学び過ぎ 240904
2024/9/4
学び過ぎは良くない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。
小学生のとき、隣家のO君と路上で対決した。ひらかなの「そ」を「一画で書くのと二画で書くのはどっちが正しいか勝負」を、舗装されていない地面に小枝で互いに書きなぐりながら言い争った。じいちゃんには二画で書く「そ」を習ったかもしれないが、小学校の国語の授業では一画で書く「そ」を習ったので、一画で書くのが正しいということに決着したが、勝った私の心は晴れずに曇った。
学ぶことは、闘うためではない。百条委員会に臨む兵庫県斎藤知事の答弁にやるせなさを感じる人は多いだろうし、似たり寄ったりの答弁をする総理大臣や閣僚が多いのも悲しい(にもかかわらず、それを見逃す国民が多いのも悲しい)。彼らは相手を言い負かす自己正当化を、学ぶことの結果にしているから。
いけばなの世界も無縁ではない。学んだことを金科玉条のように振りかざしている人々には辟易する。そういう発言は、人に投げると自分に帰ってくるブーメランなので、「よく学びよく遊べ」と、バランスよく学んで突き詰め過ぎないユルさが大事だ。
空間の性質 240903
2024/9/3
草月のいけばなの構え方は「場にいける」というもの。そして、「場」というのは人それぞれの関わり方があって、一様ではない。同じ場所にいても、そこに3人がいたとすれば、三者三様の異なる空間として認識される。各人の経験や着眼点が異なるからだ。
私は海が好きなので、どんな海にも魅力を感じるけれど、ある浜にだけは近寄っていない。少年時代に弟と貸しボートを漕いでいて、沖に設置された飛び込み用の筏から飛び込んで溺れた同年代の少年を引き上げたものの、彼は死んでしまった。
私は1930年代の上海の雰囲気が好きで、オールドファッションを売りにしたジャズのビッグ・バンドのライブに行った。平均年齢70歳は超えていただろうバンドメンバーたちの演奏はビシッと決まらず緩かったが、朗らかな演奏に客も大喜びで踊った。上海には1800年代から欧米諸国や日本によって租界が置かれた歴史があるだけに……それを思い出すと、ただ陽気に過ごすことはできなくなってしまう。
だから同じような空間でも、また、同じ場でも、楽しい花もいけられるし暗い花もいけられるのだ。
自分のための花 240902
2024/9/2
いけばなを誰に見せるのか、大きな問題だ。私以外に誰もいない時と場所でいけることもあり、その時は自分1人が主客の役割を入れ替えて問答を繰り返すことになる。
自分のことは自分ではよくわかっていないと言われるように、自分の花を自分で批評するのも難しい。どうあがいても玉井っぽいと言われるようなステレオタイプがあって、それを抜け出せないことについて自己批判することが多く、結局は堂々巡りに陥ってしまうのだ。
こういう行き詰まりは、歳を取るほど頻繁に起こる。新陳代謝が鈍り、血管も何もかもが詰まってしまうのだろう。この停滞状況を脱するためには、理屈に構っていてはいけないと感じる。当てずっぽうに銃を乱射していると、全く偶然にも1つの弾丸が思ってもいない的を撃ち抜いたりする。脳味噌に頼らず肉体の勝手な動きに賭けてみることで、閉塞状況を打開できるかもしれない。
肉体に沁み込んだ体験の記憶も、自分固有のものとして筋肉にへばりついているので、自分らしさの片鱗は、最後までなくなってしまうことはないだろう。1人で花と語りつついけるのも楽しい。
文体 240901
2024/9/1
人はそれぞれ母国語を話し、読んで、書く。それ以上を求める人のために、話し方講座や書き方の指南書がある。中学・高校の授業に古典と漢文があったのは、現代国語を駆使するためには古典的教養が必要だという判断だろう。
小説の世界では、文体も議論される。それでは、いけばなにおける文体のようなもの、または、もう一歩進んで書体のようなものがあるとすればどういうことを指すだろうか。まず、いけばなにおいても、古典的教養が必要で、名人の筆跡を真似るように先人のいけ方を真似る。つまり、歴史的に鍛えられてきた感覚を体得して美しいとされる型を理解する。
そして、書における楷書、行書、草書のように、いけばなにも使い分けるべき「場に応じた書体(的なもの)」があるということだ。気品や格調を重んじるべき楷書的いけばな、気力や勢いを感じさせる行書的いけばな、楽しさや破調に遊ぶ草書的いけばな、そういう感じを生かしたい。
ただし、品性はすべてのいけばなにおいて大切な文体だと思っていて、それを失うとスーパーの安売りのPOPや商店街の造花装飾に堕してしまう。
ヒラメキ 240831
2024/8/31
大和民族の純血と特権的地位を守ろうとした歴史もあるとはいえ、日本人はもともと中国大陸や朝鮮半島から文明や文化を取り入れ、もとの自分に混ぜ込んで新しい自己を確立するのが得意だった。服装や家屋、仏教や漢字、お茶やお花や書や楽器など、他文化を消化して自文化として育んできた。
温故知新とは、単に古いものは古いものとして、新しいものは新しいものとして別々に捉えるのではなく、新旧すらもハイブリッド化してしまう力強い思想だと捉えたい。
いろいろなものを混ぜこぜにする意義は、気付きのきっかけを提供することにあると思う。自分1人で考えていても、同じパターンから抜け出せない。若い頃、私はギターのFコードが押さえられず、暗い感じのマイナー・コードばかりで歌を作っていた。同じアパートに住む無口な住人が部屋に来て私のコード進行を褒めてくれ、私のユルくて不安定なピッキングが「ブルースに向いてる」と。そのまま彼と一緒に2人で下手なギターを弾きまくり、ブルースを知った。
いろいろな人や物事との出会いには、コード・チェンジのヒラメキが降りて来る。