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いけばな随想
diary

ナンセンス 251003

2025/10/3

 意味があるようで意味がない、これがいけばなの正体である。敢えていけばなに意味を持たせようと思ったら、何をどうすればいいか無駄に考えてみた。
 手始めに花言葉を復権させる。赤いバラには強い恋愛感情を表す意味が込められている。ヒガンバナには「I miss you」と愛情の対象を失った感情があてられる。花と花言葉とがもっと強力に結び付いたら、バラはもっと徹底的にカルメンを演じてくれるかもしれないし、ヒガンバナは黒衣の未亡人のはまり役かもしれない。ちなみに、オペラの原作でカルメンが投げた花はカッシアという黄色い花で、その後の演出家が情熱をより強く表現するために赤バラをカルメンに咥えさせたのが端緒らしい。
 そのように、いけばなを1つの舞台として、花材を俳優として演出すれば、オペラ「カルメン」の幕開きである。しかし、俳優全員が無言劇を演じる舞台なので、無声映画のようにオーケストラの演奏が付いたり、弁士が代役で下手なセリフを語ったりしなければ、観客には何のことやらさっぱりわからないだろう。
 花言葉の復権くらいでは、どうしようもなさそうだ。

アドリブ 251002

2025/10/2

 私はジャズが好きだ。歳を取れば取るほど好きになる。スタンダードな演奏も嫌いじゃないが、個性的なアドリブがツボにはまった演奏には心が躍る。
 言ってみれば、いけばなの型は楽譜に相当する。いけばなの花材は音符であり、各パートだ。テキストに掲載された型の写真通りに花をいけたら完成度の高い作品が出来上がるし、アドリブがうまくいけば万々歳である。またそれは、料理のレシピに相当する。レシピに一工夫してもっと美味しくなったら、これはもう満面笑みである。
 しかし待てよ? レシピ通りの料理を、本当に厳密に作れるのか? 楽譜通りの演奏を本当に正確に再現できるのか? 型通りの花を本当に写真通りにいけられるのか? ほとんど無理な注文であることに、やっと気付く私であった。
 ということは、楽譜やレシピや型というのは1つの指標であって、演奏や調理やいけばなは、どんなに指標を再現しようと思っても、取り組んだ人の数だけ微妙に異なった結果が生まれるのだ。没個性的に演奏しようという方が無理で、大なり小なり、みんなアドリブを利かせているというところだろう。

猫と花 251001

2025/10/1

 宇宙や深海に向けて、現実空間に対する人類のアプローチはどんどん範囲を広げ、未知の世界は減り続けている。子どもの頃は洞窟探検に憧れがあって、映画では人体内探検の『ミクロの決死圏』に食い付いたが、自分の身体や心理については大人になっても全然理解が深まらない。
 最近、心が乱れることが多く、呼吸を整えようといろいろ試している。背伸び、深呼吸、暴食、深酒、散歩、猫の相手などをしてみて、いちばん落ち着いたのが猫の相手だ。
 心が乱れている時に、いけばなは良くない。植物は泣いたり怒ったりしないから、彼ら花の声を聞くことなく人間の私の意思が強く出てしまい、自己表現することを優先してしまう。ところが、猫が相手の場合はそうはいかない。私がこちらのペースで対峙しても、向こうは絶対に合わせようとしてくれない。背後から恐る恐る距離を縮めて、尻尾の様子などからご機嫌を窺う必要がある。
 そうして、声なき猫の声を聴き、私を同期させる気持ちで佇んでいると、私の呼吸が落ち着いてくるのだった。猫を通して自分に聞き耳を立てるような感じと言っていいだろう。

頭の中のいけばな 250930

2025/9/30

 頭の中に枯れた立木が1本、思い浮かんだ。頭と心が暇だったので、それを使ったイメージトレーニングを始めることにした。
 それは枯れたまま根を張っている。私はそれを動かさず、頭の中で「エアいけばな」を行う。イメージした季節は初冬で、駅裏再開発で造成工事が進む殺伐とした更地の片隅だ。そこに1本、暗褐色の幹を晒す姿は、美しいとは言い難いけれど、放っておけない寂しい魅力があった。
 枝分かれした大枝とたくさんの小枝を持つその木を、大地から引き抜くつもりはない。いっそのこと、その木を花器と見なしていけてみようと思う。そのへんに転がっている、剥がしたアスファルトの破片や事務机の残骸に混じって、誰かがオフィスで毎朝使っていたコーヒーカップやスプーンもある。そんな雑多な物たちを搔き集めて、枯れた立木に組み込んでいく。クリスマスツリーのように飾りをぶら下げるのではなく、作品の一部としてしっかり組み上げていく。その木が、小さなオフィスビルの裏庭の木だったことがわかってくる。
 私は最後に、何本かの枝先だけ残して、ほぼ全体を包帯で巻き覆った。

曼殊沙華 250929

2025/9/29

 30年くらい前、松山市窪野町の奥の方まで行って、曼殊沙華が咲き乱れた風景に息を吞んだことがある。耕作放棄で雑草やススキが生い茂った畑地を、畦に沿っているのだろうか何重にも折り重なるように真っ赤な花が行列をなしていて、それ自体が葬列のように見えた。せり上がっていく草地の向こうには、住居か納屋の朽ちた板壁と屋根瓦とが見え、薄い雲がかかった遠方には皿ケ峰に続く山が壁のように据わっていた。黒澤明監督の映画のロケができると思った。
 数年後に行くと、区画整理で一帯が明るく整い曼殊沙華の本数も減っていて、そこで暮らすのではない私にとっては写真に撮るほどの興味が湧かない光景だった。
 たいてい「ヒガンバナ」として売られているが、先日JAの直売所では「リコリス」だった。「リコリス」の名では陰のある美しさのイメージとかけ離れてしまう。
 その赤い「リコリス」は、家の花瓶に真っ赤なケイトウと一緒に挿していて、蕾だったものは翌日から咲き始め、5日目のきのう満開になったものもある。切り花だと早く枯れると思った割には順次咲いて、今日も真っ赤だ。

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