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いけばな随想
diary

空洞をいける 250818

2025/8/19

 昨日から「空洞」について考えている。
 子どもの頃、絵を描くのに黒い紙を渡されて、戸惑った記憶がある。白い紙ならば、少しずつ線や色を足していけば“余白”がなくなっていった。紙は“白紙”であるものと思い込んでいたから、真っ黒な紙を前にしてどうすればいいか分からなかった。大人になった今、黒い紙は白い紙を一度塗りつぶしたようなもんだという風にも思える。隈なく黒く塗りつぶしたものに、白い隙間を開けていく作業を始めるというわけだ。
 いけばなであれば、何もない透明空間に少しずつ枝の線や花の色を足していけばそこにスキがなくなっていくというのが常態だが、頑丈な箱に枝葉をぎゅうぎゅうに押し込んで固めた後、外箱を取り去って、枝葉の固い塊に穴を彫り穿つという丸太彫りに近い方法である。
 彫刻の制作は、そのように丸太を彫り削っていく方法と、何もないところに粘土で捏ね上げていく方法とがある。いけばなでは、流木や切り株をいけることがあるが、流木や切り株を彫り削っていくと新しい作品の可能性が広がるだろうか。花をいけるのではなく、空洞をいけるのだ。

空気を閉じ込める 250817

2025/8/17

 暑過ぎて、庭仕事もままならない。“うどんこ病”の百日紅の花は早く終わり、道路にはみ出した枝から弱った葉が散っている。近所迷惑になるから数日おきに雨水溝周りまで掃除をするが、敷地内は汚い。
 アジサイの大きな葉と草イチゴの小さめの葉が繁った一角は、それらが重なって覆いかぶさり、地面近くに小さな空洞が暗い口を開いている。向かいの家猫の毎日のパトロールコースに続くトンネルだ。
 田舎の辺鄙な入り江などは、ウバメガシの小さな森の茂みを抜けると目を開けていられないくらい眩しい波打際が現れたりして、繁った草木のその向こう側は異界のように感じられる。海辺の大きい茂みにも、庭の小さい茂みにも、植物に閉じ込められた秘密の王国が隠されているのだ。
 いけばなは、花木をいけて空間を創り出す。枝を1本足すごとに空間が大きくなっていくのは、いけばな空間の花木の密度が低い場合だ。逆に植物の密度を高めていけば、その外側の空間は意識されなくなり、植物に閉じ込められた内部空間に意識が向くようだ。“空洞のための隠れ家”をこっそり作るいけばなも素敵だろう。

竹の二刀流 250816

2025/8/16

 竹は、花材としての一面と、花器としての一面を持っている。
 花材としては、3代目の宏家元、4代目の茜家元ともに、大作を数多く制作していらっしゃるので、「草月といえば竹」というイメージを持っている方も少なくない。私も僭越ながら、竹との悪戦苦闘をし続けてきた。丸竹のまま使うと直線的な強さが出る一方で、割り竹や竹ひごに加工すると柔らかさや繊細さも出せる。ただ、竹細工という1つのジャンルが確立しているくらい取り扱いには熟練を要す側面もあって、一筋縄ではいかない。
 仮にそういう技術が低くても、花器として様々な使い方ができるのも竹の魅力である。もちろん、熟達者の手にかかると、丸竹の形を生かした竹筒の花器から竹ひごで編んだ繊細な籠の花器まで、一級の工芸品であり且つ一級の美術品であるような作品が出来上がる。
 そのように考えを巡らせていると、花材でもあり花器でもあるという混然一体となった作品制作を妄想してしまうものだ。それは既に、家元はじめ幾多の先輩方が取り組んでおられるが、より積極的な二刀流の発揮のさせ方があるように思ってもみる。

ワレモコウと母 250815

2025/8/15

 お盆である。迎え火は焚いたが、飲み会を優先したから送り火を焚くことができていない。「御免なさい、明日なんとか……」けれども、お迎えについては1つを除いてしっかりやれたつもりだ。棚経で住職をお迎えする前に、準備万端ホオズキを買い、庭のテッポウユリの感じの良いものも切ってお供えしたし。
 ただ1つ心残りというのは、母が好きだったワレモコウを供えてあげることができなかったこと。母は生前、それに対する思い入れが強かった。死後、遺品の俳句や俳画などを整理しながら、そのことを知った。ところが、コロナ禍以降、ワレモコウの花屋での値段が高い。質素を絵に描いたような地味な穂先なのに、派手な切り花と同じ値段である。「倹約にも程がある」程、一枝が小さくて貧相だ。
 それで、よっぽど母が描いたワレモコウの方がいいと思って探したのに、見つからなかった。
 さて、幾度か付き合ってみるうちに、相手のことが次第に分かってくる。ワレモコウについても、暗い場所では実体のない影のように在るその姿に、母が思いを寄せた人たちの魂が棲んでいるようにも感じられる。

木々との対話 250814

2025/8/14

 昨日の「風穴」の写真を見直した。もっと写っているはずの霧が、思った明瞭さに写っていない。「風穴」から湧き出した霧は森をゆっくり滑り降りるから、その場所に立ち込めるという感じではないのだ。ビデオでは霧の流れが映っており、記憶の感覚に近い映像に安心した。
 その霧の森には「ミツバツツジ」があちこちに自生していて、ここしばらく花店でも見かけることが多かったので、あなた方はこの辺りにお住まいだったのですね、と私は親しく声を掛けた。日当たりを好むという先入観があったので、もっと開けた山に育っている景色を勝手に想像していたが、人間もいろいろな場所で暮らせるように、植物も多様な生き方をしているのだった。
「花と語りつつ、いけよ」という勅使河原蒼風(初代家元)の言葉は、植物とおしゃべりをせよと言っているのではなく、広義の意味で対話せよと言っている。人間同士の自己紹介が名前、居住地、所属や趣味などを聞くことから始まるとすれば、花木との理解促進のためにも、彼らに適切なことを聞いてあげたり、私自身の性向なども聞かせてあげようかと思う。

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