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いけばな随想
diary

大工仕事 240927

2024/9/27

大工は生木を使わない。華道家は生木や生花を使う。大工は建てた家に狂いが生じると困るから、乾かして堅くなった木材を使う。華道家はいけた花が狂わないのはつまらないから、生長途中の花木を使う。私は「枯物」と呼ばれる花材を使うことも多いので、半分は大工だ。

大工が、華道家が使うような「枝もの」や「草もの」の材を使って家を立てると、大きな家は立てにくい。コロボックルの家は建てられるかもしれない。華道家が、大工が使うような「材木」を使って花をいけるとどうだろう。そんな欲求にも応えてくれる材料が竹である。

大きないけばな作品を作るには、堅い構造がどうしても必要になる。しかし、材木は、曲線を表現するのが難しく、その点で、竹は直線的な表現も曲線的な表現もできるところに強みがある。

しかし、竹を駆使するためには竹を知悉しなければならない。10年以上も前から竹を使ってきたのにうまくいかなかったのは、竹を知る努力が足りなかったからだ。今年も1ヶ月以上格闘してきて、竹も私の気持ちをわかってくれたのか、やっと少し仲良くなれた(気がする)。

老人力 240926

2024/9/26

赤瀬川源平の著作『老人力』の書名である。私にとっては読み込む対象ではなく、「積ん読」の対象だ。それでも、1998年に初版で買って、『老人力②』も1999年に初版第1刷で買って積んであるので、かれこれ四半世紀の付き合いである。

忘れることの功罪について、常識的には罪が大きいかもしれないが、『老人力』においては功罪をスッ飛ばして幸福であると断じる痛快な本だ。

私も60を過ぎて(振り返れば40代半ばを過ぎて)、老人力が身に付いてきた。忘れ方を勉強しなくても都合の悪いことはすぐ忘れられるし、ついでに思い出し方も忘れるから、何でもなかったことにしてしまえる。リフレッシュは、忘れたいことを忘れられない人には必要でも、私のように忘れたフリを本物の忘却に至らしめられる人間にとっては不要で、もう毎日がフレッシュなので、リフレッシュの必要性がない。

仮にひとっ走りしてこようか、という気分になったら、体力がないから花をいける。これは決してリフレッシュではなく、フレッシュだからこそ成し得る暇つぶしである。ついでに、スコッチを飲みながら。

消化 240925

2024/9/25

食べ物であれば、匂いを嗅ぎ、唇や舌に触れ、歯で噛んで喉を通り、食道を経て胃に入り、他の内臓からの分泌液の協力も得ながら十二指腸から小腸へ送られ、大腸から肛門へ至るという長く複雑な行程で消化され栄養となる。

スマホを通して入ってくる情報の多くは、噛み砕く必要のないくらい破砕されていたり、胃腸が働く必要のないくらい既に消化されている。それが次々に間断なく入り続けるから、もう選別能力を超えてしまってオーバーフローを起こすのだ。

人の体力や能力は、自力で消化する苦労と引き換えに栄養として吸収された物の結果であることを忘れてはいけない。他人が消化した二次情報は、すでに他人に栄養分が吸収されていて、自分の所へ来た時には食べカスである。カスをいくら噛んでも、ガムほどの値打もない。黴菌がついて変質したり腐りかけていたら、食中毒を起こす。

そんな世の中にあって、いけばなは消化行程に似た経験を積む必要がある。目と知識だけでは会得できない。目で観察し、鼻で香りを嗅ぎ、手で硬さや弾力を確かめて、切ったり曲げたり挿したりして完成する。

小松シェフの仕入れ 240924

2024/9/24

明石でレストランを営む小松シェフ。彼がパリ近郊のオーベルジュを閉めて帰国し、日本のオーベルジュのシェフに就いて落ち着いた頃、彼の仕入れを見させてもらった。

「小松だけどさ、3キロ持ってきて」と、材料を指定せず漁師さんや農家さんに何本かの電話をかける。このやり方は生産者を困らせるはずで、案の定うまくいかない相手も多かった。しかし、時間と共に小松シェフの人となりや考え方がわかってくると、納品に工夫や挑戦が表れてきた。

「今日はホタルイカだけ持ってきた(笑)」とか「今日の野菜はウチの七草(旬のもの7種類)」というふうに、その土地のその日の最高の食材が手に入るようになったのだ。届いた物を見てディナーコースと翌朝食のメニューを決めるシェフに対して、面白がらせたり困らせたりして、生産者も遊ぶのだという。

メニューを決めてから必要食材を仕入れるのは簡単だ。食材を見てメニューを決めるのを、苦しいと感じるか楽しいと感じるか。いけばなも、その日その時の花材を見て、その時の気分やインスピレーションでいけられるようになるのは目標である。

仕入れと手入れ 240923

2024/9/23

表面が青々とした竹もあれば、白く埃った部分や黒い斑点がこびりついた竹もある。いけばなや建築で使われる青竹は“育ちの良い”ものを選んで切り出しているのであって、もとから汚れた竹は使い物にならないのだろうと思ってきた。

竹林に入って、自分でも数本の竹を切ったことが何度もある。もちろん、つやつやした竹を手に入れたくて目を凝らすのだが、実際にはなかなか綺麗な竹に出会えない。綺麗だと思って切っても、上の方に茶色くなった部分があったりして、希望に沿う完璧な竹は見つからない。だから、歳も取ったし、最近は竹屋さんに頼むことが多い。

かといって、価格交渉で安く抑えようとするから、竹屋さんも必要以上の仕事はしないのか、ほどほど汚れた竹も混じって納品される(竹屋が努力をしないとか目利きでないということではなく、彼は正しく仕事をしてくれている)。

さて、半月前に「正しい竹の磨き方」を知る機会があり、汚れた竹でも手入れの仕方で美竹になることを知った。金を払って品質の高い竹を買うか、労力を払って品質の良い竹にするかという問題だったのである。

 

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