虚飾の部屋 251223
2025/12/23
日焼けした本を捨てるかどうかと迷い、ひとまず筒井康隆は2度目を読み切った。読み直すと、もう1度は読まないと捨てられない気になるものが多く、5冊ばかり減ったにすぎず、一向に終活は進まない。
学生時代にハードカバー本の多くを買った。立派な本とレコードが私の精一杯の飾りだった。5畳の偏狭な部屋の、近所の酒屋から盗んできたビールケースを並べたベッド脇に、アパートを退居する先輩から受け継いだ本棚やレコード棚があるのだった。本とレコードは読み聴きできるという点で、実益的な装飾物として最強だったと思う。
当時の日本の居宅には重厚な応接室があって、1つの壁面に大きな棚が据えられ、テレビとステレオとウイスキー(かブランデー)が格納されていたものだ。これらもまた、見て聴いて飲むのならば実益的な装飾物と言えただろうが、ステレオとウイスキーの活躍機会が少ない家では、ただ中流市民階級を誇示する装置として虚飾だったといえよう。
しかし、実益を伴う装飾は、装飾の本道から見れば邪道である。いけばなのように、全く実益を伴わない装飾こそが完全だ。
捨てる物、捨てない物 251222
2025/12/22
ボーっと暮らしていると、いつの間にか服が増えている。着る服が増えるのではなく、体形が変わって着られなくなった服や、買ってはみたが似合わないと感じた服だ。食器、旅行先で買った土産物、結婚式でもらった引出物、プリント写真や写真データ、これらも多過ぎる物たちの一部である。
気を付けているつもりでも、暮らしの空間には物が溢れてくる。靴は何足以上持っていると贅沢品か? 消しゴムは何個以上からが不要物で、フライパンは何本以上からがガラクタか? ちなみに、花器の数はおそらく多分きっと200個を超えているが、怖いから数えない。
いけばなでは、骨格となる3本の主たる花木(主枝)を挿し、膨らみや奥行きを出すために数本の従たる花木(従枝)を挿す。従枝として花をたくさん挿すと、華やかになるかわりに空間が埋まって色気がなくなる。色気にとって、量は敵だ。量が程度を超えると色そのものの不透明な厚みが出て、透明水彩のような色の気配という性質とは別物になるのだ。
ただ、逆に徹底的に削ぎ落し過ぎると、減量に失敗したボクサーの顏のように頬がこけて貧相になる。
センスの正体 251221
2025/12/21
18歳で上京したとき、私は主体性を一度失っている。「ほやけど」と言って田舎者がバレるのが怖かった。テレビを見ていても、誰もかれも全部標準語で、関西弁の入り込む余地はないと思っていた。
昔の方言は互いに異国語のように差異が大きく、コミュニケーションに支障をきたすこともあった。今は全国が標準語に呑み込まれてしまったので、逆に小さな差異としての方言が、パーソナリティの一部として愛されもする時代である。高市首相の振る舞い全体にはあまりセンスの良さを感じないが、関西弁を会話に混ぜ込む彼女の話法はセンスが高い。
センスというのは、主体性を放棄しては成り立たない。感じ方や表現の仕方における、自分と他人との距離感のつくり方の適切さだと思う。相手に近過ぎると、存在感がなくて意識してもらえない。相手から離れ過ぎると親和性がなくなって遠ざけられる。だから、センスがいいと言われる人は、相手と同じ土俵上でちょっぴり違いを見せるのだ。
この意味で、いけばなは、センスが求められる。一般的なファインアートの世界は、もっと強烈に個性をぶつけ合う。
大人の趣味 251220
2025/12/21
コンサート会場での関連グッズの販売は、1980年代に盛んになったのではなかったか。ローリング・ストーンズのTシャツは代表格だったと思う。武道館や東京ドームみたいな大会場でやれる人気バンドだからこそ可能でもあった。
今はネットで世界中のファンが買える。草月流にも推し活グッズとして買える商品は豊富だ。歴代家元4人の名前がプリントされたTシャツや、草月のロゴ入りハサミなど、公式サイトに掲載される商品数は多い。2年後の草月創流100周年に向けて気分を盛り上げていくツールとしてお茶目なのは、月謝袋に押せる「花スタンプ(ハンコ)」だろう。
いけばなは子どももできるが、自分が歳を取って感じるのは、いけばなは大人向けの遊びだということ。子どもらしい遊びは、シンプルで安全であることがベースにある。華道のニュアンスが加わると、がぜん大人の遊びになる。高い花器や鋏に手を出し始めると、経済的危険も増して完全に大人の趣味だ。
初心者が持つにふさわしい花鋏は? と教室で話題になった。慣れるまでは安い物でいいか、道具には最初からこだわるべきか、迷う。
言葉にならない 251219
2025/12/21
絵画作品に息を呑むことが何度かあった。青年期までは世の中にインターネットがなかったから、その絵のことや画家のことをよく知るためには、図書館か書店に行って画集を立ち読みするしかなかった。余程のときは、勢いで買う。そして、解説の上手なことに舌を巻くのである。
作品を見たときの気持ちを言葉にするのは難しい。感動した丸ごと1つの全体を細かく切り刻んで言語化しても、それはもう1枚のシャツではなくバラバラの端切れのようでしかない。言葉になる前のブクブク泡立つような心の動きは、上手い言葉に置き換えようにも自分の言葉にならず、他人の言葉のように胡散臭い。
いけばなは、絵画に比べてとても感覚的に制作される。だから尚更、いけばな作品を見た印象は、言葉で明確に表そうと思えば思うほど核心から遠ざかって行くようだ。いけばなの作品集に、人物のプロフィールや制作の背景が書いてあっても、作品そのものについての解説がないのもそういうことであろう。
いけばなは、言葉以前のものである。制作前や制作後には言葉があったとしても、作品に寄り添う言葉はない。