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いけばな随想
diary

伝統と前衛 240318

2024/3/21

 いけばなは、畳の和室に正座して行うものだと思っている人が少なくない。いけばなは、おとなしく上品ぶっていると想像している人も少なくない。そして華道家は、日本文化に精通していて、茶や書にも造詣が深いはずである。
 草月流と聞いた人は、「自由で前衛的ないけばなでしょう?」と言う。しかし、私の感覚では、自由は必ず不自由の向こうにあり、前衛は必ず伝統の向こうにある。つまり、不自由ないけばなをしている人は、自由の前段階を歩んでいるにすぎず、自由ないけばなをしている人は、不自由な型を越えて歩んできたのである。伝統はいずれ前衛の波に呑み込まれるし、前衛もいずれは新たな前衛に消化吸収されて、老いた伝統の引き波となっていく。
 偉そうぶってはいけない。そういえば私は、先日の草月の昇格試験で、伝統を引く「花型」の問題で失敗したばかり。まだまだしばらくは、教えることを通して基本の「花型」を学ばなければならない身であった。私など、まだまだ前衛の領域に到達していないし、型を体得してもいない。
 それにしても、世の中は先入観と誤解に満ち満ちている。

線と空(クウ) 240317

2024/3/21

 私は、いけばなに向かうとき、「線」が好きだし、ひょとしたら「空(クウ)」はもっと好きだ。
 子どもの頃、繰り返し見た夢のひとつに、モンゴルの平原を風に向かって西へ駆ける様子がある。画面(視界?)の下半分は緑が薄い土褐色の草原で、上半分が青い空(ソラ)だ。そして、流れていく風景の、無数に生え広がっている草の1本1本がくっきりと見えている。それは私の原風景の1つで、どうやって駆けているのか、馬の姿はないけれど、低空飛行で丘の起伏に沿って風のように飛んでいるかのようだった。もちろん、モンゴルの地を踏んだことはない。
 20歳代の前半、喫茶店のメニューのイラストを描いて、糊口を凌いだ時期がある。線画で描いた女性の髪が、画面の端までなびいている絵ばかり。松本零士が描く女性が、というよりも、彼が描く女性の髪の線が相当好きだったとしか思えない。なびく髪でない場合は、風を数本の線で描いていた。
 そして、その1本1本の長い線を表すためには、広い空間が必要だったのは言うまでもない。いけばなでも、できれば長い線を用いた空間をつくりたい。

猫と花 240316

2024/3/19

 庭の雑草が、春を迎えて伸び始めた。それを抜いている私の手の動きと、抜かれた草の葉先の動きに釣られて、家猫であり野良猫のハーフ&ハーフ猫「クロ」がやってくる。
 猫は動くものに目がない。それに劣らず、私も動くものには弱い。風に揺れる長い草や細い木の枝は、もちろん「クロ」と私の気を引くのだ。
 草月の研究会が3月3日にあって、その前後は予習・復習というやつで、「マッス」と「線」を究めるお稽古をやっていた。私は「線」が好きなので、研究会は敢えて「マッス」で臨んだ。「マッス」は、おにぎりのように力をぎゅうぎゅうと内に籠めるいけ方なので、軽やかさは出にくい。案の定、講師の先生から、私の作品内部はスカスカで(私の言い換え表現)、空気をはらみ過ぎていると指摘を受けた。そして、ここに、私が線を好きな理由を改めて再発見したのだった。
 私が「線」の表現が好きな理由は、空気の動きに応じて「線」のいけばなも揺れ動くからなのだった。きちんと刈り込んだ生垣があまり好きでないのは、それに重い静けさを感じるからで、私は軽い動きを感じていたいらしい。

華道のゆくえ 240315

2024/3/19

 最近、教師不足や医師不足が話題だ。建築現場やホテル・旅館でも人が足りないと聞く。農林漁業の後継者も足りないし、いったい日本人はどこへ消えて行くのだろう。
 ひどい話だが、中学生くらいのとき、私は農業高校や工業高校は成績の良くない人の進学先だと思っていた。いろいろな意味で口に出してはいけないことだとわかっていた……ということは、そこに差別意識があったという証拠だ。ブルーカラー、ホワイトカラーという呼び方に象徴されるような職業の貴賤だとか、蓄財者が偉いというイメージだとか、山陰・北陸を裏日本と呼び工業生産力の高い太平洋ベルト地帯が日本を支えているだとか、とんでもない刷り込み教育を受けてきた。
 こんなに情報化が進んだ現代に、日本人はその情報を活かしてどこへ行こうとしているのだろう。50年前の教育現場の価値観と、今の教育現場の価値観に根本的な変化が感じられない。とすれば、親が子に求める日本人の価値観も変わっていない。
 大学までもが「実学」とか言い出した日本で、実のない虚の華道にどう価値づけをしていくか、目下の大課題である。

皮膚感覚 240314

2024/3/19

 カッターナイフを使ったことのない若者が多いのに驚いたことがあったが、最近は、デザイナーになった新人ですらそういう人が多いと聞いて、また驚いた。カッターを使う際の体の構え方や、左手での定規の押さえ方まで先輩がちゃんと教えていないと、「切っといて」と指示だけ出して目を離していると、紙ではなく指を切って血を流している始末らしい。
 飲食店の知人も、アルバイト学生がオレンジをスパッと綺麗に切ってくれないと嘆いていた。
 話は違うが、私は小さいころ変な子どもだったと母に言われたのを思い出した。夏の暑い日、学校帰りの私が真っ赤な顔だったので、「暑いなら上着脱げば?」と母が言っても、私は汗をだらだら流しながら「ちょうどええけん」と言っていたそうだ。冬の寒い日も、“寒イボ”を出して震えながら、シャツ1枚と半ズボンのままで「ちょうどええけん」と言っていたらしい。
 そんなことはどうでもよくて、ともかく皮膚感覚だ。大事なのである。これだけは、経験の積み重ねでしか発達しないのである。枝の復元力や花の持続力を捉えるのも、皮膚感覚なのである。

講師の事