花の感じ 250820
2025/8/21
私に信仰はないし、信念もない。しかし、理性的であろうとする気持ちや、論理的であろうとする気持ちよりは、根拠もくそもない矜持みたいな感じのものを大事にする気分が強い。「理屈じゃないんだよねー」
私がいけばなにハマったのは、生きているものは必ず変化する、変化する限りそれは生きている、そういう気分を強く感じさせてくれたからだ。そして、生きて変化するものがあれば、その周囲の環境も何らかの影響を受けて変化する。変化するのであれば、その環境自体も生きていると見ることができよう。理屈っぽくなってしまった。
ともかく、自分のいけばなも「感じ」でつくるし、他人のいけばなも「感じ」で見る。もし、いけばなに難しさがあるとしたら、桜とか薔薇という固有の名前を持っている花という見慣れた実体で具体的に形づくられていながら、いけばなが作品としては抽象的な絵画や彫刻の性格を持っていることだろう。
私も立場上の必要から、花材事典を脇に置いている。しかし、いけばな作品を見るときは、花の名前にこだわらず、その“花の感じ”だけで見たいと常々思っている。
メッセージ性 250819
2025/8/19
ポーカーフェイスが板についたスマートな紳士は、心には穏やかでない怒りやタフな野望を秘めていたり、ウェットなロマンチストの側面を隠しているかもしれない。しかし、他人のそんな裏側を見抜く必要を感じることなく生活しているのが普通の我々である。
たいてい、かわいい花やきれいな枝は、多くの人に好まれる。嫌われないためには、個性やメッセージ性をあまり見せないで、「明るく素直で元気な子」を装っていればいい。そうは言っても、個性がなく主張もない存在は嫌われないかもしれないが、長い付き合いの中では飽きられて、興味関心を失っていくのではないかという心配もある。
いけばなでは、花言葉や色彩の持つ性質(明度や彩度)に表されるような表面的なメッセージを、制作者の側はほとんど意識しない。もっと直感的に花材を扱いつつ、秘めた思いや自らに課した課題を表現する(こともあるし、そうでないことも多い)。
動機や過程がどうであれ、つくった作品について何か理由が欲しいのは自分自身なので、「こんなつもりでつくった」という後付けのメッセージは隠し持っている。
空洞をいける 250818
2025/8/19
昨日から「空洞」について考えている。
子どもの頃、絵を描くのに黒い紙を渡されて、戸惑った記憶がある。白い紙ならば、少しずつ線や色を足していけば“余白”がなくなっていった。紙は“白紙”であるものと思い込んでいたから、真っ黒な紙を前にしてどうすればいいか分からなかった。大人になった今、黒い紙は白い紙を一度塗りつぶしたようなもんだという風にも思える。隈なく黒く塗りつぶしたものに、白い隙間を開けていく作業を始めるというわけだ。
いけばなであれば、何もない透明空間に少しずつ枝の線や花の色を足していけばそこにスキがなくなっていくというのが常態だが、頑丈な箱に枝葉をぎゅうぎゅうに押し込んで固めた後、外箱を取り去って、枝葉の固い塊に穴を彫り穿つという丸太彫りに近い方法である。
彫刻の制作は、そのように丸太を彫り削っていく方法と、何もないところに粘土で捏ね上げていく方法とがある。いけばなでは、流木や切り株をいけることがあるが、流木や切り株を彫り削っていくと新しい作品の可能性が広がるだろうか。花をいけるのではなく、空洞をいけるのだ。
空気を閉じ込める 250817
2025/8/17
暑過ぎて、庭仕事もままならない。“うどんこ病”の百日紅の花は早く終わり、道路にはみ出した枝から弱った葉が散っている。近所迷惑になるから数日おきに雨水溝周りまで掃除をするが、敷地内は汚い。
アジサイの大きな葉と草イチゴの小さめの葉が繁った一角は、それらが重なって覆いかぶさり、地面近くに小さな空洞が暗い口を開いている。向かいの家猫の毎日のパトロールコースに続くトンネルだ。
田舎の辺鄙な入り江などは、ウバメガシの小さな森の茂みを抜けると目を開けていられないくらい眩しい波打際が現れたりして、繁った草木のその向こう側は異界のように感じられる。海辺の大きい茂みにも、庭の小さい茂みにも、植物に閉じ込められた秘密の王国が隠されているのだ。
いけばなは、花木をいけて空間を創り出す。枝を1本足すごとに空間が大きくなっていくのは、いけばな空間の花木の密度が低い場合だ。逆に植物の密度を高めていけば、その外側の空間は意識されなくなり、植物に閉じ込められた内部空間に意識が向くようだ。“空洞のための隠れ家”をこっそり作るいけばなも素敵だろう。
竹の二刀流 250816
2025/8/16
竹は、花材としての一面と、花器としての一面を持っている。
花材としては、3代目の宏家元、4代目の茜家元ともに、大作を数多く制作していらっしゃるので、「草月といえば竹」というイメージを持っている方も少なくない。私も僭越ながら、竹との悪戦苦闘をし続けてきた。丸竹のまま使うと直線的な強さが出る一方で、割り竹や竹ひごに加工すると柔らかさや繊細さも出せる。ただ、竹細工という1つのジャンルが確立しているくらい取り扱いには熟練を要す側面もあって、一筋縄ではいかない。
仮にそういう技術が低くても、花器として様々な使い方ができるのも竹の魅力である。もちろん、熟達者の手にかかると、丸竹の形を生かした竹筒の花器から竹ひごで編んだ繊細な籠の花器まで、一級の工芸品であり且つ一級の美術品であるような作品が出来上がる。
そのように考えを巡らせていると、花材でもあり花器でもあるという混然一体となった作品制作を妄想してしまうものだ。それは既に、家元はじめ幾多の先輩方が取り組んでおられるが、より積極的な二刀流の発揮のさせ方があるように思ってもみる。