場のニーズ 251207
2025/12/7
亡母の17回忌は、久しぶりの寺での法要だった。「お供えしたい花があれば……」と言われて考え込んだ。母から好きだと聞いた覚えがあるのはワレモコウだが、時期がもう遅い。こんなとき、いけばなの先生として面目ない選択はできないプレッシャーには弱る。
草月流では「場」にいける意識が重視され、その場の性質にふさわしい花をいけようと考える。かつて私が仕事としていたマーケティングでは、顧客ニーズを満足させることで商品価値が高まるとされてきたことからも、自分軸ではなく他人軸の考え方は正しい。
しかし、個性化が進んだ現代は、多数のニーズを一括りにすることが難しく、また、それに応じようとすれば平凡・陳腐に陥る危険もあるので、半歩だけ先へ行くか半歩だけ特異性を出すことが肝要である。ま、こんなふうに小難しく考える仕事の癖は、なかなか抜けない。
考えても答えが出ないときは、人の気持ちに寄り添うふりをするよりも、場を驚かせる身勝手な花の方が、自他共に楽しいかもしれない。私はまだ水分も油分も多過ぎて、枯物花材のように解脱の域には達しえないようだ。
仕事と誇り 251206
2025/12/6
高校生と接して感じることがある。どこへ進学するのか、どこへ就職するのか、その進路を選択するにあたって何をどこまで承知しているのかわからないし、どういう誇りをもって志願するのか伝わってこないのである。仮に大人の歪んだ善意によって、現時点での相対的な能力・成績等の外的要因を基に、若い人たちの意志的なやる気が望んでいない方向に“矯正”されることがあれば悲しいことだ。
自分も専門学校で18年間進路指導をしてきたし、自分自身が5つも職業を変えた経験から、人が進路を決めてそれを続ける最大の理由は、そこに身を置く誇りがあるからだと思ってきた。何らかの理由で誇りが失われたとき、人は転身する。
いけばなには、枝を矯める(ためる=曲げるの意)という言葉がある。枝の表情が良くないと思ったとき、その人の好ましい枝の姿に曲げることを言う。下手に曲げられたら、枝にとっては「放っといてくれ!」という大迷惑な話である。
私が「いけばなでは暮らしていけません」と笑って言えるのは、そこに誇りを感じているからで、何気なくついでにやっているからではない。
商神祭 251205
2025/12/5
松山商業高校の文化祭は商神祭と名付けられていて、毎年この時期の開催だ。商いというのは、お金を払う者と商品を売る者とのコミュニケーションで、その関係がより良くなるなるように差配しているのが商神なのだろうと勝手に思っている。その商神との交歓の場が商神祭だ。
今年の華道部員は17人。昔はもっとたくさんの部員がいたと聞く。商業高校から直接就職する生徒も少なくなってきた。かつては、百貨店や銀行などに就職して、企業の華道部に所属することも普通にあったとも聞く。
さて、いけばなの起源説のひとつは、神様に降臨していただく依代として竹などを立てたことが原形である。その流れを引けば、いけばなは商神を招き入れるために重要な役割を演じていると考えられる。高額商品を扱う店頭には、だから今でもいけばなが凛と座っている。あれは単に艶やかな花がお客様をお迎えするだけでなく、神様をお招きして、おろそかにできない商談の場を浄めるためでもある。
唯一絶対神に対する信仰はない。しかし私も、事あるごとに「神様、仏様!」と連呼する典型的な日本人の1人である。
陶酔 251204
2025/12/4
スポーツ観戦が趣味の人にとっては、しょっちゅう熱狂している感覚もあるだろう。しかし、いけばな鑑賞に熱狂はなく、陶酔するほどの状況に至ることも稀有だ。スポーツ観戦の気分の高揚が超短波だとすれば、いけばな鑑賞のしかたは超長波なので、変化が微妙過ぎて気分が上がっていることさえ本人にもわからない。
見る側はそんな調子であり、花をいける側はどうかというと、趣味といえども瞬間的に気分が沸騰することは考えられず、いけばなに酔い痴れるとしたら、じわじわと丸一日がかりの長時間が必要になる。あるいは、常態がヘベレケのボケ老人の姿ではなかろうか。
何かに没頭するというのは、頭だけでなく心も没してしまう状態だ。この状態になると、労力・時間・カネ全てへの留意が失われる。そして、これらを失った者は幸いである。その時点で、趣味はもう単なる趣味であることをやめて、信仰となっているからである。信仰は、法律や論理や損得に優先する。
そんな自分にふと気付いたとしても、自己否定することが怖くて、現代の多くのいけばな教授が宣教師の顔付きになっているのだ。
風格 251203
2025/12/3
私には、いけばなそのものを楽しんでいる一面と、いけばなを通して品格を身に付けたい一面とがあった。
まず、いけばなを始めた頃は、もっぱら前者だけが動機であり目的でもあった。そして、人に教えようという立場に身を置いてからは、後者の意味合いが大きくなっていった。とはいえ、日本人としての立居振舞に磨きをかけることに関しては特に茶道に顕著で、華道と呼ばずいけばなと呼ぶときには、その意識は希薄だと感じている。
それで、先般から気になっているのが風格である。品格よりも風格のあるほうが威風堂々としていて、教える立場の人間として適格なのではないだろうか。現代社会では、パワハラ以上にカスタマーハラスメントが話題に上る。これは、委縮した教師や上司や売り手が、ヘタに品格ある態度を取っているから助長される現象だ、多分。風格のある教師や上司が接すれば、カスハラはもっと減るのではないかと思う。
品格は努力すれば高められるのに対して、風格は努力だけで身に付くものではない。そしてまた、若くして得られるものでもないだけに、さらに希少な特長であろう。