越境 240930
2024/10/1
血縁の近い者同士の結婚は、タブー視されている。人類の経験的な知恵である。この考え方に倣うと、「習い事でも小さな一流派内の意見ばかりを突き合わせて検討しても、面白い結論は得られない」ということになる。
話が飛ぶけれど、小学生の時、校区外へ行くときは、それが友人宅へ遊びに行くのでも買物に行くのでも、親が同伴でなくてはならない決まりがあったような……。つまり、越境という冒険をしてはならないという暗黙の決まりがあった。しかし、校区の範囲を示す線が道路に引かれているでもなく、いい子は、はっきりしない区切りを自分に課すしかなかった。
だから越境は冒険である。精神的な越境の場合には超えるべき境界線を自分で引く以外にない。境界線では、向こうとこちらの価値観の大きな変化に晒される。
私のいけばなのお弟子さんの1人は、2つの流派を掛け持ちしている。二重国籍者である。両方から不届き者と指差される。私はこの越境に拍手を送る。越境すべき人と、越境して壊れる人がいるというのが、私の見方だ。越境すべき人には、境界線の方がすっと消えてくれる。
枯物を捨てる 240929
2024/9/29
枯物というのは、ドライフラワーをはじめとした枯れた植物を指すいけばな用語だ。枯れた植物を何気なく見過ごすと、それは単に枯れて無価値な物として捨てられることになるが、その枯れた感じが素敵だと気付いたとき、それは花材として第二の人生を歩むことになる。
我が家には捨てられない枯物が増えてきて、次第に限られた空間を占領してきた。しかも数年を経過したヒオウギやニゲラなどが風化して、粉になって崩れ散る。使わないまま大事に取っておいても、結局は儚く脆くも風化してしまうのだ。
私の家では映画のDVDも枯物のようになりつつある。仮に2時間の映画を1日1本観ると、1年で365作品を観ることが可能だ。しかし、せいぜい1週間のうち1日くらい観るのが関の山だから、1年を52週として年に52作品しか観ることができない。
それではマズいのだ! 私のコレクションは720作品ほどあって、これを1回ずつ観ていってもあと14年くらい年数が必要で、その頃には78歳。現実にはもう観ないで捨てるものが出ざるを得ない。人生の一部を捨てるようで忍びないけれど。
アタマの仕事 240928
2024/9/28
手仕事とアタマの仕事は、連携しつつそれぞれ別々の領域を分担している。
いけばなを制作するとき、まずアタマが仕事を始める。ああでもないこうでもないと、あらゆる可能性を検討して、どんどん可能性を広げる仕事をしてくれる。一定のプランが見えてくると、手仕事でミニチュアを作ったり部分的な習作をして、広がった可能性を試してみる。それをすることで、できることよりもできないことがはっきりする。手仕事は、確実性を担保する仕事なのである。
できないことを切り捨てて、できるだろうと思われることの範囲で、また、あれやこれやをアタマが考える。手を動かしてみて範囲を狭める。そして、またアタマが考える。手が「できない」と言っているのに、アタマは「できるはずだけどなー」と、手に対してノーテンキに要求する。
実際のところ人間は工夫する動物なので、「できない」を「できる」に変えてしまえる能力があるから、せっかく狭めた可能性の範囲がまた広がってしまう。1つ広がるともう1つ広げたくなる。アタマは手に対する思いやりなどなく、いけいけドンドンなのであった。
大工仕事 240927
2024/9/27
大工は生木を使わない。華道家は生木や生花を使う。大工は建てた家に狂いが生じると困るから、乾かして堅くなった木材を使う。華道家はいけた花が狂わないのはつまらないから、生長途中の花木を使う。私は「枯物」と呼ばれる花材を使うことも多いので、半分は大工だ。
大工が、華道家が使うような「枝もの」や「草もの」の材を使って家を立てると、大きな家は立てにくい。コロボックルの家は建てられるかもしれない。華道家が、大工が使うような「材木」を使って花をいけるとどうだろう。そんな欲求にも応えてくれる材料が竹である。
大きないけばな作品を作るには、堅い構造がどうしても必要になる。しかし、材木は、曲線を表現するのが難しく、その点で、竹は直線的な表現も曲線的な表現もできるところに強みがある。
しかし、竹を駆使するためには竹を知悉しなければならない。10年以上も前から竹を使ってきたのにうまくいかなかったのは、竹を知る努力が足りなかったからだ。今年も1ヶ月以上格闘してきて、竹も私の気持ちをわかってくれたのか、やっと少し仲良くなれた(気がする)。
老人力 240926
2024/9/26
赤瀬川源平の著作『老人力』の書名である。私にとっては読み込む対象ではなく、「積ん読」の対象だ。それでも、1998年に初版で買って、『老人力②』も1999年に初版第1刷で買って積んであるので、かれこれ四半世紀の付き合いである。
忘れることの功罪について、常識的には罪が大きいかもしれないが、『老人力』においては功罪をスッ飛ばして幸福であると断じる痛快な本だ。
私も60を過ぎて(振り返れば40代半ばを過ぎて)、老人力が身に付いてきた。忘れ方を勉強しなくても都合の悪いことはすぐ忘れられるし、ついでに思い出し方も忘れるから、何でもなかったことにしてしまえる。リフレッシュは、忘れたいことを忘れられない人には必要でも、私のように忘れたフリを本物の忘却に至らしめられる人間にとっては不要で、もう毎日がフレッシュなので、リフレッシュの必要性がない。
仮にひとっ走りしてこようか、という気分になったら、体力がないから花をいける。これは決してリフレッシュではなく、フレッシュだからこそ成し得る暇つぶしである。ついでに、スコッチを飲みながら。