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いけばな随想
diary

より近く! 240213

2024/2/15

花を買うとき、産地を聞くことはあまりない。花は基本的に“裸のばら売り”で、スーパーの食材のような産地表示がない。

私がよくお世話になる花屋さんが言うには、「ハウスもので花木を生産する人がどんどん廃業している」ことや、「一旦、大阪の大きい市場に集まって、そこから再び分散して流通する」ことなどから、地元で直接確実に手に入るものが少なくなってきた。

花は生鮮品だから、まさか遠くから仕入れることはないだろうと思い込んでいたのに、現代の知識や技術に基づく流通はずいぶん先へ進んでいて、一般の花屋さんに並ぶ多くの品は県外産だったり海外産だったりするのである。遠くから運搬する化石燃料や梱包資材などのコストや時間を費やして、そのコスト分を私たちが支払う。

どうせお金を払うなら、少しでも地元の品を買った方がいいという気持ちもあって、産直市にも足を向ける。需給関係によって「いけばな」で使える花材も増えている。よい傾向ではあるが、一般的には花屋さんの方が虫の駆除や水揚げなどの下処理が丁寧だ。

生産者の6次産業化も、消費者も大変なのである。

便利さのピーク 240212

2024/2/12

昨日は、9:30にいけばな教室のメンバーで車に相乗りして、砥部焼の創作体験に行き、1時間余りで花器づくりに取り組んだ。12:00から近所のギャラリー・カフェで昼食を楽しみ、徒歩100m先の窯元で13:40までお話しを聞き穴窯も見学した。そして、生徒さんをそれぞれ自宅や交通拠点に降ろし、私はデパートの駐車場に車を入れ、徒歩で愛媛マラソンのゴール地点へ行き、友人と合流したのが14:30。15:10に共通の友人のゴールを見届けた後、デパートで買物をして自宅へ車を置きに帰り、すぐに電車に乗って16:50にマラソンを走った友人の慰労会へ。慰労会後に店を2軒ハシゴして、帰りにコンビニに寄ってアイスを買い、家に着いてアマゾンでCDを注文してから25:00に寝た。

まどろっこしい字数を費やしたが、自分の体内感覚としては、本当に短時間であちこち移動して、いろいろな予定がスルスルと完結していくのが気持ちよかった。

便利でありがたい世の中だが、宅配業者やコンビニ店員をはじめ、便利さのサービスを提供する人たちの努力は限界点だと思った。

より時間をかけて 240211

2024/2/11

私は1960~70年代に少年期を過ごした。高度成長期の真っ只中では何事もより早くという風潮で、身の回りは様々な競争に明け暮れていた。

一方で茶華道を習う人も多く、教室の看板が至る所に見受けられた。私も8~15歳は書道教室に通った。縁側に吊るした鳥籠の一羽の黄色いカナリヤが、庭の松の木に向かって甲高く鳴いていた。襖を隔てた隣の座敷は琴の教室で、爪弾く音はいつも聞こえていたが、どんな人たちが習っているのか声は聞こえないし、ついに一度も顔を見たことがない。

街なかにありながら、喧騒から隔てられ香を焚きしめたその屋敷は、思えば少年の私にとって竜宮城のように別世界だった。当時は、すべてがより早く動いていたわけではない。反対側でちゃんと釣り合いをとり、しっかり時間をかけるというバランス感覚も世間に働いていたのではなかろうか。

しかし、その教室を一歩出ると、2,3軒隣に「科学教材」という店があり、いつも目新しい教材や玩具を扱っていたので、帰りに必ず立ち寄り、ミニチュアカメラや素敵な星座盤などに目が眩んで、小遣いをはたいていた。

有限世界 240210

2024/2/10

時間はずっと未来へ続く。空間は宇宙の果てまで続く。無限の時間と空間が、我々を取り巻いている。これは、科学的根拠に基づくものではなく、私の感覚的な印象だった。

「だった」と言うからには、今はそう思ってはいない。来世を具体的にイメージできない以上、私の人生の時間はいずれプッツリと途切れて終わる。また、月世界旅行を夢見た少年だった私は、もうそれを夢見ていないから、私の空間世界は地球上に限られて、水深3メートル、標高2000メートルくらいの範囲に収まることを自覚した。

資本主義のグローバリズムもやっと限界を自覚したようで、有限空間においてなぜ成長発展を当然のことと言い張ってこられたのか不思議でしょうがない。時間にしても、個体においては有限だし、株式会社にしても今や誰も無限に続くなどとは思っていない。

いけばなは、「切りを付ける」トレーニングに向いている。花材購入にも季節的・産地的制限があって、いけ終わった途端に枯れ始める。時間は留まってくれない。法人だったとしても、どんなにあがいたところで、人と同じように死ぬときは死ぬ。

花材の平等 240209

2024/2/9

小学校の時、社会科の教科書に「発展」「成長」の言葉が見つかるたびに、違和感を覚えていた私。誰かが「得した」と言っているのを聞くたびに、どこかの誰かが損をしていることを想像していた私。

そんな違和感は消えることなく、大人になってからは、政治経済の不平等に対してもっと敏感になった。マネーゲームに対する嫌悪感と興味が入り交じり、マイナス残高が記帳された銀行通帳を眺めて悶える若い日々もあった。

私は悪人として大成功するタマではないので、それなら善人でありたいと思う。人の気質は人格と密接な関係だろうし、他人を優劣で評価して見下すようなマネを、花材に対してもしたくないと思う。

稽古の花材を自分で1本1本選ぶとき、生徒さんに対してこの枝の広がりはどうか? というような適性の視点で選んでいる。時々は花の種類だけ注文して、あとは花屋さん任せのときもある。そんなとき、枝ぶりや花の付きが悪いとかいうことは、一切言わないよう心掛けている。

むしろ、花はどれも個性的で可愛げがある。「発展」「成長」とは無縁の世界で暮らせるひとときである。

講師の事