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いけばな随想
diary

継承者 250301

2025/3/2

 事業承継の問題がこんなにも取り沙汰される時代が来た。企業も習い事の教室も同様に、メンバーもリーダーもいなくなる。私が所属している「草月会愛媛県支部」も「愛媛県華道会」も、会員減少は看過できなくなっていて、メンバー全体の高齢化も誤魔化せない。
 なかんずく生徒数を確保できているのはどういう教室なのか聞き込みをしても、それで生計を立てていられるようなジャンルはなかなかないようで、あるとすれば学習塾やホットヨガなど頭が良くなるか体が良くなるかという効果が見えやすいもので、「習い事」の範疇から少し外れたジャンルのようだ。
 注意すべきは「効果」である。たいていは定められた基準値を上回ったとか、誰かと比べてそれを上回ったとか、相対的に自分の価値の高さを確かめたいという欲求に基いている。いけばなの価値は効果ではない。あくまでも自分中心の世界で自分の表現を追究するだけだ。
 自分以外の理由で何かをなすとき、成功も失敗も自分以外のせいにしてしまう。自分の基準と自分の責任をバトンタッチできる相手を見つける幸せは、稀有なことなのだろうか。

恩返し 250228

2025/3/1

 共に誕生日が2月だったので、父母を思い出すことも多かった。恩を受けた当人は有難さをあまり感じていないことが多い、というのは私自身のことで他の人はどうだか知らない。
 思い返すと、同居していた父方の祖父は蜜柑の木を育てる指導員をしていた関係か庭木の多くは果樹だった。ザクロ、イチジク、カキ、ブドウ、シャシャブ、サンザシ、イヨカン、ナツカン、ハッサク、ウンシュウミカン等々。他にモクレン、ツゲ、マキ、サルスベリ、ナンテン、ツバキ、センリョウ、マンリョウ、キンモクセイ、ムクゲなどがあって、他はマツの盆栽やランの類の鉢が並んでいた。
 その頃の風景を今でも覚えているということとその木々の世話をいま私がしているというのは、血は争えないということなのだろう。その後私が植えたり挿し木したものはノバラ、モモ、シマトネリコ、クロガネモチ、クチナシ、アジサイ、アメリカハゼ、マンサクだ。しかし去年ツゲが枯れ、今年は白い花のツバキの1本が危うい感じだ。
 1年草の花に比べて育つのに時間がかかるぶん、枝ものには情が湧く。親の供養として見守っている。

ステージ 250227

2025/2/28

 料理のジャンルには世界大会があって、愛媛県内でも私の知っている何人かのシェフがそれに出場して見事に賞を獲っている。
 彼らの話を総合すると、大会の性質や審査員の顔ぶれの分析に始まり、傾向と対策を練り、食材と食材の組合せを研究し、盛り付けるプレートを選び、自国料理の伝統やオリジナリティの見せ方を追究し、新しいものによる驚きや感動を潜ませ、完璧な時間管理を体に覚えさせるなど、その徹底には隙がない。
 要は、高いステージで事を成そうとすれば、高いレベルで準備しなければならない。準備に妥協しない者として、どのステージに身を置く覚悟があるかということである。しかも、すべてのシェフは、自分のレストランの営業を普段通りにこなしながら大会出場の準備をするから大変だ。
 さて、いけばなをするために資格は必須ではない。しかし、流派に属していけばなを教えるには資格取得が求められる。4級師範でも教えられるのに、どうして1級師範を目指すのか? それは、教える生徒さんも資格を上げていくから、自分は常にそれに1歩先んじておく必要があるということだ。

感覚に頼る 250226

2025/2/26

 生徒さんたちのいけばなを見て、「優先順位1番の狙いは何ですか? 線? 色? 塊?」とか「作品のテーマがあるとすれば何ですか?」とか、言葉でもって目標を語らせようとする私がいる。テキストに沿って学んでいく初期段階の意識付けとしては間違っていないと信じているが、どこかの段階で論理的な取組を外す必要性も感じている。
 花と向き合っていると、ふと降りて来るインスピレーションがあるし、はじめの意図と異なる思い付きもある。根拠のない勘に動かされて、方向転換を繰り返すことも多い。感覚の命じるまま紆余曲折である。
 人が求めるどんな道にも奥義に至る諸段階があって、各段階を突き抜ける通過儀礼がある。通過のヒントは師匠が示してくれるはずだが、答えが示されることはない。師匠の言葉がわからないうちは、それがヒントであることに気付かないし、師匠の言葉がわかるようであれば、すでに通過してしまった後である。
 通過するための鑑札や呪文はなく、感覚的にスイッとワープするのだ。ある日突然に自転車に乗れたときのように。ある時不意に逆上がりができたときのように。

秘密の言葉 250225

2025/2/25

 専門用語や業界用語は、無関係の生活者にとってはおまじないの言葉よりも意味がない。もし華道に奥義が存在したら、そこに書かれた内容は絶対に生活用語で綴られたものではない。そのことは、青少年期の学習を思い返すとよくわかる。小学1年生で習った知識だけでは、中学1年生の試験問題には読めない漢字がたくさん見出されるだろうし、もし知った漢字でもすべての意味は分からないだろう。
 草月流の理事昇格試験の問題文も、生活用語は一切使われていなかった。もし一般の人々がそれを読んでも、すべて日本語で書かれているにも関わらず解答を試みることすら困難である。
 いけばなには、切る・留める・矯めるの3つのキーワードがある。花ハサミで枝や茎を切ること、花瓶や水盤に花材を安定させること、この2つは生活用語として理解できても、矯める(ためる)は難解だ。
 雑に言うと、矯めるとは矯正すること。いけばなで使うとき、そこには若干の無理を強いた曲げる行為を含む。もっと徹底させる場合「折り矯め」の技術を使う。単に折るのでも曲げるのでもない秘密の言葉で呼ばれる技だ。

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