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いけばな随想
diary

自分のための花 240902

2024/9/2

いけばなを誰に見せるのか、大きな問題だ。私以外に誰もいない時と場所でいけることもあり、その時は自分1人が主客の役割を入れ替えて問答を繰り返すことになる。

自分のことは自分ではよくわかっていないと言われるように、自分の花を自分で批評するのも難しい。どうあがいても玉井っぽいと言われるようなステレオタイプがあって、それを抜け出せないことについて自己批判することが多く、結局は堂々巡りに陥ってしまうのだ。

こういう行き詰まりは、歳を取るほど頻繁に起こる。新陳代謝が鈍り、血管も何もかもが詰まってしまうのだろう。この停滞状況を脱するためには、理屈に構っていてはいけないと感じる。当てずっぽうに銃を乱射していると、全く偶然にも1つの弾丸が思ってもいない的を撃ち抜いたりする。脳味噌に頼らず肉体の勝手な動きに賭けてみることで、閉塞状況を打開できるかもしれない。

肉体に沁み込んだ体験の記憶も、自分固有のものとして筋肉にへばりついているので、自分らしさの片鱗は、最後までなくなってしまうことはないだろう。1人で花と語りつついけるのも楽しい。

文体 240901

2024/9/1

人はそれぞれ母国語を話し、読んで、書く。それ以上を求める人のために、話し方講座や書き方の指南書がある。中学・高校の授業に古典と漢文があったのは、現代国語を駆使するためには古典的教養が必要だという判断だろう。

小説の世界では、文体も議論される。それでは、いけばなにおける文体のようなもの、または、もう一歩進んで書体のようなものがあるとすればどういうことを指すだろうか。まず、いけばなにおいても、古典的教養が必要で、名人の筆跡を真似るように先人のいけ方を真似る。つまり、歴史的に鍛えられてきた感覚を体得して美しいとされる型を理解する。

そして、書における楷書、行書、草書のように、いけばなにも使い分けるべき「場に応じた書体(的なもの)」があるということだ。気品や格調を重んじるべき楷書的いけばな、気力や勢いを感じさせる行書的いけばな、楽しさや破調に遊ぶ草書的いけばな、そういう感じを生かしたい。

ただし、品性はすべてのいけばなにおいて大切な文体だと思っていて、それを失うとスーパーの安売りのPOPや商店街の造花装飾に堕してしまう。

ヒラメキ 240831

2024/8/31

大和民族の純血と特権的地位を守ろうとした歴史もあるとはいえ、日本人はもともと中国大陸や朝鮮半島から文明や文化を取り入れ、もとの自分に混ぜ込んで新しい自己を確立するのが得意だった。服装や家屋、仏教や漢字、お茶やお花や書や楽器など、他文化を消化して自文化として育んできた。

温故知新とは、単に古いものは古いものとして、新しいものは新しいものとして別々に捉えるのではなく、新旧すらもハイブリッド化してしまう力強い思想だと捉えたい。

いろいろなものを混ぜこぜにする意義は、気付きのきっかけを提供することにあると思う。自分1人で考えていても、同じパターンから抜け出せない。若い頃、私はギターのFコードが押さえられず、暗い感じのマイナー・コードばかりで歌を作っていた。同じアパートに住む無口な住人が部屋に来て私のコード進行を褒めてくれ、私のユルくて不安定なピッキングが「ブルースに向いてる」と。そのまま彼と一緒に2人で下手なギターを弾きまくり、ブルースを知った。

いろいろな人や物事との出会いには、コード・チェンジのヒラメキが降りて来る。

華道のスタイル 240830

2024/8/30

華道が芸道として成立したのが16世紀、今から500年前である。

あるきっかけで、幸田露伴の『二日物語』のペーパーバックを買った。幸田露伴は1867年生まれだから、私より100年足らず年上だ。用語や句点の打ち方など現代の日本語のスタイルとまるで違っていて、とてもスラスラ読めたものではない。比較的簡単な部分を拾っても次の如くである。「汀凍れる衣川を衣手寒く眺めやり、出羽に出でゝ多喜の山に薄紅の花を愛で、……」

書き言葉の日本語のスタイルがたった100年でこんなにも変わってしまったことに比べても、日本人の生活空間や生活様式は、日本語のスタイル以上に大きく変わったようだ。そういうことなどと比べると、華道のスタイルの変化はとても小さく見える。華道の変化が歴史に追い付いていないとも感じられる。

伝統文化の範疇に入れられたことを、華道は喜んではいけない。いけばなも現代性で勝負できるようにならなければ、そのうちお蔵入りになってしまう。お蔵入りすると、もうデジタルアーカイブでしか見られない死んだ資料と化す。ポップさも必要な所以だ。

草月カリキュラムの旅 240829

2024/8/29

草月を習うカリキュラムは、私たちが人生で旅をするパターンに似ている。少年期は家の近所を走り回り、青年期に遠くを旅するようになり、壮年期には足跡を振り返り遠近取り混ぜて自己体験を総合する。

草月のカリキュラムは、テキスト1・2が少年期に相当する。型を学んで「いけばな世界」の骨格部分を身に付ける。テキスト3・4は青年期だ。人生のビジョンを立てられるよう、多彩な展開のしかたを学ぶ。テキスト5で、これまでのキャリアを総動員して基本型や応用型を咀嚼し直し、理解を深め、他人に伝えるための言葉と技を定着させる。

また、テキスト1・2の段階は一方的に教えられる立場。テキスト3・4の段階は花材と自分の1対1の対話が深められ、テキスト5は習い合う段階というか、教えあう段階というか、花と人・人と人・人と空間などの多元的関係になる。

そして、テキストをマスターした先には、その時どきに思うようにいけても、ちゃんと自他を幸せにする花がいけられているという具合である。そのレベルに達したとき、人生においても同様で、思うように生きることができる。

講師の事