解釈 250621
2025/6/21
いけばなの資料を束ねているファイルの表紙に、「解釈してはいけない」と書いたのは5年くらい前のことだ。
私は、他人のいけばなの純粋な鑑賞者でありたいのだが、いけばな教室を主宰しているからには、全く解釈しないで済ますことは契約違反のような気がして悩ましい。
美術館に行って絵を眺め、即座に「好き」「嫌い」と感じる作品もあるが、大抵は「気になるけど、(自分の気持ちが、すぐには)よくわからない」という具合で、感じるまでに相当時間のかかる場合が多いのだ。『プレバト』の夏井いつき先生の居合抜きのような即断コメントを見るにつけ、ああいう瞬発力が欲しいものだと羨む。つまり、瞬発力のない私が講釈を始めると、ああだこうだと屁理屈を喋ってみたり、却って分かりにくい比喩を用いたりして、聞く方が煙に巻かれてしまうのである。
表現の世界には、衝動がある。共感や直感的な喜びがある。他人の作品に対してもそこを掴むことが大事で、周りからじわじわ解釈していくというのは本質を掴み損ねることになる。そう思って、解釈するけど「解釈してはいけない」と書いた。
手遊び 250620
2025/6/21
生成AIの仕事は雑用だと思いたい。私の脳味噌の本業に対する雑用である。ところが実際には、脳味噌の本業が外部化されて、生成AIは人間の脳の代理店になった。こうして自分で考えることが減った脳は、何十世代かの後には退化しているだろう。体を鍛えるように脳には特訓が必要だし、時にはもっと怠けさせなくてはいけないはずなのに。
人生に散歩があったり、寄り道があったり、失敗があったりするのは人生そのものだと思ってきた。昼寝をしたり、ぼーっとしたり、忘れたりするのも人生の一部だと思ってきた。そんな悠々自適な私の人生に、現代社会は効率を詰め込もうとするから、息苦しいったらありゃしない。
あれこれと無駄なことを考えたり、無理したりするのはいけないことですか? あっ、そうなんだ? それじゃあ、仕方ないですね。私に残された大事な仕事は、手遊びくらいかな?
というわけで、手遊びとしてのいけばなは、生成AIにつけ入る余地を与えないと思っていたら、最近は「生成AIが設計したいけばなをやってみました」という投稿が目に付くようになった。手遊び、危うし!
大事にするところ
2025/6/20
いけばなをやる人が大事にするところは、それぞれ違う。私が大事にするのは、花材を俳優に見立てるところ。それは、若い頃に少し芝居を齧ったことがあるからだろうと思う。せっかく起用する俳優を、エキストラのように群衆化できない気質なのだ。1人1人にセリフがあって、1人1人にスポットライトを当ててあげたい。
これは私が好きなジャズのセッションも同じで、メンバーそれぞれが(遠慮し合いながら)、結局は全開で自分のソロパートを演り切るみたいな。だから、交響楽団のような華麗で分厚いハーモニーを奏でる花はちょっと苦手だ。テレビのバラエティ番組のスタジオでキャスターの後ろにあるような、あでやかな盛りだくさんの花も少し苦手だ。
人によって配色を大事にしたり、マッス(塊)の造形性を大事にしたり、1本の枝や草の線を大事にしたり、他人が大事にしているところがだんだん分かってくる。個々に違うからこそ、いけばな展として一堂に会したとき、1つ1つの作品が同調し合ったり反発し合ったりして愉しい空間が生まれるのだと思う。弟子も師匠に同調する必要はない。
現代美術的な花 250618
2025/6/19
アクション・ペインティングやシュールレアリズムの自動筆記など、制作者の意図や理屈を超えようとする表現形態がある。その手法で表現された絵画や小説などでは、“傘とミシンの出会い”など、意味不明だったり荒唐無稽な浮世離れしたモチーフが喜ばれる。
何をするにも人間的でありたいという人間らしい願いを蹴飛ばし、自分を偶然性や夢の世界に放り込むところから表現を開始する。理由や目的にがんじがらめになっていた自分を、テーマ性がなく計画性のない無限空間に委ねるのである。
そういう現代美術とは別のアプローチで、障害を持つ人によるアートや、自覚のないまま描く子どもの絵画などに価値を見出そうとする取り組みも見逃せない。ナイーブな感性や無垢な感性によって表現された作品に、崇高さや透明さや温かさを感じたり、逆に人間の宿業を味わったりする。
そういう視点で見ると、リサイタルの迎え花やホテルの玄関花のように目的意識が明確ないけばなは、特に面白味がない。勝手に手が動いたとか、花がこういけてくれと言ったとか、そんなトボケたいけばなも案外面白いと思う。
外国人のいけばな 250617
2025/6/17
昨日、モルモン教を伝道する若者2人が、いけばな体験をしてくれた。私は知る限りの英単語を連発し、大振りなジェスチャーで手ほどきをした。私の拙い英単語を頼りに、彼らは頭の中で理屈を構築し理解しようとする。しかし、私の言葉を繋いだところで、きっと理屈の通らない説明だったはずだ。
それなのに、私の説明の先へ先へと彼らの手は動いていった。私は2人に天才を感じた。
天才には2つの素質がある。1つは直観力で、説明する内容を、いくつかの単語とその発せられた順序から直感的に全貌を感じ取る能力だ。もう1つは、経験の豊富さと、その経験のストックを目の前の事象と関連付ける能力である。彼らは20歳前後でそれを既に会得していた。
私の印象では、信仰心の強い西洋人は信仰のない日本人を見下しがちだ。一方で信仰のない西洋人は、人間全能主義的なビューマニズムに陥っていて、人間以外の植物や物体に対して畏敬の念が低い。しかし2人には、天才に加えてもう1つ特別な能力を感じた。彼らは偉そうぶらないのだ。何に対してもへりくだり、吸収する構えを身に着けていた。