制作の裏側(その2) 251025
2025/10/26
昨日は1輪だけ開いていたカサブランカが、今日は3輪開いた。大振りな花器を2本使っていたので、それが咲いてくれなかったら重心が下がってバランスが悪いところだった。昨日のいけこみ時点でやや小振りなトルコキキョウを使うのをやめたのは、花器の存在感に対して負けてしまうと感じたからだ。
前後に配置した2本の花器のうち、手前の花器の口元はよく目立つ。口元のだらしなさを引き締めるために「葉もの」のドラセナとヤマシダを用意していたのだが、カサブランカの花と葉で何とかなると判断して、ドラセナとヤマシダを使うことをやめた。
手前の白い花器に赤いウメモドキと白いカサブランカ、奥の白い花器に緑のアセビ、これで粗削りに仕上がった。白い背景に対して、白・赤・緑のシンプルな配色である。その後は、ウメモドキの苔むしてごつごつした枝と、細くて直線的なアセビの枝を際立たせるため、不用な枝葉を切り落す。花器2本の一体感を出すために、後ろの花器から切り落したアセビの小枝を手前の花器に挿す。
ウメモドキの枝を、花器が倒れないギリギリまで傾けて完成させた。
制作の裏側 251024
2025/10/26
いけばな展に出品することが決まるのは、数ヶ月前である。構想の順序は人によって違うし、私の場合はその時々によっても違う。
今日の県民文化祭・いけばな展では、くじ引きによって会場入口の席を引いたので、まず「迎え花」としての性格を持たせようと決めた。展示台や背面パネルが白いことがわかっていたので、赤い花材を使うことを次に決めた。運よく苔むしたウメモドキの枝を見つけられた。そのウメモドキは、たわわに付いている小さな赤い実を見せるため、1枚の葉もない。それで、ツバキのつやつやした濃い緑の葉を合わせようと思った。頭の中で組み合わせをいろいろ試みた結果、仕上がりの重厚感がぬぐい切れず、最終的に細い枝の線が美しいアセビを選んだ。
花器は手持ちの花器から、土色の背の高い陶器の1つと、真っ白な背の高い磁器2つを候補に、花は白い大輪のカサブランカと、白を基調としたややピンク混じりのトルコキキョウを用意し、予備として「葉もの」のドラセナとヤマシダを携えて展示会場へ。
結果、ウメモドキ・アセビ・カサブランカ・白い磁器2本を使って仕上げた。
枝ものと花鋏 251023
2025/10/26
いけばなは「枝もの」が命と言ってよい。“線”の表現に欠かせないからだ。「葉もの」や「花もの」でも“線”を表現することは可能だから、必ずしも「枝もの」が必要だとは言えんだろ? と言うかもしれないが、力強い線やいびつな線、長い線や高さのある線は、枝ものでなければ太刀打ちできない。
お世話になっている花店で、枝ものについてこんな話が出た。「もうねー、今ねー、ツバキかアセビくらいかな、確実にあると言えるのは」確かに他の店でも、その2つ以外はナツハゼかヤブサンザシくらいしか、枝っぽい枝がない。あとは、枝ものとは言い切れないフウセントウワタやベニアオイが、ここぞとばかりに並んでいるくらいなのだ。
勅使河原蒼風は、「花がなければ土でもいける」と言っただけでなく、本当にあらゆる物をいけてみせたが、それでも私の心を掴んだのは枝ものの作品であった。
そして忘れてならないのが、花鋏である。フラワーアレンジメントで使う細身のかっこいいハサミは、葉や花茎を切るには適しているけれど、枝ものと格闘する力強さはない。鍛えられた花鋏の出番である。
男性のいけばな 251022
2025/10/22
高市早苗首相が誕生し、テレビ局が街の人々にインタビューする。「女性初の総理大臣として頑張って欲しい」というような回答が、恣意的に切り取られているような気がして、日本のマスメディアのかねてからの後進性が浮き彫りになるのだった。それを中心的な話題にすること自体が、世界の先進国から30年遅れている。
最近は少なくなったが、25年前に「いけばなが趣味です」と言うと、女性は特に気に留めるでもなく「いいご趣味ですね」と返してくれたが、意外にも男性からは珍しがられた。
草月の家元は、男・女・男・女と継承されてきて、次の予定は男だ。たぶん自然な流れでこのようになっているので好ましいが、いけばな界全体で見ると、会員は女が多く家元は男が多い実態は、政治の世界以上に特殊なのかもしれない。
さて、紀貫之の『土佐日記』の冒頭は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとすなり」である。男が女のフリをして男の日記を書くという二重裏返しの設定に、取り換えのきかない男女の別があったことが表れている。千百年も昔の平安時代の話だという気がしない。
好きを広げる 251021
2025/10/21
夫婦で食事に行くと、昔は「おいしいね」「きれいだね」「サービスが行き届いているね」と、いい点ばかりが目に付いて楽しかった。人生を重ねると好きが増えるかというと、とんでもない。近頃は「火が通っとらん」「このベチャッとした天婦羅は何なん」「このサラダ、キャベツが干からびかけとらい」と文句ばかりで、これはこれで楽しい。
歳を取ると嫌いなことがはっきりしてきて、好きなこともくっきり明確になる。嫌いなものだらけの大海に、好きなものが孤島のようにぽつねんと浮かんでいる様子ではあるが。それだけに、好きなものは貴重である。
そういうわけだから、私はいけばなを大々的に普及させたい。いいとこだらけのいけばなを、群島のように広げたい。自分の好きな陸地が広がると、自分にとってとても気持ちがいいはずだ。これは、考えると非常に利己的で、本能的な行為である。人間は歴史的に、自分の居心地のいい領土を拡大するために戦争をしてきた。自分の好きを広げることは、他人に領土争いを仕掛けることである。
いけばなという上品な印象を武器に、世界征服を企むのだ。