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いけばな随想
diary

花との対話 250222

2025/2/22

 亡き母の誕生日である。彼女の晩年は俳句や俳画、油絵や篆刻に人生を割いていた。私が母を顧みなかったから、母の対話相手が人間ではなく花や虫になってしまったと申し訳なく思っている。
 しかし、花や虫のいいところは、人それぞれのペースに合わせて対話してくれることである。花はまた、相手の人の求める深さや広さ、早さにも調子を合わせてくれる安心な存在だ。業務上のプレゼンで急いでたくさん喋ることはしんどかったし、企画コンペの場では競合他社の提案はいいなと思っても、自社代表として自分の企画を優れたものとしてゴリ押しする必要があった。人間同士だと対話よりも主張の衝突が多く、学生にもディベート力が求められたりして同情する。
 昨晩のテレビで「椿の花はなぜ冬に咲くか?」という問いが設けられ、答えは「メジロやヒヨドリに蜜を吸わせて花粉を運んでもらうため」という答えが示された。それを知ったところでいけばなにどう関係するの? と思うかもしれないけれど、今度から椿との対話に幅ができ、より理解が深まってパートナーシップみたいなものが生まれると嬉しい。

「道」とは 250221

2025/2/21

 ちょっと解った気がした。華道は態度であり、いけばなは行為である。
 昨日から今朝にかけて「全国くらしの器フェア」でいけばなを制作したが、第三の目(花器製作者の目)にプレッシャーを感じて心が弱くなり、花器の口元を埋めてしまう仕上がりになった。自分の最善を尽くしたが、心の内では「隙間隙間! 余白余白!」と念仏を唱えるように呟き続けたものの技術が追い付くことはなかった。つまり、花器の口元に呼吸ができる隙間を空ける華道の態度で臨んだものの、窒息させるいけばなの行為でしか対応できなかった。ますます研鑽を積むよう自覚させられるありがたい2日間だった。
 さて、口元が窮屈になり息も絶え絶えの作品をついには殺してしまいかねない状況だったから、何とか息を吹き返してやる必要があった。で、仕方なく前の方にせり出していたコデマリの枝の途中の葉と芽を摘み落とし、作品全体の空気の通りをよくしていった。
 私はともすれば提灯アンコウの光る誘引突起みたいに長く細く伸びた枝を使いたがることも、今回の作品制作過程で自覚した。この癖の克服も遠い道のりである。

第三の目 250220

2025/2/21

 いけばなの際に意識するのは、第一に自分の目、第二に他人の目。どのようにいけたいか追究する自分の目が軸になって制作は始まり、それを見てくれる他人の目を想像してあれこれ手直しをする。自分の目と他人の目を入れ替えながら、1つの作品が出来上がりつつあった。
 きょう「全国くらしの器フェア」で、出展窯元の作品16点に愛媛の華道団体から16人が参加していけばなをいける機会が用意された。搬入・設営の合間に、私もいけばなをいけながら花器を提供してくれた人とお会いできた。これによって私の目に少し狂いが生じた。その壺には16万5千円の値札が付いているので、その価値を減じる花を入れては面目ないのである。花器をつくった人の目、これが第三の目として大きく睨みをきかせてきたのだった。
 狂いが生じたと言ってしまったが、よりよい立ち位置を教えていただいたと言い換える必要がある。第三の目の出現によって私のプランは未完成だったと気付き、準備した花材だけでは完成しないと判断し、明日の朝、追加の花材を入れるとともに余分な葉を取り除くという結論に至った。

三角測量 250219

2025/2/20

 いわゆる土木建築の三角測量のことではなく、この言葉の持つ感じがいいというだけのことなので御免なさい。
 いけばなは空間的なものなので、どの角度からも見られてしまう宿命を負っている。かつて『モナリザ』を観にいった時、誰もが絵の正面から観たいばかりに押し合いへし合いしてポジション取りに余念がなかった。いけばなにも作者には正面はコチラという意図があるのだろうけれど、そこは絵画ほどではない。歩きながら見ると姿かたちが変わるさまは捨て難い。
 考えてみれば、山の大木なんて下から見上げたことしかなかったではないか! それがドローンによって真上からもみることができるようになって、人間が見られる景色は倍増した。もとより日常生活では自分が止まっていても相手が動いていたり、またはその逆のことがほとんどで、自分も相手も止まっているなどということがあったらそれこそ特別なことである。
 だから、いけばなをいける時、テキストの作例の正面写真にあまり縛られすぎることはない。たぶん免許写真のように互いが正面を向いた夫婦生活なども、考えたくはないだろう。

仲間同士は仲良くする 250218

2025/2/20

 いけばなの世界は非常に狭い。意外なくらい狭い。その小さな小さな世界で流派や主義主張を越えて尊重し合うことなくしては、その世界がもっと分裂して小さくなってしまう。
 表現者は自己の価値観や独自性を大事にするからこそ、表現者として立っていられる。だから「全く華道というものがわかっていない、ギラギラ血走ったいけばなをして!」と他人の作品をけなし、また別のところでは「あんな辛気臭いいけばななんて現代の誰が喜ぶの?」と毒を吐くのもわからなくはない。昔のフランスの芸術家同士などは、決闘したり流血騒ぎを起こすくらいだったのだから。
 私にしても、基本的には自信家なので、他の華道家を人間として尊敬してもその作品のすべてをいいとは思わない。しかし、その作品を尊重することはできる。尊重は、好き嫌いとは別物だから。
 今年度、私は「愛媛県華道会」に初めて入会したけれど、「愛媛県いけばな芸術協会」には加入しなかった。この件にしても納得感は薄く、全宇宙的には絶滅の危機に瀕しているいけばななので、木を見て森を見ずという態度は取りたくないものだ。

講師の事