醗酵 240917
2024/9/18
発酵については以前にも書いた。しかし、その時よりも発酵が進んで「醗酵」の文字を使うくらいだから、もうちょっとマシな考えになっていて欲しいと思う。
思い付き段階の考えを、自分1人の頭の中で急いでまとめてしまおうともがいても、決していいものにはならない。そのままでは、自分の限界領域を突破できないからだ。何か“酵母”の助けが必要だ。そして、働きの良い酵母は、たぶん思い掛けない所に潜んでいて、それは遠い近いということではなく、本当に思い掛けない所にずっと前から潜んでいるのである。
そんな酵母に出会うと、さあ、醗酵が進み始める。危うく腐るかもしれなかったアイディアや企画が醗酵して、とても美味しいアイディアや企画に成長していく。ウィスキーならば48~72時間くらい。ここで焦ってはいけない。醗酵に加えてもう1つ必要なのは熟成時間である。どれくらい寝かせるかというと、ウィスキーならば木樽で3~15年くらいだ。
いけばなも同じで、いける以前にイメージを醗酵・熟成しておくと、いける際に底力を発揮する。木樽の代わりが私たちの体と頭である。
奥義 240916
2024/9/18
むかし何かで読んだことがある。免許皆伝となった者が、師匠から巻物の奥義書をもらう。装丁も立派で、さぞかし多くの秘技秘術がまとめられているだろうと期待して開くと、中は白紙であったと……。
むかしの師匠は、教え惜しみを常套的に行っていた。質問されても「お前には、まだまだ早い」とすげない。弟子が疑問に思うような、一見関係ないような訓練を課す。弟子は不信に陥るかもしれないが、師匠にしてみれば最も効果的な、段階的な方法を検討し尽くしている。
秘術というのは、秘しているわけではない。あるステージに至らない者には見えないだけである。より高次の段階に至った弟子には、「秘すれば花」が効果を持つ。師匠が秘した花を、弟子はもう探し当てる技量をモノにしているからだ。教えられなくても、見つけられる。
さて、奥義書は白紙である。いけばなの世界にも、流派によって「奥伝」と呼ばれる書物がある。何かが記されていれば、それは奥義書の一歩手前の教えだ。奥義を身に付けた者は、師匠の教えそのものではなく、師匠を一歩超えた何かを教えられる境地に至っている。
夢の啓示 240915
2024/9/18
白日夢が、啓示であるかのような鮮明さで半覚醒の私に降りてきた。私が尊敬する華道家であり演劇界の寵児でもある架空の“彼”が、その夢の主人公だ。
私は“彼”の演劇ワークショップに参加して、配布されたプリントを斜め読みしていた。ワークショップの内容は記憶に残らないまま終わってしまい、参加していた女性の1人から彼の理論の重要点を教えてくれと頼まれた。周りに誰もいなくなっていたことで、仮に間違ったことを言っても咎められることはないと安心して、さっき読んでいたプリントの内容を要約して聞かせることにした。
“彼”が著作や芝居の台本で繰り返し書いていることは、自分の作品には「共通項がある」ということだ。それは、心の笑顔を表現しようとする態度が一貫していて、相手が重く暗い心を持っていた場合、それから解放してあげられなくとも、一瞬の笑顔がその人の心に灯されることを願っているというような内容であった。
私は夢の中で、彼女に対して淀みなくしゃべった。しゃべりながら、その言葉が自分の頭に刻まれていった。私のいけばなが、変わるときだろうか。
念ずれば花ひらく 240914
2024/9/18
坂村真民さんの詩集のタイトルである。これは、一生懸命に念じて努力すれば願いは叶うというような意味に解釈される。そして、それ以上でもなくそれ以下でもないと感じていたから、詩集を手に取ったこともなく過ごしてきた。ただ、花という語には敏感だから頭に残っていた。「諦めない限り失敗ではない」という松下幸之助の言葉も自分自身に対する暗示で、当たり前と言ってしまえばそれまでのことである。
いま、ふと考えたのは、「念ずれば花ひらく」で「ひらく花」は自分自身のことを指すのではなくて、自分が対象とみなしているものが咲くのかもしれないということである。
あの人が成功しますように! と念じることが、少なからず良い結果を生んでいることは、親が子に対する念じ方が大いに作用しているだろうことからも類推できる。かといって、子には子の人格があるから、親の思うようにもならない。
いけばなは、そういう芸術なのではないだろうか。生花という材料は、御しがたい猫のようでもある。愛情の注ぎ方に比例するような簡単な話ではない。そしてまた、そうだからこそ面白い。
風に乗る 240913
2024/9/16
風船唐綿(フウセントウワタ)の花は白く小さくてかわいい。花が萎れると、花だった部分は毛の生えた緑色の小さな風船に変化し、それはみるみる5cmを超える大きさになり、その奇妙に動物的な姿はなかなか言葉で説明しかねる。その中には何十個もの直径2mmの黒い種を宿す。数えたことがないから、ひょっとしたら百個を軽く超えているかもしれない。その種の1個1個には白銀に輝くミクロン単位に細長い産毛が密生していて、タイミングを計って外皮の風船が割れ、産毛のパラグライダーが微かな空気に飛行して、無重力かと見える様子で漂い運ばれていく。
動物は、積極的に動くことで生を掴み取るが、植物は違う。人間は、自分で考えて自分で動けないと学業や運動の成績は伸びないと思ってきたが、ひょっとしたら、人間も自分で飛ぼうとせず、風を掴み風に乗って飛ぶことが、その人生をよりよく送るためには大事なのではないかと思う。
風に乗るのは他力本願ではない。風を読むのも風に乗るのも難しい。空気の動きを観察し予測して、勇気をもって飛び乗ること行為は、すべて自分の意思による。