裏道 250522
2025/5/22
「いけばな、いつからやってるの」と聞かれて、いつも微妙な気持ちになる。
そこもダメ、あそこもダメで、辛うじて拾われた職場で就職したからには頑張ってみた。でもうまくいかなかったから転職した。いちばん長続きした仕事は18年と8ヶ月。そんな人生だったから、いけばな歴25年は自分でも感心している。長いといえば長い。でも50年やり続けている人に比べると、たった半分だ。自信満々に25年と言うのもこっぱずかしいし、まだまだ駆け出しですよと謙遜するのも嫌らしい、中途半端な年頃である。
私は40歳で横道からいけばなの道に入った。入ってからも裏道をしばらく歩いてきたように思う。目的意識を持って計画的に参入したのではないし、既に中年に差し掛かっていたのでモノの見方には癖があった。だから、どうしても斜に構えていた。ボクハホカノヒトトチガウノデスという過剰な意識を密かに抱いて、木々が生い茂って昼間でも暗い誰も知らない裏道を、忍び足で歩いてきたのだ。
目下の課題は、肩の力を完全に抜くこと。花や花器へのこだわりもなくし、道の裏表もなくすこと。
不味い花 250521
2025/5/22
18歳の頃から外食は多い。その私が言うのだから信じてもらう。とても美味しい店と不味い店が少しあって、残りは全部普通に美味しい店である。
考えてみれば当然で、調理が上手いから飲食店を開く。ハサミが得意だから床屋になる。運転が上手いからバスやタクシーを運転する。歌やギターが得意だから歌手になる。まあ、逆のパターンもなくはない。その職業に就いたからこそ腕前が上がるという、努力家型のパターンだ。しかし、ハサミ使いが苦手な床屋、運転が下手な運転手、音痴な歌手などと同様、調理の下手な味オンチの料理人はいただけない。
昨晩、不味すぎる店に大当たりしてしまった。妻はもともと料理学校の校長で、料理の見かけにも味にもうるさい。不味そうに見える料理が美味いはずがないという持論があるし、不味い店は外観だけでもすぐ分かると豪語する。それが体調不良のため感覚が働かず、うっかり入った店が最悪だったというわけだ。
天ぷら盛合せのヒドい姿を拝みながら、話題はヒドいいけばなという話になった。いけばなは幸いにも食べ物ではないから許す、とのことである。
感動への禁断症状 250520
2025/5/20
SNSでスタンプを使用することに対して、私なりのこだわりがあってずっと抵抗している。それを使うと、自分の共感力が失われていくような気がするからだ。いいねを押すことにも抵抗があったが、今では抵抗感が薄れてどうでもよくなったというのが正直なところ。ともかく、現代のコミュニケーションツールを積極的に使えなくてごめんなさい。
そして、ニューメディア・アートと言うのだろうか、プロジェクション・マッピングやドローンによる夜空のアートとかも苦手な部類だ。雰囲気は受け取れても、ストーリーの表現としては共感できないから。
テレビの「食レポ」も嫌いだ。食べ物を口に運んで、1秒で美味しさがわかるとは思えないからだ。絵を観て、音楽を聴いて、1秒で素晴らしいと消化できるわけがない。臍曲がりの私の実感である。
先日、小椋佳のコンサートでは感動した。彼くらいのキャリアを経ると繊細な技術はもう不要で、思いのままに喉を鳴らせば、聴く方も耳で聴くというより音圧を体で受け止めるような聴き方ができる。ひとことで、いいね、と済ませない迫力があるんだよね。
理解力 250519
2025/5/19
分かりやすく言おうとすると、尾ひれを端折って簡単な言い回しになる。端的になればいいのに単純なだけの表現になってしまい、結局は真意が伝わらない。
私は、鮮やかでなく大きくない花の方に好みが傾いている。これは、鮮やかで大きい花は好みではないと言っているのとは違う。「玉井くんはなぜ私に冷たいの?」と聞かれて困るのは、私は誰にでも温かくはないというだけのことだからだ。「政治家はなぜみんな嘘をつくの?」と聞かれたら、どんな属性を見ても常に本当のことだけしかしゃべらない人に出会ったことはないしさ、こう返すしかない。
いけばなの良し悪しも単純ではない。論理だてて説明しても納得は得られまい。百聞は一見に如かずとか虎穴に入らずんば虎子を得ずというような、その人が直接的な体験を伴わない限り理解できないものが世の中には多い。
いけばなには厳正なルールブックというものがない。ガイドラインを示すためのテキストはある。修行がランクアップするにつれてテキストの行間を読めるようになってきて、同じ1冊から教えられる質と量も大きくなるというものだ。
極道250518
2025/5/18
茶道、書道、華道、極道。極道の道を極めることを普通の人は避けた方がよさそうだが、相当の覚悟さえあれば一足飛びに行くこともできる。しかし、そこまで極端ではなく、道を極めるという字義通りの意味に取ると、華道で極道に至るためには、人間離れした稽古や修業を積み生活感も日常性もすっかり削ぎ落としたストイックさは求められそうだ。
もしその境地に達することができると、いついかなる局面でも、いけばなの黄金比を易々と表現してしまえるような卓越した技を身に着けているだろう。そうなってしまえば、心に描いたものがそのまま身体に乗り移って表現ができる。これはピアノ演奏でも、弓道でも、茶道でも、体操でも当てはまるのではないだろうか。肩の力を抜いたまま自然体で、彼のあるいは彼女の世界を創出する。
これは商売でも同じで、欲望を抑え純粋にお客様に心を馳せて商品を売る。儲けを度外視しないまでも、儲けには走らない。息をフーッと吐き切って結果を天に委ねる。
いけばなをすることは、こういう、シンプルでぶれない振る舞いができるようになることを求めてもいる。