ステージ 250227
2025/2/28
料理のジャンルには世界大会があって、愛媛県内でも私の知っている何人かのシェフがそれに出場して見事に賞を獲っている。
彼らの話を総合すると、大会の性質や審査員の顔ぶれの分析に始まり、傾向と対策を練り、食材と食材の組合せを研究し、盛り付けるプレートを選び、自国料理の伝統やオリジナリティの見せ方を追究し、新しいものによる驚きや感動を潜ませ、完璧な時間管理を体に覚えさせるなど、その徹底には隙がない。
要は、高いステージで事を成そうとすれば、高いレベルで準備しなければならない。準備に妥協しない者として、どのステージに身を置く覚悟があるかということである。しかも、すべてのシェフは、自分のレストランの営業を普段通りにこなしながら大会出場の準備をするから大変だ。
さて、いけばなをするために資格は必須ではない。しかし、流派に属していけばなを教えるには資格取得が求められる。4級師範でも教えられるのに、どうして1級師範を目指すのか? それは、教える生徒さんも資格を上げていくから、自分は常にそれに1歩先んじておく必要があるということだ。
感覚に頼る 250226
2025/2/26
生徒さんたちのいけばなを見て、「優先順位1番の狙いは何ですか? 線? 色? 塊?」とか「作品のテーマがあるとすれば何ですか?」とか、言葉でもって目標を語らせようとする私がいる。テキストに沿って学んでいく初期段階の意識付けとしては間違っていないと信じているが、どこかの段階で論理的な取組を外す必要性も感じている。
花と向き合っていると、ふと降りて来るインスピレーションがあるし、はじめの意図と異なる思い付きもある。根拠のない勘に動かされて、方向転換を繰り返すことも多い。感覚の命じるまま紆余曲折である。
人が求めるどんな道にも奥義に至る諸段階があって、各段階を突き抜ける通過儀礼がある。通過のヒントは師匠が示してくれるはずだが、答えが示されることはない。師匠の言葉がわからないうちは、それがヒントであることに気付かないし、師匠の言葉がわかるようであれば、すでに通過してしまった後である。
通過するための鑑札や呪文はなく、感覚的にスイッとワープするのだ。ある日突然に自転車に乗れたときのように。ある時不意に逆上がりができたときのように。
秘密の言葉 250225
2025/2/25
専門用語や業界用語は、無関係の生活者にとってはおまじないの言葉よりも意味がない。もし華道に奥義が存在したら、そこに書かれた内容は絶対に生活用語で綴られたものではない。そのことは、青少年期の学習を思い返すとよくわかる。小学1年生で習った知識だけでは、中学1年生の試験問題には読めない漢字がたくさん見出されるだろうし、もし知った漢字でもすべての意味は分からないだろう。
草月流の理事昇格試験の問題文も、生活用語は一切使われていなかった。もし一般の人々がそれを読んでも、すべて日本語で書かれているにも関わらず解答を試みることすら困難である。
いけばなには、切る・留める・矯めるの3つのキーワードがある。花ハサミで枝や茎を切ること、花瓶や水盤に花材を安定させること、この2つは生活用語として理解できても、矯める(ためる)は難解だ。
雑に言うと、矯めるとは矯正すること。いけばなで使うとき、そこには若干の無理を強いた曲げる行為を含む。もっと徹底させる場合「折り矯め」の技術を使う。単に折るのでも曲げるのでもない秘密の言葉で呼ばれる技だ。
集団思考 250224
2025/2/24
友人や仲間がたくさん集まっている中で、大勢と異なる発言をするときは人々の顔色を伺ってしまう。この行動は私自身の性向で、周りの人々を眺めても同じような人が少なくないと感じる。同調しようとするお仲間がたくさんいらっしゃるのは安心だ。
他方、ちゃんと自分の意見や美学を持っていればいるほど他人の意見に耳を貸さずに自分の意見を声高に叫ぶ人と、逆に遠慮してしまう人とがいる。何かを評価しなければならないとき、それがたとえば華展会場は高額でも集客力の高いデパートにするか、集客力は低いが安価に借りられる公共的施設にするかを決めるとき、意見が拮抗していれば、なおさら神経質な私は遠慮して口をつぐむタイプだ。
自分に意見がない場合、賛否が拮抗している状況というのは不都合である。周りの意見に同調して大声を上げることができない。ぐずぐずしていると、自分が多数決のキーマンになってしまう危険性が高いからだ。
今日まで「全国くらしの器フェア」でいけばな展示があって、「このいけばなは素敵ですねえ」と同調を求められた私は、心にもなく同調してしまった。
いけばなのタイトル 250223
2025/2/23
自分のいけばなに、時々タイトルを付ける。付け方には2タイプあって、テーマを突き詰めてタイトルにするものと、花にはお構いなくキャッチーさで題名を付けるものとである。
前者は、自分がいけばなで目指したところの雰囲気や意図をタイトルにするけれど、意図を言葉にしてもしっくりこなくて、自分でがっかりすることも多い。後者は、テーマが糞まじめな場合に親しみやすさを演出したり語感優先で選んだりしているので、そのタイトルがちゃんと作品を表徴しているとは全く言えない。
さて、筒井康隆が著作『点景論』の中で「万人が万人ともタイトルと内容の一致を認める著書などあり得ない。あるとすればそれは内容をそっくりそのまま一字一句違えずタイトルとした場合に限られる」と言っている。
文字で起こした文章ですら少ない文字にしてしまうと何か物足りないのだから、花で表現したものを文字で端的に言い表せなくて当然だろう。絵画においても、作品名を付ける人と「作品49」とかの記号で表す人と「無題」と書いてしまう人がいる。私は、作品と作品名のギャップを楽しむ輩である。