利己的な利他 250420
2025/4/22
ここ最近で気になっているのは「利他」の精神だ。先日、いけばなの生徒さんの1人から「先生は生徒に優し過ぎるんじゃないですか?」と言ってもらえて嬉しかった。もちろん優しくしようという思いがないわけではないが、そのように振る舞えないときはどうしようもないわけで、振る舞えるときは振る舞おうかなというだけなのである。
私は消防団員のように自己犠牲的ではないし、優しく見えるとするならば、自分が居心地のいい場所を確保しておこう、できればその範囲が広い方が外圧を防御しやすいだろうという弱気の表れにしか過ぎない。
そして重要なのは、なにより自分がそれを負担に思ったり面倒を感じたりしていないことだ。利他というのは、共同作業が得意な伝統的日本社会での身の置き方として大正解で、最終的に自分の利益にまで回してくるのに時間は掛かるが確実性が高い。
だからすべては、いけばなに身を置く以上いけばなをやる人が増えれば増えるほど自分の居心地のいい世界は安泰になるし、自分が利他的行為をすればするほどリターンが大きいと信じている全く利己的な仕業なのだ。
無心の強さ 250419
2025/4/21
陶芸家と話をした。「最近、砥部焼の砥部焼らしい絵付けのレベルが下がっているような気がするんですけど?」呉須で描いた筆の線が汚くなっていると感じていて、そんな偉そうなことを言ってしまった私。
それに対して彼はこう言った。「昔の砥部焼は、(いわゆる生活雑器だったから)つくり手が偉そうに仕事をしていなかったわけですよ。それから、分業でやっている窯元では、線を引く人は線を引くばかりで、焼物全体の意匠に思い至っている暇なんかなかったんですよ。だから余計な欲がなく、ひたすら同じ線を毎日毎日描いていた」と。今は誰もが作家の地位を得てしまったから、作品を創作しなければならない。すると他人の手を借りることなく1人の能力だけでつくるから、得手不得手が出てきやすいのだそうである。
さて、我が社中は、4月の松山中央郵便局のロビー前の玄関に輪番で花をいけている。私以外の3人が初体験の場所だ。これが意外にうまくいくのだった。初めての取り組みには余計な欲も不要な先入観もないからなのか、テンパった状態が功を奏しているのだろう。真剣かつ無心で。
非凡な凡 250418
2025/4/21
先日車を走らせていて、ラジオから聞こえた歌に釘付けになった。思わず音量を上げて、聞き逃すまいと集中した。グループ名は「チルドスポット」。曲は「クラッシュ」。かつての「カーディガンズ」の狂気を隠した透明感と「ポリス」の小気味の良いミニマムな演奏とを合わせたような才能だ。技術がないからかもしれないが技を繰り出すことなく、センスの良さだけで突っ走っている若々しい感じ。
どちらかといえば重い歌を歌っているのに、歌い方と演奏の仕方とで軽さがあって安心して身体を預けられる。ドライブ感をガンガン出しているかと思うとフッと息を抜く粋さ。音を厚く重ねたかと思うとフッと力を抜く粋さ。20歳くらいでここまで演れるのかと思うと羨ましい。いけばなをするならこうしてみたいものだ。
肩の力を抜いてちょっと軽めに。これがなかなか難しい。やってやったぜ! という感じがあると見る人に重さをかけてしまう。そしてやり過ぎると鼻に付く。かといって軽過ぎると目に留まらなくて見過ごされてしまう。素人かと思わせる所が玄人はだしだ。速攻でCDを買ってしまった。
左から右から 250417
2025/4/19
松山商業高校日本文化部(うち華道部)の活動が始まった。私は1年生の新入部員4人に自己紹介をしながら、彼女たちに何を話すべきかを頭の裏側でつらつら考えていた。
私の話はだいたい冗長でとりとめがなくなるから、何かパワーワードを1つに絞って端的に話したいと思った。しかしうまくいかなかった。「いけばなは空間表現だから、正面からだけでなく前後左右上下から見られることを意識して……」ああ、また長く難しくなってしまった。まだしも2年生や3年生の目の前の作品を題材に取り上げながら話しをしたので、少しはわかってくれたと信じたい。
さて、草月のテキストは非常によくできている。作例の写真が正面だけでなく側面からも撮られていることは特筆すべきだ。また、正面図と俯瞰図も描いてくれている。至れり尽くせりと言うべきだろう。空間を把握するためには、頭の中に360度の視点をもたなくてはならない。それを“私”になり替わって見せてくれているのである。
いずれにせよ、いけばなを写真で撮っても本当の良さは伝わらない。平面的でなく深さを持った見方が必要だ。
草月の多様性 250416
2025/4/17
いけばなをやっているということが珍しいとされる時代になった。そうなると、いけばなをしている人は変わっている人たちとして一括りにされるかもしれない。
しかし、わざわざ少数派の領域に住む人は何事にも意識的である人が多いから、むしろ誰もが別々の方向を向いていて、とても一括りになんかできないというのが私の見立てである。
着ているもの、食べているもの、やっていること……、他人と少し違うなと見える人は、たいてい中身はもっと違う。時には奇をてらっていることがあるかもしれないが、たいていは地が出ているだけで無策である。無策なのにも関わらず、周りからは珍奇の目で見られてしまう。
草月をやる人は、いけばなの伝統と造形の現代性の両極端を1つの作品にミックスさせようとする(先天的に、または偶然に出会ってしまった指導者の影響で後天的に)。このとき、いけばなの伝統の部分では他の流派と同じスタンスだが、問題は造形の現代性の部分で、これは時代による表現の流行にも左右されるが、何よりも人数分の性向が淀みなく表れ出て、多様性の証拠を示すのである。