材料と作品 240401
2024/4/6
高級店でディナーを食べると、数万円の支払いが生じる。客は「おいしかった!」と満足して支払う。超高級店でディナーを食べると、十数万円の支払いが生じる。客は「とてもおいしかった!」と満足して支払う。
日頃、いけばなの稽古で使う花材代は千円程度に抑えている。花展に出品する際には数万円かけることもあるし、特注花材を使って花器も特注したりすると、費用は青天井だ。
そんなふうに材料にお金をかけると、「あの桜は立派ねえ」とか、「あんな素敵なガラスの花器は見たこともないわ」と言ってもらえる可能性は高い。しかし、作品として高い評価を受けるかどうかは未知数だ。逆に、ありあわせの花と器で素晴らしい作品を作り得たとき、作家冥利に尽きるはずである。
私は、作品とそれをつくった作者の構想やアイディアを見て欲しいのだが、花展の場が百貨店である場合、花そのものの美しさや高価さを見せたくなるジレンマを抱えがちだ。華やかな場に合わせて華やかないけばなを見せることをどうにか超越して、美術館に出品されるアート作品のような表現ができるようになりたい。
マンネリ 240331
2024/4/6
有名な小説家や画家であれば、それは作風とか画風と呼ばれるかもしれない。スタイルとして、価値あるものとなる。
しかし、それが凡人である場合、同じようなスタイルの継続はマンネリと呼ばれて、軽蔑の対象になってしまう。
この差は何だ? と考えた。つまるところ、水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか!」という権威レベルになると、人々は安心して「ははー、恐れ入りましてござりまする」と平伏できるのだ。ここでは、型として肯定的に捉えられるのである。
しかし、無名の馬の骨ごとき輩が「馬鹿の一つ覚え」を繰り返していると、人々からつまらん奴と見下されるというわけだ。ワンパターンと言われてしまうところのものとなる。
昨日から、同じ問題について考えてきたので、そろそろ結論付けよう。まず、型、習慣、ルーチン、傾向等々の言葉には否定的ニュアンスがない。マンネリ、ワンパターンには否定的ニュアンスが強いのは、その2語には「新鮮味が感じられない」という評価が含まれていることに尽きよう。逆に、新鮮さを感じさせられれば、有名か無名に関わらずマンネリ脱却である。
パターン化 240330
2024/4/2
ウチの猫は、10日前後で寝床を次々変える。寒い、暖かいという感覚以上に、彼女なりの緊張とくつろぎの方程式があるからに違いない。
猫なりに少し環境を変えて、腐ってしまうくつろぎではなく、気持ちが新たになるくつろぎを探しているのではないか。人間も、丸1日、同じ椅子に座って同じ姿勢でいると、気が滅入る。
私は、夜出かける店も経路も、犬の散歩以上にパターン化してしまった。このままでは、腐る。そして、問題は、私のいけるいけばなもパターン化していないかということ。そうだとすれば、感覚も技術も腐る。時に古い場所に立ち返ることがあってもいいと思うが、必ず新しい場所を開拓し続けなければ腐る。動かない水も腐る。
野生動物は、ねぐらを複数持っていて、天敵に居場所を特定されないよう命を永らえる工夫をする。私は、ねぐらをたくさん持つようなバイタリティがないけれど、旅芸人の一座やコンサートツアーで世界を回るバンドは偉い。ノマドワーカーも偉いし、コワーキングスペースなどで仕事をする、“私物”にこだわらない個人事業主やビジネスマンも偉いと思う。
場の力 240329
2024/3/30
私は、酒を飲むことも酒そのものも好きだ。だから、自分1人でスコッチウイスキー大会と日本酒選手権大会とを目下開催中である。「とても好き」「好き」「もう買わない」の3つでランキングする。新しい酒を飲むたびに評価してランキング表に加える。1位から3位はかなり不動でも、2~3年経つと、体の衰えに伴う好みの変化で少し順位が入れ替わる。
この取り組みで困るのは、家で飲む評価よりも、バーで飲む評価の方が断然高くなること。家では緊張感がないせいで、味覚の働きが鈍いのだろうか。しかし、カクテルであれば作る技術差が優劣を生むだろうが、私は基本的に外ではスコッチウイスキーをストレートで飲むので、家で飲んでもバーで飲んでも同じ具合で飲めるはずなのだ。
先日、美術館で企画展を見て、展覧会の図録を買った。現物に対して、図録の写真は解像度が低いし筆致が見えない。本物に勝るものはない。これはしょうがない。
さて、いけばなも場の影響を受ける。花展の難しさがそこにある。誰に見せるでもないお稽古花も難しいし、不特定多数に見せる花展も的を絞りにくい。
完成度 240328
2024/3/29
著名な画家の絵の中には、シロウトからすれば「塗り残してるじゃん」としか見えない作品もある。陶器にも、「歪んでるじゃん」というのから、「少し欠けてるじゃん」というのまである。
日本のバブルが弾けていない1990年代後半、パリの高架橋の下に並ぶブティックの店頭に、日本のいけばなにインスパイアされたような、生花のディスプレイがちらほら見られたので、その後の行動では、店頭ディスプレイを気にしながら歩くようにした。
総じて言えることは、日本の工芸的職人芸を見るような見方をすると、雑さが目に余るものが多かった。しかし、繊細な仕上げ技術よりも、造形全体の構成力が優れている方が、歩いている自分の目を楽しませるという点で芸術だと思った。
いけばなは、汚らしい仕上げよりも、美しい仕上げの方が望ましいというのは、どちらかといえば工芸品への期待に近いものを感じる。美しい方がいいに決まってるでしょ? と言い切ってしまうと、いけばなと芸術とは別のジャンルになってしまいかねない。
いけばなの美の完成度をどう見せるかが、その作家の傾向と対策だろう。