国際的いけばな 240823
2024/8/23
世界を知るために、少年の私は世界地図帳で勉強した。世界を知るために、英語も勉強した。そうやって知識を広げてきて、大人になってからは実際に外国へ行ったり、ホームステイを受け入れたりして、拙い英語でコミュニケーションを取る努力もした。
知識と体験で少し世界を知ったとき、足元の日本のこと、身近な松山のことをあまりに知らない壁に当たった。京都のことも福岡のことも知らないし、新居浜のことも宇和島のこともあまり知らなかった。地理的なことだけではない。天皇制のこと、自衛隊のこと、茶道や歌舞伎のこと、神楽や密教のこと、浮世絵や源氏物語のこと、歴史も伝統文化も知らなかった。華道にも床の間にも興味はなかった。
知りたいという欲求は、関心を広げていく作業と、狭めて深めていく作業の両方によって満たされる。広げないと相対的な位置取りが見えないし、深めないと語るに足りないということになる。
パリ五輪で、柔道の審判やその判定に意見が噴出したが、国際化においてそうした現象は想定内でなければいけない。いけばなの国際化も進んでいて、華道も変化する。
文化的いけばな 240822
2024/8/22
文化的な過ごし方というと、まず浮かぶのは読書だ。私の読書生活の最盛期は、中学生の時。吉川英治の『三国志』『宮本武蔵』『新・平家物語』等の大部を、夜な夜な読んだのもこの時期だ。私が理屈っぽくなったのは、文字へのこだわりが強過ぎたからかもしれない。度を超えていたため、家族から「屁理屈マン・キング」と呼ばれてもいた。
読書の次は習字で、小学2年から中学3年まで毎週通った。墨の香りが沁み込んだ部屋の縁側にはカナリアの鳥籠が吊られ、襖を隔てた隣室は琴教室だった。都合8年間、文化的な字と音と香りの洗礼を受けたと思う。
美術部員で過ごした高校時代は筆のすさびで終わり、大学の演劇サークルでは舞台美術も担当したが、雌の烏ではなく女烏の役で歌わされもした。そして20歳からは、前衛ロックバンドを組んだ。
こうしたキャリアが幸いして(災いして)、私のいけばなは叙述的である。語り口が多過ぎる説明的ないけばなだ。我ながら恥ずかしく思うけれど、屈折して理屈っぽい。昔から、文化人というのは鼻持ちならないと嫌われてきたように、文化人は複雑なのだ。
健康な花 240821
2024/8/21
暗い花の反対は、明るい花。不健康な花の反対は、健康な花。一般的に好まれるのは明るく健康な花で、就職活動に向かう学生にも、明るく健康な表情や見かけを整えるよう指導される。先日、フランスの俳優アラン・ドロンが亡くなった。彼の魅力は美男子であり且つ憂いや狂気を秘めていたことで、完全無欠の絵に描いたような好男子でしかなかったならば、あれだけの人気を博すことはなかっただろう。
葉っぱを齧られた庭木を、不完全だということもできれば、虫が食べたいと思ったくらい健康な花だと見ることもできる。農薬等に守られて健康そうに見える切り花を、ほんとうに健康だと言い切れるかという隠れた問題もある。
さて、松山市内には、フィットネス施設がどんどん増えているように感じる。美容と健康志向が進行している証拠だろう。これは、不健康でない自分を保つための節制行動なのか、より健康的に見せたい欲求のための消費行動なのか?
精神的健康を志向する人ならばこそ、不健康で暗い美術やいけばなを、感性的なワクチンとして定期的に注入することが有効だと思うがどうだろう。
暗い花 240820
2024/8/20
我々の暮らしの様子を眺めると、何か価値あるものをつくり出すことが称賛され、その価値の高さを証明するエビデンス! が極端に求められるようになっている。食品も、漠然とした美味しさよりも、明確な機能性の優先度が高い。芸術についても、著名なプロか無名のアマチュアかに二分されたり、情報発信量の多さによって評価が得やすい。個人の家にひっそりといけるいけばなと、衆目を集めるデパートのエントランスを彩るいけばなとの間にも、偏った見方や評価が下される。
いけばなに侘び寂びの精神があったというのは、昔日の話になってしまったのだろうか。多様性を良しとするポーズとは裏腹で、いけばな展においても、侘び寂びに向かう表現をすることに私は怖れを感じる。
いけばなは、それにふさわしい場にいけるか、場に合わせていけるか、どちらにせよ場を無視できなくて、展覧会の場もその捉え方が鍵となる。一般的な意味での装飾性の低いいけばな、不健康で暗いいけばなは、あえて展覧会に出すことが不適切なのかどうか、自信がないままに出すか、それを避けるか、私は逃げ腰になる。
ノイズ・ミュージック 240819
2024/8/19
1980年代後半、ラフォーレ原宿・松山に提案して、「ラフォーレ・アートパフォーマンス」というアート・イベントを行った。落葉をかき集めて作られた2人掛ソファは、展示翌日に大量の生きた芋虫を吐き出すなど、幅広く意表を突くような作品もあって面白かったし、アートって何? というのを再認識する機会を得た点で、自分にとってありがたかった。しかし、ファッション産業の旗手を自認していたラフォーレの意向にそぐわなかったためか、3年後に大広という広告代理店に仕事を持っていかれた。
当時、学生の時から付き合いのあった友人がノイズ・ミュージックにはまっていて、楽器演奏以外の生活音を拾い集めてハイブリッド編集し、デモテープを海外のラジオ局などに送っていた。少し飽きたのか、数年後にはその話題は彼から消えた。
人は他人と異なる表現を目論むとき、とんでもない材料を使いたいけれど、結局は現実的な落とし処を見つけて妥協する。
私のいけばなも、構想段階ではものすごい作品が空想されるが、その思いが一旦舞い上がった後、面白くない沈降曲線を描いて軟着陸する。