飾りじゃないのよ 241022
2024/10/22
いけばな展でのお客様の会話、「ばらまいている、あの汚い土は何?」その人にしてみたら、いけばなは綺麗なものであってほしいという自然な気持ちがあっての発言だろう。「いけばな展にわざわざ来たのに、あんな土くれなんか見せられたら堪らないわ!」という憤りが含まれていたかもしれない。
しかし、芸術の表現は無限だし、作者の方は「綺麗なだけの花だったら、その部屋に綺麗な花柄の壁紙かカーテンでもあればいいの」と、うそぶくに違いない。一般的には汚いよりも綺麗な方がいいという期待があるだろうけれど、ここで指摘しておきたいのは、掃除を済ませた部屋は綺麗だけれど、美しいとは限らないこと。
人間の表情は、起きてから寝るまでに千変万化する。どんな美人だって、腹も立てるしトイレにも行く。くしゃみもすれば涙も涎も流すし、しかめっ面でうつむいているときだってある。それが生きている美しさだ。
同じように、生きているいけばなによっては、悩んでいる花もあれば悔しがっている花もある。要は、いけばな展の会場は、お花畑ではなく、作者の思想や訴えが並んでいる。
目を閉じて 241021
2024/10/21
昨日は、止まない風の中、北条のモンチッチ海岸でいけばなライブを行った。作品は無残にも完成直前に風に押し倒されて、復旧作業を余儀なくされた。昨年も同イベントでいけばなインスタレーションを行ったが、私がつくった「筏いけばな」は風に煽られ、沖まで出ることなく河口に押し戻されて座礁した。願いは叶わないから、より強い願いとして私の心に宿る。
松任谷由実の『瞳を閉じて』という曲は、「風が止んだら沖まで舟を出そう……」で始まる哀しい歌だ。その歌詞では、瞳を閉じて海を眺めるという人を食ったような、けれど私には腑に落ちる不思議な表現がある。日頃から眠たい私だけれど、何かを願うときはことさら、目を閉じて眠るような気配で祈っている。
私は、目を開けていると祈れない。左から右に何か目に映るものがあると、全然集中できないのだ。だから、私が目を閉じているときは集中しているのに、他人から見ると、うとうとと眠りの淵に入りかけているように映るらしい。
目を開けていたら、風も見えない。いけばなライブでは、目を閉じて海風を見なければならなかったのに。
心で願う 241020
2024/10/21
目を見開いていても見えないものがあることを知る人は、少ないかもしれない。どんなに視力が良くても見えないものは見えないし、どんなに視力が悪くても見えている人には見えているものがある。
もう少し深みを覗くと、こっちが見ているとき、あっちから見られている可能性はとても高い。『裏窓』というアルフレッド・ヒッチコック監督の映画を観たとき他人の視線に対する恐怖を実感したが、こっちが見よう見ようとしている場合ほど、あっちからも見よう見ようとされていることを知るべきである。
そういう局面では、全くのところ視力の問題ではなく、「見たい」意識のえげつない強さが勝っているかどうかということで、普通なら見えないものが見えてしまうという欲望の強さの問題なのである。これは裏返すと、「見せたい」という欲求が強ければ強いほど、普通なら見えないものまで見せてしまうということで、見えるか見えないかは、互いに心を開いて見せようとしているか、見たいと思っているかにかかっている。
小手先ではなくそういう気持ちの強さが、当然のこととしていけばなにも表れる。
手を見る 241019
2024/10/19
私は「この枝をこう切ろう」と思って、枝を左手で支え、右手に持ったハサミを凝視しながら枝を切る。よく切れるハサミなので、指を切ってしまったら元も子もない。私の手は私の頭が操る道具である。
すごいなと思うのは、熟練した音楽家たちが手元を見ずに演奏する姿である。彼らの手は、彼らの頭が操っているとはとても思えない。手そのものが“彼として”主体的に演奏しているように見える。卓球選手などもすごい。彼らが球を打つとき、頭が手に対していちいち命令を出していない。待てよ、剣道だってそうではないか!
このように考えたとき、書道や茶道も自分の手元をよく見ていることに思い当たった。手を道具として使っているのは「文科部系」で、手が自身として動いているのは「運動部系」であり、音楽は「運動部系」の仲間なのだ。
これは、自分と時間の関係に由来するのかもしれない。運動も音楽も、試合中や演奏中の流れに対して、自分が勝手に休みを入れることができない。いけばななどは、自分の動作と時間をある程度好き勝手に操ることができる。だから、じっと手を見る暇がある。
精神と身体 241018
2024/10/19
剣道を思い浮かべる。剣道はオリンピック競技になっていないが、フェンシングはオリンピック競技の1つだ。私は未経験なので想像するしかないが、剣道には武士道精神や礼儀など精神的な軸が据えられていると理解している。フェンシングに騎士道精神が宿っているかどうかは知らない。
フェンシングは突いたり切ったりした判定が電気的に行われている。素人がコメントするのは失礼ながら、だから体勢や気合いなどは評価されない。競技上は結果がすべてである。
一方、剣道は人間の審判が判断する。しかし、剣さばきが早過ぎて、いや、判定基準もおそらく審判個々に差異があって、審判でさえ全員の判断が必ずしも一致しない。仮に剣道がオリンピック競技になったら、やはり電気的審判やビデオ判定が導入されるだろう。しかし、それでは「肉を切らせて骨を断つ」的な、選手の狙いや技の確実性が評価されなくなりそうだ。
華道を含む「〇〇道」は、身体行為の内側にある精神性を重んじてきた。だから、結果だけでなく目に見えない取組姿勢(鍛錬そのもの)を大事にするから、習う先に終着点はない。