遠い祖父へ 251227
2025/12/28
昨晩、姪と焼鳥屋へ行った。心根のいい姪なので、妻がとても気に入っている。その素直な性格の血筋を遡ると、半分は父親である私の弟で、さらにその半分は私の父、さらにまた半分は私の祖父からやって来たものだと考えられる。
祖父が育てていた庭木の半分以上は果樹だった。柑橘栽培の専門家だったので、それは趣味というよりも仕事の延長でそういうふうになったのだと思う。それで、純粋な趣味としては盆栽をやっていた。
先日、母の十七回忌を済ませるとき、母が他界した際のことを思い出した。祖父から父へ受け継がれていた盆栽の数々を、父が他界して今度は母が世話をしていたものだ。私はそれらをしっかり育てる自信がなくて、祖父の代から馴染みの庭師を呼んで引き取ってもらった。
盆栽はなくなったが、蘭のいくつかの鉢と果樹以外の庭木は、柘植と白椿を枯らした以外は何とか生き残ってくれている。結局いけばなをする身になった私にも、四分の一くらい祖父の血が入っていたということか。いけばなを始める前に盆栽に目覚めていたら、今ごろ高値で売れていただろうことが惜しまれる。
ビギナーズ・ラック 251226
2025/12/26
ダーツでは、初心者でも偶然に高得点枠に的中することがある。そんなビギナーズ・ラックは、例えば100m走ではあり得ない。基礎的な体力や最低限の技術が必要だからだ。
いけばなにもビギナーズ・ラックはあるだろうか? あり得る。意図通りにはならなくても、余計な先入観がないことで花と純粋に向き合い、小手先の技術もないこと故に大胆で新鮮ないけばなが生まれる可能性は大きい。知識や技術がなくても、日常生活を普通に行ってさえいれば、その経験に準じた範囲でも取り組めるのが利点である。
ところで、100m走の選手などは、選手としてのピークは早く訪れ現役期間は長くない。ビギナーズ・ラックの起こり得るジャンルに生きる人間は、それを日常の延長でスタートすることができるし、アスリートと呼ばれないかわりに引退を考える必要もなく、現役態勢を長く引っ張れる。
ただ、ダーツの上級者によれば、「こう見えて、やはり上級を維持するときの身体的鍛錬は欠かせない」と言う。いけばなも、知識や記憶力がなくてもセンスだけで何とかなるが、「体力だけはあった方がいい」と痛感している。
ハレの日常 251225
2025/12/25
家庭のいけばなと、ビジネス現場のいけばなとは、性格が真反対かもしれない。特にミシュランの星を獲得しているレストランだとか、人気の老舗ホテルでお客様を迎えるいけばなは、ドアマンやベルボーイ、フロントスタッフや女将などに匹敵する重責を担っている。
ビジネスいけばなは、どうしても外向的な側面が表に出て、客の性向にも依るが、内省的な華道精神をひけらかすようなことには大抵ならない。ただし、家庭いけばなでも、約束の来客を迎えるときの花であれば、非日常を目論んだ性質が強くなるだろう。
ともかく、ハイエンドな施設は、非日常を期待して来る客への満足の提供が仕事だから、その接客サービスたるや片時も気を抜くことができない。日々の1つ1つの仕事がすべて、客の非日常を支えなければならないわけで、非日常を日常的にこなす仕事の大変さは並大抵のものではない。毎日レギュラー番組を抱えているテレビタレントや局アナの仕事も、言ってみれば「ハレの日常」、毎日がお祭りワッショイだ。こういう有様と、侘び寂びと、折り合いをつけていくいけばなだから面白い。
日常品質 251224
2025/12/24
いけばなは日常的行為だ。昨日も今日もそこにあり、明日も明後日もそこにあって、日々の生活の質を高く保ちたい意識が表れている。この意識は、日本人の食生活の伝統にも表れていた。茶碗は陶磁器、汁椀は塗り物、箸は竹でも楊枝は黒文字というように細かい気遣いがあって、それは面倒だとは意識されず、平常心のもとにあった。
レストランでフランス料理のフルコースというのは、日常ではなく特別なハレの出来事であり、いけばな展も日常のいけばなを発表する場ではなく、非日常的な創作作品の発表の機会である。このような非日常をいくら繰り返しても、これは文化として定着したものにはならない。
花を飾るとか、食事を摂ることは、生活に根差しているから生活文化と呼ばれたこともある。しかし、わざわざ生活と文化とを区別したうえで合体させる必要はなく、日常の生活に表れている物事が文化なのである。
日常の反復による文化に対して、芸術は非日常である。毎日毎日驚かされたり価値観を揺さぶられたりしていたら、平穏な日常生活を送ることができない。泰然自若ないけばなでありたい。
虚飾の部屋 251223
2025/12/23
日焼けした本を捨てるかどうかと迷い、ひとまず筒井康隆は2度目を読み切った。読み直すと、もう1度は読まないと捨てられない気になるものが多く、5冊ばかり減ったにすぎず、一向に終活は進まない。
学生時代にハードカバー本の多くを買った。立派な本とレコードが私の精一杯の飾りだった。5畳の偏狭な部屋の、近所の酒屋から盗んできたビールケースを並べたベッド脇に、アパートを退居する先輩から受け継いだ本棚やレコード棚があるのだった。本とレコードは読み聴きできるという点で、実益的な装飾物として最強だったと思う。
当時の日本の居宅には重厚な応接室があって、1つの壁面に大きな棚が据えられ、テレビとステレオとウイスキー(かブランデー)が格納されていたものだ。これらもまた、見て聴いて飲むのならば実益的な装飾物と言えただろうが、ステレオとウイスキーの活躍機会が少ない家では、ただ中流市民階級を誇示する装置として虚飾だったといえよう。
しかし、実益を伴う装飾は、装飾の本道から見れば邪道である。いけばなのように、全く実益を伴わない装飾こそが完全だ。