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いけばな随想
diary

万花彩 250922

2025/9/22

 きのう百貨店で、陶芸家・葉山有樹氏の“万花彩”に出会った。細長い皿とも細長い水盤ともいえる陶磁器で、遠目には青く、近付けば五彩による華やかな細密画とわかる。日頃接する絵付けを超えて、魔術に近い細かい花で全体が埋め尽くされており、余白が一切ない。
 私は魅入られながら困ってしまった。花をいけることで、何もない空間(余白)をどれだけ大きく取ることができるかということに眼目を置いてきた自分だから。
 一夜明けたきょう、1個のぐい呑みを実家の押入れで発見した。焼酎の店「夢中居」でもらった『別冊・季刊えひめ』のコピーを去る7月18日に見つけていたが、それと一緒にもらったものだ。「夢中居」のオーナー・渡部晃夫さんが、真鍋霧中の揮毫した「夢中摘花則天下文詞無所不知」から「夢中摘花」を選び取り、その4文字が砥部の龍泉窯が焼いた器の腹に浮かぶ。文字のまばらな大小と緩い線、何といっても白磁の朗らかで大きな余白が魅力だ。
 私は2日間で、最も余白がない焼物と最も余白に満ちた焼物に、連続で接してしまった。気持ちの収拾をつけなければならない。

余韻 250921

2025/9/21

 東山魁夷画伯が、自著『日本の美を求めて』の中で、土佐派の絵師・土佐光起の言葉を引用している。「異国の絵は文のごとく、本朝の絵は詩のごとし」「漢画は正なり終なり、真なり実なり」
 これを読んだ画伯は、漢画には一種の執念ともいうべき徹底性と迫真的な写実力があると再認識する。対して日本の絵が持つ「ふんいき」「うるおい」「やわらかみ」「情趣」などが、日本人の好みに適しているのではないかと思う。
 ここで私は、終活の一環で手放した中国の戯画本『西遊記(悟空の妖怪退治)』があったことを思い出した。漫画ながらも、竹ペンで描いたようなモノクロの絵の線が素晴らしく、製本をほどいてバラバラにすれば、全ページが額装に堪える出来映えだった。あの線はしなやかだけど鋼のように硬い芯があり、撥ね・留め・払いなどの部分が、中国徽宗帝(12世紀初め北宋)の文字のように強く神経質だった。
 壮年期までは、ある種の強さが感じられるものに惹かれがちだったが、ここに至って、だいたいぼんやりしたものに惹かれる。視力の衰えに応じた、おぼろげな輪郭や余韻が好ましい。

時間遡行 250920

2025/9/20

 映画『予告された殺人の記録(ガルシア・マルケス原作)』を久しぶりに観た。ここ数日ボルヘスの小説を読んでいたので、2人の南米作家に共通する迷宮的世界にどっぷり浸かった。
 時間に素直に従っていると、1日は24時間でしかない。しかし、昔のことを思い出すなどして時間を遡れば、過ぎる時間と戻る時間がパイ生地のように何重にも重なって、体験的な延べ時間はどんどん長くなる。
 夢見る人を他人が見ても、その夢を体験できないように、いけばなを見て、それをいける人の時間は体験できない。手に取った花があと何日何時間で枯れ始めるか、いける人の意識は必ず未来へ先回りする。流木を使う時は、その流木がどこから流れてきたのか出生を想像する。コスモスなどは、1つの株に蕾もあれば満開もあり、散り始めている花も付いている。花の1輪1輪が別々の時間を紡いでいるので、私はそのすべてと並走しながら、花の時間を行ったり来たりしているのだ。
 音楽鑑賞は、演奏する人と聴く人が同じ時間を共有できるが、いけばなはできない。祭と同じで、いけばなはこっち側に来てこそ面白い。

時間といけばな 250919

2025/9/19

 もし、散文的ないけばながあったら、豊かな時間を愉しむという鑑賞のしかたもできるだろう。時間を愉しめることは、急いで到着しなければならない約束がないという幸せと同じだ。
 ただ、言葉は多義的だから、俳句のような短詩形であっても時間をかけて咀嚼する深みがあるが、いけばなの鑑賞は難しい。見たことのある花が使われ、名前も知っている花だということになると、その具象的な花しか目に入らない。また、一切名前を知らない花だとすれば、抽象絵画を見て「わからん」と呟くような対象となる。どちらに転んでも、5秒くらい眺めて「ふん」と言って立ち去られる。
 鑑賞者は、作者に対する思いやりなどないから、作者としては、無理矢理にでも目を引く装いを取らざるを得ない。展覧会場を舞台とみなし、他の作品を共演者とみなし、自分が最も輝ける主役として出演俳優の中で最も強い個性を強調することで、“冷酷な鑑賞者”や“無関心な鑑賞者”の目を1分でも2分でも長く自分に向けてもらいたい。
 アイディアや演出に走り過ぎて“王道”を忘れるのは、青二才の新米俳優の愚行であるが。

巨大迷路 250918

2025/9/18

 人生は選択行為の連続だ。ふと溜め息をつくような些細なことを含めて、一瞬一瞬の「点」の選択で人生の「線」が描かれてきた。その一筆書きの自分の歩みを俯瞰したら、きっと迷路に迷う蟻のように心許ない自分の姿を見つけるだろう。
 そんな「イエス・ノー・クイズ」みたいな選択を生まれてから何千万回も繰り返した挙句に、たまたまいけばなを始めることを選択し、その選択をずっと繰り返している自分がいることを自覚すると、これは大変なことではあるなと思う。今更、いけばなを選択しなかった自分を想像することは難しいが、明日にでもいけばなを放棄する選択ができるということは想像できなくもない。
 その昔「巨大迷路」というのが流行った。迷路は抜け出すことを目的につくられていて、もし小学生が巨大迷路で丸一日迷い続けることがあったりしたら、PTAから悲鳴と苦情の嵐が来ただろう。
 しかし、大人が迷路に迷うのは自業自得だとされる。また、人生の迷路は、元々抜け出すことを目的につくられていない。ああでもない、こうでもないと迷えるいけばなは、趣味であって人生である。

講師の事