金木犀の剪定 251201
2025/12/1
ついに5日目に至った。3日に分けて、金木犀の剪定を完了させる計画だった。
10年前に自分で剪定を始めた頃は、どこをどう切れば良いのかわからず、恐る恐る抓み揃える程度しかハサミを入れられなかった。2年3年経っても、弱気な剪定だったので、庭木はどれもこれも大きくなってしまった。さすがに困って、思いきり丸裸に大きく枝を落としたら、今度はやり過ぎで新芽が育たず翌年の樹形は惨憺たるものだった。
そんなこんなを経て、庭の様子もだいぶ落ち着いてきた。私の腕の成長を認めてくれたのかどうか、向かいの家の奥様が「金木犀、まん丸にせんのーぉ?」と、リクエストを出してきた。彼女の家の2階にある玄関を開けると、まっすぐにウチの金木犀が目に入る位置関係なのだ。
人間は、過去の栄光にしがみついたり、身に付けた知識や技術へのこだわりを捨てられなかったりするが、庭木というのは凄いものだと感心する。切っても切っても、翌年にはちゃんと花を咲かせて幹は太る。こちらのケアの仕方が間違っていても、薬剤や肥料をちゃんと施さなくても、何とか自力で踏ん張っている。
闇のいけばな展 251130
2025/11/30
夜は暗いものであり、とりわけ日本の家々の夜は昔からあまり明るくなかったと思う。松明のような強い明かりを求めると、火の粉で簡単に焼けてしまう建材と構造だったこともあるのではなかろうか。私が教室として使っている実家の床の間は、明かり取りの床窓がないため西日が射す時間帯以外は昼でも暗く、良く言えば陰影が濃い。
そこで、いけばなを飾った時に明瞭に見えるよう、邪道だと思いつつも床の間の天井に照明器具を仕込んでいる。SNSによる発信が平常的行為となってから、世の中から陰影が消えていっていることを感じる。我が流派のいけばなも、自分のいけばなも、光量過多の場にいけることが多いと思う。
過去のいけばな展を思い返してみると、自分に与えられた花席に、天井光が当たっていないとかスポットライトで照らせないのかという意見の聞こえることがあった。しょうがないでしょ、という諦めから作品を構想する必要があるだろう。
妄想段階だが、抑制を競うような夜のいけばな展をやってみたい。目をこするとぼんやり見える、見えない人には見えない闇のいけばな展である。
流れで、いける 251129
2025/11/29
テレビの「プレバト」で、一筆書きをやっていた。2~3分で仕上げるところに妙味があって、丁寧なデッサンで仕上げるのならば一筆で描く必要はないという開き直りだ。コツは省略にあるという。
石丸繁子書道展に行った。今日も正岡子規の俳句を、前回同様タンゴの曲に合わせて2分30秒で揮毫した。一筆書きでなくとも、音楽に合わせて書いているから、流れが連続している。前回は動画を撮るのに集中して流れを体感できなかった反省から、今回はスマホを持たず肉眼と肉体で鑑賞した。ご本人も語っていたのは、あらかじめゴールが決まっているわけではなく、練習(シミュレーション、下書き)を70回は重ねたが、本番のライブは本番の流れで出来上がったということだ。
いけばなにも、ゴールイメージはある。しかし、油絵のように時間をかけるものでも、下書きを重ねて臨むものでもない。分かっている結果を目指して進むのではなく、むしろ自分にも予想できない無人島に漂着できれば幸いとでもいうような航海だという醍醐味だ。
前の一手から次の一手へ、不確定な連続技でいけばなは出来上がる。
山師 251128
2025/11/28
教え子のU君が、12月に開く写真の個展の案内に、昨日高知からやってきた。私の庭に放り出している流木や切株を見て、「高知に有名な木工の知り合いがいるんですよ。玉井先生にも似たところがあるんですかね」と言う。
今晩テレビを眺めていたら「山師・ウッドアーティスト高橋成樹」のドキュメンタリーが流れてきて、まさか! と思ってU君に電話したら、まさに彼のことだった。
高橋成樹さんは自分が木を伐採する山師であり、それに手を入れるアーティストでもある。ということは、私は枝ものを使ういけばな師であるし、枝をちょん切る山師まがいになれるかもしれないという気がした(アホ丸出し!)。この1ヶ月というもの、ずっと考え続けていたのが花材の入手に関することだったので、こんなにタイムリーに素敵な番組に遭遇できるなんて!
高橋さんの素晴らしいところは、虫食いやひび割れを疵と見るのではなく、魅力的な個性と見る感性である。だから、彼が創るものは、スツールなどの実用品であっても、同じものが2つとない。私たちのいけばなも、陰の花材に光を感じるようでありたい。
花の価値 251127
2025/11/27
バラを見て、私の目は愉しいけれど、嬉しいというほどでもない。ポピーがあれば、私の目も心も切なさと愛しさが入り交じった気分に満たされる。ポピーの絵でも同じ気分だ。私にとってポピーは、哀愁や哀惜の情を呼び起こすシンボルだ。
花で人生を送っていない人にとって、地球上にポピーが存在していることの価値など想像できないだろうし、また、なぜポピーなのかを説明したくても、その魅力を言い尽くせる言葉がこの世にないのだから仕方がない。「いけばなはいいですよ」という言葉も、それに価値を見出した私には必然だけれども、そうではない人には届かない。
花より団子という諺には、時々の状況によって反発したいし、また同意せざるを得なかったりする。どんなに価値がある宝石も金も、土地も家も、他人の物は自分の物ではない。その点では、他人の物でも自分の物でもない、重信川の河原で揺れて咲く外来種のオオキンケイギクや、三ケ村泉の水底のクレソンに価値を見出すのは風流かな?
枯れる花を使ういけばなも、萎れて枯れて原形を留められない。それに価値を置く姿勢は雅かもね。