小さく変身する 250423
2025/4/24
お稽古のとき、生徒さんたちの間で作品の派手さや地味さ、侘び寂びなどの話が交わされた。せっかく花をいけて飾るなら華やかな方がいいじゃないですかという主張は頷ける。しかし、私は派手さを抑えたスタイリッシュなのが好き……と言いつつ毒々しいのも好きだから、自分の好みですら一語では言い当てられない。
相対的な関係で左右される感覚を固定的なものにはしたくないのである。たとえば、暗いところのわずかな明かりの方が、明るいところの強い明かりよりも明るく感じられる。
出来上がったいけばなを、自分が小人のように小さくなって見上げていると想像してみる。不思議の国のアリスのように自分と世界との大きさ関係が変わったら、見ている物が同じでも見えている印象は大いに違うはずである。
華展会場に並んでいる花を見るとする。作品の大小は変えられないから、自分が大きくなったり小さくなったりするイメージで見てみる。小さい作品よりも大きい方が目立つと思いがちだが、イメージの中で自分自身を小さくするならば、侘びたいけばなですら派手がましく見えるというものだ。
決まり手 250422
2025/4/23
楽なほうに流れるのは簡単で、一度流されたら二度と戻って来られない。これは、川カヌーや海カヤックをしていた頃の教訓だ。敢えて困難を克服する気概を持って事に当たれば逆にうまくやりおおせるというのも、表裏をなす同じ教訓である。これを日本人全体に当てはめるのはよくないが、それでも多くの日本人がこの考えに共感するだろう。
シンデレラや桃太郎のような世界中の童話や説話からもたらされる教訓も、困難を乗り越えた先にハッピーエンドが待ち構えている。
いまの日本人は知らないが、かつての日本人はこの手の精神文化を共有していて、「頑張る」とか「耐え忍ぶ」とか、それ以上具体的に言語化できない根性論みたいなのが好きだ。また、現代的で理性的で都会的な人類ではなく、森のターザンのような行動文化と呼ぶのがふさわしいような衝動的な行動もとる。「ハラキリ」などもその象徴ではないだろうか。
話が逸れてしまった。いけばなもただ草花を壺に挿すのでは飽き足らず、ああだこうだと相撲のように決まり手をつくって、ただ「いけた」というのでは許してもらえないのである。
顕示の良否 250421
2025/4/22
トランプ氏が大統領に就任して、単純明快を是とするアメリカ合衆国のイメージがより鮮明になった。多民族国家が国家経営をしていく上で、それは必要なことだと理解はする。しかし分かりやすさや楽さを優先すると、もたらされるのは幼稚化である。
日本語の「素人・玄人」という言葉があって、素人はありのままで飾り気がない様子の初心者であり、玄人は深遠な道理に通じた熟練者だ。そして、素人は表面的に一目瞭然で、玄人は表面的には素人に見えたりもする。すなわち、玄人は正体を隠してそれと分からない場合がある。
日本人は控えめで、白黒もはっきりさせない優柔不断で狡賢い奴だと言われた時代も確かにあった。しかし、それは単純でデジタライズしがちな欧米型の考え方を基準にした場合で、日本基準で見れば、隠すことによってそれがわかる達人とわからない凡人にふるい分け、最終的には「みんな玄人であろうよ」というメッセージを込めているのだ。
日本の伝統的文化という切り口で見れば、いけばなも隠す文化である。日本人は、世阿弥の「秘すれば花」という言葉もずっと好きである。
利己的な利他 250420
2025/4/22
ここ最近で気になっているのは「利他」の精神だ。先日、いけばなの生徒さんの1人から「先生は生徒に優し過ぎるんじゃないですか?」と言ってもらえて嬉しかった。もちろん優しくしようという思いがないわけではないが、そのように振る舞えないときはどうしようもないわけで、振る舞えるときは振る舞おうかなというだけなのである。
私は消防団員のように自己犠牲的ではないし、優しく見えるとするならば、自分が居心地のいい場所を確保しておこう、できればその範囲が広い方が外圧を防御しやすいだろうという弱気の表れにしか過ぎない。
そして重要なのは、なにより自分がそれを負担に思ったり面倒を感じたりしていないことだ。利他というのは、共同作業が得意な伝統的日本社会での身の置き方として大正解で、最終的に自分の利益にまで回してくるのに時間は掛かるが確実性が高い。
だからすべては、いけばなに身を置く以上いけばなをやる人が増えれば増えるほど自分の居心地のいい世界は安泰になるし、自分が利他的行為をすればするほどリターンが大きいと信じている全く利己的な仕業なのだ。
無心の強さ 250419
2025/4/21
陶芸家と話をした。「最近、砥部焼の砥部焼らしい絵付けのレベルが下がっているような気がするんですけど?」呉須で描いた筆の線が汚くなっていると感じていて、そんな偉そうなことを言ってしまった私。
それに対して彼はこう言った。「昔の砥部焼は、(いわゆる生活雑器だったから)つくり手が偉そうに仕事をしていなかったわけですよ。それから、分業でやっている窯元では、線を引く人は線を引くばかりで、焼物全体の意匠に思い至っている暇なんかなかったんですよ。だから余計な欲がなく、ひたすら同じ線を毎日毎日描いていた」と。今は誰もが作家の地位を得てしまったから、作品を創作しなければならない。すると他人の手を借りることなく1人の能力だけでつくるから、得手不得手が出てきやすいのだそうである。
さて、我が社中は、4月の松山中央郵便局のロビー前の玄関に輪番で花をいけている。私以外の3人が初体験の場所だ。これが意外にうまくいくのだった。初めての取り組みには余計な欲も不要な先入観もないからなのか、テンパった状態が功を奏しているのだろう。真剣かつ無心で。