暗示 251108
2025/11/9
シンプルな言葉やスタンプでやり取りする“超効率的コミュニケーション”が蔓延し、私も現代のその傾向に加担しているという自覚から、気分が優れない。これは、「イエス、ノーをはっきりさせる」米国型文化が、言葉を慎んだり選んだり紡いだり濁したりする日本型文化を駆逐しつつあるという寂しさである。
何はともあれ、今の世は効率が重要で、それによって生産性を高めなくてはならない。回り道で余計な時間を取られないためには、意思を明示することが求められる。
今日は草月流の広島県支部いけばな展に行き、様々な様式の作品を見せてもらった。そして、いけばなは暗示の表現だと再認識した。私は自分の思いに陶酔できるタイプで、好きなものとそうでないものが明確だ。それなのに、好きな根拠をわかってもらおうと言葉を尽くしたところで、何日もかかってしまうか、鬱陶しくて嫌われるかのどちらかだ。
今日のいけばな展では、私がその世界に入り込める(暗示内容が見える)作品と、そうでない作品とに二分され、半分だけ見えたかな? というのはありえなかった。暗示はそういうものだ。
神秘の綿 251107
2025/11/7
花は神秘的に語る。風船唐綿の風船のような薄緑色の果実の中には、初め固く閉じた組織があって、それがだんだん絹糸のような極細の繊維束に変化する。その銀色に輝く100本を超える繊維それぞれの先には2mmくらいの黒い種。そして表皮が割れる頃には、束がほどけて、1本1本の白い種髪が空気をまとってふわりと飛び立てる軽さを準備する。無重力にほどけて空に舞う。
10年以上も前のこと。私は憧れのカウアイ島で、レンタル・カヌーで河口からジャングルに向かって川を漕ぎ上っていた。1人で漕いでいたから、急に暗くなり土砂降りのスコールに襲われて肝を冷やしたが、30分で雨が弱まると、雲間から日光が幾筋もの線になって背後の彼方の大海に降り注ぎ、そのいくつかの光線はついに私に追い付いて、私の周りで静かに降る雨粒と靄を輝かせた。
カウアイ島から戻ってしばらく後に、風船唐綿の輝く種髪をひたすら集めて、いけばなとして“雲”をつくった。あのカウアイ島の雲だ。神秘の“雲”は、10年の時を経てもまだ私の手元にあり、ハワイの神秘と響き合って、仄暗く光っている。
花で語る 251106
2025/11/6
言葉で語る人は詩や小説を書き、使う言葉のほとんどが少なくとも表面的には読む人に理解される。絵や音楽で語る人もいる。この人たちが使う言葉は、慣れると理解が少し進むとはいえ、一部の人にとっては慣れない外国語以上に難解だ。
花で語る人もたくさんいて、育てる花で語る人、販売する切り花で語る人、盆栽で語る人、庭造りで語る人など、同じ“花語”を使うにしても様々な方言がある感じと言ってもいいだろう。しかし、世界に占める日本語のシェアが減少しているように、“花語”のシェアも低くなっている。
花の1種1種に花言葉が割り当てられているように、そういうことに関心がある人々にとって花は意外に饒舌だ。しかし、私のように花言葉にあまり興味がない者にとって、花の1つ1つは何を象徴してくれるのだろうか。
私は、基本的にいけばなに使った花材の1つ1つに語らせようとはしていない。花材の1つは、言葉でいうところの1語ではなく1字で、それに意味は何も乗っていない。花が2輪か3輪集まると1語になり、2種か3種集まると1文になっているかもしれないとは思う。
「場」を読み込む 251105
2025/11/6
花いけバトルの花の扱いが粗雑過ぎる、という意見があった。いけばなの技術は、切る・曲げる・留めるから成り立っているが、花いけバトルは、切る暇もない・曲げている余裕もない・投げ込むだけできちんと留まっていない、と無い無い尽くしだ。しかし、5分間×何回戦かの時間、不特定多数の観客を飽きさせないで巻き込んでおくためには、それくらい吹っ切れないとだめだとも思う。
いけばなの「場」を掘り下げると、政治、経済、文化の背景があり、また、いけばな制作者の過去・現在・未来があるので、「場」は眼前の自然的空間としての性格と、歴史的、社会的な性格とを併せ持っている。つまり、「場」は一定しないで、組み合わせや関係が刻々と変わる「状況」であり、そこでの価値観さえも流動的だ。
そんな「場」にいけるのだから、花いけバトルの目的や期待される効果などを考えると、これを一概に否定できない。
世に草月が現れたとき、伝統ある各流派が驚いたり貶したり無視しただろうことが容易に想像できる。「場」の空気を読んで妥協するか、「場」の空気を変えるか、それが問題だ。
「場」とは何か 251104
2025/11/4
読んでいた本に、次の一節があった。「環境に対しては『気をくばる』、他のひとびとに対しては『気をつかう』、そして自己自身については『気にする』というのが、現存在のありかたである……『投げられて、投げかける』この二つの契機は、キルケゴール流にいえば、必然性と可能性の二つの契機に該当するであろう。」(松浪信三郎著『実存主義』)
なんだ、草月が言うところの「場」とは、そういうことだったかと合点がいった。場に影響を受けながら場に働きかけるということを、息をするように吸ったり吐いたりしながら、花と共に一定の時間を過ごす。これが「場にいける」ということだったのである。
いけられた花は、その瞬間に環境の一部となる。当然ながら、変化した環境に対して、他のひとびとからの批判(わずかな肯定的な反応も含めて)が起こる。環境を変えた者であるからには、その責任を負う誠実な態度が必要で、いちいち反論していても始まらない(終わりもしない)。自分を正当化したければ、ひとり自宅に飾るべきである。
そういう意味で、「場」とは人間的な成長の現場である。