COOL 251114
2025/11/14
ひところ「クール・ジャパン」という言葉をよく聞いた。肌感として解らなくて、クールって何だろ? と初めのうちは違和感が拭えなかった。
「かっこいい」「おしゃれな」という意味で使われてきたが、「クリエイティブな」という意味で、今日の高等学校総合文化祭での松山商業高校華道部の生徒たちの作品は上出来だった。私の気分としては、「エキサイティングな」「型破りな」という感情表現としても使いたかった「クール」である。
型破りといえば、型があってこそ成立するもので、型から逃げる態度ではそれ以上先へは進めない。しかし、「逃亡する」「脱出する」等々の否定的意味合いではなく、困難を切り抜けたり膠着状態から抜け出すなど、工夫や努力によって新しい局面を切り開くというふうに捉えると、全く状況が違ってくる。非難される自己流だけでなく、クールな型破りと称賛される自己流もあり得るのだ。
私基準で、ワーカホリックを含め、〇〇中毒と呼ばれる人々の足跡は、すべてCOOLである。その点、私はまだまだいけばな中毒には至っておらず、残念なことに酒中毒なのである。
日常の非日常 251113
2025/11/14
日常というのは、つまらないものだとされてきた。昔は大した余暇やレジャーがなくて、「せめて、ハレの日はこうでありたい」などと願うような特別な日が、1年に数度しかなかった。
最近は楽しむための余裕も増え、日常でハレの気分を味わう機会が増えてきた。ハレとケの入れ替わるインターバルが短くなると、どっちが普通の状態なのかわからなくなる。ハレの機会が増えた分だけハレが日常に近付いてくるので、ちょっとのことでは気分が高揚しなくなる。そうすると、小さなことで大きく感動することのできる素質を持った人が得ということになる。
私は次回の人生では、できるだけ早くからいけばなをやろうと思う。書道や茶道もいいけれど、華道には大きなアドバンテージがある。生きた花材がパートナーなので、墨や茶に比べて意外性に富んでいるのだ。つまり、より大きな感動や高揚感を味わえる可能性が高いということである。
ともかく生きた花材は、花屋で出会う時点で一期一会であり、日々枯れた葉や散った花を取り除いて手を掛ける過程でエキサイティングであり、飽きるということがない。
床の間 251112
2025/11/13
いけばな教室での普段のお稽古は、洋間でテーブルに向って立っていける。このところ、出来上がった作品を和室の床の間に置いて、洋間での出来映えと見比べてもらうことが多い。生徒さん本人に対して正直に「いい出来映えです」と言いながら、頭の端っこでは「床の間には、やはり少し大きかったな」とも思っている。
洋間のテーブルで立っていけるときは、ひと部屋の全体が「いけばなをいける空間」だと認識されるので、生徒さんも大きめの花器に大きめの花をいける。ところが、床の間は一部屋の中のたった1畳分だけなので、いざ作品を置いてみると、1畳分の狭さに対して前後左右上下ともに、窮屈な感じがするわけだ。
だから、はじめから床の間にいけようと思うときは、あらかじめ「いけばなを見る空間」としての床の間をイメージしておくことが大切である。
私の考えでは、大きくいけられる人は、工夫すれば小さないけばなもいけられる。一方、小さくいけられるからといって、必ずしも大きくいけられるとは限らない。だから、普段のお稽古は、大きめ大きめで進めているという事情なのだ。
上下関係 251111
2025/11/11
花と自分との間に、上下関係があるなどと思ったことはないけれど、無意識に自分を上位に見なしていたはずだ。私から花に働きかける一方で、花は黙って受け入れるばかりだから。
しかし、本当にそうだろうか。きのう掃除したところなのに、庭のキンモクセイの花が散り広がって、再び一帯がオレンジ色だ。バラの枝も、不定期的に切り散らかしているのにグイグイ若枝が伸びるし、捨てた種から発芽したのか、ナンキンハゼも一人前の大きさになった。庭の様子を漠然としか見ていないから、木々の1本に対してどれだけ注意を払っていないか、証拠を突きつけられる。「もっとちゃんと見なさいよ」という植物からの働きかけである。「すみません」
現実に即して見直せば、私は花木の使用人という立場のようではないか。年から年中、剪定や草引きに追い立てられている。報酬も出ない。稽古の切り花にしてもそうだ。虫が付いていないか、死んだ小枝はないか、明日まで花持ちするだろうかと目と頭を働かせる。
人間界では赤ちゃんが王様扱いされるように、喋ることのできない、か弱い花が一番の女王様だ。
根っこ 251110
2025/11/10
家にフィカス・アルティシマという観葉植物がいる。15年間、共に過ごしてきた。3~4回は鉢を換えながら少しずつ大きく育てたが、もう5年くらい前からは換えていない。これ以上たくさん土が入る大きい鉢にすると、持ち上げられなくなるからだ。
去年から、鉢底の穴から根が何本も湧き出して、鉢の周りでとぐろを巻いている。油断すると鉢の受け皿からはみ出した元気なやつが、フローリングにへばりつくように根毛を張っている。引き剥がすと、根毛が床板に食い込んだまま千切れる。そんな根の生命力に反して、葉っぱの元気が少しずつなくなってきた。たぶん、根を張る方にエネルギーを余計に使っているからだろう。
「根も葉もない噂」という表現は、根を原因、葉を結果に喩えているらしいし、「事実無根」という言葉では、根っここそが証明のための根拠になっているし、その「根拠」の語からしても、根がすべてのおおもとである。
いけばなをする上で、根っこは何かということを、先日の広島のいけばな展から帰って考えた。そして、花器がそれに相当するのかもしれないという直感である。