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いけばな随想
diary

辺境四国 240323

2024/3/26

 境界はどこにでもある。最も明確なのは地図上の境界。しかし、現地に行くとどこにも境界線が描かれていないから、本当は境界はないのかもしれない。
 ずっと以前、私が愛媛県の端っこに憧れをもって走り回っていた頃のこと。銅山川沿いの道で、私は急ブレーキを踏んだ。10数m先の1.5mくらいの高さの擁壁の上の茂みから、得体の知れない大きな塊が飛び降りてきたのだ。その場所は木々が生い茂った正真正銘の茂みである。すぐにその物体が人間であることはわかったものの、想定外の出来事に呆然としてしまった。
 彼は両肩から“どうらん”を下げ、大きなリュックを背負い、いわゆる探検隊員の恰好だった。恐る恐る声を掛けると、奈良県の大和生物という会社の社長で、役所から受託して、1ヶ月はテント暮らしをしながら四国山地の奥深く入り込み、動物の生息状況を調査しているのだという。私のことは気もそぞろに、路上の糞が気がかりなようで、彼は不意にその糞に人指し指を立て、「ううん、まだ新しい。ハクビシンです!」と、嬉しそうな顔をするのだった。
 四国は素敵な辺境だ(喜)。

華道の逆襲 240322

2024/3/26

 愛媛大学理学部のO教授と親しくさせていただいた時期がある。携帯電話はまだ普及していない。初めて研究室に訪ねた日、「干潮のときは大学にいないから」と、潮見表をくれた。研究対象は潮間帯の生物で、彼は膝までの長靴を履き、河口で真水と塩水が混じる汽水域の砂地を歩き回って掘り起こし、生物個体数を調べていた。そんな、環境の境界域に、生物個体数はとても多いらしい。
 海と陸の境界は、満潮になれば海に征服され、干潮になれば陸に征服されて、常に変動している。山と里山では、熊と人の領地争いが起こっている。元々は森を開墾して、人が住み着いてきた。しかし、家々が廃屋になる頃、伸び放題に伸びた植物が屋根まで征服し、油断すると里はすぐに森に戻る。
 さて、社会学的に見て、国境紛争地域は人的にも兵器的にもエネルギー消費量が非常に高い。「いけばな」と生活とは一体的でも、「華道」と生活との間には境界がある。境界には軋轢が生じる。軋轢は摩擦熱のエネルギーを生む。
「華道」で生活を開墾しよう。エネルギーを生み出すために、掘って掘って熱くしてやろうか。

国際化 240321

2024/3/24

 1980年代のキーワードは、国際化と情報化だった。企業に対する広告宣伝の提案書にも、地方自治体への中長期計画策定の提案書にも、冒頭に必ずこの2語が記されていた。
 私が勤めていた広告会社は、地方にしては取り組みが早く、パソコンが1人1台与えられたし、地球の反対側の「カレ・ノアール」というパリの会社と業務提携して、24時間体制でデザイン業務をこなせる形を取った。うまく回り切らなかった原因は、1社員としてはわからない。今は国際化や情報化の言葉が踊らないところを見ると、うわべではもう成し遂げられたのだろう。
 さて、3月の送別の時期になると花の値段が高止まりする。先日驚いたのが、いつもお世話になっている花屋さんで、バラ1輪が500円! ためらう私の顔を見て、花屋さんが「ケニアから来たこっちのバラは、400円だけど」と、申し訳なさそうに言う。「今日はインドからのバラはないけどね」。
 野菜を輸入する時代だから花もあり得ると頭では理解できても、何か釈然としない。運ぶ方法は? 運ぶコストは? 地産地消がどれだけ難しい世の中なんだろうか!

描かれた花 240320

2024/3/22

 絵描きが静物画のモチーフとして、よく花を描いている。ルドンのそれや、ゴッホのそれなど、著名な画家のものだけでも数え上げればキリがない。特に洋画において、描かれた花の多くが、(失礼な言い方をお許しいただいて)花瓶にバサッと無造作に入れている、または花束の包みを外しただけでぶっ込んだようなものが多い。
 で、それをわざわざ描くのはどうしたわけだ? と思うのである。花が描かれていること自体を格別気にも留めなかったのに、いけばなを始めてから、突然に気になり始めた。あんな壺花をなぜ描くのだろう。
 いけばなをする者は、お稽古の時に、いけた自分の作品をスケッチする。絵として完成させる意図は全くない。描く修行が目的ではなく、いけかたをつぶさに省みるためである。仮にも、いけた本人が、絵として完成させることを目的にして、自分のいけばなをモチーフとして描くだろうか。
 それでは、というので、今後改めて日本画に目を向けてみようと思う。果たして、いけばなが、日本画にどれくらい描き込まれているだろうか。素敵ないけばなが、描かれているだろうか。

地震と花器 240319

2024/3/22

 いつのことだったか、芸予地震で多くの食器や花器を割った経験がある。最近、地震が散発していて不安な状況なので、ちょっとだけ花器の収納に手を入れた。
 高価な花器をできるだけ低い位置に置く。できれば床に。これまで、重さの軽重で上下に置き分けていたものを、金額の軽重で置き換えを図ってみたわけだ。仕分けをしてみて、必ずしも高価だから好きな花器だというわけでもないことに気付いた。むしろ、重量的な分類の方が、自分にとって価値の高いものを選択できていたかもしれない。これではまるで、お中元やお歳暮は重くてかさばるものがいいという、昔人間の感覚じゃないか!
 しかしながら、自分自身に言い訳をしてみた。花器は軽過ぎると倒れやすいから、重い方が安定感があっていいのである! 全く正論である(拍手喝采)。あとは、花器を棚から取り出す際に、重い物を上から引き下ろすよりも、床から持ち上げる方がよっぽど安全である。
 この考え方を住み方に応用すると、どうなるか? 命を重視する人は、マンションならば下層階へ。戸建て住宅ならば平屋建てへ、ということか。

講師の事