体の使い方 240510
2024/5/11
手習いができていない人が物を作ると、結果が期待できない。それは、料理を考えればすぐわかる。手慣れていない人が初めての料理を作ると、買い出しも、道具立ても、作業順も全部がぎくしゃくしてしまい、キッチンが散らかるばかりだ。勘のいい器用な人はこなせるかもしれないが、それは例外的だ。
手が自由に動かせるようになれば、目で観察することや頭を働かせることに労力を振り向けられる。いけばなをするにおいても、きっと何か鍛えるべきルーティンの動きがあると思う。板前さんが、まな板の前で魚を捌くときの腰の入れ方、包丁を持つ手の引き方を観察してみるといい。それを思うと、私はまだいけばなをするときの体の構えがなっていないようだ。
いけばなは、畳の間で正座してやるものだと思っている人が少なからずいる。松山商業高校の華道部はその通りだ。しかし、私のいけばな教室をはじめ、テーブルを前に立っていける姿勢の方が多くなっている。
体系化されたいけばなの型に対して、いけばなをする体の構え方、使い方はさほど問題にされていないので、少々意識してみたいと思う。
慣れ 240509
2024/5/11
私より6歳下のM.G.さんが病気で逝ってから、もう15年くらい経つだろうか。その1年前に、この歌が一番好きと言って彼女が聴かせてくれたのが、ノラ・ジョーンズの「ドント・ノウ・ホワイ」だった。
2002年のデビューアルバムに収録されたその曲は大ヒットし、その後もノラのアルバムはヒットを放ち続けた。そんなノラが、あるアルバムでスタイルを変えた。それまでのノラはずっとピアノの弾き語りをしてきたのに、そのアルバムではギターを弾いて歌ったのだ。
「慣れたピアノを弾いて歌うと、新しいものが生まれにくい気がしたから、慣れていないギターを弾いて、何か新しいものに出会いたかった」らしい。実際、慣れないギターを弾いてファンを失望させないために、ノラは相当な努力をしたはずだ。
そして、新しいものが生まれた。
昨日と同じことをするのも辛いことはあるだろうが、安心だ。今日と違うことをするのは不安かもしれないけれど、新鮮で楽しい。
慣れは恐い。馴れ馴れしくなったりするのも恐い。初めて会った時のような気持ちで、明日の花と向き合ってみられたらいい。
破調 240508
2024/5/11
1970年代にジェントル・ジャイアントという英国のロック・バンドが、少し活躍した。本国ではどれくらいの人気だったか知らないが、日本ではマニア御用達のバンドで、それを聴いていることを自慢したくても、ほとんど知られていないから話にならなかった。
今は、ダウンロードすれば聴けるが、昔は聴かせたい奴の家へLPレコードを持って行くか、自宅へ呼んで聴かせるしかなかった。互いに手間暇をかけ、リスクを負って友達づきあいをした。
そのバンド・メンバーは、クラシック音楽の演奏や作曲をたしなんでいて、演奏技術に破綻をきたすことが全くなかったかわりに、1曲の中でリズムの切り換えや転調を多用するし、何より特徴的なのが、特にリズムにおいて躓くような部分を挿入しないではいられないという問題児たちだったのである。美しいだけでは済まさないという根性があった。心地よく聴いて寛いでいても、必ずリズムが破調をきたして神経が逆立つというトラップが仕掛けてあるのだった。
そんなのを聴いて育った私だから、いけばなにも、ついつい破調を組み込んでしまうのである。
花材の宝探し 240507
2024/5/11
人にはいろいろな魅力があるように、草木にもそれぞれ魅力がある。何度か付き合っていくうちに、最初にはわからなかった新しい魅力を発見することもできる。
私が好きになっていったのは、リンドウだ。いけばなを始めた頃、まっすぐに長い茎を使いこなすのが厄介だった。思い通りにならないので、嫌いな部類だった。5年経っても、10年経っても好きになれなかった。ところが、15年も経った頃だろうか、どうにかなるという関係を築けていることに気付いた。1本のリンドウを2つに切って使うと、2倍得した気分にもなる。生徒さんたちに仕入れるローテーションの頻度も上がった。
ニューサイランもいい奴だ。昔は形が面白いモンステラの葉の方がずっと好きだったが、今ではニューサイランの方が3倍好きだ。何たって応用力がある。長く真っすぐも使えるし、円のように丸められるし、裏表を使い分けられるし、裂くことだってできる。
初代家元がよく使ったのが椿で、絵も描いておられる。様々に使える万能選手のように言っておられたが、椿がアスリート過ぎて、ボンクラ監督の私の手に余る。
好きな花 240506
2024/5/11
私はヒナゲシが好きだ。マーガレットも好きだし、1本2本の少ない数であればコスモスもいい。殺風景な荒野や河原、断崖などに、そういう茎の細い花がまばらに咲いているという切なさがたまらない。
ところが、そういう花をいけばなに使いたいかといえば、これはもう完全に苦手だ。なぜなら、いけばなで荒野の雰囲気を出すのが難しいからだ。いけばなで、花を野にあるようにいけるのは大変難しい。かといって、野でヒナゲシをいけるかというと、野にあるヒナゲシをわざわざ切ってその現場で使うくらいなら、切らずにそこにいさせてやりたい。
そんなわけで、私の場合は好きな花と、いけたい花とが一致しない。
もう少し説明を繰り返す。ヒナゲシならヒナゲシを切り取って屋内に持ち帰るとしよう。その花を、さきほど野にあったとき以上に儚く美しく寂しげにいけられる見込みが薄いのなら(切り取った責任を果たせないのなら)、雨も降る風も吹く彼らのいた場所で、彼らの人生を全うさせてやりたい気持ちなのだ。
いけばなを行うシチュエーションと花との組み合わせは、とても大事な作業なのだ。