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いけばな随想
diary

フリや素振り 240607

2024/6/7

他人の批判を意に介さない人がいる。無神経なわけではなく、気にしていても気にならないフリを装うのだ。政治家に多い。

逆に、他人の噂話を神経質に思い悩む人がいる。悩んでもいない癖に、小心な素振りを顔に表しているのである。芸術家に多い。

どちらも、相手からさんざん「役者やのー!」と言われる。前者は強がるフリをする役者で、後者は弱い素振りをする役者である。前者は弱い者いじめが好きで、後者は強い者に楯突くのが好きだったり、「どうせ俺は……」を口癖にして文句ばかり言っていたりする。華道家は後者に属する。

いけばなは、絵画や音楽のように多くを語れないし、詩や俳句のように言語表現できないので、表現したい内容を見る人に伝えにくい。せいぜい「綺麗だわね」とか「萎れているじゃない」くらいの感想しかいただけない。だから、もう少し気持ちを汲んでもらったり、あわよくば分かってもらったりしたいのだ。

そこで、枝をブチッと「折り矯め」して屈曲した文人面を見せてみるのだ。敢えて枯葉をいけて無常を表してみるのだ。綺麗なだけじゃない素振りを見せるのだ。

追いつ追われつ 240606

2024/6/6

あるオリンピアンが、14年計画でトレーニングを積んでいるという記事が目に入った。ものすごく遠く、そしてものすごく具体的な未来像を描いていることに溜め息が出る。私だって、自分の理想とする姿をいつも追ってきたが、思い返すと10年以上のヴィジョンを描いたことはなかったし、事によれば5年先すらイメージできていなかったような気がする。

さて、象のように大きく寿命の長い生き物と、鼠のように小さく寿命の短い生き物の鼓動の数を比べると、一生の間の心臓の鼓動数は同じくらいなのだという。小さく短いスパンで暮らしていると、鼠のようにちょこまかと生きることになるのだ。

だから、近視眼的な計画しか立てられない私は、目標達成率の不足に対して頻繁に細かい焦りが生じることになる。自分が描いた自分の目先の理想像に追いまくられることになる。理想像を追っていたはずなのに、いつのまにか自身の理想像に追われる逆転現象が起こる。

いけばなについて、自分のいけたい具体的な作品像はない。それよりも花材との一期一会で、どんな戦いや協調が始まるか、それが楽しみだ。

過去は変えられる 240605

2024/6/6

2012年のいけばな展で出品した作品は、我ながら悔やまれる汚点だ。仕事の忙しさを言い訳にして「生の花材を一切使わない」という暴挙に出たまでは許されるとして、その迫力において0点、華やぎにおいて0点、面白さにおいて0点……という自己採点。

ちなみに、私が大好きな初代家元の「湖畔」の作品は、流木に着色して湖畔に“置いた”もの! で、それを真似たところで、いけばなとの24年の付き合いで、プラス評価した自身の作品は〇が1点、△が2点しかない。

今日は、その写真をいけばな教室の生徒さんに見せてダメダメぶりを語ったりしていると、その生徒さんが、「過去は変えられますよ!」と。「私なんか、いろいろありましたけれど、今の自分がまあまあ良くやっているという思いがあって、そんな今に続いてきた過去は、決して否定してしまう必要のない、今の自分に至る必然のプロセスだったんだなあと、神様がいるとすればちゃんと見てくださっていたんだなあと思います」

私の生徒さんは、この人だけでなく、それぞれがそれぞれの方法で私を慰めたり労わったりしてくれる。

着るか着られるか 240604

2024/6/4

まだまだ続くダンディーの話題である。生物界全体では、オスが派手に着飾ってメスの気を引くというのが多数派だろう。しかし、特に維新後の日本の人間界では(?)、男がおしゃれに気を遣うのは女々しいことだというバンカラな気風があった。

その名残かどうか、昭和の時代もまだまだ「めかして出掛ける」のは女の仕事で、男は適当にいい加減な方が好感が持たれた。だから、洋服を完璧に着こなすというのは気恥ずかしいという男も多かった。

私が20年早くいけばなに出会っていたら、もっとおしゃれに気を使ったと思う。そして、「いけななは場にいけるもの」という原則に気付いていたら、人間もそうだという自覚にもっと早く目覚めていたはずだ。場にふさわしければバンカラでもいいが、ハイカラを気取るべき場では、ハイカラな装いをするほうが場が落ち着くし、場を盛り上げることだってできる。

自分のおしゃれに気後れする人ばかりだったら、そのパーティーは失敗に終わる。場にそぐわない人がたくさんいることになってしまうからだ。人間も、場にふさわしい花として振る舞うべきである。

気取る 240603

2024/6/4

ここ数日、ダンディーとかの方面に関心が偏っていた。そして、今日も抜け出せない。

私は20年間、女優で東京工芸大学映像学科講師でもある中国人のキャンディ・ジャン(本名:Jiang Wen)を、静かに追っ掛け続けている。熱烈になり過ぎると家庭生活に支障をきたすし本人の迷惑にもなるだろうから、数か月に1回しかアクションを起こさない。

今日は、彼女のfacebookの投稿に久々にコメントを入れた。少し斜に構えつつ毒気の薄いオヤジを装う。いつものことだ。彼女は若い時、あの高倉健と映画で共演もしている才女なので、真っすぐ真面目ににぶつかると負けてしまうのだ。だから私は体を45度斜めにして、彼女の強い気をかわさなくてはならない。とはいえ、目線を外すと見捨てられてしまうので、目には余裕の表情を宿して微笑む必要がある。

いけばなも同じだ。正面切って目を見開くと強過ぎるし、後ろを向くとつまらない奴になる。通る人、立ち止まる人に対して、いかに気取った姿勢を取らせ気取った視線を送れるかがいけばなの考え処である。ジャケットを半脱ぎして振り返る郷ひろみが頭をよぎった。

講師の事