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いけばな随想
diary

草月カリキュラムの旅 240829

2024/8/29

草月を習うカリキュラムは、私たちが人生で旅をするパターンに似ている。少年期は家の近所を走り回り、青年期に遠くを旅するようになり、壮年期には足跡を振り返り遠近取り混ぜて自己体験を総合する。

草月のカリキュラムは、テキスト1・2が少年期に相当する。型を学んで「いけばな世界」の骨格部分を身に付ける。テキスト3・4は青年期だ。人生のビジョンを立てられるよう、多彩な展開のしかたを学ぶ。テキスト5で、これまでのキャリアを総動員して基本型や応用型を咀嚼し直し、理解を深め、他人に伝えるための言葉と技を定着させる。

また、テキスト1・2の段階は一方的に教えられる立場。テキスト3・4の段階は花材と自分の1対1の対話が深められ、テキスト5は習い合う段階というか、教えあう段階というか、花と人・人と人・人と空間などの多元的関係になる。

そして、テキストをマスターした先には、その時どきに思うようにいけても、ちゃんと自他を幸せにする花がいけられているという具合である。そのレベルに達したとき、人生においても同様で、思うように生きることができる。

ストレス 240828

2024/8/28

ストレス解消は対症療法的措置であって、ストレスをなくしてしまうことには繋がらない。モノの本によれば、地球上で暮らす以上、人間は重力のストレスを常に受けているのだとか、口腔器官の摩擦というストレスなしには発声も会話もなしえないとか、それはその通りかもしれない。しかし、本人がストレスを感じているかどうかが問題で、いまは物理的ストレスは除外しておこう。

要は、スッキリしたいという心理的な話である。

ストレスを解消する方法には、旅をする、美味しいものを食べる、酒を飲む等々いろいろあるが、いけばなを教える立場の私にとっては、いけばなではストレス解消にならない。純粋な趣味ではなく、半分仕事になっているからだ。

ところが、ストレスを忘れることはできないとわかった上で花をいけて、終わってみたらリフレッシュされていることは多い。無心に作業をする、たとえば庭木の剪定を始めてやめられなくなる、引き込まれる本に出会って読書に没頭する、そんなとき私は自然にリフレッシュしているものの、肩が凝り目が乾燥して痛いという不用なオマケが付いてくる。

背徳的 240827

2024/8/27

その感覚を初めて覚えたのは、『ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ監督)』を観たときではなかったか。美に憧れ、美に翻弄され、ついに美を失って(自分も失って)しまう主人公を、理解できなかったが感応してしまった。18歳前後のことだ。

私がいけばなを始めて、同門の学芸員を訪ねて高畠華宵大正ロマン館に行ったとき、館長が「爛れた美」という言葉をしきりに強調した際、私は「退廃的」という言葉で応戦したように思う。40歳頃のことだ。私は精神的な成長が遅かったので(最近、同級生と話をすることが多く、少年時代のことがよくわかってきた)、どうやら40歳の頃に第二次成長期を迎えたようだ。

しかし、アンチ・ジャイアンツの気質はかなり幼いころから持っていたようで、それがぐいぐい成長したのも40歳の頃だ。そして、マイナーに惹かれながらもメジャーを捨てられない自分の殻を脱ぎ、マイナーな立場を築きながらメジャーを演じる技を磨き始めた。

メジャーを良しとしながらマイナーを夢想するのと、マイナーでありながらメジャーを装うのと、どちらが背徳的だろうか。

理想の危険 240826

2024/8/26

私はアナーキストではない。しかし、理想への追求心が激しい人の危険さを知っている。私は若いころ政治家になろうと激情的に思い、23歳で衆議院議員の秘書になったから、それがどんな衝突や不幸を招くか知っている。

だから、今は半分だけ理想を追いながら、半分は現実に甘んじている。そんな態度では芸術家などにはなれないことは分かっている。芸術家は、あるときは全身全霊で理想を追い、あるときは全身全霊で世俗にまみれるものだから。それを世間から眺めると、なんて愚かなことを! というふうに映るのだろう。理想を追っている量は、芸術家も凡人も等しいことに気付かずに。

理想を追う者は、時にヒステリックだ。だから、ヒステリックないけばなも出現する。交響楽的に構成されたいけばなは、時にフォルテシモが強過ぎてヒステリックになるし、ソロで構成されたシンプルないけばなも、シャウトし過ぎるとヒステリックだ。

一流レストランの料理人のように、穏やかな変化と強弱で統一感あるコース料理を提供できるといいのだが、自我の理想に過剰に燃える表現をすると、観客が困る。

沈黙の表現 240825

2024/8/26

無声映画と呼ばれる芸術は、「無言無音で語る!?」ことで観衆の目に訴える技術を磨き上げた。チャーリー・チャップリンはその代表格で、数多くの名作を通して喜劇王とも呼ばれた。しかし、私の中では喜劇性よりも攻撃性を強く感じてきたので、冷静な激情王と呼びたい。

それはさておき、無声映画はセリフがないため、喜怒哀楽は文字通り体現するしかない。基本的には、パントマイムをデフォルメしなければ伝わりにくい。大道具・小道具も大いに助けとなるし、1人芝居ではないので共演者の演技力もそれを助ける。

しかし、難しいのが、小さくさりげない喜怒哀楽の表現だ。演劇部員だった経験から言えば、食事中にちょっと咳き込むとか、仕事中に不覚にも眠たくなるなど、日常的な何気ない演技ほど難しいものはない。

さて、ジャンルは違えど、いけばなも沈黙の表現だ。生活空間にいけるとき、その存在感が大き過ぎると、デフォルメされた大袈裟な演技と同じようになってしまう。部屋の空間に寄り添うように、静かでさりげない演技が必要となる。それでいて「黙して語らず」ではまずいのだ。

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