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いけばな随想
diary

うろうろしたら見えてくる 240922

2024/9/22

山の麓から見上げても、頂上は見えない。途中の森や岩場が視界を遮るからだ。10キロも離れたら、頂上も稜線も見えるというのに。

しかし、とにかく遠ざかればいいというものでもない。富士山を飛行機から見ても、弾丸登山の人たちの国籍や表情までは読み取れない。遠くなればなるほど、人間の五感で感じ取れる境界の外へ出てしまう。

つまり、物事は矛盾に満ちている。山の全体像が見えるということが、「わかった!」という安直な達成感になってしまうと、もう探究心も想像力も失くしてしまう。「知らなかったら良かったのに」ということも、世の中にはたくさんある。謎がない世界、裏がない世界ほど退屈なものはない。見たいものがすぐ見えるのは、不幸なことでもあるのだ。

いけばなに頂上があるとして、考え方は同じかもしれない。理念的にいえば、いけばなばかりに囚われて、奥義に近付こう近付こうとしていたら、逆にいけばなの頂上は見えなくなる。物質的にいえば、いけばなの全体を見ようと後ろに下がったり、花のおしべの1本を見ようと近付いたり、うろうろするのが正しい見方だ。

残像 240921

2024/9/22

花火の残像が頭から薄らぐ頃に、秋が来る。記憶の種類によっては、それを体験したときと変わらぬ生々しさがあるし、肌感覚が消え視力低下によって瞬く星が見えなくなってしまう間際のようにかすかなものもある。

記憶に残る出来事は、1つの出来事に対して前後の出来事があったり、いつ誰と体験したことかというような、関連する複数の体験群から成っているものが多い。2つの点を結ぶと線になり、3つの点で囲むと面になり、複数の点を結んで立体化したとき、記憶は劣化しにくくなるのだろう。

いけばなの作品を構想するとき、無から始めることが私にはできない。どうしても過去に見たいけばなや、絵画や彫刻や、映画や演劇や、演奏会や旅行や、食べたものや飲んだものなどあらゆる残像を集めて大鍋に入れ、かき混ぜながらアクを取り除き、だんだんイメージが固まってくる。

結局のところ、創造は残像の寄せ集めだったり、残像たちを使った料理だったりするようなものだ。そうすると、残像という材料の良し悪しが作品の良し悪しに影響するから、日頃からモノをよく見ておくことが大事である。

写生的 240920

2024/9/20

正岡子規についての知識も俳句についても明るくないし、彼の写生説というものがずっとよく分からなかった。

創作は個性の表現行為であるという常識とされる立場に反して、かつてエリオットが、芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅であるという感情移入を避けた没個性説を唱えた。たまたまこの記述に出会って、「それ、子規の写生説?」と閃いた。

17文字の制約を設けたことで、俳句は「私は」や「私が」という主語の自己主張から自由になれた。私たちのいけばなには制約がないことで、作品の規模は大きくなり、個人の作業ではまかなえなくなった。花を主役の座から引きずり下ろし、自分が主役の座に君臨した。俳句の主役は、そこに言葉で写生された花やカエルや暗示された状況である。

いま、私は迷いに迷っていて、主観的につくり込んだいけばなをいけようとしてみたり、一歩引いて自分の気配を消したいけばなの方が“華道的”には品格がありそうだと思ったりしている。意思の力を消し続けるという意思の強さを要求するというところが、没個性説の逆説的で面白いところだ。

サーカス 240919

2024/9/19

サーカスがなぜ人の心を捉えるか。猛獣使いや象の曲芸、空中ブランコや綱渡り、火吹き男やオートバイショーなどのめくるめく演目に加えて、ピエロの登場が欠かせない。演劇も、演芸を超えた総合芸術であるところまではサーカスに似ているかもしれないが、演劇の舞台にはピエロは現れない。

正直なところ、いけばな展はつまらない。総合プロデューサー不在で、個々の作家の発表会で終わってしまっているからだ。サーカスに比べて演目のバリエーションに欠け、抑揚のある演出がないから飽きがくる。

ショットバーを例に挙げると、スコッチウイスキーのボトルをどれだけたくさん並べてもそれは百科事典的陳列であって、そこにドラマがまだ生まれていない。

では、いけばな展を面白くするにはどうしたらいいか。言うは易くであることを分かったうえで言うと、「編集」の導入である。個々の作品の創造性は各作家の力量に任せるしかない。あとは展覧会場の作り込みである。二次的創造と呼んでいいかどうか、絵画の展覧会でも学芸員が全力を投じて企画展を開催しているアレ=見せ方の新しさ、である。

あなたの自分応援ソングは? 240918

2024/9/18

今朝のテレビ番組のタイトルだ。ちなみに、私に自分応援ソングはない。哀しさを味わうための自分しんみりソングはある。

妻と話していて、「自分応援ソングのある人はカラオケ好きの人だよね」という仮説を立てた。彼女も私も、カラオケで心を込めて歌うことができない。曲をちゃんと解釈できていないという以前に、歌詞の詩を読み下していく意欲がないのである。悲しいとか愛してるという類の日本語を、人前で発声する勇気がない。

歌のように、花も人を慰めたり労わったりすることができる。私なんかは花で人を刺激したい欲望があって、人を刺激するのだったら別の方法が手っ取り早いんじゃない? と言われるが、「人を応援する花」はある。言葉を使わなくていいから、花で応援するのは恥ずかしくない。入学式や卒業式、ピアノリサイタル等の舞台花などは、まさに応援花だ。

しかし、私自身を応援する花には出会っていないかな? 人への応援花でも、私は花言葉で花材を選ぶことは避ける。花言葉を花に託すことは、愛してるとか頑張れという言葉を歌うのと同じで、とても恥ずかしいからだ。

講師の事