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いけばな随想
diary

パリ五輪 240729

2024/7/29

パリ五輪開会式の評価の中には、「演出が華やかでなかった」という否定的なものも多かった。「雨の中で選手がかわいそう」というのもあった。賛否両論、たくさんの意見が噴出するのは良いことだ。ただ、何に対しても、直情的で安直な否定的意見が増え続けているのは気になるところだ。

また、ある競技のTV中継の解説者が、「チョーかっけー」とか「ムチャすげー」と思わず口走っていた。そして、それに続く言葉といえば技の名称だけだったので、それこそAIにやらせろよって話である。

単語2つ3つの組合せで短文コミュニケーションを行うモバイル・コミュニケーションの普及は、YES OR NOで一刀両断、素早く事を済ませる風潮に拍車をかけている。長文思考しかできない私の立場はヤバイのだ。

いけばなも、ともすれば「きれいな花ね」で終わる。長文的評価を煽るようないけばなができないものか。数億円で取引されるような巨匠の彫刻は、確かにあれこれ考えさせる。それは、制作時間が長く、消費した労力が大きいからだろうか。5分でいけた花は10秒で評価されて終わるのだろうか。

機械仕掛け 240728

2024/7/29

スタンリー・キューブリックの映画『機械仕掛けのオレンジ(英語のスラングで“超ヘンな奴”)』の、「機械」「仕掛け」という2つの魅惑的な言葉に誘惑され、中身はともかく、青年の私は映画館に入った。その後は、『天空の城ラピュタ』『ハウルの動く城』など宮崎駿の一連の作品で、めくるめく機械仕掛けの描き込みにむせび泣いたものだ。

さて、AIとかデジタルというと、よそよそしくドライな距離感がある。機械というと、鉄の冷たく重いクールな実体感や、肌で直接触れられる安心感もあるし、仕掛けという言葉には、人間の行為を伴う味わいが溢れていて、私が「機械仕掛け」を好きなのは、その両者を合体させたところの人間味溢れるアナログ感覚が凝縮しているからだ。

いけばなは、ナチュラルな花材を思い浮かべた印象としては柔らかい。しかし、ワイヤーや接着テープ、電動工具など、思いのほかハードな工作ツールも多用する。

私自身はいけばなに機械仕掛けを仕込んだことがないが、草月の初代家元・勅使河原蒼風には鉄の廃材を使った機械仕掛け的傑作があって、とても素敵なのだ。

人工的なモノ 240727

2024/7/27

私の子ども時代は、メンコやビー玉、銀玉鉄砲やブリキの玩具などが全盛で、学年が進むとプラモデルやリモコンカー、ミニチュアカメラや安物の天体望遠鏡などが宝物となった。夏休みには、昆虫標本をつくることと、天井からテグスで吊られグルグル回って飛ぶウロペラ飛行機に熱中したりした。水面や水中で動く潜水艦模型も楽しかった。

少年の私にとって、昆虫の世界も天体も、空や海なども、広い自然界は未知のアドベンチャー・ワールドで、それと同様に人工的な機械仕掛けの世界も謎に満ち満ちたワンダー・ワールドだった。

草月カリキュラムには、異質素材の扱いを学ぶ課程がある。いけばなを始めた頃、異質素材を使うのは邪道ではないかと感じ、そういう作品を見ると嫌な気分になった。自然に枯れたり風化したりする材料を使うことが良しであり、なかなか腐らない人工物を使うことは悪手だと思っていた。

しかし、花器も人工物ではないか! 自然由来の花材と人工的な材料を融和させることこそいけばなの醍醐味なのかもしれない。今はそう考えて、その両方を同格に扱うよう心掛けている。

抽象化 240726

2024/7/26

花にはそれぞれ名前があって、同じヒマワリでも一重咲きから八重咲のもの、小さな一輪から大輪まで同じ個体が1つもない。しかし、その一輪一輪にこだわり過ぎると、いけばながいけばなでなくなり、花屋さんの花の陳列になってしまう。

絵具のように売買される工業製品ではないとはいえ、花はいけばなにとっての材料である。しかし、日本人は米一粒もおろそかにしない民族だから、単に材料だった花一輪にこだわって、擬人化したり神格化したりするし、そうでなくとも大事に扱う。花一輪を切り難いし、捨て難い。

昨晩、バー・コンアルマにいけた花は、リンドウ(濃青)、デルフィニウム(水色)、アジサイ(白)で、花器は土台部分が白、筒部分が水色だった。青と白のツートーンで抽象的に仕上げることを初めから意識して取り組んだ。意図はまずまず達成したと思うが、リンドウのリンドウであることを無化し、花器の花器であることを無化することは、相当意識的でなければならない。

花一輪に思い入れが生まれると、抽象化は迷走する。そうすると、なくした方がいい花を残して台無しになる。

離島の分校 240725

2024/7/26

昨日の愛媛新聞の第一面に、岐阜県から愛媛県の離島の分校に進学した、1人の高校生の記事が載った。この話題が第一面に掲載されたのは、新聞社としても相当に気持ちが入ったのだろうし、分校も島も嬉しかっただろうことが想像できる。

小学6年時からその分校に憧れていたという彼女の情報への接し方、感じ方、行動力、価値観等々、記事を読んだ私も驚きと共に嬉しくなって、妻に読み聞かせたくらいだ。

グローカルという造語は20年も前から使われていたが、「地理的に国境を越えたインターナショナルさを備えた地域的視座」くらいの意味合いだった。彼女の場合は、縦横斜めに複数の次元を一気に突破し、時空も思想・哲学も超えた本物のグローカルさだと感じた。

私は、田舎を賛美する傍らで都会に憧れ続けてきた。田舎には何か不足があり、都会には充足があるように洗脳されていたことを否定できない。いけばなというものが都会的趣味に陥ってはいけないし、田舎だからどうだということではなく、花材も花器も、センスも状況も、ハイブリッドでグローカルな取り組みの土俵にしたいものだ。

講師の事