花と猫 250719
2025/7/26
「ペットの〇〇がいるから辛い仕事も頑張れる」と聞いて、自分も猫を飼っているからその気持ちがわからないではない。猫好きが嵩じると、「猫を飼う」とか「餌をやる」という表現に噛みついてくる人もいる。「猫は家族です。食事をあげる、と言ってください」
ペットの飼育は、人間生活の手段よりも目的に近い。ペットのために何かしてやりたいけれど、何かのためにペットを使いたくない。熟年夫婦円満のために使われることも、しばしばあるらしいけれど。
ここに花の好きな人がいる。「私はあのバラが綺麗に咲いてくれることに命を賭けていたの」と言って、バラが枯れると共にあの世へ旅立つ。……そんな人はいないと思う。花も動物も、命あるものとして同じように愛することはできよう。しかし、花には動物のような目鼻口がないし、心臓もないから、動物に対するような思い入れを持つことが難しい。
したがって、「君はバラよりも美しい」という男がいたら、そんなことはわざわざ言わなくても当然なのであって、それくらいにしか言えないよということを暗にほのめかしているのかもしれない。
文人調 250718
2025/7/26
書棚の奥から、『別冊・季刊えひめ(1981年発行)』のコピーが出てきた。もらったのは、霧中居(むちゅうきょ)という焼酎を飲ませる店で、真鍋霧中という遅咲きの画家の名にちなんだ店名だ。その『季刊えひめ』の発行人は故坂本忠士さん(田都画廊経営、シナリオライター)で、私が1979年から数年間大変お世話になった。
さて、酔って歩いて偶然に霧中居に入ったのが、もう20年近く前だろうか。懐かしい空気を感じて長居をさせてもらったのに、数年後に再訪したらもうなかった。
真鍋霧中の絵は、文人画とも呼ばれるように洒脱で余情がある。しかし私は、南画だとか文人画というものに興味がなかった。ところが、いけばなを始めて10年くらい経った頃、小原流のいけばな教本に『文人調いけばな』があることを知らされ、大いに興奮した。何が面白いといって、時代を超越しているセンスである。古めかしいのに新しい。
文人調いけばなは、花器や敷板などの取り合わせも含めて、中国趣味を感じさせる日本的様式で、西洋の人から見ると最も「いけばな的いけばな」に映るかもしれない。
コメント拒否 250717
2025/7/25
いけばなを見た人から、聞きたい言葉はある? または言葉を期待していない? 私は歯切れ悪く、肯定的な言葉が欲しい時と欲しくない時があるし、言葉が欲しい人と欲しくない人がいると答える。また、言葉をかけてもらいたい作品ができた時とそうでない時があるとも。
温泉地の老舗旅館に泊まると、昔はその多くの客室が床の間を備えた和室だった。そして、床の間には軸が掛かり、花がいけてあった。掛軸の達筆も読めないし、たいていは「あ、花がある」と目で見るだけで、心で感じるというところにまでは至らない。旅館の側も控え目にいけてあることが多いし、客としても遠慮がちに「綺麗だね」と軽く満足の意を表すに留める。
しかし、現代の大型高級ホテルのロビーには、かなり主張のあるいけばなが迎え花としていけてある。コメントを求められているような気がして、心の中でいろいろ感じたことをつぶやく。
自分のいけばなのことに戻ると、花をいけて人前に出しておきながら、他人からの言葉を期待しないという態度は良くない。表現(発信)は理解(受信)とセットでなければ意味をなさない。
結局、何がしたい? 250716
2025/7/25
絵描きが羨ましいと思う。作品が売れるから。いけばなは作品として短命だし、梱包しにくく運搬に不向きなので売れない。だから作品で稼ごうという動機が生まれないので、教室を主宰するか、どこかの場所に出向いて装飾するという行為を売ろうと考える。教室へお客様に来ていただいて教えるか、お客様のもとへ馳せ参じてつくり込むか、たいていはこのどちらかが典型的な稼ぎ方だ。
ところが、地方都市の多くのいけばな教授は、それ一本では食っていけない。それで、ボランティアや趣味の部分が、活動のうちの一定割合を占める。
そうすると、私のように退職して年金生活に入った者は、より一層ボランティアや趣味に対する意識が高くなる。そこで、後進のために稼げる立場づくりをしたいものだと、一方では考えてしまうのだ。
私の前々職は、デザイン関係の仕事だった。デザイン業界というのは、一般の人々が思うほど華やかではなかった。業界として成り立ち始めたのはせいぜい1980年代からで、それまでデザイナーの多くは食うや食わずの生活だった。食えない仕事が、いつも私を呼んでいる。
いけばな鑑賞 250715
2025/7/25
私のいけばな歴を振り返って残念なことは、鑑賞に堪えられる作品をつくりえていないことだ。歴代家元の作品は、鑑賞に堪えられるものが多いところに価値がある。
鑑賞する行為を私の基準で勝手に定めると、まず、時間にして3分は見入ること。次に、「ふーむ」とか「うーん」とかの声を伴ってため息を漏らすこと。そして、近付いたり離れたり、また左右から見るなど位置を変えること。最後に、別の作品を見歩いた後もう一度戻ってきて、「うんうん、そうかー」とか何とか心の中に言葉が発せられること。この4つが揃えば、ちゃんと鑑賞したことにしてあげましょう。
いけばな展の会場で眺めていると、目で見ることをほとんどしないで写真に撮ることに忙しい人、歩みを一切止めることなく足早に一瞥していく人、席札の名前と花材の記載だけを念入りに見る人などが少なくない。立ち止まって、作品の裏側まで覗き込んでいるのは、大抵いけばなをやっている同業者だ。
いけばなの宿命は、最終的に空間の一部になることを目指しているので、絵画のように作品そのものを鑑賞しにくいところはある。