空気 240217
2024/2/27
愛媛新聞カルチャースクールでいけばな講座を開こうと思い、それから1年が経過した。去年の春と秋に受講者募集をしたものの、2度とも応募者がなかった。1回目は、気軽さを前面に押し出した「いけばな」のPRで空振りし、2回目は、小さないけばな「ミニアチュール」でマニアックに攻めるも無反応だった。
受講者に応募していただきたいという共通の目標に向かって、募集内容については、カルチャースクール事務局の方と入念に意見交換をする。その相談の過程で、「これで応募が来そうだ」という空気が両者の間に漂ってきて、広告原稿は校了となる。ところが、世間は異なる空気に満ちていて、我々の思惑は霧となって吹き消されるのだった。
そこで今春の募集は、新しさよりも古さを売りにしてみようと、ちょっと硬く「華道」路線に切り換えることにする。
私は以前、広告会社にいた。流行は、マーケティングの様々なデータで解析できるかもしれないが、「空気」は正体不明である。肌で感じたり直感でわかったりするもの、それが「空気」だ。「華道に向かう空気」が漂ってこないかなあ。
以心伝心 240216
2024/2/26
子供のころ、日本人の美徳として「以心伝心」をしばしば教えられた。言葉にならない真髄が理解し合える関係を、日本人同士であれば築けるというもの。現代社会では、2つの理由で困難な夢のような話だ。
まず1つは、国際化が進んで、文化の土壌もハイブリッド化していること。“純昭和的日本人”が純喫茶や純情と共に絶滅に瀕しており、明言したり明文化して説明を尽くさなければ、何事においてもコミュニケーションが成立しない。黙して切腹などしたら、誰にも理解されずそれこそ犬死にである。
もう1つは、唯物的(金銭的)な量が幸せの無二の尺度となって、相手の心を推し量るような面倒な時間も、単にコストとしてマイナスカウントされる対象となり下がったこと。むかしは、近所のおばさんや職場の上司が、なんやかんやと相談相手になってくれたかもしれないが、今はカウンセラーにお金と引き換えでしか相談できない。何でも有料の世の中だ。
それで、私も苦手意識を克服して、説明の行き届いたいけばな教室にしなければならないという思いである。芸術は解釈してはならぬのではあるが。
花器もいけばなの材料 240215
2024/2/26
私のいけばな教室には、飲食関連の仕事をしている人が2人いる。1人はバーテンダーで1人は料理人だ。
2人とも、それで食っているプロだから、仕事に手を抜かない。彼らは、美味しいものを作るという積極的な面と、コストを抑えるという保守的な面でしっかりしている。だから、必要以上にグラスや食器の種類を揃えない。プロは、限られたグラスや皿で、いろいろなカクテルや料理をより美味しく見えるように提供する。最小限で最大の効果を狙うのだ。
一方、私はいけばなでは食えていないから、プロといえるのかどうか疑問である。もし、いけばなを仕事として経営的に考えると、割れにくく汎用性の高い花器を厳選して用意するのが正しい方法だと思う。しかし、仕事ではなく趣味だとすれば、花器をどんどん購入する消費行動はしかたがないともいえるだろう。趣味も、こだわり始めたら手を抜けなくなるものだ。
いけばなは、花材をいけるのであるが、水も花器も花材に匹敵する要素だ。
花器に花をいけるというよりも、空間に花器と花材をいける。だから花と同じくらい花器もいろいろ欲しいのだ。
見えない力 240214
2024/2/26
2月3日に、「古いまま新しく」し続けていく糠床に思いが至った。腐敗せず発酵するという作用は、気まぐれではなく、善玉と呼ばれる乳酸菌などの働きで確実に行われるらしい。
では、エジプトのミイラはどうなってんの? 腐敗も発酵もしないとかさ。子供のころ、水に入れると孵化する古代生物の卵なるものが売られたけれど、あの卵は何千年もどうなってんの? ふつう干からびるんじゃない? 植物の種子も、発芽条件が整うまで、永く生き延びるみたいだよね?
いけばなで花材を扱っていて、興味深いことが本当にたくさんある。萎れかけた花でも、「水切り」すると短時間で元気を取り戻す。人間は、一度弱ると、滋養強壮ドリンクを飲んでもなかなか復活しないというのに!
「挿し木」というやつも、不思議に溢れている。私の永久歯や、一部死滅した心臓の細胞なども、なんとか復活しないものかと羨ましくもある。
そういう生命の働きとは土俵が違うとしても、いけばなで花材を使うならば、彼らの心が晴れやかになるよう、芸術を志す力や美を造形するセンスを鍛えながら向き合わなければなるまい。
より近く! 240213
2024/2/15
花を買うとき、産地を聞くことはあまりない。花は基本的に“裸のばら売り”で、スーパーの食材のような産地表示がない。
私がよくお世話になる花屋さんが言うには、「ハウスもので花木を生産する人がどんどん廃業している」ことや、「一旦、大阪の大きい市場に集まって、そこから再び分散して流通する」ことなどから、地元で直接確実に手に入るものが少なくなってきた。
花は生鮮品だから、まさか遠くから仕入れることはないだろうと思い込んでいたのに、現代の知識や技術に基づく流通はずいぶん先へ進んでいて、一般の花屋さんに並ぶ多くの品は県外産だったり海外産だったりするのである。遠くから運搬する化石燃料や梱包資材などのコストや時間を費やして、そのコスト分を私たちが支払う。
どうせお金を払うなら、少しでも地元の品を買った方がいいという気持ちもあって、産直市にも足を向ける。需給関係によって「いけばな」で使える花材も増えている。よい傾向ではあるが、一般的には花屋さんの方が虫の駆除や水揚げなどの下処理が丁寧だ。
生産者の6次産業化も、消費者も大変なのである。