向き不向き 250504
2025/5/4
自分を人にアピールしたいとしても、自分らしくない振る舞いで頑張り過ぎると長続きしないし、何より不自然で不健康だ。人には向き不向きがあるので、無理をして頑張ると病気になる。昨日は、金に飽かしてひけらかすのは嫌いだというようなことを書いたが、それが向いている人はそれでいいのだ、と一晩明けると少し譲歩しておきたい気分だ。
向き不向きについては、やる前から自分には不向きだと思ってしまう人がいる一方、私は30歳代で4年もやって下手糞だったゴルフについて、それを認めたくないばかりに去年久々に友人に連れられて打ちっ放しに行ってみた。やめておけばいいのに、友人からお古のセットを譲り受け、別の友人からドライバーももらい、ゴルフ用品店でシューズほか一式を揃えてのことだ。
久々にやって分かったことは、私にゴルフは向いていないということだった。だからもう無理をしてはいけない。
いけばなに関して言えば、働き盛りの40歳代だった頃は、何度も辞めようと思ったことはあった。続けたから向いてきたのか、初めから向いていたのか、そのへんは分からない。
お洒落な花 250503
2025/5/3
お洒落さは、コーディネートの上手さと着こなしの上手さによって成り立つ。衣服そのものが高価であっても、仮にコーディネートが完璧でも、それを着る人の立居振舞がフィットしていなければ台無しだし、着る場面がそぐわなかったら滑稽だ。衣服をひけらかすと、お洒落どころかダサく映る。
いけばなのお洒落も同じで、花そのものよりもいけ方が肝心だ。仮に高価で豪勢な花を取り揃えたとしたら……、衣装に置き換えて考えればよい。結婚式の新婦なのか、招待客なのか、親族なのか、スタッフなのか。普通の家の普通の暮らしを楽しむために、高価で豪勢な花は必要ない。花器も同様で、ないときはグラスやグラタン皿を使えばいい。
お洒落は、それまで生きてきたその人の感性が表れる。衣服の着こなしも、いけばなのいけ方も。
だから習う人にお伝えしたいのは、できれば学問に親しみ、芸術に親しみ、望ましい生活習慣を身に着けてもらいたい。お洒落にもいろいろあるが、着飾ることで人目を引くのはお金があれば誰でもできるから、シンプルに高質なコーディネートで慎み深く振る舞って欲しい。
国民意識 250502
2025/5/3
松山商業高校華道部は琴部、茶道部と併せて、今春から日本文化部として始動した。枠組みは変わっても、活動のやり方は変わっていなくてホッとした。運動部に所属する中高生が減っているという報道があり、特に団体競技は少数精鋭というスローガンでは成り立たないことを痛感した。
さて、日本の(伝統)文化という言葉が、やたら安易に使われる傾向が強くなっていると感じる。中身の空洞化を心配するが、私自身が便利に使っているから他人のことをとやかく言えない。
寂しいと感じるのは、国旗掲揚に対する抵抗感である。何の疑問も持たずに国旗を掲揚して君が代を歌っていた少年時代が懐かしい。高校生まで疑問を持ったことがなく、大学生で疑問は持っていなかったが少し抵抗感が生まれた。国会議員の秘書を辞めた頃から遊び仲間の顔ぶれが大きく変わって、私の国民意識は薄らいでいった。
ウクライナやパレスチナ、チベット自治区や琉球王国、香港や台湾など、気になってきたナショナリズムはあったけれど、日本というものに対して眼差しを持ってきたかと問われるとノーに近いグレーである。
オーダーシャツ 250501
2025/5/3
2年前に退職するまで、Yシャツのサイズにはこだわりがあって、何か月かに1回オーダーをしていた。私の体重は高校2年の時からプラマイ3キロの範囲内で45年間保ってきたので、オーダーといっても微調整の必要すらないくらいだった。
ところが退職後の2年で4キロ太ったために、すべてのシャツとスーツが合わなくなり、スーツのパンツのウエストのほとんどを大きく直すことになった。買った値段と直しの値段とを考慮するとシャツの直しは到底考えられず、今はパッツパツのシャツを着て、お腹をヘコませて歩いている。Tシャツなんか、体を動かす度に太った腹の上まで捲り上がる始末である。
リモートワークが増えて以降、カッチリしたスーツスタイルが減ってきた。私はカッチリしたスーツで仕事をしてきたので、捨てるのはもったいないし時々必要もなくスーツで出掛ける。しかし、それがふさわしい場で過ごすことはほとんどない。
社会の変化は居住空間にも仕事場にも表れる。そして生花が飾ってある空間も少なくなった。そういえば、国民の祝日に日の丸の国旗を掛ける家も少なくなった。
内面的作業 250430
2025/5/3
大枝を1本切るのは、手作業においても内面的作業においても“大事業”だ。手作業では小枝を1本切るのとは比べ物にならない握力がいる。内面的作業でも全体のイメージを決める大きな覚悟がいる。小枝を1本切るときは気軽にチョキチョキだ。
ところが、いけ終わりの最終段階に差し掛かると、小枝1本を切るか、曲げるか、そのまま残すかという見かけの小さな選択において、決断という内面的作業は大仕事になる。細部に神は宿るからである。それはダンサーの右手の中指1本の開き加減、曲げ加減にも匹敵する。
だから細かい部分であったとしても、その見え方には当然内面の心の働きが如実に表れている。私の腹回りは最近日に日に大きくなっていて、これはどういう心の働きが表れているのだろうかと思うこともあるが、忘れていることの方が多いからそうなっているのである。つまり、心の働きとは関係なく(というよりも心の働きが足りていない証拠として)、外面的変化が生じていることもあるという事実は見過ごせない。
そういう配慮の足りなさが、いけばなの場合、細部だけに止まらず表れる。