AIに負けるな、いけばな 231016
2023/10/16
自分が描けない絵を生成AIが描いてくれるんですよ。そう聞いた時は、何だと? と疑問ではなく怒りに近い感覚を覚えました。
3Dプリンタで家も建てられるんですよー。そう知った時は呆れてしまいました。家というのは様々な建材を組み合わせて建てられるもので、プリンタでは複数材料の取り合わせが困難だろうという直感から、モルモット気分で殺風景な空間に住まわされる光景を想像したのでした。
複数材料の取り合わせという点では、いけばなも同じです。花材の大小や数量に加えて花器の取り合わせや水の量まで考慮すると、ほぼ無限の組合せができます。そこにできあがった作品には、必ず試行錯誤の痕跡が残ります。人の顔が人生の苦楽と共にできあがっていくように。
質感の表現は好みや成り行きなので、おそらくAIの見込み通りにはならないと思います。成り行きというのは、ああでもないこうでもないと迷い道を経て、余計な時間とチャレンジを費やした後に独自表現として表れてくるということです。
計算通りにならないいけばなを、計算通りにはいかない人生の楽しみにいかがでしょう。
創造と想像 231015
2023/10/14
いま無職の私は、専門学校で教職に就く前に、広告出版の会社員をしていました。広告は、クライアントの魅力や思いをターゲットのお客様に届けるのが役割でした。
しかし、私は自分で言うのも何ですけれど創造力はまあまあでしたが、想像力に欠けるところがありました。クライアントの思いをヒアリングしたり観察したり、そして想像するところからクライアントとビジョンを共有しなければならないのに、自分の表現欲がそれを上回っていて、結局はクライアントへの理解が不足した広告を作ってしまうのでした。
反対に、クライアントへの想像力が忖度に陥ってしまうと、クリエイティブのない凡庸な広告になる恐れがありました。
コミュニケーションとは聞くこと(理解すること)と話すこと(表現すること)の両輪で成り立つということに気付かないまま過ごした年月の長かったこと!
この1年、私は知人のショットバーに花いけをさせてもらっています。マスターと店のお客様に対して自分勝手な創造にならず、気を回し過ぎない想像力とのいいバランスで取り組みたいと思っていますが、さてさて?
いけばな? 華道? 231014
2023/10/14
私の教室は「いけばな教室」とうたっていて、「華道教室」と呼んでいません。自分を華道家と呼ぶのもふさわしくない気持ちです。茶道でも華道でも、「道」と呼ぶジャンルには修養・修身の性格が奥底にあると思うので、そこを重視できているかどうかが怪しいからです。
修身を取り払ってしまえば、いけばなも芸術に仲間入りできるかもしれないと思うこともありましたが、家元に教えを乞う立場で一匹狼にならない私は、オリジナリティを徹底追求することこそが仕事の芸術家にはなれません。「道」には教える側と教えられる側があって、上下関係に縛られた世界です。
つまるところ、華道家にも芸術家にもなれない私は、「いけばなをしたり、教えたりする人」くらいがちょうどいい肩書なのでした。
他方、いけばなは、海外からの興味関心は依然として高いと感じています。海外へ普及する過程で、含みの多い「いけばな」という語が意味を伴わない「IKEBANA」となり、日本的こころや日本人的振る舞いが漉し取られ、いけばなから創作行為・芸術的行為の部分が抽出されて好感を得ているのでしょうか。
いけばなの優劣 231013
2023/10/12
俳句甲子園や書道パフォーマンス甲子園など、文化部の高校生が活躍する競技会が増えてきました。華道関連でも、近年、全国高校生花いけバトルが繰り広げられています。先般、それの四国大会を観戦したらとても面白かった。高校生の創造力と瞬発力には興奮させられました。どの作品にも数値化に収まりきらない見所があるのに、審査員はすべてに得点を付けなくてはならないのは大変だろうと感じました。
武道には、規定や基準があり相対的な優劣がはっきりするという競技性が備わっていますが、いけばなは規定や基準が分かりにくいので、審査員でも優劣を付けるのが難しいと思います。
いけばなには、それをいける「時と場」があり、それを見る人があらかじめ想定されるので、できあがった作品がそういう関係性から独立して良し悪しを申し渡されるものでもありません。
優劣つけがたいといえば、料理コンテストも典型的です。味の好みが違う審査員が互いに納得して1等賞を決めるためには、審査員個々の社会的立場やそのコメント力が重要で、得点の数値だけでは説得力が低くなってしまいます。
手習い 231012
2023/10/11
私は頭でっかちです。何を見てもただ感動するということはできず、感動の原因を理詰めで明らかにしたいのです。
子供のころ、鉄棒で逆上がりの練習をするのに、私は絵を見て納得してしまうまで体を動かせませんでした。後ろ宙返りもそうでした。体で覚えるべきことを、まずは頭でシミュレーションしてからでないと先に進めない少年だったのです。
いけばなを始めた頃も、やはり頭で花をいけていました。いけ終わった後でも講釈ばかり垂れている自分が嫌でした。理屈っぽく花をいけたときは、その作品も説明的でつまらないものになってしまうようです。
いけばなとは足掛け23年の付き合いになります。近頃は手の方を頭に先行して動かせるときもあって、自分を褒めてやります。何とか花鋏を扱うことができる体になってきました。矯めやすい(曲げやすい)枝や、折れやすい茎なども、手の感触で分かり始めました。知識や理屈でなく、体で覚えた経験で花材それぞれに対する手加減もできるようになり、表現するバリエーションも増えました。左手が軽く腱鞘炎でちょっと痛いですけれど。