「場」を読み込む 251105
2025/11/6
花いけバトルの花の扱いが粗雑過ぎる、という意見があった。いけばなの技術は、切る・曲げる・留めるから成り立っているが、花いけバトルは、切る暇もない・曲げている余裕もない・投げ込むだけできちんと留まっていない、と無い無い尽くしだ。しかし、5分間×何回戦かの時間、不特定多数の観客を飽きさせないで巻き込んでおくためには、それくらい吹っ切れないとだめだとも思う。
いけばなの「場」を掘り下げると、政治、経済、文化の背景があり、また、いけばな制作者の過去・現在・未来があるので、「場」は眼前の自然的空間としての性格と、歴史的、社会的な性格とを併せ持っている。つまり、「場」は一定しないで、組み合わせや関係が刻々と変わる「状況」であり、そこでの価値観さえも流動的だ。
そんな「場」にいけるのだから、花いけバトルの目的や期待される効果などを考えると、これを一概に否定できない。
世に草月が現れたとき、伝統ある各流派が驚いたり貶したり無視しただろうことが容易に想像できる。「場」の空気を読んで妥協するか、「場」の空気を変えるか、それが問題だ。
「場」とは何か 251104
2025/11/4
読んでいた本に、次の一節があった。「環境に対しては『気をくばる』、他のひとびとに対しては『気をつかう』、そして自己自身については『気にする』というのが、現存在のありかたである……『投げられて、投げかける』この二つの契機は、キルケゴール流にいえば、必然性と可能性の二つの契機に該当するであろう。」(松浪信三郎著『実存主義』)
なんだ、草月が言うところの「場」とは、そういうことだったかと合点がいった。場に影響を受けながら場に働きかけるということを、息をするように吸ったり吐いたりしながら、花と共に一定の時間を過ごす。これが「場にいける」ということだったのである。
いけられた花は、その瞬間に環境の一部となる。当然ながら、変化した環境に対して、他のひとびとからの批判(わずかな肯定的な反応も含めて)が起こる。環境を変えた者であるからには、その責任を負う誠実な態度が必要で、いちいち反論していても始まらない(終わりもしない)。自分を正当化したければ、ひとり自宅に飾るべきである。
そういう意味で、「場」とは人間的な成長の現場である。
体力と精神力 251103
2025/11/4
体力が落ちると精神力も落ちる、そんな感じの年齢になった。目標に向かって努力していたはずなのに、体が弱るとその目標自体にどんな目的があったのだろうかと、持っていたはずの価値観すらぼんやりとしてくるのだ。
体力のある若者が1つのポーズとしてニヒリズムを装うのと違って、実質的に心の底から湧き上がってくるものが足りないという“酸欠状態”になる。そうして、とりあえず酒でも飲むかという逃げの姿勢に入り込み、それを悲観するでもなくデカダンスと言うしかないような退廃的な気分に安住する。
そんな、体力が衰えていることで精神力もないときは、いけばなをしてもうまくいかない。私の先生が、「そんなときは一旦やめておいて、気分がいいときに心機一転取り組まないとだめよ」とおっしゃる。つまり、必ずしも花が気分を良くしてくれるとは限らないわけで、花で行き詰まることもあるのだ。
今日、高校生花いけバトルがあった。思った通りには上手くいかなかったように見えたが、本人のコメントは「100点です!」やはり体力があると気分は晴れているのだと、羨ましかった。
見るアート、するアート 251102
2025/11/3
かつてそれらを「芸術」と呼んでいた時代、美術も高尚且つ難解な代物だった。東京芸大に合格するためには、高校の部活動だけでは太刀打ちできず、美術教室に通って石膏像の“木炭デッサン”を毎日やらなければならないとされていた。そんなことも知らずに美術部員になった私が突き詰められるわけがなく、早い時点で降参した。
かつて「華道」と呼んでいた時代の終わる昭和期、いけばなは大衆化して芸道の道を踏み外すことも多くなった。いくぶん諦めを伴って、華道と呼ぶことが減ってしまったのではないだろうか。
一方は芸術からアートになり、片方は華道からいけばなになって、互いにその領域を広げ、アートといけばなとが重なるポジションに草月のいけばなはある。それに伴って高尚さや難解さのハードルが低くなり、せっかく大衆の手習いになったのだから、今こそみんな参加すべきだ。
いけばなは、字面のとおり「いける+はな」である。「みる+はな」ではない。誰でも食べるためには料理をするが、いけばなには煮る・焼くがなくて切るだけなので、より簡単にマスターできるというものだ。
献花祭 251101
2025/11/1
毎月恒例で、今日も護国神社の「献花祭」が月初に行われた。第969回だったので、もう1000回目が視野に入る。これを担う「愛媛県華道会」は、所属する流派の数が減り、各流派の人数も減少傾向にあることから、継続には不安がある。
さて、日本人の平均が約84歳で、愛媛県華道会も今年84周年を迎えている。日本の企業の平均寿命は、いくつかのデータを参考にすると約30年だから、華道会は相当長く続いている団体であることがわかる。長く続くためには、権利と義務のバランスだとか、ギブ・アンド・テイクのバランスだとかが大事だろう。パートナーシップで結ばれた両者の関係は、そのバランスが狂った時に別れが訪れる。
華道会は、献花祭によって護国神社と結び付き、子規記念博物館や松山中央郵便局にも、通年でいけばなを飾らせてもらっている。草月流は、昨年までの十数年間、人員を手配できなくて華道会を脱会していたから、相当のいけこみ機会を失っていたことになる。
いける機会を得るためには、いける約束を果たし続けなければならない。曜日や時間の帳尻を合わせながら。