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いけばな随想
diary

内面的作業 250430

2025/5/3

 大枝を1本切るのは、手作業においても内面的作業においても“大事業”だ。手作業では小枝を1本切るのとは比べ物にならない握力がいる。内面的作業でも全体のイメージを決める大きな覚悟がいる。小枝を1本切るときは気軽にチョキチョキだ。
 ところが、いけ終わりの最終段階に差し掛かると、小枝1本を切るか、曲げるか、そのまま残すかという見かけの小さな選択において、決断という内面的作業は大仕事になる。細部に神は宿るからである。それはダンサーの右手の中指1本の開き加減、曲げ加減にも匹敵する。
 だから細かい部分であったとしても、その見え方には当然内面の心の働きが如実に表れている。私の腹回りは最近日に日に大きくなっていて、これはどういう心の働きが表れているのだろうかと思うこともあるが、忘れていることの方が多いからそうなっているのである。つまり、心の働きとは関係なく(というよりも心の働きが足りていない証拠として)、外面的変化が生じていることもあるという事実は見過ごせない。
 そういう配慮の足りなさが、いけばなの場合、細部だけに止まらず表れる。

華道的な何か 250429

2025/5/3

 何かの本に、願うのではない祈ることの価値が説かれていた。願いは個人的な欲求に通じやすく、祈りは利他に通じると。
 倫理に正面から向き合うそのような教養とは別に、理屈を離れてインスピレーションによって解に至ろうとする禅問答のような仏教的態度もある。たとえば「得ようとして追いかけるほど逃げていき、捨てようとして追い払うほど付いてくるものなーんだ」みたいな。
 そこまで謎々めいてなくて、勅使河原蒼風とイサム・ノグチとのやりとりに「松をいけて、松に見えたらだめでしょう」というのがある。これなんかは人によって様々な解釈が可能だが、それでも何となく共有できる着地点がある。わかりやすさにおいて、これは多分いけばな的な着地点で華道的着地点ではない。このように見てみると、昔の華道はより仏教的(とりわけ禅的)で、現在のいけばなは宗教性や精神性の着物を脱いで、芸術性の洋服をまといつつあるというところか。
 いけばなをやりつつ、プチ華道的に3つ書いてみよう。「切れば切るほど生かすことになる」「足せば足すほど消えていく」「見えないものを見よ」

何が神秘的か 250428

2025/5/2

 いけばなと呼ぶとき、そこに神秘性は感じられない。ところが華道と呼ぶと、神秘的な「何か」が宿されているように響く。それは、室町時代くらい昔の人にとって、禅に通じる「何か」があったからに違いない。この「何か」があったという漠然とした気持ちを、私はずっと持っている。
 オイゲン・ヘリゲルという人に『弓と禅』という本がある。日本人にも観取しにくい日本人の精神性を、著者は母国語のドイツ語によって追究しているため、追究の過程を再び日本語に翻訳し直す往復作業によってますます難解さは深まっていると思う。
 それで、読めば読むほど(言葉で理解しようとすればするほど)本質から遠ざかるという逆説的で悲劇的な事態に陥るのだが、ヘリゲル氏は実際の弓道の修行によって実体験を綴っているから、読者も本当は実体験しながら読み進めなければ「わかった!」という境地に至らないというのも絶望的な理由である。
 そしていま、高校に華道部はあるが、華道ではなくいけばなを教えている。そこでは、神秘的な何も教えようとはしてない。私は再び、彼らと共に初心者を始めている。

見つけるもの 250427

2025/5/2

 習い事は、習う側が一方的に受け身で習うものではない。逆に教える側は教える一方ではなく教えられることも多い。師弟間には対話があり、時に役割が入れ替わる(言葉だけでなく、見る=見られるという関係も含めて)。
 師弟というのは便宜的な役割分担だ。その場のその時にたまたま担う役割で、恒常的なものではない(先輩後輩関係は不変でも、師弟関係は流動的。人はそれぞれ成長速度が異なり、弟子が師匠を追い越すことは普通に起こり得る)。
 また、師匠はいつも全てを語ることはしない。全てを語るためには一生が必要なので、その時語るべきことだけを最小限に語ろうとする。弟子が最大限を得ようと思うならば、師匠が語ることの外に自分で見つけ出さなくてはならない。
 また、師匠には語ろうとしても語れない限界がある。花鋏の使い方については、見せることしかできない。だから弟子は教えられるだけでは身に付かず、自分で使いながら発見していくことが上達するためには必要だ。教え方が上手な師匠が理解力のある弟子に教えると、その弟子は自ら発見するチャンスを失うこともになる。

表現力 250426

2025/4/27

 友人のベリーダンス公演に出掛けた。ベリーダンスの公演を観るのは3回目で、真髄を味わうところまでは親しんでいない。けれども2回目のときにチャンスがあって、ステージ脇に270×180cmの絵を描かせてもらった。描くためには具体的な落とし込みが必要なので、1回目のときの動画や写真を見て、ポーズや衣装などを観察し直した。
 その経験が功を奏して、今日の公演では先生をしているのがどの人で、習っているのはどの人かというのが概ねわかった。表現力に差が感じられたのである。
 いちばん大きな差は目線だ。上手い人は客席の遠くの端っこと最前列と、その両方に目線が行ったり来たりする。習い始めの人の目線は泳いでいる。2つ目は表情の豊かさで、1曲の中でも変化が多くて大きいのが先生。3つ目は指の動きの大きさと指先の緊張感だ。習っている人の中にも上手で笑顔の魅力的な人は多いが、3つが全部備わっているのはやはり先生格だ。
 表現力とは何かを改めて思い返す機会となったが、いけばなの花材もダンサーと同じような振り付けができると、声援や拍手をもらえるだろう。

講師の事