プロとアマ 251211
2025/12/12
特にスポーツ界では、プロとして活躍できる期間が短い。しかし、ホームランを打ったり、ノーヒットノーランを達成したりすると、そのインパクトは自他ともに大きく記憶に残る。活動記録としては、短い時間軸の上に大きな波形が記される。
いけばな界では、プロとして立つ人が少ないだけでなく、立ったとしても、一握りの人を除いて年齢を重ねてからのことになる。だから、プロとして活躍できる期間はやはり短い。
ただ、スポーツ界では、プロを退くとき「ハイ、今日の試合をもって引退します」というようにスパッと終わりを迎えるが、いけばな教授の場合は、人知れずいつの間にか引退しているケースが多い。野球のホームランやノーヒットノーランのようなインパクトは望むべくもなく、活動記録としては、短い時間軸の上に小さな波形が記される。
教室を開いて生徒をとる業態は、現代に生業として成り立たせることは難しい。施設や店舗の装飾や冠婚葬祭での案件を請け負う機会も、コロナ禍を境に一気に減少した。この隙に、そういう場でアマチュアがプロと肩を並べて活躍できる可能性は大きい。
プロ意識 251210
2025/12/11
プロフェッショナルとは、専門的な技能を駆使して報酬を得る人のことだ。改めて考え直してみて、報酬を得るためには必ず責任が伴うということが、プロフェッショナルの最低条件かもしれないと思った。
いけばな教室を運営していると、何より花材調達の安定性を確保しなければならない。私は、性格の異なる主な仕入先を2つと、イレギュラーな仕入れ先として個性的な4つの花店を自分の中で定めている。そして今季初めて、自分で枝を切って準備できる山林と葡萄畑を確保した。
ただし、仕入先の安定的確保というのは、プロの仕事としては必要条件だが十分ではない。仕入れができるから、最高の仕事ができるとは限らない。いい花が、いいいけばなになるとは限らない、という見解を勅使河原蒼風が述べていた。
これまでお会いしたプロで私の心に残っているのは、三木清、赤瀬川原平、松岡正剛、高橋宣之の各氏。そして、このほど葉山有樹氏が加わった。共通するのは、オリジナリティへのこだわりと、表現に対する妥協のない徹底である。私は未だ、このギリギリ限界まで、攻め切ることができない。
自然の枝、栽培の枝(2) 251209
2025/12/9
元同僚が、葡萄の専業農家を継いでいる。栽培品種はシャインマスカットとピオーネ、そしてブラックビートだ。圃場は広く、品種ごとに区分けされている。収穫をゴールとして、1年前から畑の手入れは始まり、肥料や農薬の散布など、休みなく作業は続くようだ。
そして、来年の収穫までの作業がしやすいように、樹形と枝の配置を整えるための剪定が12月から行われる。私もそれに参加させてもらった。整列した木のそれぞれの枝は、幅2メートル長さ8メートルくらいに整える。前年に伸びた部分を、2個の芽を残して切る。その一部を、先に私が失敬して持ち帰るわけだ。残った枝は、燃やして灰にされ畑に戻る。
わかったことは、シャインマスカットの枝は素直で行儀が良く、いけばなの花材には向かない。ピオーネは、わずかに個性がある。ブラックビートは、とても個性的で力強い。私は、ブラックビートの枝だけを切って回った。
要は、自然界の枝だろうが圃場の枝だろうが、暴れる品種は暴れるということだ。森の木々も、全部がぜんぶ行儀が悪いわけではなく、個性が薄くて欲しくもない木は多い。
自然の枝、栽培の枝 251208
2025/12/8
一昨日は知人の山へ入り、今日は別の知人の葡萄畑に入った。花材の高騰が甚だしいので対策を考えたくて、知人を標的に現地視察を敢行したのだ。今日は、まず、山の自然の枝に対して賛辞を述べたいと思う。
特にサンキライが素晴らしい。シュロや玉椿、野茨などに絡みついてサンキライのジグザグの枝が伸びている。枝が細いため、密生部分の絡まりをほどくことが極めて難しい。ネックレスの細いチェーンや毛糸のもつれがほどけないのと同じである。
足元の向こうは谷に向かって急傾斜なので、手を伸ばして野茨を用心深く切りながら、サンキライの枝を引っ張り出す。手が届く限界でハサミを入れると、欲が祟って途中がねじり折れてしまったが、3メートル余りの枝が取れた。
流通の関係で、花屋で見られるサンキライはたいてい1メートル足らずである。しかも、ジグザグではあっても直線的な物が多い。ところが、自然界のサンキライは伸びられるだけ枝を伸ばし、それ以上は宙に浮いて不安定だとわかると、Uターンして自分の体を支えにしてでも伸びている逞しさ! 曲がったことが大好きな奴だ。
場のニーズ 251207
2025/12/7
亡母の17回忌は、久しぶりの寺での法要だった。「お供えしたい花があれば……」と言われて考え込んだ。母から好きだと聞いた覚えがあるのはワレモコウだが、時期がもう遅い。こんなとき、いけばなの先生として面目ない選択はできないプレッシャーには弱る。
草月流では「場」にいける意識が重視され、その場の性質にふさわしい花をいけようと考える。かつて私が仕事としていたマーケティングでは、顧客ニーズを満足させることで商品価値が高まるとされてきたことからも、自分軸ではなく他人軸の考え方は正しい。
しかし、個性化が進んだ現代は、多数のニーズを一括りにすることが難しく、また、それに応じようとすれば平凡・陳腐に陥る危険もあるので、半歩だけ先へ行くか半歩だけ特異性を出すことが肝要である。ま、こんなふうに小難しく考える仕事の癖は、なかなか抜けない。
考えても答えが出ないときは、人の気持ちに寄り添うふりをするよりも、場を驚かせる身勝手な花の方が、自他共に楽しいかもしれない。私はまだ水分も油分も多過ぎて、枯物花材のように解脱の域には達しえないようだ。