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いけばな随想
diary

いけばな効果 250215

2025/2/16

 今晩の集まりで「食事会」と銘打った飲み会があった。老舗ではあるが、現代的なメニューやサービスを提供して価格もリーズナブルだから、一定の評価を得ている店が会場だ。
 襖で仕切られた個室で、まず目に付いたのがいけばなだった。おお、ちゃんとした設えであるなと感心しつつ、生花のいけられた青寂びた花器が私の趣味にドンピシャだったのが嬉しかった。残念だったのは階段の踊り場の「造花100%」物件である。各部屋のいけばなのおもてなしに対して、あまりにも油断が過ぎるのではないか?
 知人が「仙味エキス」という隠れた愛媛の注目企業を訪問したら、いけばなが目に入って嬉しかったという。彼はそれで「もてなされた」と感じることのできる人間だったので、もてなした側も逆に「意を汲んでくれてありがとう」と嬉しいに違いない。
 お客様は高額なスリッパを出してもらっても、それを特に愛でることはしないだろう。お客様は高級なソファに座らされても、それで特に「ホホウ」とは唸らないだろう。いけばなは、それが一輪であったとしても、主客が意を交換する素晴らしいアイテムだ。

大量生産に向かない 250214

2025/2/14

 セント・バレンタインデーにあやかった業界主導のチョコレートデーは、商業上の大成功である。商業化されることと大量流通とは、ほぼ同義的になった。そしてあらゆるジャンルの大量生産が高度成長期の姿だった。
 ところが、大量生産・大量消費に疑問を持つ人も現れ、それに反応した業者は何でもかんでも「手づくり」をアピールする戦術を取った。手づくりに定義はないので、工場での大量生産の煎餅にも「手づくり」と標記され、消費者もそれで納得していた始末。結局、高度成長期に合わせて成長した世代は、大衆として大量生産社会に馴染んでいたのだった。
 ところが最近の若者は、ファッション表現においても自由度が高い。マスメディア離れをしているせいか、好みが非常に個人的だったり小グループ的だったりするようだ。
 そんな彼らが関心を持ってくれれば嬉しいのだが、いけばなは大量生産に適さないジャンルの代表格だ。2つとして同じものはない、2度と同じことを繰り返せない、仮に技術があったとしても、2度と同じ花が手に入らない。これは料理も同じで、レシピ通りになりはしない。

花を愛するように 250213

2025/2/13

 さぞかし花を愛していらっしゃるんでしょうね……と言われて、私は実家の庭を愛しているかもしれないが、人間以上に花を愛しているとは思えなかった。庭を愛しているのはそこに親兄弟と過ごした思い出があるからで、庭木の1本にも愛着があるのはその木から過去のあれこれを思い出せるからだ。あくまでも愛する人との関連において花を愛している。
 しかし、赤の他人より飼っている猫に対して愛情を感じるように、縁のない人よりは庭木の方を愛しているかもしれない。それより何より一番大事なのは自分である。大事な自分が愛している相手だから愛せる。そんな自分が愛着を感じる対象だから、花は大切に扱いたい。そのようなことで、私は花を半分くらい愛している。
 さて、愛は暴力という形で表れることもあると広く知られているように、私はしばしば花を傷めつけるかのような行為に及ぶことがある。むしり取る、折り曲げる、切り刻む、剣山に突き刺す等々、他人が聞くと本当に暴力的な危ない人かと思われかねない。いえいえ本当に愛しているんです、と言えば言うほど倒錯者かと疑われそうだ。

文化って何? 250212

2025/2/12

 1984年頃の『日本細末端真実紀行(椎名誠)』を引っ張り出してみた。渋谷の「スペイン坂」をこき下ろす記述や、ファイヤー通りに「文化屋雑貨店」ができた話などが載っていた。ちなみにラフォーレ原宿の開店が1978年。80年代にファッションのメッカは渋谷に移る。83年にラフォーレ原宿松山店が開店。追いかけるように「文化屋雑貨店」もロープウェー街に開店したような……。
 当時、愛媛には文士中心で60歳前後の教養ある文化人と、学生運動を経験した40歳前後のアングラ文化人と、我々20歳代のファッション指向の偽文化人がいた。昔の文化人は芸術への造詣が深く、社会問題にも高い関心を持っていたが、私自身を振り返って思うのは、非政治的な性格が強くなって趣味に遊ぶ役立たずの側面を強くした。
 そして、株式会社東急文化村によるBunkamuraの開業が1989年。それに先立つ1986年に愛媛県県民文化会館が開館し、1991年には愛媛県が「生活文化県政」を謳った。1994年には松山市文化協会が発足している。政財界挙げての文化ブーム到来だ。そして私がいけばなを始めたのが2000年であった。

建国記念日 250211

2025/2/11

 今日は愛媛縣護國神社の「皇紀二千六百八十五年建国記念日祭」に代理参列した。こう書きながらも、どういうふうに尊敬語を使うのがふさわしいか、自分に腹が立つくらい分からない。
 国会議員の靖国神社参拝が問題視されるに至ってから、大手を振って参拝しにくい感がある。覚悟を決めて詣でる必要があるというか、そんなことを悩むこと自体が馬鹿げているというか、なんとも生き辛い世だ。そして近年は、国旗を掲揚したり「君が代」を歌うことにも配慮というより遠慮が必要なのである。高校野球を応援するように、自分が生まれ育った土地や人に思い切り愛情表現できないものか。
 今日の式典では、2月1日に私がご奉仕した本殿の献花がまだ何とか生きていた。後の祭りだが、こんなことと分かっていたらもう少し“立派な”花をいけたのに。私は本当に漠然と“神様”に献花させていただいたに過ぎなかった。
 帰宅後、私は母方の祖父を思った。第二次世界大戦のとき密告で投獄され、それがきっかけで体を悪くし、私が生まれるよりも前に他界していた。それはそうと、今日は亡父の誕生日である。

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