花の贅沢 250523
2025/5/24
花は野菜の親戚である。作るのは農家さんだし、それぞれ旬があるのも同じだし、ビニールハウスで栽培するなどしてある程度は通年で生産できるのも似ているし、流通の発達によって気候の違う場所で栽培されたものを持ってくることもできる。これをつまらんと感じるか、贅沢だと感じるか。
花は野菜の遠い友人だ。野菜は買ってきて冷蔵庫の野菜室に入れておけば数日間は食べられる。花は野菜と仲良しみたいな顔をしていながら、家庭の冷蔵庫には入らない。ジャガイモやミカンみたいに放ってもおけない。だからちょっと余分に花を買ったとき、もったいないからストックしとこうという作戦が取れない。持ち帰ったら即いけるのが鉄則で、花束をもらっても悠長に眺めていないでサッと花瓶にいけよう。
花は野菜とは他人かもしれない。何より調理できない。刻んだとしても炒めたり茹でたりできないし、醤油や塩との相性も悪い。
切り花の一生はとても短い。品種によってはパッと咲いて翌日にはしぼんだりする。見ているその日のうちに散り始めたりする。見るだけなので、カロリーも一方的に消費する。
裏道 250522
2025/5/22
「いけばな、いつからやってるの」と聞かれて、いつも微妙な気持ちになる。
そこもダメ、あそこもダメで、辛うじて拾われた職場で就職したからには頑張ってみた。でもうまくいかなかったから転職した。いちばん長続きした仕事は18年と8ヶ月。そんな人生だったから、いけばな歴25年は自分でも感心している。長いといえば長い。でも50年やり続けている人に比べると、たった半分だ。自信満々に25年と言うのもこっぱずかしいし、まだまだ駆け出しですよと謙遜するのも嫌らしい、中途半端な年頃である。
私は40歳で横道からいけばなの道に入った。入ってからも裏道をしばらく歩いてきたように思う。目的意識を持って計画的に参入したのではないし、既に中年に差し掛かっていたのでモノの見方には癖があった。だから、どうしても斜に構えていた。ボクハホカノヒトトチガウノデスという過剰な意識を密かに抱いて、木々が生い茂って昼間でも暗い誰も知らない裏道を、忍び足で歩いてきたのだ。
目下の課題は、肩の力を完全に抜くこと。花や花器へのこだわりもなくし、道の裏表もなくすこと。
不味い花 250521
2025/5/22
18歳の頃から外食は多い。その私が言うのだから信じてもらう。とても美味しい店と不味い店が少しあって、残りは全部普通に美味しい店である。
考えてみれば当然で、調理が上手いから飲食店を開く。ハサミが得意だから床屋になる。運転が上手いからバスやタクシーを運転する。歌やギターが得意だから歌手になる。まあ、逆のパターンもなくはない。その職業に就いたからこそ腕前が上がるという、努力家型のパターンだ。しかし、ハサミ使いが苦手な床屋、運転が下手な運転手、音痴な歌手などと同様、調理の下手な味オンチの料理人はいただけない。
昨晩、不味すぎる店に大当たりしてしまった。妻はもともと料理学校の校長で、料理の見かけにも味にもうるさい。不味そうに見える料理が美味いはずがないという持論があるし、不味い店は外観だけでもすぐ分かると豪語する。それが体調不良のため感覚が働かず、うっかり入った店が最悪だったというわけだ。
天ぷら盛合せのヒドい姿を拝みながら、話題はヒドいいけばなという話になった。いけばなは幸いにも食べ物ではないから許す、とのことである。
感動への禁断症状 250520
2025/5/20
SNSでスタンプを使用することに対して、私なりのこだわりがあってずっと抵抗している。それを使うと、自分の共感力が失われていくような気がするからだ。いいねを押すことにも抵抗があったが、今では抵抗感が薄れてどうでもよくなったというのが正直なところ。ともかく、現代のコミュニケーションツールを積極的に使えなくてごめんなさい。
そして、ニューメディア・アートと言うのだろうか、プロジェクション・マッピングやドローンによる夜空のアートとかも苦手な部類だ。雰囲気は受け取れても、ストーリーの表現としては共感できないから。
テレビの「食レポ」も嫌いだ。食べ物を口に運んで、1秒で美味しさがわかるとは思えないからだ。絵を観て、音楽を聴いて、1秒で素晴らしいと消化できるわけがない。臍曲がりの私の実感である。
先日、小椋佳のコンサートでは感動した。彼くらいのキャリアを経ると繊細な技術はもう不要で、思いのままに喉を鳴らせば、聴く方も耳で聴くというより音圧を体で受け止めるような聴き方ができる。ひとことで、いいね、と済ませない迫力があるんだよね。
理解力 250519
2025/5/19
分かりやすく言おうとすると、尾ひれを端折って簡単な言い回しになる。端的になればいいのに単純なだけの表現になってしまい、結局は真意が伝わらない。
私は、鮮やかでなく大きくない花の方に好みが傾いている。これは、鮮やかで大きい花は好みではないと言っているのとは違う。「玉井くんはなぜ私に冷たいの?」と聞かれて困るのは、私は誰にでも温かくはないというだけのことだからだ。「政治家はなぜみんな嘘をつくの?」と聞かれたら、どんな属性を見ても常に本当のことだけしかしゃべらない人に出会ったことはないしさ、こう返すしかない。
いけばなの良し悪しも単純ではない。論理だてて説明しても納得は得られまい。百聞は一見に如かずとか虎穴に入らずんば虎子を得ずというような、その人が直接的な体験を伴わない限り理解できないものが世の中には多い。
いけばなには厳正なルールブックというものがない。ガイドラインを示すためのテキストはある。修行がランクアップするにつれてテキストの行間を読めるようになってきて、同じ1冊から教えられる質と量も大きくなるというものだ。