせになる。だから華道と呼ばれるものは、芸術ではなく文化の範疇にくくられて「伝統文化」に仲間入りする。だから「伝統日本文化部」であったとしても、「伝統日本芸術部」ではない。
 華道を「いけばな」と呼ぶときは、そこに日本の伝統文化があるかといえば、あるにはあるけれどそこまでのこだわりはなくなる。いけばなでも伝統的な「型」を稽古するが、それは新しい型をつくり続ける脱自・脱パターンの力を鍛えるための型である。
 鋳型というのは、定型化・標準化して同一の商品を大量生産するためのもので、私たちが大切にしている型は、目安にはしていても、そこにどうしても個人個人の個性のズレを含んでいる。だから、同じ型でいけても、どれ1つ同じいけばながない。

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