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いけばな随想
diary

好きな花 250414

2025/4/16

 先日、花の仲間で集まった時「好きな花は?」という話題になった。私はポピーだ。オレンジがかったピンクの花びらは蝶の羽のように薄く、細長く弱々しい茎が2つに分かれて、一方の茎先は少し垂れて蕾をつけている。風が吹くと折れてしまいそうだ。しかし、葉は下の方だけにあるため実際には風の抵抗をあまり受けることなく、大揺れしても折れることはない。海の中の海藻が折れないようなものかな? と思ったりする。
 ポピーの呼び名が一般的だけど、これは芥子の花でケシ科ケシ属である。原産地はシベリアやモンゴルで、私は子どものころから夜見る夢にモンゴルの平原が現れていたくらいだから、その夢の風景に揺れているポピーを思い描くともう堪らない。
 さて、ポピーの次に好きなのはラナンキュラスだろうか。こちらはキンポウゲ科キンポウゲ属だ。茎の細さはポピーと似ていても花びらの巻きが多く華やかで、私よりも蜷川実花さんが好きそうだ。私は桜にしても花びらは少ない方が好きで、八重桜は二の次という感じ。
 で、驚いたことにポピーの花が1輪、庭に突然咲いていた。吉兆である。

初心 250413

2025/4/14

 今日、20代前半の男女2人がいけばなを体験しに来てくれた。準備が不十分で、枝もののストックは十分にあったが花ものが皆無だった。あり合わせで進めていくほかはなく、1人は八重桜の1種で、もう1人は八重桜と桑での体験制作とした。
 私としては花がないことで申し訳ない気持ちと枝ものだけでいける難しさを思って心配だったが、当人たちは全然困っていない様子で、自分は今日これをいけるんだ! と曇りのない笑顔で花材と私を交互に見ながら目を輝かせていた。花器選びは3分で終わり、花鋏の持ち方1分、枝や茎の切り方1分、剣山の使い方1分……と作業はスムーズに進んでいく。
 本来は花をいける指定の部分もぜんぶ枝もので代用していき、なんと30分そこそこで基本花型を綺麗にいけ終えられた。自分の教え方が天才的だった可能性もゼロではないが、体験者の方にまるで迷いがなかったことの方が数倍大きい要因である。
 何しろ見比べる知識も経験もないから、先生が教えてくれることは正しいという前提で素直に臨んでくれる。責任重大ではあるが、こちらもホッと胸をなでおろした。

自分の置き場所 250412

2025/4/12

 水盤に花をいけるとき剣山の位置は重要で、基本的には立真型は手前の方、傾真型は奥の方に置く。出来上がったいけばなをどこに飾るかはそれ以前に決めておく問題で、居宅であれば床の間や玄関、応接間やリビングルーム、寝室やトイレ、食卓や書斎など選択肢は多い。
 生活の場でないとすれば、次に考えられるのは職場や店頭など仕事の場ということになる。これらは自分や自分たちのためにいける場合で、請負業務のいけばなの置き場所は相手様次第なので、考えても際限がない。
 そうやっていろいろな花材や剣山の置き場所、出来上がったいけばなの置き場所を検討していくのだが、神社にいけるようになって考えるのは自分自身の置き場所である。
 いけばなをする者として最善を尽くしたいとは思う。しかし正直なところ、慰霊と言われても実感が湧かない。自分の心を持て余して、遺族会の方々の傍らにいながら自分の心の置き場に困っているのだった。たとえば『南総里見八犬伝』では「仁義礼智忠信孝悌」が諭されていたが、強いて決めつけて「礼」という気分を感じるよう自分に言い聞かせていた。 

花と空間の大きさ関係 250411

2025/4/11

 日常的な騒がしさには慣れっこになって存在を忘れているのに、私の住まいの近くの高校も、私の実家の近くの中学校も、入学式では生徒に加えて親御さんの数が多く、声に声が重なってウワンウワンと膨らんだ反響が外に聞こえてきた。ものすごい人口密度だろうと想像できた。
 逆に春休み期間中は、先生方も大きい声を出す必要がないからいるのかいないのかわからないくらいで、学校じゅうが静まっていたから、野球部やバスケットボール部などの練習の声だけが目立って響いてきていた。
 今月に入ってから、松山市中央郵便局の展示ボックスに輪番で花をいけている。人によってはそのボックスを大きいと感じ、また小さいと感じる人もいる。みんな、いけばなの大きさをどうするかを迷うのだが、そういうとき私はたいてい後で後悔する。「ほどほど」に仕上げてしまうからだ。
 目立つかどうかを問題にしたいなら、衣服でも小さ過ぎたり大き過ぎるものを着ると人目を引く。ちょうどいいのが一番目立たない。しかし一方では、最高にドレッシーにぴったり仕上げられたら、最高の称賛を浴びることができる。

花吹雪 250410

2025/4/11

 神社の献花の一部を撤去していると、低気圧の接近に伴って風が吹き始めた。西の空から雨雲が近付いてくる。東屋の風除けの幕がハタハタ鳴り、桜の古木の枝も揺れて花びらが舞う。暗い灰色の空を背景に、少し恐ろしいくらいに桜の花びらの1枚1枚の色が際立つ。その時はもう地面は散った花びらに覆われつつあった。
 風の強さは一定しない。吹き止んだかと思うと地面を這ってきた風がブワッと本殿の瓦屋根に吹き上がり、一瞬渦を巻いて向こうに消えて行く。見惚れるばかりの舞台である。
 野にあるように花をいけるのはナンセンスだと思っていて、私は人間の手による表現をするからこそいけばなと呼ぶのだが、いくら偉そうに言っても風の手によるいけばなに人間の手によるいけばなは敵わない。黒澤明の映画ではススキの原野での斬り合いが描かれたり、勅使河原宏の映画では竹林に消えゆく千利休が描かれたりしたが、これらも風に舞う桜吹雪と同様、人間の個の力ではとうてい太刀打ちできない表現規模なのである。
 そんな自然的空間に置いてさえも人目を引くいけばなを、やれるもんならやりたい。

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