和の空間 240122
2024/1/22
実家を改造して、いけばな教室にした。せっかくなので、和室を残してある。
世を去る数年前、父自身が仏壇を買い換えて、何を思ったかそれを床の間いっぱいにでんと据えていた。だから、和室があっても、花を飾る場所はなかった。
教室を始めて数年後、床の間の横の押入れを抜き、仏壇をそちらに移した。仏壇の底が擦れて、床の間の板が傷だらけだが、もうしばらく我慢する。襖と障子も張り替えた。襖は張り方が引きつっていたからか骨組が変形して、閉めても少し隙間ができる。障子は張るときに手こずっただけあって、早くも剝がれや破れが生じている。あまり目立っていないので、もうしばらくは頑張ってもらう。張り替えてもらった畳はまだ新しい。
思えば、教室に縁側と土間がないのが悔しい。どちらも、家の外であり且つ内でもある。日本人は白黒はっきりさせられないと言われるが、それは違う。意図的に白黒はっきりさせていないことを、欧米人が分かってくれないだけだ。
閉じた室内で、野にあるように花をいけるのは不自然だが、縁側や土間でならば、それもありえるかもしれない。
巧まざること 240121
2024/1/21
私は長きにわたって、人前で話しをする機会が多かった。しかし、上手くはならない。青年になって、子供の頃より上手くなったかといえば、技巧的になり過ぎて却ってつまらない話しになっていたように思う。30歳代は一番脂が乗っていたけれど、視野が狭く独りよがりが強かったため、成長は小さかった。40代は迷いが生じてノリが悪く、50代は下手な話しに恥も照れもなく学生相手に精出してしゃべった。60代で、話しのネタの仕入れも減り、自分の下り坂を自覚した。
まあ、何十年も話しをし続け、ついに上達しなかったというのは、よく言えばこれこそ達人の域に達したとでもいうような、いい感じのボケっぷりであろう。『老子』に、「大巧は拙なるが如し」という教えもあるくらいだし。
人間の価値観が歴史と共に大いに変わり続けてきたのが事実なら、人間が表現する内容や方法も大いに変わっていいはずである。美醜や善悪が、真反対に入れ替わったりするのだから。
とすれば、自然に振る舞うことを徹底し、巧まざる表現に終始していたら、ほどほど面白いものが出来上がるかもしれない。
サイン 240120
2024/1/20
野球の試合でコーチがバッターに出すサインではない。画家が作品に記したり、ファンの差し出す写真集にタレントが書いてあげたりするサインのことだ。私自身、自意識が過剰だった頃は、雅号の「汀州」のサインを無駄に練習したりもした。
いけばな展では、席札と呼ぶ流派・資格・雅号・花材が表記されたカードを付すが、作家のサインは見当たらない。サインというのは、誰かが有難がってくれて初めて価値を持つので、欲しい人がいない作家は自分のサインを練習する価値すらないという、経済の需給関係がここでも成り立っている。
しかし、一方で、アンディ・ウォーホールやキース・ヘリングのように、作家のサインがなくてもそれとわかるような個性的な作品を生み出す作家もいる。日本の歌謡界でも、その声だけで誰が歌っているかすぐに分かる個性的な歌手は多い。
ともかく、今のところ、私のいけばな作品だけでは、それが私の作品だとは誰も気付いてくれないし、仮にわかったとしても、じゃあそれを買ってあげようということにもならない。つくづく、やっかいな道に入り込んだものだと思う。
名前 240119
2024/1/19
私の本名は玉井道雄である。過去には、タマ(あだ名)、トム(ニックネーム)と呼ばれたり、玉井万作(芸名)や黒崎祐輔(ペンネーム)を名乗ったりした。今は玉井汀州(雅号)で世を渡る。
大学生の頃、東京の明大前の小劇場で公演(演劇サークルに所属して、当時は万作だった)したとき、近所の寿司屋から小説家の北杜夫さんが酔っ払って出て来られた。私は咄嗟にハンカチを出して「サインください!」。北さんは書生に肩を支えられて、グダグダの文字でサインしてくれた。ギリギリ読めた。
世には、商売上の源氏名を持っている女性も大勢いる。半分くらいは直筆で書いた名刺をくれる。書き慣れていて、みんな達筆だ。そして、最後まで本名を知らないまま出会わなくなってしまうのが、謎めいていていい。
四股名やリングネームを名乗るアスリートもいる。力士の名前に「海」や「山」が多いのは、見ている当方としても納得できるお似合いの名前だ。本人としても、相手を吞み込んでしまう大きさや、どっしりと地に着いた強さにあやかりたい気持ちがあるのだろう。
私はどんな汀州を目指そうか?
趣味 240118
2024/1/18
「あなたの趣味は何ですか?」と聞いて、即座に答えられる人は多くない。そして、考えあぐねた末にかぼそい声で「読書」と答えられると、私は少し寂しい。その答えを聞いても、相手にもう一歩近付くヒントにならないからだ。
それでもし、「どんなジャンルや作家の本を読むんですか?」などという質問を畳みかけてはいけない。苦し紛れに「読書」と言った向こうは答えに詰まるし、逆に私の知らない現代作家の名前など出されたときには、聞いた私が苦しまなければならないからだ。
だから、相手に期待する答えは、たとえばこうだ。「私、何よりホラーが大好きなんですよね……ウッフッフ」と周囲を気遣いながら声を押し殺して言ってくれると、こちらも「いやあ、なるほど。貴女も月夜がお好きですか? 月夜にウチの黒猫は、屋根裏でぴちゃぴちゃミルクを舐めているみたいでね」と、私も夜通し眠らないことを話せる。
では、「趣味が悪い」というときの趣味とは何であるか? 「私の趣味はいけばな」ということとは全く違って、「気質やセンス」の問題だろうから、よほど気を付けなければならない。