曼殊沙華 250929
2025/9/29
30年くらい前、松山市窪野町の奥の方まで行って、曼殊沙華が咲き乱れた風景に息を吞んだことがある。耕作放棄で雑草やススキが生い茂った畑地を、畦に沿っているのだろうか何重にも折り重なるように真っ赤な花が行列をなしていて、それ自体が葬列のように見えた。せり上がっていく草地の向こうには、住居か納屋の朽ちた板壁と屋根瓦とが見え、薄い雲がかかった遠方には皿ケ峰に続く山が壁のように据わっていた。黒澤明監督の映画のロケができると思った。
数年後に行くと、区画整理で一帯が明るく整い曼殊沙華の本数も減っていて、そこで暮らすのではない私にとっては写真に撮るほどの興味が湧かない光景だった。
たいてい「ヒガンバナ」として売られているが、先日JAの直売所では「リコリス」だった。「リコリス」の名では陰のある美しさのイメージとかけ離れてしまう。
その赤い「リコリス」は、家の花瓶に真っ赤なケイトウと一緒に挿していて、蕾だったものは翌日から咲き始め、5日目のきのう満開になったものもある。切り花だと早く枯れると思った割には順次咲いて、今日も真っ赤だ。
小綺麗ないけばな 250928
2025/9/28
私が陥るのは小綺麗さの罠である。綺麗ないけばなは良いが、小綺麗ないけばなということになると、文字面以上に実質は大きく見劣りしていることになる。馬力が足りないときなど、省力化に向かって小綺麗にまとめる出口を探しがちだ。
そういうふうに、綺麗な花をいけて、小綺麗ないけばなをつくるのは愚行である。ましてや、綺麗な花をいけて、うす汚く仕上げるのは蛮行である。筒井康隆氏が『やつあたり文化論』の中で、うす汚いのはダメだが、汚いのにはそれなりに価値があるということで、谷岡ヤスジのギャグ漫画を例示していた。汚さには突破力が半端なくあるが、うす汚さには退行性しか感じられない。
元に戻ると、綺麗な花を使って、もっと綺麗に感じられるいけばなをつくり得るかという問題である。そして派生的に感じるのは、小綺麗な人という問題である。
花も人も、素っ裸のそのものに対して、小綺麗だとは感じずに綺麗だと感じる。花はいけばなになって、人は服を着たり化粧したりして、小綺麗さの罠に陥る。花も人も、持っている綺麗さの素質を生かして、突破していきたいものだ。
ルール 250927
2025/9/27
子どもの遊びは、真剣であればあるほど無邪気でもあったように思い出す。松岡正剛さんによれば、遊びには「ごっこ」「しりとり」「宝さがし」の3類型があり、これは、学習のパターンにも当てはまるという。そして真剣に、且つ無邪気に遊べる条件として、ルールが複雑過ぎないことが大事なのだとも。
確かに大人社会にはルールが多くて、遊ぼうと思っても種々細々したルールの網の虜にされる。いつも状況や条件などを見回して、自分が社会から逸脱していないか、後ろ指を指されることはないか、気配りを絶やせない。
そういえば、出会ったその日から、私とゴルフとの相性は悪かった。決めごとの多い種目だったからだろうと今になって合点がいく。その後、シーカヤックやいけばなに心惹かれたのは、どちらにも「ない」ものが沢山あったからだろう。時間制限、道具制限、人数制限、場所制限……挙げていけばキリがない。
大人の遊びも、ルール上のアソビが大きいと助かる。仮に我を忘れて没頭しても逸脱しない程度の決め事しかないという鷹揚さ、だから私はいけばなを続けていられるのだと思う。
天啓 250926
2025/9/26
技芸の継承は口伝や書物によるバトンタッチ形式だ。華道の場合も、どこかの師範の門下となって公式テキストが与えられ、順を追って考え方や技術をモノにしていく。
家元ご本人も常に研鑽し続けることを世間や身内から求められ、自作テキストを日々アップデートしなくてはならない。1つ1つの型はすべて、いけばな草月流の奥義に踏み込みかけている(はずだ)から、私たち門下の者は、いくらか稽古を積んでいくうちに「これが奥義だろうか、あれが奥義だったのだろうか」と、奥義にかすかに触れたような、心に光が射す瞬間が何度か出てくるようになる。
しかし、数日の後に冷静になって振り返ると、それは改めて言語化してまとめ直すには幼稚な解釈だったことが自覚されて、せっかく出くわした喜びは単なる思い込みだったとして捨てなければならない。
口伝やテキストによる継承は、地球の表面を水平的につなげていく。しかし、1人の天才による突発的な気付きというか覚醒というか、水平的に広がる地理や歴史とは無縁に、天啓と呼ぶべき科学的発見や芸術的表現が降りてくることも期待したい。
創作という非合理 250925
2025/9/25
母校の文化祭で手に取ったのは、文芸・俳句部の年刊誌。たまたま開いたページに、「創作という非合理」の表題で1年時の中津くんが書いていた。
その文章は、俳句甲子園に初出場した不安や苛立ちを低音部で奏でながら、創作におけるインスピレーションとしか言いようのないものを説明しろと要求される圧力に抗いたい自分と、他人が勝手に自分の作品を解釈する腹立たしさと、最後にはその2つの強迫に向き合って、来年は血祭りにあげられようともリング上で闘うことを覚悟する自分というメロディーが展開する。何という神話的な物語だろう。
しばし、美術部員だった16歳の自分が情けなくなったし、今年の美術部員、書道部員、写真部員、華道部員にも、中津くんの爪のアカを煎じてやりたかった。創作というのは、技術やセンスが大事でも、意識や態度が伴わなければ表現が成就しない。
いけばなも、花材をありのままに扱っていてはダメだ。創作は、人間の意識的行為によって紡ぎ出されるフィクションだ。言葉や花が喋ることを期待しても無理で、自分の表現をまな板に載せなければ始まらない。