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いけばな随想
diary

作品の大きさ 240426

2024/5/7

 いけばな展では、作品ごとに花席と呼ばれる空間が提供される。慣例的に、小作・中作・大作に分類されることが多く、出品料はスペースの大きさに比例する。
 だいたい、キャリアの浅い人が小作を出し、キャリアのある人が大作をつくる。県展や日展の絵画を見てもそのような感じがしないではないが、初心者で大作を出す人もいるらしいし、逆に細密な小品を得意とする画家も少なくない。
 学生時代に所属していた演劇部では、初めの頃、最大限の発声と大げさな動作を促された。小さな声の持ち主は大きな声を出せないが、大きな声の持ち主ならば小さな声も出せるという理屈だ。しかし、何か月か稽古を積んでくると、「お前の動作は大き過ぎる! 真の悲しさを表現したいなら、大げさに泣かず肩だけ震わせてみろ!」と、演出家からアドバイスが来るようになった。
 人が舞台に立つ芸術文化は、演じる人が等身大の身振りで精一杯演じる。千利休の茶道の世界では、茶室がどんどん小さくなっていった。映画だけは大きい画面で見たいが、いけばな作品は、必ずしも大きさが良し悪しに結び付くわけではない。

スケッチの効用 240425

2024/5/6

 スケッチといけばな作品との関係が緊密であることは、昨日述べた通りである。そして、スケッチは自分の作品制作に貢献するだけでなく、他人の作品を鑑賞する上でも相当役に立つ。
 というのは、作品をスケッチするように眺めることで、長さや角度、ボリュームや奥行など形状を大まかに把握しやすくなる上に、カメラに記録するだけでは気付かないことにたくさん出会えることから、制作の意図まで容易に想像できてしまうからだ。
 スケッチで捉えなおすよう鍛えた目で見ることで、写真に撮るだけでは漠然と見逃してしまう特徴をリアルに体感できる。「あの枝は重そうだが、どう支えているんんだろう」「あの花は宙に浮いているが、どうやって水を補給しているんだろう」というように、作品の成り立ちを探る目が養われる。それは決して一般的な見方ではないかもしれないが、疑問や納得の数が、結局自分のいけばなの上達のカギとなる。
 スケッチをすることは、いけばなを“目で見る”だけでなく“手でも見る”ことによって、自分と他人のいけばなが頭と体に沁み込むように理解できるようになる。

いけばなとスケッチ 240424

2024/5/6

 草月のカリキュラムの中に、イメージをスケッチしてから実際にいけるという課程がある。それが癖付けされていて、日本いけばな芸術協会の展覧会に出品した際にも、我々はちょっと雑ながらスケッチを描いてから臨んだ。そして、ほぼ計画通りに制作できた。また、日頃の稽古では、いけた自分の作品のスケッチを推奨している。
 なぜ、そんなにスケッチにこだわるのか? 
 草月のテキストの冒頭には、枝や茎の適切な長さが、花器の高さや広さと対比させて規定されている。そして、基本・応用の型では、枝や茎の方向と角度が規定されている。それさえ守っておけば、どんな花材を誰がいけても、それなりに“上手ないけばな”がいけられる。
 スケッチすることによって、忘れかけていた奥義を鮮やかに思い出すことができたり、自分が表現したいものが「線」なのか「マッス(塊)」なのか、それとも「色」なのかを、いま一度再確認する作業ができる。スケッチが事後であっても、自分の作品の出来栄えを、「ああ、うまくできた」というような感覚的・感情的にではなく、第三者の目で評価できるのである。

単純化を目指す 240423

2024/5/6

 私のように「あたまでっかち」は、何をするにもあたまで考えることが前のめりになってしまう。「下手な考え休むに似たり」という諺を地で行っているのだから、やりきれない。下手な考えは尽きることなく湧き出て、樹形図を描くように増殖していき、あたまの中がいっぱいになってついに混沌が訪れる。
 草月のカリキュラムには、「単純化の極」がある。建築でも映画でも、どんなに大規模であっても壮大であっても、組み上げられたピースの1つひとつは単純なモジュールであることが多い。複雑怪奇に見えるものであればあるほど、単純なモジュールの組み合わせだ。単純でないモジュールの組み合わせに取り組むと、サグラダファミリアの建築のように、何百年もかかってしまう。
 で、行き詰ったときこそ、単純化に立ち返るのがよい。あたまでは分かる。しかし、先般のいけばな展でも感じたことだが、人目に晒す作品は、たいてい単純化できていない。「単純な」作品を見せるのは恐怖でしかないのだ。あれこれ考えて、あれこれ足し過ぎてしまう。身につまされて理解できる。
 単純化は、憧れである。

花型(かけい)に戻る 240422

2024/5/6

 自分の居場所を特定するためには、世界を眺めて「相対的に」自分を省みなければならない。しかし、世界は動いているし、見比べる他人も動いているから、自分の居所も絶えず流動的である。世間の流行や見る人の反応に応じて自分の見せ方も変えたくなるので、ますます自分の位置取りは不安定になる。
 そんなとき役立つのがテキストであり、花型である。花型は「絶対的な」基準である。基準に対して、我々はなぜ? を問うてはならない。私は去る2月の昇格試験において、その花型の問題で躓いた。私のいけばなが定まらなかった所以である。そんな私が言うのも変な話ではあるが、花型に疑問を呈するには、家元と差し違えるくらいの相当な覚悟がいる。私はその必要を感じないので、(これからは心を入れ替えて)花型を基に、自分のズレを修正するばかりである。
 テキストや型は、私のように軽んじてしまう者も少なくない。また、そうでなくとも、一旦モノにしてしまうと邪魔なもののように扱われることが多い。
 しかし、不自由を知る者が自由を謳歌できるように、型を知る者が型を破ることができる。

講師の事