花鋏の重さ 260110
2026/1/10
庭のホトトギスとツワブキの、花が萎れた茎を切る。満開はとうに過ぎているのに、冷たい冬風に揺れて、咲き残った花が灰色がかった曇り空に色を添えている。鋏を持つ手がキンキン冷える。手袋はしないから、鉄の冷たさが直接貼り付いてくるのだ。
冬場は手のひらの乾燥が激しく、鋏の柄がよく滑る。強く握っておかないと、ちょっとした拍子に抜け落ちる。握力が落ちたことも無視できない。70歳くらいまでは筋力の心配はしたくなかったが、こんな調子では本当の仕事はできない。
あなたの仕事は何ですか? と聞かれることに、申し訳なさを抱く。い、い、いけばなを教えています……と小さく答える。万一、何で食っていますか? と聞かれたら答えられない。いけばなだけでは食えてない以上、それを生業と言うのは恥ずかしいから。
日本人が、食うために箸を駆使するように、なんびとたりとも、いけばなのためには鋏を使いこなせなければならない。昔の電車やバスには車掌がいて、改札口の駅員も皆、鋏を持った手でカンカンカカンとリズムを取りながら切符を切っていた。やってみたけれど、乱れる。
花いけの日常性 260109
2026/1/9
愛と言い切るのはおかしいし、愛情というほどでもなく、愛着を持っている、というのが私の庭木に対する思いだ。10年くらい前に庭師をお断りして、自分で庭木の剪定を始めたものの、思った以上に大変だ。
さて、人間は毎日の生活でさりげなく言葉を使っているが、それを俳句や詩にすると、生活の言葉ではなく芸術になる。庭木の枝を1本切って、さりげなくウイスキーの空き瓶に挿しただけではいけばなにならないが、意識的に花器にいけるといけばなになり、もっと意識的に立ち向かうと芸術になることもある。
このように、日常的で特異でもない切りばな花材を、特別なタレントに仕立てるのが、いけばなの一面だ。庭の“草木”は、切り取った瞬間に生花それ自身の本質を失い、“花材”と呼ばれる半死の物になり変わる。面倒臭いと放ったらかして、“金の卵”をバケツの中で腐らせることもある。
「切ったからには、よりよい姿に生き返らせよう」という思いで、新たな生を吹き込むのがいけばなだ。花材自身が歓喜するような仕上がりを、日常的にいけられるようになることが、私たちの仕事なのだ。
境界にて 260108
2026/1/9
表現行為は、爆発力0%から100%のプラスの範疇で行われる。外に出さず内に沈むマイナス表現というのは想像しにくい。ひけらかす欲望がアクセル全開のとき、制作者は大満足でも、見る方は「見ちまったぜ!」という後悔に苛まれるかもしれない。反対に、アクセルを踏み込もうとしながら、抑制のブレーキを全力でかけてしまうと、表現行為は1mmたりとも進まず、制作者は悶々とした時間を過ごすことになる。他人にとっては、無駄なものを見ずに済む。
自己表現欲求のアクセルと社会的自制心ブレーキとのバランスで、結果としての作品ができる。いけばなは、純粋な芸術と比べるとブレーキがかかっていることが多い。私の中では、神社での献花に最もブレーキがかかっているのは致し方ない。
一般的に、茶室における花、卒業式での花、旅館の玄関の花などなど、そこに集う人々は芸術作品の鑑賞に来るわけではない。そしてもう1つ寂しいことは、いけばな展であっても、来場者の多くは芸術作品の鑑賞に来る感覚ではない。
いけばなは、芸術と生活の波打際で、泳いだり浜に上がったり、忙しくしている。
個性を隠す 260107
2026/1/7
1980年代は、ウイスキーといえばサントリーオールドが全盛だった。私がアルバイトをしていた銀座のホテルが提供していた銘柄は、英国のブレンデッドウイスキー「バランタイン」で、バランスの良い透明で華やかな味が素敵だった。
松山で会社員になってお金に余裕ができた頃、スコッチのシングルモルトウイスキーを中心に飲ませるバーが現れた。入り浸っているうちに、スモーキー且つピーティーなアイラ島の味の虜になった。とにかく、香りと味が際立って強い。
ところが、60歳頃から、エッジの立った味がしんどいと感じることが増えてきた。人の話によると、本場グラスゴーの酒飲みはシングルモルトの比較的明瞭な味を簡単に美味いと言うよりも、ブレンデッドの微妙に隠された味を探して首をひねる方が好きらしい。通(つう)になると、重箱の隅をつつきたくなるわけだ。
通(つう)ぶりたい時は、花を見ても「まあ綺麗」と即座に言わないこと。「うーむ」と唸って首をひねろう。いける人も、特徴を出して分かりやすいいけばなにするのは避けよう。角を隠して、一見個性のない作品に仕上げよう。
いけばなの伝統 260106
2026/1/6
日本らしさは、日本の中だけでは成立しない。西洋に対して東洋が意識されるように、西洋文化や中国文化という対象がなければ、日本文化というカテゴリーも生まれない。他との差異によって捉えられる日本文化だ。
また一方、西欧に騎士道があるのに対して 日本には武士道があった。新渡戸稲造の『武士道』は、剣術についてではなく義や仁などの人倫についての内容が主であり、騎士道が「ノブリス・オブリージュ(大きい責任のもとでの優越的地位)」にプライドを置いていた点で、両者は通じ合う。他との類似に注目して見い出せる日本文化だ。
華道はその狭い領域に留まらず、茶道や書道その他の「道」と共通する伝統の土台を持っている。茶道における日本文化の伝統を数え挙げたら、華道におけるそれと大いに一致点があるだろう。なぜなら、華道も茶道も別々の日本人がやっていたことではなくて、きっと武士道的センスを大事にする1人が、さりげなく全部やっていたことだから。
そのような日本人は特別ではなく、普通の人だった。普通の日本人の普段の生活の中に、いけばなの伝統も潜んでいる。