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いけばな随想
diary

代用花器 250316

2025/3/16

 若い頃、1度だけジッポーのライターに憧れた。高度成長期のさなかに貧乏学生でヘビースモーカーだった私は、買えないことでなおさら海外ブランド物に対する欲求も高かった。私が上京した1978年はセブンイレブンの黎明期と重なっていて、コンビニエンスストアには使い捨て「100円ライター」がズラリと並んだ。
 貧乏学生にとっては見かけも大事だが、耐久性があって(点火可能回数1300回)安いライターは有難かった。当時は多くの喫茶店がオリジナル・マッチ箱を用意していたが、100円ライターの出現によって世の中から次第に消えていく。
 マッチもライターも、装飾品の要素を持っているとはいえる。しかし、花器については100%装飾品だと思っているから、子どもいけばな体験会などで「ペットボトルを上手に加工して花器にしましょうね」という取組は好きじゃない。どんなに素敵ないけばなをしても艶消しの台無しである。
 茶碗を花器とみなしたり、急須を花器に見立てるのは見事なことであるが、水が漏れないという機能性だけで花器に見立てるのは、色気がないというべきか。

型を磨く 250315

2025/3/15

 武道のことはよく分からないけれど、空手には形の演舞がある。「型」かと思ったらそれは昔の表記で、今は「形」なのだという。剣道関係では、明治時代に剣術形がまとめられ、大正時代には剣道形が発表された。きっと戦国時代には剣道はなく、武器としての剣と実戦しかなかった。徳川の時代になって刀や鉄砲を使う実戦が禁じられてから、どんどん「型」や「形」を磨き上げる剣道に変わっていく。実戦を想定したとしても、人に対して実際に使ってはならない。
 おそらく同じような経緯で飲むだけのための茶が茶道になり、飾るだけのための花が華道になった。だから、花を飾るだけでは華道にならない。飾り方のスタイルやいける態度を吟味し続けなければならない。また剣道に試合があるのと同じように、自分が磨いてきた型を試す場として華道にもいけばな展がある。
 人にはそれぞれ癖があるから、癖も自分のオリジナルな型の1つとなって身に付く。いけばなは武道のように人を傷つけることがないし、茶道のように人の口に入るものでもない。だからいけばなに制限はないが、型を磨くことは大事だ。

よく見る人 250314

2025/3/14

 私は考える人間で、見る人間ではない。自分にしか興味関心がないから、周りのものごとに対する興味が薄く、人に対する関心も低い。だから観察したり見入ったりするのもいい加減で済ませ、相手に対する質問もそんなに多くは出てこない。嫌な奴だ。
 いけばなを教えていると、私が気付いていないことを生徒さんが発見することは多い。先日、マンサクの枝をいけようとしている生徒さんから、この枝のウラオモテはどのように判断したらいいか質問があった。「基本、太陽に向いている方がオモテでいいんじゃない?」といい加減に答えながら見ると、そのマンサクの枝に翻弄された。
 マンサクの花は、グロリオーサの花びらと同じく後ろに反り返るように咲くのだ。つまり、枝ぶりのオモテ側は、花色のボリュームから判断するとウラ側と言ってしまいたいくらい地味なのだった。枝ぶりとしてのウラ側をオモテに出すと、黄色い花色が濁りなく映えるのだ。
 どちらをオモテとして扱うかは人それぞれで良いわけなので、考えることよりも経験に倣うことよりも、よく見ることがいけばなの基本的態度なのだった。

枯れること 250313

2025/3/14

 枯れそうだ、枯れてしまった……枯れると言っても、その指し示した植物の生物学的な死がどの時点になるか私には明言できない。そして、キレイな枯れ方をした……枯れることは必ずしもマイナスイメージばかりではない。いけばなでは、むしろ枯れた花材を「枯れもの」と呼んで重宝する。
 自分では意識していなくても、歳をとった「枯れ者」の発言には枯れた感が混じる。立ち上がったり座ったりするとき、別に痛くもないのに「イテテテテ」とつぶやいたり、自分の思い通りにならない案件にぶつかっても、面倒臭くて何でも「まぁエエか」と流してしまうなども、他人を見ていて共感できるようなら自分も歳をとった証拠である。
 直売所の花卉売場にはたくさんの生産者の花が並ぶ。商品の形状や鮮度保持の手間などから推測すると、野菜売場よりも品質管理が難しい。とりわけ難しいのが、枯れるのはまだいいが腐らせないようにすることだ。水に浸すにも水温や滅菌や水量が問題となるし、花と花との圧迫具合や枝同士の絡みで商品が傷みやすい。
 手をかければかけるほど花は腐らずに枯れてくれるようだ。

読む 250312

2025/3/14

 読むのはたいてい本だ。新聞も読む。私はあまりテレビを見なかったが、最近はネットニュースをよく読む。私はサッカー少年だったので、拙いながらも試合で相手の攻撃パターンも読んだ。学校の試験の時期には教科の先生の出題傾向を読んで山を張ったこともあったように思うが、当たったかどうかは覚えていない。親に小遣いをねだってよいタイミングかどうかは、とても念入りに読んだ。思春期には(いつ頃のことをそう呼べばいいかわからないけれど)、相手の気持ちを読もうとしてほぼほぼ読めなかった。
 読んだり、読もうとしたり、読まれたりするのは相手があるからである。ジキルとハイドでもない限り、自分の心を自分が読むことはない。自分以外の相手の心や考えを読もうというのだから、相手に神経を集中させなければ果たせないことである。
 いけばなの花材の状態について、私はいつも読んでいる。人間や動物には表情や態度があるから百発百中でないにしても読めるような気はするが、植物には表情筋がないから喜怒哀楽が読みにくい。25年かかって、彼らの体調は少し読めるようになった。

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