好きな花 240506
2024/5/11
私はヒナゲシが好きだ。マーガレットも好きだし、1本2本の少ない数であればコスモスもいい。殺風景な荒野や河原、断崖などに、そういう茎の細い花がまばらに咲いているという切なさがたまらない。
ところが、そういう花をいけばなに使いたいかといえば、これはもう完全に苦手だ。なぜなら、いけばなで荒野の雰囲気を出すのが難しいからだ。いけばなで、花を野にあるようにいけるのは大変難しい。かといって、野でヒナゲシをいけるかというと、野にあるヒナゲシをわざわざ切ってその現場で使うくらいなら、切らずにそこにいさせてやりたい。
そんなわけで、私の場合は好きな花と、いけたい花とが一致しない。
もう少し説明を繰り返す。ヒナゲシならヒナゲシを切り取って屋内に持ち帰るとしよう。その花を、さきほど野にあったとき以上に儚く美しく寂しげにいけられる見込みが薄いのなら(切り取った責任を果たせないのなら)、雨も降る風も吹く彼らのいた場所で、彼らの人生を全うさせてやりたい気持ちなのだ。
いけばなを行うシチュエーションと花との組み合わせは、とても大事な作業なのだ。
花の主役 240505
2024/5/10
草月の花型(かけい)は、3本の「主枝(しゅし)」と数に規定のない「従枝」とで構成される。そして3本の主枝は、「真・副(そえ)・控(ひかえ)」の役割を分担する。
呼称からすれば、真が主役であるはずだが、そうとも言い切れないのが面白いところだ。なぜなら、作品を正面から見る人の目線にまっすぐ向いているのは、3本のどの主枝でもなく、従枝の花の1本だからである。人の目は、褐色の枝葉よりも、鮮やかな花の方を見染めてしまうようだ。
映画であれば、カメラが主役を主役らしく見せるように追いかけるので、観客は安心してカメラワークを追っていれば済む。しかし、舞台であればそうはいかない。観客自身が自分の感覚と判断で、舞台上の人物を選択しクローズアップしなければならない。いけばなも同じだ。
さて、主演を担うのが従枝の花だとするとき、3本の主枝が果たしているのは、舞台空間の創出であろうか。そして、その空間そのものが人目を魅了することもある。美術館等で、展示された美術品以上に建物がクローズアップされることの多い安藤忠雄の建築がそれに当たる。
花の質感 240504
2024/5/9
私は、工場跡地の乾いた地面などにポツリポツリと咲き揺れるヒナゲシが好きだ。茎が細長く、見かけが弱々しい。大小の小石が転がる地面のざらついた殺風景さと、触るとフッと儚く散ってしまいそうな弱々しさの対比的な風景が、特に夕方の逆光では触れてはいけないあの世との境のようにも感じられる。
重信川中流域のゴロ石の河原の所々に揺れるオオキンケイギクの草原も、ゴツゴツした河川敷の感じと、寂しげなバラツキで揺れる細長い茎の対比が寂しげでいい感じだ。
絵画でも、不透明絵具を塗り重ねた重厚感のある油絵よりも、透明絵具を掃いたように淡く塗った水彩画の儚さの方が好きだ。絵具の塗り方による質感の違いがあるように、いけばなにもツヤツヤした椿の葉、ギシギシしたニシキギの枝というふうに、花材に由来する風合いがある。
花材は、絵具のようにはそれぞれの個性を殺して混ぜ合わせることはできない。花材自体が個々に魅力を持っているので、それを殺さないよう全体を構成したい。2つ以上の花材を組み合わせて、総体としてまとまった風合いのいけばなができた時が嬉しい。
反田恭平 240503
2024/5/8
気鋭のピアニスト。今日テレビで見て、プレーヤーとしてだけでなく、音楽家が食うための会社の社長を務めているし、楽団員(社員)を連れて特別授業で小学校に行くなど普及啓発活動もしていることを知った。演奏を究めつつ、音楽世界を広げるスーパーマン!
その姿には本当に憧れる。自分にはもう、それをいけばなで実現するだけの時間はなさそうだ。それでは、どうしようか。……と考えたとき、後進に託すことしか思いつかなかった。しかし、学校で教えることを通じて自分勝手な思いは生徒に通じたりしないことも理解したつもりなので、子のいない私でも親の期待は子にとって独りよがりでしかないであろうことを承知している。いけばなに対する私の心情を、何人が引き継いでくれるだろうかという期待は、相手にとってはただの負担でしかないという諦めもある。
そんなつまらないことを考えながら見ていたときに、反田恭平が一心不乱にスタジオでピアノを弾くの姿が映った。なーんだ、思い悩んでいる暇があったら、動けばいいじゃん! 理屈っぽく考えるな! カッコつけんな! と自分に言った。
コントラスト 240502
2024/5/8
昨日から色の話だ。
スマホで写真を編集するとき、「ブリリアンス」とか「コントラスト」とかいろいろあって楽しい。編集し過ぎると、実際の見た目と違い過ぎてしまうが、それも制作上の技法だと言ってしまえばとやかく言えない。
私が考えることの多いのが、作品を同系色でまとめるか、対比色を組み合わせるかの2択だ。これは、花材と花材の関係にとどまらず、花材と花器の関係でも無視できないし、いけばな作品と背景の関係においても重要だ。
そして、そもそも、いけばなをその空間の脇役でいさせるのか、主役級に目立たせるのかによっても、表現の方針はまるで正反対になってくる。ごちゃごちゃした背景であれば、同系色でまとめたシンプルな作品の方が目立つ場合もあるし、良し悪しはケース・バイ・ケースだということになる。何が正解か、一概には結論付けにくい。
さて、私の目下の関心は、いけばな全般の流行が、侘び寂びの表現から離れつつあるのではないかという危惧であり、油断すると私自身がコントラストの強い作品をつくってしまうこと。落ち着いた作品もつくりたい私である。