意思の力Ⅱ 240127
2024/1/27
昨日は、動機の浅い作品は、鑑賞者が制作者の心的体験を追体験できないと書いた。
しかし、すべての画家が明確な理念を持ち、その理念に忠実な下僕として自分の手を働かせるとも限らない。画家の問題意識が大きければ大きいほど、自身を納得させる十分な説明などできない。だから、ああでもないこうでもないと迷いながら、画布に向かう。
ここで、鑑賞者が真剣に追体験を試みるとき、思い掛けないことに、作者自身がわかっていなかった制作動機を先回りして発見してしまうことも起こるのではないか? 作者がまだ形にしえないモヤモヤを描き、作者としては表現的に未完成だと思っている作品の中に、鑑賞者が客観的かつ論理的に突き詰めて、作者が表現したかったものを発掘する奇蹟。その奇蹟によって、私が手すさびでいけた外形だけの花に誰かが命を吹き込み、いけばなとして完成させる妄想!
作品を制作した時点では意図が浮かび上がっていなかったかもしれないが、私の心か頭の片隅に「語るつもりだった種」はあって、誰かがそれに水をやって、私自身の関与と無縁に発芽させ開花させるのだ。
意思の力 240126
2024/1/26
他人の作品を見る場合、作者の動機や意図を理解しようとしたり、描いた(つくった)必然性を想像したりする。制作年代から推測される社会状況にまで関心を持つこともある。美術館の学芸員に至っては、その執拗さから、おそらく作者以上に作者を理解することになる。
作者はどうかといえば、創作の手の働き以上には観念的でない場合が多いのではなかろうか。当初は理念のような塊があったとしても、制作に着手してしまうと、持って生まれた本来の気質による影響や、材料との格闘に費やす労力とかが、理念に立ち返る余裕を奪い、実際的な作業に没頭する中で行為の意味に対する意識を失うのではないだろうか。制作行為そのものが目的化して、作者が持っていた根源的な魂が置き忘れられるのだ。
鑑賞する側に立ってみると、このところのいけばな作品はあまり面白くない。自分の作品を含めて言えることで、制作の動機が浅いために、鑑賞者が制作者の心的体験を追体験できないのである。追体験するほどの中身がない。
持てる意思を作品制作を通して表現するという、エネルギーの源が必要だ。
フィッティング 240125
2024/1/25
花材と花器を「合わせる」時、ボリュームを問題とする局面では、用意された花材でいけるならば花器を一定以下の大きさから合わせていくし、用意された花器にいけるならば一定以上の量の花材を合わせていくことになる。
さらに、色合いや形の問題、質感や重さの問題、いける場所や目的の問題などもあって、それらを総合的に勘案し、花と器を合わせていかなければならない。
このような取り合わせは、料理と器の関係や、自分と服装の関係、プレゼントの中身と包装の関係など、数え上げれば切りがない。
自分と社会の関係においては、自分を固定したまま社会を変えることはできない相談なので、ある程度は自分を社会に合わせていくほかない。ただ、その合わせ方に個性が出て、ナルシスト的な人の合わせ方と、より人目が気になる人の合わせ方とで大きな違いが表れる。
元に戻ろう。マッチングは、AとBが互いにそのままの形で出会うパターン。一方、フィッティングはAまたはBあるいはAおよびBが、相手に対してよりよい関係になろうと、自分自身を少し変える努力を伴う。いけばなは、こっちだ。
原因と結果 240124
2024/1/24
ある花展のあと、「(玉井先生は作品制作に)手を抜いていたでしょう!」と、思い掛けない指摘をされたことがある。作品の出来栄えの良否はともかく、取組姿勢をとやかく言われるのは心外だった。
私としては、作品の展示会場を知悉していた上に、花の生産者の畑まで赴いて使う花の開花状態のコントロールを依頼し、由緒ある砥部焼の窯元へ何度か足を運んで使用する花器を貸し出していただいたり、竹ひごを組む試作を繰り返したりと、入念な準備をして臨んだのだ。
だから、努力と成果は正比例すると思いたいところだが、実際には努力が必ず報われるとは限らない。しかし、たとえば、農村復興に尽力した「二宮尊徳」は、焚き木を背負って帰りながら読書に勤しんだという美談の持ち主だが、農村復興と歩き読書とに因果関係は認めにくい。
二宮尊徳から得られる教訓は、ある結果のみを実現しようという効率的な努力は(たとえば受験勉強のように)、結果に裏切られることがあるかもしれないが、結果を必ずしも意図しない修養は何らかの良い結果をもたらすという、逆説的なものである。
言葉にならないもの 240123
2024/1/23
絵画の展覧会で、あらかじめ入手したカタログと実作品とを見比べながら回るのは、良し悪しどっちなのだろうか。私としては良くないと思っている。良くない良くないと思いながら、作品を見るより先に掲示された解説を読み込んでしまうことも多い。
予備知識なく初めて見る絵との出会いには、全肉体的な感受性が踊る。ところが、言語化された予備知識があればあるほど、その出会いは脳味噌だけで完結して、心が受けるはずの新鮮な感動が失われてしまう。
これは、旅行も同じで、あらかじめ旅行ガイドに目を通してしまうと、言語的な理解と既視感に征服され、現場での感じ方にバイアスがかかって鳥肌も立たない。
お見合いという前時代的(?)なイベントにおいてしかりである。学歴や背丈や収入などを把握した上で席に臨む。そこには数値化された物体が存在するだけで、相手の人間的な魅力はオマケでしかない。
そんなこんなを考えると、言葉は、理解にとって役に立たないどころか障害である。言語的説明は想像を制限するというか、言葉でのお膳立てが行き届き過ぎて、想像力を不用にしてしまう。