なぜ花をいけるか 240421
2024/5/5
24年前の私は、いけばなを立派にやっていると思っていたが、今から見ると思い違いも甚だしい。たぶん今の私も未来の私から見ると、いけばなの腕はまだまだ若造だ。
教える立場にあって、教えるその内容に自信がないというのは良くない。そう思うから少し勉強する。勉強すればするほど至らなさに気付き、少し自信を失う。「少し」しか失わないのは、能天気だからであろう。懲りずにまた少し勉強する。政治や経済の勉強はもうしんどい。経営や心理学の勉強は肌に合わない。
改めて、いけばなは? と問い直すと、それは人生の勉強にもなる。これぞ大人の習い事だ。いけばなで人生を噛み締める。そんな感じで拒否反応が生じず今日に至ったということで、ことさらな理由で花をいけているわけではない。
とはいえ、やはり教える立場なのだから、何か決めゼリフが欲しい。それが出ないとなると、二流三流の師匠ではないか! 他人のいけばなを見て「よいなあ」と思うと同時に、「もうちょっと、恥ずかしくないいけばなを見てもらおう」と思う。決めゼリフにならないままで、今日も花をいけてしまった。
空走り(からばしり) 240420
2024/5/5
今回のいけばな展の出品で、強く心に刻まれたことがある。一緒に合作した先輩の先生が、徹底して準備に気を配られたことだ。
結果的には用意した花材が余ったが、もちろん足りなかった場合には目を覆う悲劇的シーンが待っていた。余分だろうと分かりながら、それでも多めに準備した。また、使った鉄花器は黒い塗装仕上げだったが、先輩は事前に3度も塗り直して万全を期した。私は1回目にお手伝いしたとき、それでもう十分だと安心しきっていたのに。
そうだ、私は小中学校でサッカーをしていた。長距離走が得意で、いくら走っても疲れなかった。当時は何の考えもなかったけれど、大人になってから「空走り」の大切さを意識している。「空走り」は、低い確率ながら来るかもしれないチャンスをモノにするため、ムダとも思える走りを繰り返すことである。たまたま気を抜いて走っていなかったときに限って、惜しいチャンスが回ってくるものだということは、少年ながらに直覚していた。
大人になって、合理的で効率的な行動が求められることが多い。人事評価が下がっても、「空走り」は面白い。
お行儀 240419
2024/5/5
いけばなの展示は17日から19日まで。2日ぶりに自分たちの作品を見る。まあまあだとまずは自画自賛してから、改めて作品の出来を検討する。こうすればいけばなはもっと良くなるという秘訣が、実はいくつもある。
しかし、私自身の問題は、良識を持っていたい一方で、「良いいけばな」の反対に向かってしまう性癖があることだ。
おそらく、「良識のある真面目ないけばな」像というのが一方にあって、もう一方に「芸術を目指すベクトルの向こうにあるいけばな」像がある。世間的には、特に高校の華道部に期待されてきたいけばな像は前者ではなかろうか。ところが、私が24年前に草月への入門を決めたきっかけは、後者に属する作品に感化されたからである。良識の枠を破るパワーに惚れてしまったのだった。
いけばなの展示会場にも、私を引き付ける「お行儀の悪い」作品があって楽しませてもらった。そういう作品は、おそらく茶室のように綺麗な空間からは生まれない。画家のアトリエは、物と色に溢れていることが少なくない。混沌としていて、ゴミ屋敷にしか見えないアトリエもあった。
自分の作品批評 240418
2024/5/5
いけばな展では、たくさんの他人の作品が一堂に会すので、それらと比較して悔しい思いや得意な気持ちも持ちながら、それでも自分の作品はまあまあだったかなと、いいところを見つけて最後は自画自賛する。
いけばなは、線と色と塊でできている。うまくいかないときは、その全部を欲張ることをしない。線と色にこだわるとか、線と塊を対比させるとか、2つの要素に意識を絞る。それでもダメなときは、どれか1つに絞り込む。
今回のいけばな展は、合作での出品だ。展示会場の図面を見ると、背景が薄いピンクだったので、ピンクのグラデーションで表現しましょうという方針がまず決まった。濃いピンクに着色したルトジとピンクのアンスリウムを花材に選んだ。そして線は、太い藤蔓と細いアンスリウムの茎を組み合わせた。塊の表現は抑え気味に、ルトジとカスミソウでふわっとしたふくらみを持たせた。
完成後、会場を見渡すと、自分たちのピンクが目を引いていた。構成上の不足感はあったけれど、できるだけのことはやったと思う。他人の作品に対して批評家になっても、自分への批評は甘くなる。
日本いけばな芸術展 240417
2024/4/22
ハレの場である。出品者が晴れやかな服装で集まる。私は黒っぽいスーツに白Yシャツ、明るい紫の無地ネクタイで初日に臨んだ。着物の女性も多い。
順路に従って、会場全体を見て回る。大きく分けると、伝統を感じさせる楷書的作品と、新しさを感じさせる草書的作品があって、草月のいけばなは後者に分類されると実感した。良し悪しは関係ない。草月の作品は普段から見慣れているので、むしろ“古風”を感じさせる作品も魅力的に映った。
別の切り口で分類すると、展示スペースに対して大きい作品と、小さい作品があった。これについては一長一短で、前者は大きい作品が若々しい圧力で迫ってくるし、後者は周辺空間(余白空間)が、こなれた大人の余裕と静けさを感じさせてくれた。
本来、いけばなは「その場その場」にふさわしくいけるものだから、いけばな会場にふさわしくいけることが正解だとは思う。ところが、そのふさわしさがどういうものなのか、まだ解らない。
伝統的にいけるか新規性を目指すか、作品を大きくいけるか空間を大きくいけるか、迷ったままで次のいけばな展を迎えそうだ。