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いけばな随想
diary

二刀流 250318

2025/3/18

 それを邪道と思っていた守旧派も脱帽し、大谷翔平の登場で二刀流は“特別なスタンダード”として認められるようになった。常識というものが否定されたのではなく、常識を超える者を普通に称賛すべきだという常識が生まれたと思う。
 たとえば2人以上の師匠に師事することは、常識を逸脱していると見なされる。たとえば2つ以上の流派に所属することは、異常なことだとそしりを受ける。しかし、自分が信じていることを信じ通すことは立派でも、それを他人に押し付けるのは趣味に合わないから、私は自分の好みを人に強制したくない。
 日本の伝統文化と人は言う。茶道しかり、華道しかり。しかし、これらの源流は、おそらく中国大陸や朝鮮半島からやってきたのではないか? 仏典などと共に輸入されたのではないか? 日本の衣食住は、現代に至るまでずっと諸外国からの影響を強く受けてきて、漢語や英語の取り込みを通しても日本文化はどんどん変質してきたと思う。
 変わらないのは日本人気質だけかもしれない。和魂洋才ではないけれど、そういう二刀流が、いけばななどの日本文化には隠されている。

花器か花材か 250317

2025/3/17

 3月21日は愛媛県華道会・華展のいけこみ日。私を含め我が社中から3人が出品。いつものことながら、その時期はどんな枝ものや草もの(花もの)の花材が旬なのかを回想し、またどんな花器を使おうかと考えるが、特に今年は天候不順の影響で花材の出回り時期がずれていて予想が困難だ。
 目に入らない花材から想像するよりも、目の前にある花器から想像する方がたやすいから、どうしてもそういう順番で考えてしまうことになる。それで自然な成り行きで花器の決めこみが先行した。
 明日か明後日、花屋に出向いて花材の相談をしよう。店の仕入状況を見て決める算段である。しかし、以前のいけばな展のときもそうだったように、需要が見込めない花材を花屋も仕入れていない。いきおい、ポピュラーな花ばかりが店頭に並んでいて、なかなか食指が動かない。購買者が増えないと仕入れが減るのも、仕方がないことだ。
 こんなにも植生が豊かな日本だというのに、こんなにも地理的環境が幅広い愛媛県だというのに、溢れんばかりの花材から発想できない時代が来てしまうとは考えられなかったことである。

代用花器 250316

2025/3/16

 若い頃、1度だけジッポーのライターに憧れた。高度成長期のさなかに貧乏学生でヘビースモーカーだった私は、買えないことでなおさら海外ブランド物に対する欲求も高かった。私が上京した1978年はセブンイレブンの黎明期と重なっていて、コンビニエンスストアには使い捨て「100円ライター」がズラリと並んだ。
 貧乏学生にとっては見かけも大事だが、耐久性があって(点火可能回数1300回)安いライターは有難かった。当時は多くの喫茶店がオリジナル・マッチ箱を用意していたが、100円ライターの出現によって世の中から次第に消えていく。
 マッチもライターも、装飾品の要素を持っているとはいえる。しかし、花器については100%装飾品だと思っているから、子どもいけばな体験会などで「ペットボトルを上手に加工して花器にしましょうね」という取組は好きじゃない。どんなに素敵ないけばなをしても艶消しの台無しである。
 茶碗を花器とみなしたり、急須を花器に見立てるのは見事なことであるが、水が漏れないという機能性だけで花器に見立てるのは、色気がないというべきか。

型を磨く 250315

2025/3/15

 武道のことはよく分からないけれど、空手には形の演舞がある。「型」かと思ったらそれは昔の表記で、今は「形」なのだという。剣道関係では、明治時代に剣術形がまとめられ、大正時代には剣道形が発表された。きっと戦国時代には剣道はなく、武器としての剣と実戦しかなかった。徳川の時代になって刀や鉄砲を使う実戦が禁じられてから、どんどん「型」や「形」を磨き上げる剣道に変わっていく。実戦を想定したとしても、人に対して実際に使ってはならない。
 おそらく同じような経緯で飲むだけのための茶が茶道になり、飾るだけのための花が華道になった。だから、花を飾るだけでは華道にならない。飾り方のスタイルやいける態度を吟味し続けなければならない。また剣道に試合があるのと同じように、自分が磨いてきた型を試す場として華道にもいけばな展がある。
 人にはそれぞれ癖があるから、癖も自分のオリジナルな型の1つとなって身に付く。いけばなは武道のように人を傷つけることがないし、茶道のように人の口に入るものでもない。だからいけばなに制限はないが、型を磨くことは大事だ。

よく見る人 250314

2025/3/14

 私は考える人間で、見る人間ではない。自分にしか興味関心がないから、周りのものごとに対する興味が薄く、人に対する関心も低い。だから観察したり見入ったりするのもいい加減で済ませ、相手に対する質問もそんなに多くは出てこない。嫌な奴だ。
 いけばなを教えていると、私が気付いていないことを生徒さんが発見することは多い。先日、マンサクの枝をいけようとしている生徒さんから、この枝のウラオモテはどのように判断したらいいか質問があった。「基本、太陽に向いている方がオモテでいいんじゃない?」といい加減に答えながら見ると、そのマンサクの枝に翻弄された。
 マンサクの花は、グロリオーサの花びらと同じく後ろに反り返るように咲くのだ。つまり、枝ぶりのオモテ側は、花色のボリュームから判断するとウラ側と言ってしまいたいくらい地味なのだった。枝ぶりとしてのウラ側をオモテに出すと、黄色い花色が濁りなく映えるのだ。
 どちらをオモテとして扱うかは人それぞれで良いわけなので、考えることよりも経験に倣うことよりも、よく見ることがいけばなの基本的態度なのだった。

講師の事