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いけばな随想
diary

イメージの具体性 241104

2024/11/4

 これまで、言葉による表現ははっきりしていて、イメージはぼんやりしているというふうに感じてきた。しかし、改めて逆ではないかという気がする。
 言葉は実態を持っていないし、言語化すればするほど対象は抽象的な概念に遠ざかっていくように感じる。たとえば「伝統と現代性を併せ持った草月流」と聞いて、誰が「わかった」と納得するだろう。逆にイメージはといえば、絵に描けるように具体的なのだ。「草月のイメージ」というと、私のアタマにはたとえば勅使河原蒼風から霞、宏、茜という「代々の家元の顔」が浮かんでくる。極めて具象的なのである。
 生活スタイルが変わると、その生活を説明していた語句も変わる。昔はいけばなと聞くと、実際にいけている様子が巷に溢れていたから、「お茶と一緒に習っていたアレ」ね、とすぐイメージできたかもしれないが、いまの若者で、いけばなと聞いて「アレ」ね、とすぐイメージできる人がどれだけいるだろうか。
 イメージは、生身の体験から生まれるものだ。言葉でわかったフリをしても、何もイメージできないという事象がとても多い現代なのだ。

神秘的 241103

2024/11/4

 華道と花いけバトル。似ていて非だし、同じ土俵だとも言える関係。今日は高校生花いけバトルが松山ロープウェー街で開催され、私も関わる松山商業高校華道部から2人1組の3チームが出場してくれた。
 初代家元は「私は、花である(いけたら花は私である)」と言ったが、これは神秘の領域の話だ。「私は奴隷である」というのは人間界の範疇で不自然はないが、私が花になるのは非科学的だ。しかし、2者の合一は、非論理的で2者の距離が遠ければ遠いほど神秘性を増し、世俗ではなく思念の世界において獲得されるのである。
 こういう説明がつきにくい世界で真面目に遊び続けようとするのが華道であり、5分後の結果発表に一喜一憂するのが花いけバトルの楽しさだ。納期を設定することで趣味がビジネスに変質するように、花いけバトルは時間を制限することで華道を離れて競技になった。
 可視的でわかりやすいパフォーマンス=花いけバトルを入口にして、是非とも高校生たちには華道の世界に入ってきて欲しい。測れないくらいの微量さかもしれないが、華道の深い意味合いを徐々に感得して欲しい。

新しい環境 241102

2024/11/2

知人が企画書を書くのにAIアプリを使い始めた。いっぱしの経営コンサルが書くような叩き台が、あっという間にスマホ画面に表示される。
試しにチャットで入力してもらった。「いけばな教室の生徒を増やす方策は?」数秒後に、つらつらと計画案が示された。さらに条件を追加して「草月のいけばな教室の生徒を増やす方策は?」また数秒後に示された内容は、見事に草月バージョンに書き替えられており、ターゲット層の設定やコラボレーションすべき相手先の属性もちゃんと考慮し直されているではないか! 私は驚くと同時に後ろめたさを感じた。昔、営業先に対して半徹夜を繰り返してプレゼン準備をしていた努力は何だったんだろう?
また、疑問も湧いた。ライバル企業の2社が同じ問いを同時に設定したら、同じ企画案が2社の担当者に示されるのだろうか? プレゼンする企業の個性や特長は、どのくらい反映されるのだろうか? 企業倫理や経営哲学が、AIアプリに付随するオマケのように軽くなってしまわないだろうか?
次のいけばな展に出す作品は、どれだけ強く自分の作品だと主張できるだろう?

厄除け 241101

2024/11/1

 42歳で急性心筋梗塞を患ったとき、両親は私に「ほら、厄除けをせんかったから……」と、ぼそっと言った。私は「これだけ国際化が進んでいる世の中で、イギリス人の誰が厄払いする? アメリカ人の何人が厄除けする?」と悔し紛れの悪態をついた。非科学的な迷信に惑わされたくないという本心だった。
 慣習から逃れようとでもいうように、それからも酒と煙草を切らさないでいたら、45歳で再び心筋梗塞に陥った。因果応報、てきめんであるが、まだ酒はやめていない。
 さて、いけばなを通じて、植物に触れる機会がとても多くなった。それも影響しているのだろう、最近は超自然的な力に対して頼る気持ちが芽生えかけている。若い頃は何でも自力で打開していく自信に満ちていたが、それはもうしんどい。近頃は自分の手に余ることばかりだ。完全な他力本願の気分ではないにしても、すべてが偶然ではないという、目に見えない意志のようなものを感じてしまうことがある。
 冗談めかして言うが、文明に偏り過ぎた文明人は急いでいけばなでもして、半分は未開人であった頃の人間を取り戻すべきである。

分解能 241031

2024/10/31

 合理性や効率が求められる現代社会では、遠いものは望遠鏡で、小さいものは顕微鏡で観察し、身ぐるみ剥ぐように「見える化」する。また、複雑に絡み合ったものは解きほぐし、より単純に「モデル化」する。このように、分割とか分解という作業を経て様々な発見をしてきたと思うし、文明が進歩発展してきたのだと思う。
 しかし、春の海辺の潮と草の香りとか、真夏の山の蝉しぐれとか、夜明け前や黄昏時の風景とか、そういう五感で味わうべきイメージは分解してしまうと何も面白くなくなってしまう。
 いけばな展で作品についていろいろ質問を受けたとき、私はいい気になって説明を試みたものだ。しかし、言葉にしようとすれば、どうしても作品を切り刻んである一面から説明しないと内容が複雑になり過ぎてしまう。ところが、わかりやすく分解すればするほど、イメージの全体性を失っていくのだ。
 他人の作品を見るとき「解釈してはいけない」と、私は自分のノートの表紙に書いてある。これは、あるとき直感的に思ったことを書き記したのだった。いま再び、それを忘れかけていたことを思い出した。

講師の事